239 遥佳は和食を説明し、真琴は公爵家に行った
黄の大盾と黄の大剣がいなくなった食事室では、ヴィゴラスがとても興味深そうな顔で、壁にある画像付きメニューボタンを見ていた。味の予想が出来ない物が多いようだ。
特に遥佳にとって懐かしい日本料理が気になるらしい。
「これは何なのだ? 白い塊が何個か入っている」
「それはお餅ね。一種のお米を蒸して搗いて塊にしたものなの。そして野菜、鶏肉やお魚の切り身が入った、・・・そうね、一種の具沢山なスープみたいなものかしら。懐かしいけど、・・・ヴィゴラス、まだお腹に入る? 食べられるなら、このお雑煮を一つ頼んで少しだけ分けてくれない? さすがに私、全部は食べられないもの。お菓子はおやつの時間になったら食べましょう?」
色々な具が入っている様子に惹かれたのか、「雑煮」と書かれている画像ボタンを指差してヴィゴラスが尋ねてきた為、分かる範囲で説明しながら一緒に食べた遥佳は、懐かしさに感動していた。
後で、「練りきり」とか「わらび餅」とか「みたらし団子」とかある中から、ぜひおやつを選びたい。
ヴィゴラスは白い餅がぶよーんと伸びるのを面白がっていたが、味は今一つだったらしい。一番にお餅を食べたことが敗因かもしれない。
「どうしてこれを押すだけで食事が出てくるのだろう」
「多分、どの料理も半調理か完全に調理された状態で冷凍されているんだと思うわ。あのね、ヴィゴラス。ある程度の下拵えした食べ物の周囲をね、空気を通さない布でピタッと覆って、食べ物が凍る温度で保管しておくと、長く保存できるのよ。それを一気に溶かして温めることで、完全に調理された状態として出てくるんだと思うわ。ボタンを押した時点で、自動で解凍されて加熱調理されるようになっているのね」
「・・・凍土で死んだ獣の肉が長持ちするようなものか。だが、自動で調理とはそのようなことが可能なのか」
「操り人形とか、カラクリ細工があるじゃない。あれの高度な技術というところね。ボタンを押すことで、そのボタンが繋がっているそのお料理の冷凍物を一つ調理用に回して、そうして決められた調味料とかと合わせたり加熱したりして、出来立ての受け取り口に出てくるのよ」
クリームの増量や焼き方の選択まである以上、かなり優秀な自動販売機だ。しかもちゃんとしたお茶碗や漆塗りのお椀で出てくるところも心憎い。
ロシア料理や南米でよく食べられているメニューなどもあったが、動物の脳みそや目玉といった料理だけは注文しないよう、遥佳はヴィゴラスに言い聞かせた。
「そうなると魚も駄目なのだな」
「魚はいいけど、お願いだからこの辺りのは注文しないで。昆虫も食べないで。お願い」
「ふむ。つまりハルカに選んでもらえばいいのだな」
ヴィゴラスにとって、色々な料理をボタン一つで取り出せるというのは画期的なことだったらしい。ちょっと興奮しているようだ。
笑顔で遥佳を振り返った。
「こういう便利な道具は、ハルカも作れるのか?」
「出来ないわ。ああいうのはそういう設計図を見て金属加工できる人じゃないと。そういう物を作っている工場の人とかじゃないと分からない仕組みよ。金属加工だけじゃなく、電気の配線もしなくちゃいけないんだもの。温度管理も自動でされているんだろうけど、大きな工場でしか作れないわ」
気持ちは分かるけれどと、遥佳が苦笑すれば、ヴィゴラスは本気で残念そうな顔になる。
「そうか。では簡単に設置できるわけではないのだな」
「その前にこの電力、・・・つまりこのボタンを押したら料理が出てくるといった作業をさせる為に必要なものがないから、持ち帰っても動かないわよ、ヴィゴラス」
「残念だ。ハルカと二人で暮らす家にあってくれれば、もうハルカをずっとーーー」
「さあっ、ヴィゴラス。食べた食器を底に持っていきましょうねっ。そうしたら洗ってくれるみたいだから」
それ以上を言わせるまいと、遥佳は大きな声でヴィゴラスの言葉を叩き折った。
食べ終わった食器も、自動洗浄機の中に入れておけばいいらしい。食べ残した物も勝手に洗い流してくれる仕様だ。
「本当に便利すぎて堕落しちゃいそう。お店がなくても外食できるようなものね。私、次のご飯が楽しみになりそうだわ」
「いいのではないか? グッピー師匠もバロネスも、ハルカが好きな物を食べればいいと思っているだろう。それにハルカはここに来てからとても感情が豊かだ。ジンネル大陸にいるよりここにいる方が、ハルカは幸せに見える」
「え? そうかしら」
ここに来てからと言われても、ヴィゴラスの妄想ドリームツアーとこの食事時間しかない。
言っていいだろうか。あんな妄想が全て叶うような夢など存在してはいけないのだと。
夢だからいいとか、愛があれば許されるとか、そんなことはないと遥佳は思う。
(まさかヴィゴラス。あの夢の中で私が幸せそうだったとか言ってるわけじゃないわよね?)
今すぐヴィゴラスの中からあの記憶を抜き出したい。ヴィゴラスのドリームが全て叶うあの夢の中、黄金と宝石で出来たお城の中の新婚生活がどうだったかなんて、振り返りたくもない。
赤くなった頬に両手を当てた遥佳だが、ヴィゴラスがその肩に片手を回し、遥佳を促すようにして歩き出した。
「さあ、植物園に行こう。ハルカが好きそうな花があるといい」
今のヴィゴラスは、とても機嫌が良い。世界がキラキラ、ピカピカ、シャランシャランと輝いている。
夢の中とはいえ、念願だった遥佳が駆けてきて抱きついて大好きというそれをしてもらえた上、現実にはあり得ない黄金のおうちの中で新婚生活を送ることができてしまったのだ。
ヴィゴラスにとって、世界は遥佳で輝いていた。
「ヴィゴラスが好きな花もあるといいわね。玄武さんの所で薄桃色の花をじーっと見てたでしょ」
「あれは甘い蜜があるのだが、量があまりにも少なすぎるのだ。花ごと食べてしまうと蜜があまり感じられなくなるし、蜜だけを吸うとなると何百も吸い続けることになる」
「せめて吸うなら二つ、三つにしておいてちょうだい」
「ハルカはそう言うと思った。だから困って見ていたのだ」
「そんな理由だったの」
歩きたがる遥佳の意思を尊重していても、肩に触れているヴィゴラスの手から伝わってくる想いがある。
遥佳はつい苦笑した。
「本当にヴィゴラスは私が好きね。今も私をお腹の中に仕舞いたいの?」
「そうなのだ。だけどハルカは動きたがるから仕方ない。見てるだけで我慢する」
見ているだけというが、遥佳の肩を抱いている手と、歩きながら何度も頭にキスしてくる行動は何なのだろう。
勿論、それは今までと変わらない。変わったのは遥佳の受け取り方なのか。
何も変わっていないようで、やはり自分達はちょっと変わったのだと遥佳は思った。
教えてください、お母さん。蜜月とは、蜜色の宝石に閉じこめられて鑑賞されるのが普通なんでしょうか。
世間の新婚家庭よりも異常な時間を過ごしてしまったのですが、どうやってその記憶を相手から消せばいいんでしょう。
心の底から、今の遥佳は母からのアドバイスが欲しかった。
「知らなかったわ」
「何が?」
「こうしてあなたがキスしてくるのは、私が好きだからだと思ってたの」
「その通りだが?」
怪訝そうなヴィゴラスの黄緑色の瞳は、自分の愛を疑われること自体があり得ないこととして、遥佳の言葉を待っている。
遥佳は隣を歩いているヴィゴラスの頬へと右手を伸ばした。
ひょいっと、ヴィゴラスの左手が遥佳の膝の裏側と背中をすくうようにして抱き上げてくる。だから足がもつれたりすることを考える必要もなく、遥佳は自分よりも濃い色の肌に手を添わせた。
「キスしながら、本当はヴィゴラスもキスしてほしかったのね」
「・・・キスできるだけで幸せなのだ。ハルカはキスされるとくすぐったそうな顔になる。とても可愛い。ずっと見ていたい、花よりもハルカだけを」
強引なのに、ヴィゴラスは変なところで諦めている。
遥佳の愛をねだりながら、それでも遥佳の愛が移りゆくものだと覚悟もしていた。
それでも感情は理性で制御しきれるものではなく、何度も変に気持ちを爆発させて遥佳を独占したがる。
遥佳は、今も世界が光り輝きっぱなしのヴィゴラスの心から、ほんの少し悲しげな感情を見つけ出した。
この一途な想いに自分は何を返せるのだろう。
「あのね、ヴィゴラス。私達、多分、お互いにこういうのは初心者なんだと思うの」
「そうだろうか」
グリフォンの執着はほとんど本能だ。
遥佳は初心者だと言うが、初心者というのはどれくらいの期間までが該当し、どれくらいから熟練者になるのかと、ヴィゴラスは疑問に思った。
(俺はずっとハルカに愛を告げていたと思うのだが)
遥佳を見て気に入った日から何年経っただろう。あの時から、月日の流れは一気に重くなった。
それまでの年月は勝手に流れゆくものだったのに、遥佳と真琴という存在に出会った日から、ヴィゴラスは毎日の訪れを楽しみにするようになったのだ。
「そうよ。だってヴィゴラス、私よりも前に恋愛感情を抱いた相手なんていないでしょう?」
「それはいないが」
「私もそうだもの。だから初めて同士でしょ」
「そうかもしれない」
ヴィゴラスの心を黄の大盾や森林の緑色兎が流れていったが、その気持ちを押し隠して頷いてくれたことに遥佳は気づく。
(馬鹿ね、ヴィゴラス)
遥佳を傷つかせない為に自制して頷いたのだ。
その愛情がくすぐったくて、そして嬉しいと思えた。
「だから初心者同士、ちゃんと自分の気持ちを伝え合って、すれ違わないようにしましょう?」
「しかし、ハルカは俺が自分の気持ちを言い始めるとすぐに口を塞ぐのだ」
「それはヴィゴラスが人前で恥ずかしいことを言い出すからでしょ」
心が読めるからこそ見逃してきたことが多いのかもしれないと、遥佳は考える。
「大好きよ、ヴィゴラス。愛してるわ。だけどイージスやグラディウスに挑発されたり、口車に乗って、変な行動しちゃうのはやめてね?」
自分から背伸びしてヴィゴラスの唇にそっと口づければ、一瞬の驚きと爆発的な歓喜が遥佳の心に逆流してきた。
それこそこの幸せに耳まで赤くなり、遥佳からのキスを堪能している青年がいる。遥佳を抱く腕に少し力が入って、それに気づいたヴィゴラスが慌てて遥佳の体を潰さないようにと加減したのが分かった。
わたわたわたと腕を動かしているのは、どうしていいのか分からないからだろうか。とても真っ赤になったヴィゴラスは、何度も迷ったようだったが、ひょいっと遥佳を両手で抱き上げて歩き出した。
「ヴィゴラス。私、自分で歩けるんだけど」
「駄目なのだ。今の俺はハルカを抱きしめたくてたまらないが、それをやったらハルカが苦しいかもしれない。だからハルカを抱き上げて運ぶのだ。そうすれば抱きしめなくてもハルカは俺の腕の中にいる」
「そうなの」
こういう抱きかかえられ方は、お姫様抱っこというよりも、なんだか結婚したばかりの新郎が新婦を抱きかかえて皆に披露するそれを思い出させる。
それを言おうものならヴィゴラスがもっと喜びそうで、だから遥佳は言えなかった。
(ちゃんと分かり合いたいわ。分かり合えなくてもお互いに尊重し合えるように。・・・とりあえず、あの夢は強烈すぎたわ。このままグリフォン族のハネムーンなんてものに突入されないようにしないと。ヴィゴラスってば思いつめたら極端すぎるんだもの。こうしてガス抜きしてあげないと、とんでもないことしちゃう)
遥佳にプレゼントする時以外、花に興味のないヴィゴラスがどうして今日は植物園に積極的に行こうとしているのか。
それは誰にも邪魔されずに巣篭りできる場所を探しているからである。
遥佳が好きな花の近くなら許してもらえるのではないかと、変な計算までしていた。自分や遥佳の部屋では守り人達に乱入されるのではないかと、そんなことすら思っているらしい。
「努力してみるが、無理かもしれない。ハルカが絡むと俺は何も分からなくなってしまう」
やはり遥佳達が産まれた時から見守ってきた存在には、ヴィゴラスとて強くは出られない。
いくら傲岸不遜な態度のグリフォンとて、己の爪でも破れない空気の壁を作り出す守り人相手に喧嘩を売る気にはなれないのだ。
そうして自分よりも強いと分かっている相手だからこそ、遥佳が絡むといいようにおちょくられてしまう。
「ちゃんと考えてちょうだい、ヴィゴラス。あなたとイージスが変なことを合意したおかげで、私はいいなんて言ってないのに、夢に無理やり登場させられて・・・。そこは怒ってるのよ」
既に足を止めているヴィゴラスを見上げながら少し不満気に責めれば、かぁっと頬を赤く染めたヴィゴラスが視線を逸らせた。
「そういう時の『嫌』は言わせてあげるものであって、強引にいくのも思いやりなのだ」
いつからそんな定義ができたのだろう。
遥佳は、たまにヴィゴラスが分からなくなる。
それでも恨めし気にヴィゴラスを詰ってみせた。
「思いやりどころか、あなた達、私を好きにして楽しんでただけじゃない」
「そうではない。ハルカを甘い時間の中に閉じこめたかっただけなのだ。そりゃ楽しかったのは否定できないが、それはハルカが俺だけのものになったのが嬉しかったからで、ハルカをいじめてなんかいないし、大切にしていた」
「大切にしてたなら、まず意見を聞くわ。正当化するんじゃありません。私にあんな恥ずかしい思いをさせて」
さすがの遥佳も冷たい目になる。それに気づき、ヴィゴラスも、これはまずいと思ったようだ。
「いや、それは勿論、恥ずかしがらせて泣きそうになる一歩手前までは今までもやってみたりはしていた。だが、それだってハルカを本当に困らせないようにちゃんと加減してのことだ。どうしてこんなにも愛らしいハルカを、俺がいじめることがあるというのだ。あの服だって見えそうで見えないぎりぎりを攻めたし、見えてないっ」
「それが駄目って言ってるんでしょっ。なんでおうちでビキニスタイルなのよおっ」
誤解しないでほしいとばかりに、ヴィゴラスが言い募るが、遥佳は本気で恥ずかしかったのに。
遥佳は、ヴィゴラスの認識に修正をかけた。
「どんな時でも相手の同意は必要よ、ヴィゴラス。それを忘れちゃ駄目」
「そこで女に責任を押し付けるような男など、ただのヘタレなのだ。俺はそんなことしない。だから程よく強引に捕まえ、優しく愛でる。逃げ出せるような隙など作らず、常に愛し続けるからこそ、逃げられないその時間に愛が満ちていく。それこそが最上の愛だ」
逃げられないように見張る時点で、そこに愛はあるのだろうか。
相手の気持ちはどうなるのだろう。
「誰が言ったの、誰が」
「蛇達だ」
「・・・私は獣人種族じゃないんだけど。なんで蛇さん達を参考にするのよ」
最初の奥さん達に逃げられまくっている種族を参考にしないでほしい。
それでも仲良くなった緑蛇のリリアやルイス、そして青蛇のジェドを思い出せば悪くは言えない遥佳がいた。
「しかし人間の感覚がハルカに合わないのは見てて分かる。そしてグリフォンの愛し方もハルカは嫌がる。ならば他の幻獣達の愛し方はどうかとなれば、どう考えてもハルカは一夜の愛を繰り返せる娘ではない。結局、獣人か魔物の愛し方しか残らないのだ。それにハルカは、マジュネル大陸でいるのが一番気楽そうだ」
「ちゃんと考えてくれたのは嬉しいんだけど、私のことは私に訊いてほしかったわ」
それでも、遥佳だって分かっている。
結局、自分はヴィゴラスであれば許してしまうのだと。
「ちゃんとハルカにも尋ねた。だが、グッピー師匠だって言っていた。ハルカに任せていたら永遠に物事は進まないと」
「・・・・・・」
それを言われると遥佳も否定できない。たしかに自分は優柔不断だ。
だが、それは仕方ないと、遥佳は思う。
自分達はずっと無性だったし、それから女の子、そして女性になってからのスキルは数年なのだ。
そんな自分に世慣れた女性の覚悟を要求する方が無茶ではないか。
「それでも二人きりならば構わない。どれだけの時が停滞していようと、俺はハルカさえいればいい」
遥佳の額や眦、そして頬に軽い口づけを落としながらヴィゴラスが歩き出す。
きっとヴィゴラスの中では、そういうことで決着してしまったのだろう。
「それは私が嫌だわ、ヴィゴラス。せっかくこの世界に生を受けたのよ?」
間違ってもとんでもない無人島での生活に突入しないようにと、遥佳は言い聞かせた。
「様々なことを知り、心の中に色々な感情を蓄えて、自分の中にある勇気を行動に変えるから、生きてるって言えるんじゃないかしら。それは他の人と一緒に生きていてこそだわ」
「俺はハルカと宝物と食べ物のことを知り、心の中にハルカへの愛を蓄えて、ハルカと二人きりの世界を構築する為に行動できるのならばそれでいい」
「どうしてそうなるの」
「それがグリフォンの宿命なのだ」
「・・・・・・」
やがて到着した植物園に続く大きな扉は開け放たれていて、ヴィゴラスは通路の両脇に広がる大きな室内庭園の中を悠々と歩いていった。
上方には碁盤の目のような空中廊下が設置されている。
透明な屋根のおかげで、屋内なのに屋外の明るさだった。
「天井がかなり高いが、壁際から向かい側の壁へと幾つも橋が架けられているのは、手入れの為なのか?」
「そうね。高い木が寿命で倒れた時、そこで食い止める意味もあるかもしれないわ。いきなり地面にまで倒れたら大変だもの」
「大丈夫だ。ハルカに当てさせたりはしない」
「ふふ、ありがとう」
屋内だからこそ、計算された植生となっているのだろう。
「ここは入口だからかしら。あまり虫が好まない木々が多いわ」
ヴィゴラスの腕の中から、遥佳は手を空中へと伸ばした。
「樹液や花に群がる虫達もせっせと生きているのね、ヴィゴラス。凄いわ、ここで収穫されたハーブがあの自動調理器でも使われているだなんて。しかもあの人達ってばどこまでやる気なのかしら。蜂の巣箱まで置いてあるみたい」
「蜂はいないようだが」
「ここにはね。この植物園、かなり広いのよ。もっと先に行くと、高温多湿の場所とか、花が咲き乱れている場所とか、鳥や魚がいる場所とか、反対に乾燥して冷え切った厳しい環境の場所とかがあるわ。室内で四季を作り出したりもしているのね」
「ハルカはそういったことも分かるのか」
「ここは特別。グラディウスが支配している場所だからよ。力を解放しても怖くない。聖神殿や第7神殿と同じ安らぎがあるの」
穏やかな表情で遥佳が目を閉じる。
「ハルカはここが気に入ったのだな」
ヴィゴラスは遥佳を両腕に抱いたまま、再び歩き出した。
「そうかも。それでも生きることは残酷だわ。虫や草花の寿命はあまりにも短い」
「ならば、俺の心臓の音だけ聞いていればいい。他のことなんて見ずに」
「そうね」
いつだってヴィゴラスの気配は遥佳にとって心地いい。
(何故かしら。ここに動物はいない筈なのに牛・・・)
そんなことを思いながら、遥佳はゆっくりと意識を沈めていく。
きっとヴィゴラスは、そんな自分と一緒にいてくれるだろう。
黄の大剣が作り上げたこの箱庭の中で。
ミザンガ王国の首都ザンガ。
何故かいきなりホルパイン公爵夫人マリアーナの招待を受けてしまった真琴達は、さて、何を手土産に持っていくべきかと悩んでいた。
宿屋の食堂の一角でのんびりと朝食を取りながら家族会議なのだが、誰がどう見ても家族には見えないバラバラ具合の外見である。
「こういう時、プレゼントってとても難しいよね。やっぱり王室御用達のお店で何か買っていくのが無難なのかなぁ」
窓の外にある花壇がよく見える、六人掛けの丸テーブルはほとんど真琴達の指定席になっていた。
朝は料理を並べてもらったら、後は仲良く自分達だけで食べていたい真琴達は、各テーブルにつく給仕を断って、和気藹々と庶民らしさを醸し出しているのだが、卑しさが全く見受けられないものだから、他のテーブルからの興味深げな視線はかなり集まっている。
そんな視線など全く気にしない真琴は、料理人におねだりした通りにチーズをたっぷり入れてもらったオムレツに満足しながら、そう首を傾げた。
「本来のマーコットのご身分を思えば、来てくださるだけで感謝感激だと思いますわ。あちらも大貴族のようですし、手土産などなくても気にしないのではありません? だって私達、魔物と獣人の混合っていうことになってるんでしょう?」
さすがのルーシーも、ジンネル大陸の貴族の常識には不案内だ。
困った顔でちらりとカイトの方を見る。
「そうだな。だが、仮としてパッパルートの傍系王族ってことになってるんだし、午前中にちょっとパッパルート大使の所に行って尋ねてくるか。そうすれば一番いい方法を考えてくれるだろう」
「それが一番いいでしょうね。ならばカイト、午前中は私がレオンを仕立て屋に連れていきましょう。姫とルーシーを連れていくのなら」
すると、カイトは少し躊躇う素振りになった。分厚いハムと目玉焼きを切り分けながら、ちらりと左側に座る真琴を見たかと思うと、更にその左側に座るルーシーへと視線を移す。
「いや。できれば俺とルーシー殿だけで。マコトはレオンと一緒に仕立て屋でいた方がいいんじゃないかと思うんだ」
「なんで? 私、邪魔だったりする?」
「オレはそれでいいと思う。マコットかルーシーがいると、仕立て屋も石細工師も、かなりやる気を出してくれる。オレにもいっぱい教えてくれる」
カイトの右側に座るレオンは、スプーンからフォークに持ち替えようとして、左手と右手のどっちで食べればいいんだろうと悩みながらも、自分の意見を伝えてみた。
すると右隣に座っていたラークがその様子を見てとり、そっと耳打ちする。
「食べやすい方でいいのですよ。ナイフを使わない以上、そこはスプーンと同じように考えていいですからね」
「分かった」
疑問が解けたレオンは、と、笑顔になった。
子供用にと、彩りも可愛らしく茹でた様々な野菜を散らしてくれているスクランブルエッグは目にも嬉しい。だが、レオンにとっては肉が足りなかったりもした。
隣に座るカイトからハムを一枚分けてもらったが、スプーンでハムは食べにくい。
「レオンはこだわりすぎなんだよ。それ以上、教わってどうするの。運び屋になる将来の夢はどこに行っちゃったわけ? 昨日の夜は、沢山稼ぐ運び屋になる為にも遠くまで行かなきゃって地図見てたくせに」
「運び屋にはなる。そしてお金を貯めて細工師になって宝石を磨く。宝石を磨きながら仕立て屋もすると更にお金がもらえる。そしたら素敵な石がもっと手に入る」
「そこまで石を集めてどうするのかが分からないけど、まだ盗んだり強奪したりしないだけマシなのかな」
「石は一つ一つが違う輝きを持つのだ。それらを堪能する為、集め続けるのがグリフォンの生きる道なのだ」
まだ磨けていない石も含めると、実はかなりの石を持っているレオンだ。真琴もそうだが、誰もがレオンには原石をあげるようになっていた。
これ以上、買う必要があるとは思えない。
「だけどさあ、綺麗に磨けた石は全部お腹に仕舞っちゃうんでしょ? その内、お腹がパンパンになっちゃっても知らないよ」
これ以上、石を集めてどうする気なのだろうと、真琴だって呆れてしまう。その内、お腹に貯めた石が重くて飛べなくなるに違いない。
「宝石を奪わないグリフォンはヴィゴラスとオレぐらいだ。だが、それは仕方がないのだ」
「うーん。だけどヴィゴラス、取りはしないけど、お母さんの宝石、遥佳にじゃらじゃらつけて楽しんでるからなぁ。それに比べたらレオンの方が偉いのかもね。ちゃんと限度を理解してるし」
「それは仕方ない。ルーカもマコットも幻獣なら誰だって飾りたくなる。マコットは自分達を理解していない」
「そうかなぁ」
真ん中にいるカイトを抜かして、真琴とレオンが違う話に入ってしまったものだから、カイトはルーシーに説明した。
「パッパルート大使には、プレートを見せて説明することになるが、どうしてそんな作られた身分をという話になれば、やはり国王の元婚約者のユーリ姫の姉ということで、マコトの説明をするしかないだろう。だが、ユウリ様は何かとやらかしたらしい。マコトにしてみれば、やはり自分のお姉さんのことを聞きたくないこともあるかと思ってだな」
「ああ、そういうことですのね。ですが、ハールカのなさったこととごっちゃになってらっしゃいますのよ、あれ」
「そうらしいが、やはり他人から、しかも外国にいて伝聞でしかない大使の話となると、マコトにとっても不愉快な言われ方をすることもあるだろう。俺達だけの方がいい」
「分かりましたわ。ふふ、本当に愛されておいでですこと、マーコットったら」
パチッと片目を瞑ってくるルーシーだが、真琴はうーんという顔になる。
「そうかなぁ? 別に私、優理のやったことなら何言われても気にしないよ。どっちかっていうと、パッパルートに同情しちゃう。王宮の人達、いい人ばかりだったもん。なのにさ、優理ってば家庭平和を壊しまくって、更に失業させまくったんでしょ? もう、あれは鬼だよね、鬼」
何かと口で負けている真琴は、どうしても優理に対しては恨み言の方が出てきてしまうのだ。庇う気など全くない。
「気にするな、マコト。こういうのは俺達に任せておけばいい。何よりお前を見て、『姉妹ならこちらの方が』だなんて言われるのもご免だからな。言っておくが、今のユウリ様とお前を並べたら、女は外見だと思ってる奴が言い出すセリフは一つだぞ」
「ほほほ。本音が出ましたわね。どうせマーコットを隠しておきたいだけだろうと、分かってましたわ」
カイトの言葉に、ルーシーがころころと笑い出した。
その上でルーシーを連れていくのは、さすがに五人の一行で一人しかいかないのはまずいと判断したからだろうと、察している。
どうせ自分は話をうまく運ばせる為の要員なのだろう。
「えー。だけどカイト、前の私と同じ顔の優理に、くらっときてたよね」
そう言われてしまえば真琴も気恥ずかしくも赤くなってしまうわけだが、それもそれでちょっと口惜しい。だから憎まれ口を叩いて、照れ隠ししてしまった。
以前の自分と同じ顔の優理よりも今の真琴の方が美人だと褒めてはくれても、全ては自分の顔だけに複雑だ。
同時にディリライト島で、自分の真似をした優理に惑わされて抱きしめていたカイトを、真琴は忘れていない。
「そりゃ今のお前の方が美人だと、誰もが言うさ。だけど俺が愛したのは前の姿もひっくるめてのマコトだからな。顔で惚れたわけじゃない。たとえ大人になっても、いつまでも子供の頃のお前も愛しているよ」
「・・・う」
どこか懐かしむ口調のカイトに、真琴は再び頬をピンクに染めて俯いた。
あの時、カイトに助けてもらってよかったと、その幸運をただ喜ぶ。
人と人との出会いもまた素晴らしい一つの贈り物なのだと、真琴は実感した。
「カイト。オレは?」
「勿論、お前も愛しているさ、レオン。俺とマコトの、初めての群れの子なんだぞ。いつまでも特別に決まってるだろう。小さなお前が俺より大きくなっても、ずっと愛してるよ」
「オレもカイト、愛してる」
え? やっぱり私ってばどんな姿でも愛されてたわけだよねと、赤くなりながら幸せをじーんと噛みしめていた真琴だが、ハッと気づくと、違う愛が展開されている。
「ちょっと待って。なんで私とカイトの話が、レオンとカイトの愛の話になっちゃってるの?」
「まあまあ、姫。レオンだって、カイトとあなたを愛してますよ。あなたがカイトとレオンを愛しておられるように。姫には、それ以上に数えきれない程の愛も向けられていますけどね」
にこにこと、ラークが取りなしてはみるが、形だけだ。
「マコットは欲張りなのだな。カイトとオレ、ルーシーやラーク達に愛されてても足りないのだ」
「そういう話だったっけ? いいけどね、もう。だけどレオンも結構あちこちで可愛がられてるよね。マリアーナさんだって、どう見てもレオン狙いだったし」
「マリアーナはいい人だ。オレのドレスを褒めてくれた。今日も、色々なドレスを見せてくれると言ってた」
昨日、仕立て屋に乗りこんできたホルパイン公爵夫人マリアーナだが、皆がとりかかっているドレスを見て感心し、納得するのは早かった。
そしてレオンも交えてラークやルーシーとも話してみれば、あえてレオンのやりたいことをやらせてあげようという教育方針の一環だとも理解し、そういうことならばと、公爵家にある自分のドレスを見せてあげると言い出したのである。
しかし、お茶の誘いを受けるかどうかはカイトと真琴が戻ってからでないと返事しかねると、ルーシーが即答できずにいたら、それからすぐにカイトと真琴も戻ってきた。
『そうなんだ。良かったね、レオン。マリアーナさん、親切で。普通は女の人のドレスなんてそうそう見せてもらえないよ』
『失礼いたしました、公爵夫人。わざわざこちらまでおいでになるとは・・・』
真琴はいつも通り、してもらえることは遠慮なくしてもらえばいいという姿勢で、カイトは恐縮してみせたものの、いきなり船上パーティで顔を合わせるよりは先に顔合わせしておいた方がいいと判断し、その招待を快く受けたわけである。
それはホルパイン公爵を見てみて、やはり面倒そうな性格なら即座に取りやめようとするカイトの計算も働いていた。
何故ならこの一行にジンネル大陸の常識は全くないと、カイトも分かっていたからだ。取り返しのつかないトラブルを起こす前に、引き返した方がいい時はそうすべきである。
「あの公爵夫人、ルーシー殿やマコトにも興味津々って感じに見えたが。あ、悪いが先に行く。ルーシー殿、後で。先に馬車の手配をしてくる。レオンはゆっくり食べろよ」
「分かりましたわ」
「ちゃんとよく噛んで食べる。そうすると栄養がまわってオレが大きくなる」
真琴とレオンの額にキスしてからカイトが出て行くのを見送り、ルーシーは片目をパチッと瞑ってみせた。
「カイトさんも悩ましい立場ですわね。目立たないようにと思いながらも、マーコットが誰かに頭を下げるようなことだけはさせまいとしているから、あれこれ動いてしまうんですわ」
「別に頭ぐらい下げてあげても構わないけど」
「それは駄目だ。と、思う。マコットは気にしないかもしれないが、きっとマコットの嘘の身元を書いた人達は気にする。何よりカイトが嫌がる」
「レオンの言う通りですね。カイトのやってることは間違ってませんよ、姫。もしも、いつかあなたのことを知ってしまったならば、頭を下げさせた人間こそが恥じ入らずにはいられなくなるでしょう」
「はぁい」
朝日が柔らかな白い光を投げかけてくる食堂のテーブル。会話の内容はどこまでも緊張感のないものだったが、風の妖精達により、真琴達の会話は他のテーブルに聞こえないようにされている。
それはとても平和で穏やかな、そんな朝の光景だった。
一方。
ギバティ王国の首都ギバティール。
その大神殿におけるイスマルクの部屋では、どこか荒んだ朝の光景が広がっていた。
勿論、その荒んだ気持ちを向けられているのは、第1等神官イスマルクである。
「だから、知るわけないでしょうっ。どうやって神子姫様がグリフォンと姿を消したかだなんてっ」
苛立たしげに反論するイスマルクの向かいにいるのは、多数の神官を引き連れたニコラスだ。
「ですから奥方様にお尋ねしてほしいと言っているのですっ。屋外からも神子姫様のお部屋の様子を窺っており、グリフォンの出入りがなかったことは確認済みです。それでも神子姫様はグリフォンと共に忽然とお姿を消された。どうしてそのようなことが可能だったのか。神子姫様はともかくとしても、あの大きなグリフォンがどうやって・・・っ!」
「知りませんし、妻が説明したでしょうっ。神子姫様はグリフォンと共にどこかに行かれたと。それならそれでいいではありませんか。その内、また気が向かれたら神子姫様もおいでになってくださいますよっ」
第2等神官ニコラスに責め立てられているイスマルクだって、「てめえもいい加減、諦めろよ」と、言いたい。
だが、神子姫のことは何でもいいから知りたい神官達はしつこかった。ニコラスの後ろにずらずらと並んで、威圧感を与えてくる。
この部屋の中で、まだ味方になってくれそうなのはリシャールだけで、しかし第6等とあっては、第2等のニコラスには何も言えない。
全ての神官達の頂点に立つ第1等神官。だが、自分の待遇を見ていると、最高権力者という意味がイスマルクだって分からなくなる。
「それで、『はい、そうですか』と、それで終わらせる奥方様もおかしいでしょうっ。普通は心配するものではありませんかっ」
正論だが、元水の妖精の恋人を愛しているイスマルクにとって、エレオノーラの悪口は逆鱗でしかなかった。
「妻を愚弄しないでいただきたいっ。私だって神子姫様が今まで外出なされても、安全だと思えばわざわざついていったりはしませんでしたよっ。不可思議な消え方をしたからといって、だから何だと言うのですかっ。大切なのは神子姫様がなさりたいことをお手伝いする気持ちであって、自分の好奇心を満たすことじゃないでしょうっ」
「・・・っ!」
イスマルクだっていつも遥佳や真琴を心配している。だが、ヴィゴラスでさえ太刀打ちできない力を持つ守り人が現れたのならば案じることなど何もないと、安堵もしていた。
そうしてエレオノーラと幸せな一夜を過ごしたと思ったら、朝からこれなのである。
「大体、何も望まないと約束なさったのはニコラス殿でしょう。変な言いがかりをつけて、妻に絡もうとしないでください。うちの妻を口説いたらタダじゃおきませんからねっ」
深呼吸して気を落ち着かせると、イスマルクはそう言って話を終わらせようとした。
「いや、いくら美人だからって神子姫様お気に入りの女性に浮気の申し込みなどする筈がないでしょう。まさかさっきから奥方様を出そうとしないのは、その思い込みが原因じゃないでしょうね」
いくらニコラスとて、神子姫が絡めばそれよりも優先することなどない。だから呆れたような声になる。
だが、守り人が二人も現れたと聞いたイスマルクが現在において心配するのは、最愛の恋人のことでしかなく、その声音にムッとせずにはいられなかった。しかし、恋人だと言ってしまえば繋がりは薄いと看做されてしまうので、ジンネル大陸では常にエレオノーラを妻と呼ぶのである。
「思い込み? 冗談はやめてください。うちの妻は誰が見ても美人で心優しい、欠点など何一つない女性ですよ。男なんて既婚未婚問わず、誰も信用できませんね。信用できる男など、アルド殿ぐらいです」
「一番信用できないのがアルド殿、の間違いでしょう。一緒にいる様子なんて、彼の恋人と言われても納得の仲の良さじゃなかったですか。まさかとっくに浮気されてて、知らぬはあなたばかりじゃないんですか」
たしかに優雅な仕草も、落ち着いた物腰も、そして誰もが見惚れずにいられない美貌も文句ないエレオノーラだけに、ニコラスも嘲るように挑発する。
何故ならイスマルクなど嫌いだからだ。
大体、イスマルクなど、ドリエータでは可愛らしい神子姫二人と家族のように暮らし、神殿に囚われればグリフォンと共に迎えに来てもらい、そうして神子姫に付き従うことを許されていたのだ。
大神殿の地下牢に放りこまれた時には同情していた神官達も、そうなればちょっと、いや、かなり妬ましくなるというものである。
しかも心優しい神子姫は彼の苦労を不憫に思われて、彼に第1等の位をと要望してきた。
更には、誰もが見惚れるような美女を妻にしていたのだ。
人間なら誰だってムカつく。神官だって人間だ。当たり前ではないか。
何故、このイスマルクだけがいい目を見ているのだと、ほとんどの神官は思っている。
「あるわけないでしょう。いくら私が妻に愛されているからって、そんなこと言わないでください」
「何を自慢してるんですかっ」
「自慢の妻なんですっ」
そんな喧々囂々と怒鳴り合う声が響いてくるのを聞きながら、廊下を隔てた向かいにあるレイスの部屋で、エレオノーラは優雅にお茶を飲んでいた。
「このお茶もいいわね。姫様にも喜んでいただけそう」
「分かった。手配しておく」
「ありがとう、お願いね」
レイスは既にウルシークが使っていた区画を側近神官共々譲り受けているに等しい状態だが、一応、イスマルクと向かいにある複数の部屋も用意されていたからだ。
誰も使っていないと思われているがゆえの穴場である。
「うふふ。どうしましょう、アルド。ここに誰か来たら、まさに浮気の真っ最中だって言われちゃうんじゃないかしら。あの人、私がイスマルクの寝室の方にいると思いこんでるのね」
「向かい合って茶を飲んでただけで浮気になるなら、世界には浮気しか存在しないだろうな」
本来は今日、レイスが第1等神官になる儀式が行われる筈だったが、昨夜は遥佳がやってきたことで慌ただしかった大神殿だ。明日に延期されるだろうと、レイスも普通の神官服で寛いでいる。
第5等神官ランドット達は、昨夜から心労で倒れたことにしたウルシークが、アボルト邸へと帰宅する為の作業と引き継ぎで忙しい。
どうやらウルシークはこのまま退官手続きへと持っていくつもりのようだ。
「あら、大変。だけどイスマルクったら辛い思いをしてるんじゃないかしらと思ってたんだけど、・・・大変は大変そうだけど、どこか生き生きとしてるわね」
レイスが飲み干してしまったカップに、お代わりのお茶を注いであげながら、エレオノーラは小さく苦笑した。
「神子姫様のお役に立てるならと、やる気になってるんだろう。あれは根っからの神官だ。神官としての身分を持とうが持たなかろうが、女神様の、そして今は神子姫様の為に働くのが生き甲斐だ」
神官の位を剥奪された状態でも、ザンガの地下牢に放りこまれて尚、イスマルクは神官だったと、カイネから聞いていたレイスである。
裏ワザで第1等にまでなった自分と違い、今までの実績を神子姫に評価されての第1等となっただけはあると、そんな感心すら抱いていた。
自分ならあそこまで直情的に生きられはしない。
「そうかもしれないわ。困った人。・・・いいわ、買い物にはあなたがつきあってちょうだい、アルド。そうしてイスマルクのお部屋を作ってあげたら、後は私、あなたのおうちに帰るわ」
「ああ。イスマルクもうちで寝泊まりすればいいだけのことなんだがな。さすがに一人ならともかく、エレオノーラを連れて逃げるとは誰も思わないだろう。女連れで大神殿の追跡を逃れるのはかなり難しい」
様々な事情が絡む以上、イスマルクも今、大神殿を出て行くわけにはいかないと、レイスも見切っていた。
ならば自分達といった同居人達はいるにせよ、夜はエレオノーラと過ごせるバスティア家の方が嬉しいだろう。自分もまたエレオノーラがいれば、力を貯めた小物が充実する。
見た目はただのお守りでありながら、武器にも守りにもなる力だ。更に無料。手に入れておいて困るものではない。
そしてエレオノーラにとっても、レイスは人間でありながら水の妖精という仲間だ。
レイスとエレオノーラは、お互いにとてもいい関係を築いていた。
「あら。やってみなくては分からないわ」
「やめてくれ。俺がいいように手伝わされるだけじゃないか」
ふふふと、エレオノーラが不可思議な微笑を浮かべれば、レイスは本気で嫌そうな顔になった。
いつの間にかヴィゴラスの腕に抱かれたまま、自分は寝てしまっていたようだ。
遥佳は、木々が作り出す爽やかな空気と、甘い花の香りに包まれていることに気づいて、目を開ける。
「起きたのか、ハルカ。ちょっと微睡んでいるだけのようだったから、ここがいいと思ったのだ。摘んでこなくても、花がそこにある」
どうやら自分はヴィゴラスを安楽椅子代わりにしていたようだと、遥佳は思った。
芝生の上に座りこんでいたヴィゴラスは、目の前に花壇があるからここを選んだらしい。遥佳の目前で鮮やかな赤やオレンジ、黄色やピンクの花が咲き乱れ、緑色や白色、青色といった蝶達が忙しそうに飛び回っていた。
「綺麗ね。・・・あなたがあまりにも幸せすぎるから、私までぽわぽわ気分の夢を見ちゃったわ、ヴィゴラス。だけどずっと私を抱えていて、手、疲れないの?」
上方にある窓から柔らかな光やそよ風が入りこんできている。
「もう夢の中へは一緒に行けない。だけど眠っているハルカを見ていることはできる。寝息を立てているハルカはとても愛らしい。起きていても可愛らしい。それにハルカはとても軽すぎて疲れる筈もない。潰さないかと心配になるから、こうして抱いている方が余程安心できる」
ヴィゴラスの胸に凭れながら眠っていた時間は、あまり長くないだろう。
けれども心が満たされた遥佳にとって、とても安らいだ時間だった。
「あなたが私を潰すことなんてないと思うわ、ヴィゴラス。それよりもずっと寝てないんじゃないの?」
「幸せすぎて眠ってなどいられない。ハルカは俺の誕生日のお祝いにピクニックに行こうと言ってくれたが、こうしてここで二人きりでいられることがとても嬉しい」
遥佳の頬や肩、背中や腕などを撫でながら、ヴィゴラスはとても上機嫌である。
「言われてみればゲヨネルのピクニックの筈が、こっちに来ちゃったものね。あの食堂で軽食を詰めて、この施設を散策すればピクニックにはなりそうだけど」
それでいいのだろうかと、遥佳はちょっと考えこんでしまった。
「ハルカは形に囚われすぎるのだ。俺は行き先などどうでもいい。ハルカと二人きりだから楽しくて嬉しい。何を見ても、何を感じても、ハルカと一緒にいるだけで全てが素晴らしく輝く」
「・・・私はただ、あなたが喜ぶことをしてあげたかったのよ、ヴィゴラス」
ずっと自分を愛し続けてくれていたグリフォンに、遥佳もまた心を返したかっただけなのだ。
彼が興味のあることや楽しいと感じることを増やしてあげて、そうして彼の世界を広げてあげられればと・・・。
(だけど、何故かしら。ヴィゴラスの世界は結局、私と食べ物だけで終わっているような気がしてならないのは。そりゃ真琴やイスマルクも入ってはいるみたいなんだけど)
それどころか、レオンに張り合って最近では遥佳の衣服にまで口出ししてくる始末だ。
どこまでもヴィゴラスの世界は、遥佳で占められていくような気がしてならない。
「ハルカが俺といてくれる、それだけが俺の喜びだ。だからハルカが求めてくれる存在になりたい。その為ならば俺はどんな努力でもしよう」
「別に努力なんてしなくても、いつだってヴィゴラスは私を乗せて飛んでくれるし、何処にでも一緒についてきてくれるじゃない。それにヴィゴラス。私は便利だからあなたを好きになったわけじゃないのよ?」
求めるも何も、ヴィゴラスのいない生活など既に考えられない程に、自分達はいつも一緒だ。
大体、彼に便利さなんて求めた覚えもないのだがと、遥佳は首を傾げた。自分のしたいことしかしないヴィゴラスは、自分達姉妹が絡まないことではとても聞きわけが悪い。
いや、自分達姉妹が絡んでも、遥佳を独占できるか否かといった問題になると、全く聞く耳を持たない。
思えば全く便利ではないグリフォンだった。
「理由なんてどうでもいい。それに蛇達も言っていた。どんなに駄目な男でも、口とテクニックがあれば女は離れられないのだと。バロネスはとてもハルカを理解していた。後で弟子入りしなくては」
「その蛇獣人の常識は今すぐ捨て去って、イージスへの弟子入りも取りやめてちょうだい。これ以上、師匠とやらを増やしてどうするというの」
後で、黄の大盾にはきちんと説教しなくてはと、遥佳は考えている。守り人の能力を変なことに使わないでほしい。
悪気がなければ許されるものではない。やっていいことと悪いことはちゃんとあって、あれは完全にやってはいけないことだった。
どこの世界に、自分が赤ん坊の頃から見守っていた女の子を、監禁願望のある男の夢に放り込む保護者がいるというのか。
「仕方がない。ハルカを手に入れるのはとても大変だが、それだけの価値があるのだ。ここで手を抜いては、一生悔やんでも悔やみきれないことになる」
「・・・・・・」
ご飯も一緒、出掛けるのも一緒、お風呂も一緒、寝るのも一緒で、更に夢の中で結婚した相手に対し、これ以上、何をヴィゴラスは手に入れようと思っているのだろう。
(理解できないのは、イージスやヴィゴラスが男の人だからなの? 私が男の人なら分かる話なの? それ以前に、この人達だけがあまりにもおかしすぎるだけなの?)
遥佳は、ヴィゴラスの思考をつくづく理解できないと思わずにはいられなかった。
「とりあえず弟子入りだけはやめてね。そんなことされたら、私、家出するから」
「・・・!!?」
今度、まだ常識人っぽいカイトにこっそりと相談してみることにしよう。
真琴を愛している彼ならば、ヴィゴラスの気持ちも分かるのではないか。
(だけど今はここで安らいでいたいわ。全てがとても優しくて穏やかな世界なんだもの)
ただ、何故か牛などの気配がするのがとても不可解ではあるのだけれど。
ミザンガ王国の王太子シャレールの第一王子フェリクス。金髪にくすんだ緑色の瞳をした彼は、まだ十才ながらもいずれ国王になる王子として、とても大切に育てられている。
だが、今日は父であるシャレールに同行ということで、通常の午後からの勉強は無しと決まり、とてもわくわくしていた。
いつもは乳母が選んでくれる服だが、今日は母であるクリスティーナが、どれを着させようかと、昼食を終えた時点で部屋に来ている。
「母上。今日は別に正式な招待というわけではなく、父上と世間話をしたい程度のお誘いだと聞きました。普通の格好で構わないのでは?」
自分を王子と知らないマジュネル大陸の子供。
決まりきった挨拶をして終わるよりも、まずは普通の子供として仲良くなってみたいと、フェリクスは考えていた。
「まあ。駄目よ、フェリクス。それこそ普段着で出かけるということは、相手に敬意を抱いていないという意味になるんですもの。あなたはいずれシャレール様と同じ立場になるのよ。あなたの言動に、誰もが意味を見出そうとするようになるの。だからこそ、そんな風に考えてはいけないわ」
「はい、母上」
フリルのついたシルクの白いシャツに、近くに寄れば様々な色糸が格子模様で織り込まれていると分かるけれども遠目からは焦げ茶色にしか見えないお洒落なズボン。落ち着いたオリーブグリーンの上着の胸元には、フェリクスが大好きな帆船の刺繍がほどこされている。
まさに小さな紳士と言わんばかりの格好となったフェリクスを、クリスティーナは満足そうに眺めた。
「エドワルド様はかなり外国にもお詳しい方ですもの。きっとアルマン様のように、楽しいお話を聞かせてくれるわ。ちゃんとお行儀よくしてきてね、フェリクス。上着を脱いではしゃぎまわるようなことをしてはいけませんよ」
「はい」
だが、今日は王太子親子ということを伏せて、ただの貴族の親子設定なのだ。
どちらかというと、もう少しくだけた格好の方がいいような気がしていたフェリクスだが、事情を内緒にしなくてはならないのだからと、王太子妃クリスティーナに反論することもなく頷いた。
「だけど着替えはちゃんと鞄に入れて持たせますからね、フェリクス。動いたりお勉強させていただいたりする時には着替えるのですよ」
「分かりました、母上」
叔父である第2王子アルマンの方が、同じ城に暮らしているのだからよく会うのだが、それこそエドワルドから引き継いだ外交関係の仕事で何かと忙しいのも事実だ。
今回の招待は、ホルパイン公爵が何かいずれ国王となる王子への心構えといった授業でもしてくれるのだろうと、クリスティーナはそう思っているようだった。
「そんなに気張らなくても大丈夫だよ、クリスティーナ。・・・おやおや、格好いいじゃないか、フェリクス。マリアーナ様が気に入って、城に帰らせてくれなくなりそうだぞ」
「まあ、シャレール様」
にこにこしながらシャレールが顔を出す。
「マリアーナ様は、僕だけじゃなく母上やフローラにもそうですよ。肝心のホルパイン家の孫は可愛げがないとかぼやいておられます」
「言ってるだけさ。さ、フェリクス。クリスティーナに、行ってきますのキスをして出かけよう。じゃあ、後は頼んだよ、クリスティーナ」
「はい。行ってらっしゃいませ、シャレール様。気をつけて行ってきてね、フェリクス」
「行ってまいります、母上」
自分に合わせてかがんでくれたクリスティーナの頬にキスすると、フェリクスはシャレールの後を慌てて追いかけた。
そして、ホルパイン公爵邸では、朝から広間に沢山の衣装掛けが置かれ、様々な衣服が飾られていた。まさに正装でも式典用や、宴会用、食事用などと、種類別に男女分かりやすいものとなっている。
さすがはホルパイン公爵家と言うべきか。
昨日からもう着なくなって久しい昔のドレスなども出してきて、マリアーナこそが懐かしくも新鮮な気分でそれらを眺めたものだ。
エドワルドもまた、妻のドレスに合わせて自分の衣装も並んでいるわけだから、なかなかに気恥ずかしいものである。外交関係を長く任されていただけあって、夫妻はかなり衣装持ちだ。
そうして広間と隣接した、外の庭園がよく見える部屋を茶会用にと決め、マリアーナはとてもにこやかにシャレールとフェリクスを迎えていた。隣にいるエドワルドは苦笑しながらも、面白がる顔を隠せてはいない。
「まあ、シャレール様もフェリクス様も本当に素敵でいらっしゃいますこと。急でしたのにちゃんとおめかししてきてくださるだなんて、とても嬉しゅうございますわ」
すると王太子シャレールはいたずらっぽい光を青い瞳に浮かべて、ぱちっと片目を瞑ってみせた。
「駄目ですよ、おばあ様。今日は私の祖父母なんでしょう? ここは呼び捨ててくださらないと。それにちゃんと家族だと示すように、少しくだけた衣装も持参していますよ。着替え用に部屋をお借りしても?」
「こんにちは。エドワルドおじい様、マリアーナおばあ様。今日はそうお呼びすればいいのですか?」
シャレールがマリアーナの頬にキスすれば、フェリクスはマリアーナの手を取り、口づけるかのような仕草を取る。
「そうだとも、フェリクス。では今日は、私達の娘の息子親子ということにしよう。さあ、シャレール。いつもの部屋を使うといい。ちゃんと髪を染められるようにしてあるよ」
国王夫妻を含め、シャレール達兄弟も全員金髪だ。だからこそ金髪じゃないだけで、王子達とは思われにくくなる。
シャレールは、わくわくした表情を隠さないフェリクスに笑いかけた。
「はい。じゃあフェリクスもおいで。髪を染めてしまえば、私達だと分からなくなるからね」
「凄いですっ、父上っ。髪まで染めちゃうのですかっ」
「勿論さ。そうじゃないと立派な諜報員にはなれないんだぞ」
「うわぁ」
そんな親子の様子を、マリアーナは微笑みながら見つめて、使用人達に目で合図する。
「どうぞこちらへ。シャレール様、フェリクス様」
そうしてシャレール達が客室へと消えてからしばらくして、ホルパイン公爵が差し向けた馬車が、真琴達を乗せて到着したのだった。
今日はとても気候が良かったものだから、マリアーナは大きく庭へと続くテラスの窓を開け放して、お茶会を始めることにした。
「なんて素敵なんでしょう。こんなお花や果物をいただけるだなんて思いませんでしたわ。枯れない内に、皆様に披露してしまいたくなるぐらい。話に聞いたことはあっても、まさか実物を見ることができるだなんて」
パッパルート大使の所へ行って相談したカイトだが、かえって残るような物はまずいだろうと言われたのだ。
本当のパッパルート王族ならばいいのだが、後々、贈った物が変な証拠とされても困るということである。
さすが外交に携わる人間だけあって、大使はそれが自国に対して後の禍とならぬよう、相手に何と思われようが構わないから、長持ちしない物だけのやり取りにしてほしいと言い含めてきた。
その上で、とても美味しい菓子屋などを教えてきたのだが、方向性が決まれば決断力があるのはルーシーだ。
『ならば、花はどうですの? あれもまた形として残る物になってしまいますかしら?』
『勿論、花もいいですとも。ただ、みすぼらしいのはいかがと思いますが。一番の高級花屋は、と・・・』
『そうではなく。たとえば、高山に咲く花とかはいかがかしら? 様々な花が花屋にもあるでしょうけれど、厳しい環境にしか咲かない花ならば珍しくてそうそう見られない上、価値も付けにくいんじゃありません?』
『それはそうでしょうが、高山に咲く花など、ここまで持っては来られませんよ。根付かないので栽培できないのです』
『普通はそうですわね。ですが、とても参考になりましたわ』
ルーシーは風の妖精に頼んで、なかなか人が登らない高山に咲く花の位置を確かめてもらい、小さなナイフでスッパリと根元を切ったものを採ってきてもらったのだ。また、日持ちしない山の果実も。
収穫したら一両日程度しかもたない果実は、それだけに地元から出回ることはない。しかし、どんな名馬よりも速く移動できる風の妖精達がいたならば話は別だ。
真琴の傍にいる風の妖精達は、どこまでも技能を磨き続けている。
そうして一行はホルパイン公爵家が差し向けた馬車に乗ってやってきたのだった。
『おお。本当にお美しい姫君達と、可愛らしい坊やだ。ようこそ』
『こんにちは。レオンと申します。本日は、お招きいただきまして有り難うございます』
『まあ、レオンちゃん。とてもご立派な挨拶ね。ようこそいらっしゃいました。ね、あなた。皆様、どなたも違うタイプで目の保養でしょう?』
『こんにちは、マリアーナさん。渋さが素敵な旦那様だね。上品なマリアーナさんととってもお似合い。・・・本当はね、豪華な花束の方が良かったのかもしれないけど、そういうのはこっちのお庭にもありそうだったから、こういうお花にしてみた。もしかしたら本物を見た貴族の女性って、このザンガではマリアーナさんだけかも』
『あらまあ、マーコット様ったら』
手土産が小さな花束と見慣れない果物、そしてザンガで評判の菓子といった、まさに枯れたり食べたりしてしまったら後に残らないものではあったが、見たことのない花だったので、マリアーナも首を傾げて尋ねた。
「どれもなんて可愛らしいんでしょう。これは何というお花なの?」
「んー。名前は知らないんだけど。マリアーナさんなら喜んでくれると思った。貴族の奥様なら、とても高い山の上なんて行かないでしょ。ルーシーが手配してくれたの」
「人もあまり住まない、それこそ夏でも冬のような高山で咲く花ですの。小さくても生命力がありますでしょう? ただ、こういった低地では根付きませんし、押し花にでもしない限り、まず見ることもかなわない花ですわ。喜んでいただけたなら嬉しゅうございます」
真琴は、やっぱりルーシーってば頼りになるよねと、にこにこするばかりだったが、ルーシーが捕捉して、やっとホルパイン公爵夫妻も滅多に流通していない花だと理解する。
「なんと。標本で見たことはあっても、こうしてまさに摘んだばかりと言わんばかりのそれを見たことは初めてだ。シャレール、フェリクスも見てみなさい。葉や花の厚みや茎の太さも違うだろう。これが過酷な環境下でしか咲かない花の姿だよ」
「エドワルドおじい様。だけどどれも背が低いです。もう少し背が伸びてから花を咲かせればよかったのに」
フェリクスが、とても可愛らしい花なのに茎が短いのを残念だと言えば、その様子を見守っていたラークが、小さな子供にも分かりやすいように説明する。
「高地に咲く花は、常に強風を浴びていますからね。背が高いと茎をぽきっと折られて駄目にされてしまうから、花もあまり背を伸ばさないのですよ。自然の知恵ですね。こういう花達は岩と岩の間に溜まった雨水を頼りに発芽します。懸命に咲いて、そうして種を作って次に命を繋ぐのですよ」
「そのような花をどうやって・・・」
「えへへ。なーいしょ。だけどマリアーナさんよりも男の人達の方が花に興味津々になるとは、これまたびっくり。お花好きな男の人って、なんだかとてもロマンチストだね。ね、カーイト」
シャレールの疑問を受けて振り返ってきた真琴に、さすがのカイトも苦笑せざるを得ない。
「こらこら、マーコット。公爵やこちらの方は花が可愛いというよりも、学術的な意味で見てるだけだと思うぞ。・・・すみません。うちのマーコットは、どうしても甘やかして育てたものですから、時に礼儀がなっていない所がありまして。あまり王族や貴族といった概念もないといいますか、誰もが大切に育ててきたものですから、失礼がありましたらお許しを」
婚約者というよりも、なんだか親戚の兄代わりにすら思えるセリフだった。
(先に詫びてはくるが、止めはしないとは。天真爛漫と言えば聞こえはいいが、王族としても貴族としても、あまりにも階級を理解していない。よほど溺愛しているのか? 通常は他国でのそれは咎めるものだが。いや、パッパルート王族の看板を使ってはいても、所詮はマジュネルの住人だからか? だが、そのような相手によくぞあのパッパルートが・・・)
エドワルドは笑顔の裏で、この一行にどんな価値をパッパルート王国は見出したのかと考えずにはいられない。
その裏を読み解くのは、とても楽しいことになりそうだ。
「えー。ちゃんと分かってるよ、私。王様は王子様より偉くて権力があるんだよね。でもって王子様は何かと気苦労が絶えない職業で、そして貴族になると、王族の人達の言葉に合わせて、
『その通りですわ』『全くでございますな』とか言って、ちやほやしないと権力闘争から脱落する、過酷な世界に生きてるんだよ」
他人事といった真琴の解説はいい加減すぎて、それでいて身につまされる何かがあった。その場にいたホルパイン公爵夫妻とシャレールも、動きを止める。
一体、それはどこの王族と貴族の話なのだろう。いや、どこの国でもそういうものだが。
「一体、お前はどこでそんな・・・。国が特定されたら気の毒すぎるから、そういうことは言っちゃ駄目だろう、マーコット。大体、この流れだとパッパルート王国はそういう国だという話になるぞ」
「大丈夫だよ、パッパルートは兄弟仲いいもん。それにディーだってそれ聞いて大笑いしてたよ」
社会的な地位における感覚や貴族ならではの思考を考えるカイトと違い、真琴は、この程度のことで騒ぎ立てる方が愚行とされるだけだと、その辺りを見抜いていた。ぎりぎりを見極めることはとても大切なのだ、真琴が真琴らしく生きる為に。
元々、他人の思考に合わせて我慢しなくてはいけないという感覚をあまり真琴は受け付けなかった。彼女が考えるのは、カイトの気持ちだけだと言っていい。
「ほほほ。まあ、まずはどうぞお座りになって。カイト様もそうお叱りにならないでくださいましな。マーコット様は本当に楽しいことを仰るところが魅力的ですわ」
マリアーナは如才なく、席を勧めることにする。
「呼び捨てでいいのに。よく分からないけど、マリアーナさんもこの国では身分が高い人なんでしょ? 様付けで呼ばれたら、私も様付けで呼ばないといけなくなっちゃう」
髪を黒く染めた王太子シャレールは、公爵夫人という立場に対して、「よく分からないけど身分が高いらしい」程度の感覚しかない真琴に、改めて認識の違いを実感した。
(これがマジュネルの住人の感覚なのか。王政がないとは聞いたが)
シャレールと違い、昨日の時点で既に免疫のついていたマリアーナは、平然としたものである。
「そうですわねぇ。ですが、マーコット様も女性ですもの。どなたに対しても、様付けでお呼びになっていらした方がよろしいのではありません?」
カイトにエスコートされてマリアーナについていきながら、真琴はそこで考えこんだ。
「上品に見えるという意味ではそうかもしれないけど、よその王様や王子様達を呼び捨てにしておいて、貴族の女性を様付けで呼ぶのって、ちょっとまずい気がするんだよね。かえってマリアーナさんの立場がなくなっちゃうでしょ。何ヶ国かで集まるとか、そういう機会があったりしたら。それなら年上ってことで、一律、さん付けだったら許容範囲かなって思ったんだけど」
一応、真琴も全くの考えなしではない。
その言葉にマリアーナも少し片眉を上げると、夫のエドワルドに問いかけるような視線を送る。
「なら、私はただの貴族だし、私を呼び捨てにすればいいんじゃないかな? 私も君を呼び捨てにしていいのであれば、なんだがね。おばあ様はたしかに貴族だが、王族の方からも様付けで呼ばれていらっしゃる方だよ」
そこで大叔父の考える時間を作り出すべく、シャレールが真琴に声を掛けた。
さりげなく王族の血を引くことも匂わせてみる。
「別に構わないけどシャレールさんも結構、年上だしなぁ。もう三十越してるよね? 私が呼び捨てにしてる他の人達、まだ二十代だし。それにちゃんと私、コウヤおじさんもさん付けで呼んでるよ?」
全く悪気はないのだが、真琴の言い草はシャレールにグサッと来る何かをもたらした。
まだ二十代の若造と同じレベルで語られるのも不快だが、おじさん扱いされるのも傷つく。
「いやいや、気分はまだまだ若いつもりだから、呼び捨てで構わないよ。たしかパッパルートの姫君だったね、マーコット。ただ、どう見てもパッパルートの王族というのは無理がないかな?」
どうせ王太子として真琴に会うことはないだろうと思い、シャレールはそこで大人としての余裕を見せてみた。
「そう? パッパルート人らしくない、私達? ほら、砂漠で駆けっこしてそうな感じでしょ?」
「・・・・・・いや、そういうイメージというより、あそこの国の人は、髪の色や目の色に特徴があってだね」
「ああ、そうだよね。みんなが黄土色の目をしてるから、カディミア、変装しても無駄なんだよ」
「カディミア?」
「そう。デューと結婚したの。ルートフェンの王女様だったんだって。ベージュ色の髪はしてるけど、目が緑色だから」
コウヤというのは誰なのか、どこかで聞き覚えのある名前なのだが、パッパルートにおける王族はと、そんなことを思いながら次に出てきた名前をシャレールが問えば、真琴が説明する。
「フェリクスより明るい緑色してるんだよ」
「ああ、カディミア王女か。・・・え? 誰と結婚したって?」
「デュー。えっと、デューレ」
「へえ、デューレ王子と。それは知らなかった」
あの物静かで冗談も通じなさそうな、それこそ高貴なる古き王族というのも納得なデューレを愛称で呼べるとはと、シャレールはいっそ感心するばかりだ。
イメージが先行するパッパルート王族は、外面がとても素晴らしいという特技を有していた。
自国の王宮ではカディミアに振り回されている引きこもり王子として認定されているが、他国に行けば物静かで誇り高い王子というのが、デューレへの評価だ。
「その内、お知らせするんじゃないのかな。だけどシャレールさん、そんなことに興味あるの? 自分の国の社交界にも出ないのに」
呼び捨てでいいとは言われたが、何となく試されているような気がして、真琴はそう呼ばなかった。
「それでも貴族は貴族だからね。よその国でも王族のことは気になるよ」
「へー。そういうもんなんだ」
それで終わってしまう真琴だが、ベージュ色の髪と黄土色の瞳を持っていないこの五人のことはどうなったのか。
完全にそこは無視されたなと、シャレールも理解する。
しかし、ルートフェン第一王女と結婚したということは、デューレがルートフェン国王となったということかと、シャレールは思った。ちらりとエドワルドを見れば、やはりエドワルドも真琴に興味を持ったらしい。
引退しても、やはりうずうずしてしまうものがあるのだろう。
「そういうお喋りは座ってからにするといい。良かったらマーコット姫は、こちらに。いやいや、ここで呼び捨てになどと言わないでくれたまえ。美しい姫君を呼び捨てにするよりも、やはり姫と呼びたいのが紳士たるもの。だが、どうか私のことは、エドワルドと。美しい姫君の信奉者として呼び捨ててくれて構わないよ。そちらのルーシー姫もね」
エドワルドはそう言って、丸テーブルの中でも一番外がよく見える上席、つまり自分とシャレールの間の席を真琴に勧める。
「うーん。さすがにここまで年の差があって呼び捨てというのは。せめてエドワルドさんかなぁ」
さりげなく男の使用人が椅子を引いてくれたものだから、真琴は優雅に腰を下ろした。ルーシーは蠱惑的に微笑んで終わらせている。
「おやおや。両手に花ですね、おじい様」
「羨ましいだろう。ルーシー姫も、ここは年寄り孝行と思って付き合ってくれたまえ」
「恐れ入ります」
エドワルドの左隣には真琴、右隣にはルーシーときたものだ。
カイトは右隣にシャレール、左隣にマリアンナという席だった。そのマリアンナの左隣にはレオンが案内され、更にその隣はフェリクスだ。
「あの、公爵夫人。よろしければレオンと席を交換していただければ・・・。レオンがお茶など零したりして、折角のドレスを汚したりするかもしれません。それにフェリクス様の横の方が、安心なのでは?」
「そんなこと、気にしないでくださいな、カイト様。これでもフェリクスはお茶会にも慣れておりますし、レオンちゃんの面倒もみておきますわ。どうぞシャレールのお話相手になってくださいましな。シャレールもなかなか人と会わない生活をしているものですから、お友達が増えてくださればとても嬉しいことですの」
「・・・そういうことでしたら」
だが、様々な人達を見てきたカイトは、
「私達の娘の末っ子で、貴族ではありますけど爵位を持ってはいないのですわ。失礼がありましたらごめんなさいね」と、説明されたシャレールとフェリクスが、そんな肩身の狭い立場にあるとは到底見えないと、判断していた。
卑屈なところがなかったからだ。
(俺達と一緒で、この親子もまた偽装かもな)
そんなカイトの内心に気づくことなく、シャレールも鷹揚な調子でカイトに微笑む。
「所詮は飼い殺しの貴族の身です。社交界に出ることもなく過ごしておりました。色々なお話を聞かせていただくだけで楽しいのですよ」
「ご期待に沿えるかどうか・・・。ところで、その花ですが、テーブルに飾っておくと、すぐに傷みます。長持ちさせるのであれば、もう少し涼しく乾いた場所へ持っていった方がいいかもしれません。果物も、今日か明日中には食べないと傷むと思います。日持ちしないものですから」
見た目は小さな花束だが、稀少性でいけば限りなく高価な花。それらは冷たく乾燥した環境下じゃないとすぐに萎れてしまうと聞かされ、慌ててマリアーナは地下の貯蔵庫へと、使用人達に花と果物を持って行かせた。
子供は、黙って座っているのがとても苦手な生き物である。
けっこう人見知りするレオンだが、他に子供がいなかったこともあり、フェリクスとはすぐ普通に話せるようになっていた。
カイトと隣じゃなかったこともあるだろう。
「へえ。レオンは運び屋になって石細工師になって、更に仕立て屋もするのか。凄いな」
「そうなのだ。フェリクスは何になる?」
子供達用に用意されたウサギやリスといった動物を模ったクッキーを気に入ったレオンに、フェリクスが自分のタイガークッキーをあげたことから、レオンはフェリクスを「いい奴」認定した。
大事に持って帰って飾っておこうと思ったら、マリアーナに、
「また用意しておいてあげるわ。レオンちゃんはトラさんが好きなのね。今度はトラさんだけで作ってあげる。ね?」と、ちゃんとここで食べるように促され、仕方なくシッポ部分からカリカリ食べたのである。他のクマやネコよりもトラのクッキーは甘く感じた。
それこそ普通の子供なら当たり前にされる質問を、フェリクスは複雑な思いで受け止める。
「そうだなぁ。考えたこともなかった。レオンは偉いね(さすがにここで、国王になるとは言えないよ)」
「そうなのか。じゃあ、フェリクスは人間の大人になればいい」
「うん、それは誰でもなれるけどね」
「そんなことはない。オレは絶対になりたくないし、ならない」
「・・・えーっと」
偉そうに胸を張るレオンに、フェリクスは自分が知らなかった生き方を見たような気分だ。
(何なんだろう。小さいのに大人びた言い方して、なのに変すぎるこの子ってば)
年を尋ねれば、「分からない」ですませる時点で、どんな不遇な身の上かと思うところだが、別に全く気にしていないところが、レオンはたくましすぎた。
「えっと、レオンはカイトさんの子供なんだよね?」
「そうなのだ」
「じゃあ、お母さんが黒髪なんだ? とても艶やかで綺麗だ」
全く似てない上、父親を名前で呼ぶというのはどうなんだろうと、フェリクスにはそこも謎である。
「母親の髪の色は知らない。だが、フェリクスの黒髪はせっかくの金髪をどうして変えているのか分からない。金色の髪はキラキラしてて綺麗だと思う」
「・・・えっと」
すると、エドワルドとのお喋りを楽しんでいた真琴が口を挟む。
「え? フェリクス君、金髪なの? 黒いけど」
「二人共、髪を黒くしているだけだ。その証拠に、きちんと黒くできなかった髪や睫毛が、金色にキラキラしている。誰だって毛の色を変えていると分かる」
「分かんないよ、そんなの。本当にレオンってば目がいいんだから」
自分も何かと髪を染めたり、鬘をかぶっていたりした真琴である。
人が同じようなことをしていたからと言って、責めようとは思わなかった。ついでにその理由も考えない。
「変装が趣味だって分かってたら色々な鬘、持ってきてあげたのに。ま、いいや。それよりエドワルドさんって、本当に外国ばっかり行ってたんだね。お勧めの国ってある?」
どうでもいい感丸出しで、会話に戻った。
ラークやカイトは肩を竦め、ルーシーは何も聞かなかったとばかりに紅茶をゆっくりと口に含む。
さすがにシャレールも、真琴をまじまじと見るしかなかった。
(え? いや、普通、髪をわざわざ染めていたって知ったら根掘り葉掘り事情を訊くものじゃないのか? いや、パッパルート王族ってことにしてても所詮はマジュネル大陸の住民。どうでもいいのか?)
そんなシャレールの思いはともかく、染めていた黒髪も本当は金髪だと暴露されてしまったフェリクスは、次に自分達の正体を暴かれるのではと思ってドキドキしていたが、レオンは満足そうにしている。
何故ならレオンは、「褒めてもらったら、自分も相手のいいところを見つけて褒めてみような。そうしたら仲良くなれるだろう?」と、カイトに教わったことを実践できたからだ。
レオンはちゃんと、黒く染めていてもフェリクスの本当の金の髪は綺麗だと褒めてあげたのだ。
「元々、うちのレオンは小さな頃から実の親元から離れて鍛えられる立場の子なんだ。だから血は繋がっていないけど、とても大切な息子なんだよ」
子供達の会話にも注意していたカイトは、フェリクスに微笑みかける。
「そうなんですか。だけど本当のお父様やお母様と離れて暮らすだなんて、レオン、寂しくないんですか?」
「その分、マーコットやルーシー殿が母親代わりの姉みたいなものだからね。良かったらフェリクス君もお兄ちゃんみたいな気分で仲良くしてくれないか? どうしても大人にばかり囲まれている子だからね。同じ年頃の子供を、レオンはあまり知らないんだ」
「はい」
その言葉にレオンは不満そうな顔になった。
「カイトは分かってない。オレの方がお兄ちゃんだと思う。だってオレの方がフェリクスより強い」
「あらあら。年齢は強さと関係ないわよ、レオン。それにどう見てもあなたの方が小さいでしょ。大体、そちらのフェリクスさんはあなたと同じ群れに入るわけじゃないから、どっちが年上かなんて、あなたの心配することとは全く関係ないわよ」
「そうなのか。なら、フェリクスが年上でもいい」
もしかしてカイトと真琴にとって一番目の子供という立場を抜かされるのではないかと思ったが、ルーシーの言葉でそうではないと知り、レオンも一安心だ。
たしか群れというのはお兄ちゃんお姉ちゃんが偉くて、弟や妹がまもられている弱い子なのだから。
(意味が分からない。大体、いくらマジュネル大陸の子でも、こんなに小さくて僕より強いことはないだろうに)
どうしても見た目で判断してしまうフェリクスは、父のシャレールと違って獣人や魔物は本当に見たことがなかった。そして会話したことも。
「フェリクスには、オレのライオンクッキーをあげるのだ。いっぱい食べると大きくなる」
だけどレオンがそういうことならばと受け入れて、タイガークッキーの代わりをくれたので、フェリクスも細かいことはいいかと考える。
フェリクスより小さいのに、まるで自分が年上のような言い方をしてくるレオンが面白かったからだ。礼儀はなってないのだろうが、ちゃんとフェリクスに気を遣っているのも分かる。
そうして最初は大人しく座っていたものの、やがて茶会に飽きたレオンとフェリクスはホルパイン公爵邸の広い展示室に行き、玩具で遊ぶことにした。
展示室と言っても、様々な絵画が壁に飾られ、壁際にも美術品を飾った棚があるからそう呼ばれているだけで、各棟を繋ぐ中間地点の連絡通路も兼ねた広いスペースである。
それこそ走ったり遊んだり、はたまた運動も出来る、多少の騒ぎも問題にならない場所なのだが、改めてフェリクスはこの風変わりな褐色の肌に黒髪、青い瞳を持つ子供に興味津々だ。
せっかくだからと、絵の説明なんかしてみたりもする。
「これが、ミザンガで一番有名な船を描いたものだ。そこに立っているのが初代国王と言われている」
「王様というのは城にいると聞いた。なんで海にいるんだ?」
「ミザンガは海が近いからだよ。ミザンガ人は誰もが海と船を愛している」
「船なら今度乗る。フェリクスは船に乗ったことあるのか?」
「勿論あるよ」
「揺れるって聞いた」
「そうだね。揺れるよ。だけど慣れたら平気になる」
本当は魔物か獣人らしいが、こうして話していると、普通の子供にしか見えないと、レオンを眺めながらフェリクスは思う。
どちらかというと冷めた態度なのに、変なところで強情らしい。
「レオンは船に乗ったことないのか?」
「ない」
けれども絵をじーっと見詰めているレオンは、とても海に興味があるようだ。それともこの大きな船に見惚れているだけなのか。
「じゃあ、こっそり乗りに行ってみようか。誰でもチケット買ったら乗れる船もあるんだ。近くの島とかを巡って戻ってくる。どうせあの分じゃ夕食まで一緒になるだろうし、大人は放っておいて大丈夫だよ」
「行く」
何かとホルパイン公爵邸には来ていたフェリクスだ。折角だからと、一つ冒険を提案してみた。
するとレオンがとても目を輝かせて乗ってくる。
世間知らずらしいレオンが、まるでずっと欲しかった弟みたいで、フェリクスは兄のような気分になっていた。
「ちょうど汚しても大丈夫な服も持ってきてるんだ。レオンも少し袖や裾を折ったら大丈夫だよ。こんな格好だと貴族だとばれてすぐに誘拐されちゃうけど、着替えてしまえば大丈夫。一緒に抜け出そう」
「抜け出すのか?」
「そう。怖い?」
「怖くない」
勿論、子供だけで抜け出そうとするのを見逃すような門番は、本来はいない。
けれどもそこにはレオンがいた。
大人の幻獣にはとても敵わないものの、塀など平気で飛び越える身の軽さを有し、何かあった時の為にそこそこお小遣いも渡されている小さなグリフォンが。
「フェリクス。手を出すのだ。オレが引き上げる」
「無理しないでよ、レオン」
「大丈夫だ。二人で頑張れば、一人じゃできないこともできるようになるってカイトが言った」
そうして子供達は邸から抜け出し、手を繋いで港へと駆け出していった。