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227 小猫はご馳走を食べた



 基本的に何らかの広報がある時、そして招待を行う時は、昼間に知らされるものだ。

 だが、決まったのが夕方。そして打ち合わせをしていたらば夜へと(なだ)れこんだ場合は、そんな常識すら無視される。


(頑張った、俺。偉いぞ、俺。その捜索する邸の順番も、レイスさんを攫った貴族を真っ先にさせたし・・・)


 これでも使い勝手のいい使い走り神官だった身。徒労に忙殺される辛さは理解できる。

 イスマルクは、その招待状を届ける順番にしても、せっせと作成する役人達と話し合ったし、そして捜索に当たる役人や騎士達とも時間を取った。

 その上で、さりげなく幾つかの貴族の名前を指で示すことで、証拠を残さず言質も取られぬままに、怪しい人間情報を匂わせた。


――― まさか・・・。いや、それならば・・・っ。

――― あ、ありがとうございますっ。


 そんなイスマルクへの感謝に対して、

「私は何も申し上げてはおりませんよ」と、そう返しながらも、お互いの瞳の中に、上層部の思いつきに翻弄されてこき使われる者ならではの連帯感を見出してしまったのは、きっと気のせいではないだろう。

 役人達とて、絞りこめていれば証拠捜しにだって熱が入るというものだ。

 彼らが口にする言葉に対して静かに頷く様子や、小さく首を横に振るといった仕草で、ある程度の情報を与え、やる気を引き出していたイスマルクだった。

 そんなイスマルクがひと段落ついたというので神官用の区画に戻り、事務用の部屋に入れば、自分付きの神官達が手分けして招待状の大神殿側の部分を清書していたり、食事の用意をしてくれたりしていた。


「お疲れ様です、イスマルク様。どうぞお腹に入れておいてください。スープと、具を挟んだパンぐらいですけど。ゆっくり食事している余裕はないと思いまして」

「有り難うございます、リシャールさん。助かります」


 薄情なもので、猫を理由に呼び出された時はぞろぞろとついてきたエイドリクス達なのに、小猫を手に入れた途端、さぁーっと引き潮が沖へと消えていくかのようにいなくなってしまった。そして高級菓子店のお菓子とやらはいつまで経っても届かない。

 神子姫ハールカの愛猫だと信じているのならひどい目には遭わされないだろうが、何時(いつ)になったら返してくれるのか。


「ところで猫を庭園に連れて行ったきり、戻ってこないんですが、とっくに日も暮れてますよね? まだ連れまわしているんでしょうか」


 イスマルクだって少しは不安になる。当たり前だろう。

 お世話されることはあっても、人の世話などしたことなさそうな一団なのだ。そんな彼らが小猫の世話を出来るだろうか? 側近神官に任せてくれていればいいのだが。


「あの、イスマルク様。あの猫でしたらとっくにエイドリクス様方が大神殿に連れていかれましたが?」

「はい?」


 暫定的に側近として貸し出されている神官の一人が顔を上げ、そう怪訝そうに言い出したものだからイスマルクもそちらを見返す。


「お聞きになっていらっしゃらなかったのでしょうか?

 資料を取りに行った際、大神殿ですれ違いました。ドリエス様やザイール様方もご一緒になり、ファミルイード様の肩にちょこんと乗った猫に、

『ルーちゃんと呼んだ方がいいのかな? 猫ちゃんの方がいいかい?』などと問いかけ、ニコラス様が大神殿の歴史を織り交ぜながら、廊下に彫りこまれた彫刻の由来などを説明しておられましたが、・・・猫にあの説明が理解できるものなんでしょうか?」

「どうなんでしょうね。ニコラス殿は、元々変わっておられることで知られてますし、川の魚に古典文学を説明していても驚きませんが」


 真面目な顔で、イスマルクはかなりひどいことを言った。何故なら頭がもう動いていなかったからだ。

 けれども誰も否定しなかったので、やはりニコラスは変人という共通認識が彼らにもあるのだろう。


(ルーちゃんって駄目だろ、そんなの。いや、本当の名前が知られるよりマシか)


 考えてみればルーシーの身元保証、つまりは賭博で持ち金以上に使い果たした場合の支払い保証人がイスマルクとなるあの書状を、彼らは見ている。

 ならば、それをいつ依頼されたか。

 イスマルクと一緒にいたのは、あの茶色い小猫だけだ。


(マーコットがルーシーと勘違いされたか。獣人ならば猫にも人にもなれる。俺と猫が二人きりで部屋にいてアレを書いていたなら、そりゃ猫が説明したと察するよな)


 神子姫に直接仕える猫の獣人だと思われたなら、大神殿の案内をするのも当然なのかもしれない。


(まあ、いいか。俺もさすがにあちこちにある美術品の由来なんて分からない。それに一般人がまず見ることのない芸術品の数々といい、真の大神殿は一見の価値がある)


 どうせルーシーと合流したらカイト達を追うと言っていたし、風の妖精(シルフ)が常にその周囲で見守っている真琴なら、何かあったらすぐ分かる筈だ。

 何故カイトと別行動なのかと思ったが、どうやらカイトは、レオンにジンネル大陸でも普通の子供として紛れこめるよう教え込んでいるのだとか。だが、真琴が一緒ならばカイトは常にレオンよりも真琴を優先する。


――― あのね、私のドレスと同じ色のチーフかタイをつけようかなって考えてるみたいなんだ。なんか普段、そういうのに興味ないカイトが考えてくれるのって感動だよねっ。 


 真琴のドレスに合わせてカイトが自分の衣装を仕立てるのも嬉しいらしい真琴は、あえて別行動を楽しんでいるようだった。

 違う色合いの猫にも化けられるらしいが、カイトが気に入っていたという小猫の姿にこだわる真琴は、とても健気な子だ。遥佳とは違った意味で甘やかしてしまいたくなる。

 

(とはいえ、猫に菓子を与えていいと思う世間知らずは国王だけで十分だ。獣人だと思われているなら普通の食事も出してくれるだろう。いや、出してくれないと困る)


 少なくともスープと具を挟んだパンで食事にしている自分達よりも、まともなご飯が出されていると信じたい。ただ、どこに小猫は泊まるのか。


(獣人だと思われているなら客室が妥当だ。だが、猫の姿でいる以上、それで客室に案内するものだろうか)


 大事なお猫様だからと、鍵付きの檻にクッションを敷き詰めて寝かせられていたら・・・。

 そこまで想像した時点で、イスマルクは断固阻止の意を決する。


「もうすぐしたら戻りますが、一足先に大神殿に戻り、猫は私の部屋で休ませておいてほしいと伝えておいてください。」

「イスマルク様のお部屋ですか?」

「はい。私室と寝室との間にある扉を開け放し、勝手に寝台を猫が使えるようにしてあげてください。花瓶や小物などもわざわざどかしておかなくても壊したりしませんから」

「かしこまりました」


 大神殿で小猫を連れた高位神官達とすれ違ったというその神官に命じると、イスマルクは僅かに微笑んだ。


(ファミルイード様とは、少年の格好をしていた時にやらかしたらしいが・・・。そうだな、あの子はそんな陰湿な子じゃない)


 誰かを憎み続けたり恨み続けたり、そんなのは真琴に似合わない。

 いつだって笑顔で駆けていく彼女には。


「かなり具を挟んでくれたんですね。有り難うございます」


 まさに流し込むような速さで、イスマルクは用意されていた食事を口に放り込んだ。忙しい時は仕事しながら食べるのも当たり前だった自分だ。なんてことはない。


(これらに押し終わったら、帰れる)


 イスマルクは、貴族達からきっと前もって予定を立てることも知らない馬鹿呼ばわりされるんだろうなと、そんなことを覚悟しながら、明日、一気に出されるという招待状に自分の印章を押し始めた。

 明後日の祝宴を、今夜の告知、明日の招待状である。

 どんなせっかちで阿呆な第1等神官だと思われることだろう。決めたのは王城だが。


(今度は俺が狙われるかもな。だが、その方がマシだ。どうせマーコットは明日にはもうルーシーとミザンガに向かう。巻き込まれることはない)


 人間の愚かさは人間が責任を取るべきことなのだ。

 あんなにも幼く、汚れなき姫君達にそんなものを見せるまでもなく。

 イスマルクはそう思わずにいられなかった。


――― おお。ルーちゃんはこっちの方がいいのですな。

――― ちゃんとお魚もお肉もお野菜も好き嫌いせず食べるとは、なんて賢い猫ちゃんでしょうなぁ。


 そんな遥佳と真琴を幼い少女扱いしているイスマルクの曇りまくった目は、今、大神殿内で小猫に熱い視線を向けている神官達にも感染し始めていた。






 マジュネル大陸にある聖地を守る大きな白亀は、にこにことして遥佳を出迎えた。

 本当は今日も泊まるように勧められたのだが、さすがに二日続けてケインの家に泊まるのは悪い気がして、お祭り騒ぎで夕食みたいなものを町の皆と取ったことだし、遥佳ももう今日は帰宅すると言って戻ってきたのである。


「おお。歪みもなく、見事に成体になられましたなぁ。やはり(あけ)のや(へき)のと一緒にいたのが良かったのでしょうなぁ。やれ、めでたや」

「ありがとう、玄武さん。だけど、おかげで困ったことになっちゃったの」

「そこの幻獣が迫ってくるということですかのう? あまりにしつこいようならば、ハールカが眠っておられる間は、地中に閉じ込めておきますぞ?」

「むむっ。なんということを言うのだ、師匠。そんなことしてない。俺はちゃんとハルカの意思を尊重する、とても素晴らしい幻獣なのだ。夜だって人間の姿はとらず、グリフォンの姿でハルカを守っている」


 地中に閉じ込められてはたまらないとばかりに、ヴィゴラスが否定する。


「ならばいいんですがのう。グリフォンが守る眠りならば滅多なこともありますまいよ。で、何が困ったことなんですかな?」

「それが、・・・私、色々な新聞社に魂の兄弟契約取りに行ったじゃない? だけどその時とあまりに姿が変わってしまったからお知らせを出さなきゃいけないって、社長と編集長から言われちゃったの。明日までの宿題で、お知らせ文書を考えてくるようにって」


 なるほどと、玄武は頷いた。

 見上げるような大きな白い亀の姿が消えたかと思うと、白い長髪の女性と見紛うような美青年が現れる。

 相変わらず白い着物に似た衣服を纏って、まるで幽霊のようだ。けれども幽霊と違って、この姿の玄武はとても柔らかな雰囲気がある。


「そういうことならば少しはお手伝いしましょうかな。今のお顔を描いて差し上げましょうぞ。これがジンネル大陸ならばまずいのでありましょうが、マジュネルの新聞など読むのは魔物と獣人ぐらいでしょうからのう」

「そうね。なんだか本当に人間って嫌われてるのが分かるわ。私にはみんな優しいけど」


 ふぅっと、遥佳は溜め息をついた。

 ヴィゴラスと手を繋いで、玄武と一緒に匠の小人(ドワーフ)達が建ててくれた家へと歩きだしながら、人間だからと差別されなかっただけでも有り難いのだろうかと、そんなことを話したりもする。


「どうなのでありましょうなぁ。魔物や獣人は人間よりも神経が発達しておりますからのう。人間が気づかれていないと思っている咄嗟(とっさ)の表情や不審な動きを把握してしまえばこそ、怪しい動きに気づいて思った通り・・・と、なるのですじゃ。ハールカはそんな怪しい動きよりも、何ぞ怪我しやしないかと心配で目が離せんところでしょうからなぁ」

「・・・・・・」


 疑われる以前の問題らしいと、何となく自分でも気づいていた遥佳は黙りこんだ。


「ところで師匠。ハルカの絵を描くなら、俺もその後ろにいるのか? ハルカは今日、蝶の女を花で描いていたが、一緒に鴉の少年も描いてやっていたのだ」

「ほう、それはそれは。じゃが、ヴィゴラスは描きませんぞ」

「何故だっ!?」


 ガーンとショックを受けたヴィゴラスに、玄武は白い髪の隙間から穏やかな黄色い瞳を覗かせる。


「ハールカというお名前だけなら偶然としても、さすがにグリフォンを連れているハールカともなれば、ジンネルからやってきた者ならピンときましょうからのう。勿論、ハールカのお部屋だけに飾るというのであれば、構わぬのですじゃ」

「私とヴィゴラス、いつも一緒と思われてるものね」


 おかげで自分になりすました真琴がヴィゴラスを連れていたというだけで、あれは遥佳ということになってしまっている。

 遥佳もどこから訂正すればいいのか分からないぐらいだ。


(あ、そうだった。真琴もちゃんと怒っておかなきゃならなかったんだわ。だけど先に宿題・・・)


 宿題というか、記事というか、自己アピール文というか、・・・大陸レベルの回覧板?

 だが、本当に一新聞社のバイト情報をわざわざマジュネル大陸に散らばる全新聞社にお知らせする必要があるのだろうか。

 その意味が不明だ。


「そこに座ってくれますかのう。少し斜めを向いててくれると有り難いのですじゃ」

「あ、はい」


 玄武はベンチに遥佳を座らせた。

 さすがは守り人というべきだろうか。夕暮れの空なのに、遥佳達の周囲にだけ昼間のような明るさが満ちていく。

 地面が盛り上がって、玄武は自分が座る椅子を作りあげた。

 そうして玄武は大人になった金髪の遥佳と、以前の黒髪だった遥佳とを、丈夫そうな少し厚めの紙に描いていく。


(シルフを使わなくても、ペンとか取り寄せられちゃうのね。やっぱり聖地の中では守り人って何でもできちゃうんだわ)


 今の遥佳は淡い黄緑色のワンピースに白いエプロンをつけていたが、白黒の絵の中で、遥佳は全くデザインの異なる服を着て、穏やかに微笑んでいた。


「凄いのね、玄武さん。手の動きが」


 自分の位置からは絵が見えなくても、遥佳にも玄武が描き慣れていることは分かる。

 何より玄武の後ろから覗きこんでいるヴィゴラスが満足そうにしているのが、その出来を語っていた。


「元々、マーコットの顔も見ておりましたからのう。少し雰囲気と表情を変えれば、なんてことはありませんのじゃ」


 絵の中では、濃い色合いのブラウスに首筋を隠すようなふんわりと盛り上がったレースの襟飾りをつけた遥佳が、その緩やかに波打つ金髪を背中へ流している。


「む。師匠、ハルカの絵にはちゃんと額飾りや耳飾りをつけたものがいいと思うのだ」

「皆が知っておるのは黒い髪をして、一生懸命に動いておったハールカじゃ。成体になっても変わらぬ雰囲気を踏襲した方が良かろうて。されどヴィゴラスよ。愛を伝える贈り物ならば、ハールカはそういう飾り物よりも摘んできた一輪の花を髪に挿してもらう方が嬉しかろうに」


 ぴくっと反応したヴィゴラスが、遥佳の表情を見定めようとした。

 その鋭い眼差しに、びくっとした遥佳はきっと悪くない。何故なら、それはまるで猛禽類の獲物を見つけた時のようなそれに近かったからだ。


(え? うっ、嬉しくないっ。今は嬉しくないからぁっ)


 なんでそういうことを玄武は言い出すのだ。

 大人になった自分にそんなことをされても困る。

 遥佳は、何か否定しなくてはと慌てずにはいられなかった。


(そういうの、何かお約束とかあるのっ? 誰かっ、そこを私に教えてぇっ)


 凄い形相で、遥佳は首を横にぶるぶると振る。

 自分は欲しくないのである。花も飾りも。そう、今は。


「花など、どれを摘んでも構わぬものよ。大切なのはのう、花を贈ることで恋心を伝えることじゃ。さすれば想いがとどくこともあろう。一番美しく咲いていたから。その色合いが印象的だったから。可憐な花を見て喜んでほしかったから。そんな行為は、全てが愛しいと思う心の発露じゃからなぁ」


 だが、ヴィゴラスを向いていた玄武に、遥佳の表情と言葉よりも雄弁な仕草は全く見えていなかった。


「あ、あのね、ヴィゴラス。その、そんなに・・・」

「行ってくる」


 何かを言おうとした遥佳を置いて、ヴィゴラスは素早くその場から駆け去る。


「玄武さんーっ。何が恋心なんですかぁっ」


 ううううっと、泣きたい気持ちで遥佳は玄武の名を呼んだ。


「まあまあ。何かしないと落ち着かんのでしょうからのう。少なくとも花を選んでおる間は気も紛れましょうて。大人になったハールカを前にあっちへうろうろ、こっちへうろうろ。本当にまあ、落ち着きのないことですじゃ」


 そんな理由で焚きつけたのか。いいように動かされてしまっているヴィゴラスが不憫すぎる。


「ううっ。そんなの、お花もらっても何を言えばいいのか分からないのに。今まではありがとうって言えばそれで良かったのに。・・・大人の場合はどうすればいいの」


 そこが分からないから困っているのに。

 今、こうして大人になった自分は、ヴィゴラスの想いにどう向き合えばいいのかも分からない。


(真琴でもう分かってはいたけれど、本当にこの体、女性って感じなんだものぉっ)


 遥佳は今の状況に戸惑わずにいられなかった。


「そんなことを考えなさるな。何かしなくちゃいけないものでもありますまいよ。綺麗な花を見て喜ぶ顔を見るだけで嬉しいのが男ですじゃ。見返りをそこで要求するような男は、最初から相手になさらぬことですのう」

「それもそうなんだけど、受け取って何もしないというのもひどくないかしら」

「もとより女性に贈った花のことなど、渡したらもう忘れるのが男でありましょうぞ。我とてその瞳を喜ばせる花を受け取ってもらえば、それで満足ですじゃ。まだそれで更に評価してほしいと願うような甲斐性なしにはなりたくありませんからのう」

「・・・そ、そうなのね」

「花などどれ程の種類がありましょうかのぅ。その内の数種類程度を贈った程度で力尽きたと思われたくはないものですなぁ」


 楚々(そそ)とした美女のような外見を持ちながら、玄武は時に男らしすぎる。


(女性の心に負担をかけないタイプなんだわ、玄武さん。なんて格好いいの)


 玄武は口だけではなく、女性に花を贈っても、本当にそれをわざわざ覚えていないタイプだと、遥佳には分かった。

 花を渡してからの十秒、花を見て心を和ませてくれたならそれでいいと割り切る玄武にとっては、咽喉が渇いただろう女性に飲み物を差し出す程度のことでしかないのだ。いちいち、それが麦茶だったか紅茶だったかコーヒーだったかを覚えている必要もなく、それで咽喉を潤してくれたならそれでいいと思うだけ。

 その花のことを大切な思い出にしたい女性にとっては薄情なのだろうが、数百回も違う花を贈られていたらそんな気持ちもなくなってしまうだろう。


「ハールカの為に何かしたくとも、グリフォンは金や宝石を貢ぐしか考えつかんのですからなぁ。しかしそれはハールカの喜ぶことではないとも分かっておるのでは、途方に暮れてしまうだけですじゃ。だから毎朝、小さな薔薇を贈ることを思いついても、本来はそういう価値観がないからこそ、時間が経ったら忘れてしまうのでしょうなぁ」

「そうかも。だけどヴィゴラス、私を理解しようと頑張ってくれてるのよ。ううん、最初からそうだったわ」


 ヴィゴラスはグリフォンとしての価値観をかなり遥佳の為に譲っている。

 それは出会いの時からだったのだろう、きっと。


「金銀宝石にしか興味のないグリフォンが愛を捧げたなら、それが全てですからのう。ヴィゴラスにとって幸せだったのは、その想いを受け止めてくれるハールカだったことでしょうなぁ」

「そうかしら。かなり恨み言を言われてるし、拗ねられてるのよ、私」

「口説く手段の一つですかのう。拗ねたら優しくしてもらえますしなあ」

「ううっ、そうかも」


 そこで玄武は少し真面目な顔になった。

 細い筆を忙しく動かしていることは変わらないが、遥佳の顔をじっと見てくる。


「我々、守り人は神子が望むならどこまでもお守りいたしますのじゃ。ですからのう、ハールカ。ご自分のお心に嘘をつくのだけはされてはなりませんぞ。自分を騙そうとしても苦しくなるだけですのじゃ」

「・・・そうね、私ならやりそう。気をつけないと、どうしても自分が我慢すればいいんじゃないか、それでうまくいくんじゃないかって、そうやって物事を荒立てないようにしちゃうのよ。優理や真琴が心配してくれてても・・・。だけど私もそういうの、ちゃんとやめていくようにしないといけないわよね」


 困ったように微笑む玄武は、そうしていると白い長髪の美女にしか見えなかった。

 やめないといけないと言いながら、消極的な遥佳に呆れているのかもしれない。


「あ、だけど私もそれなりに我が儘になってきてるのよ? ちゃんと言いたいことも言えるようになってきてるの。だってヴィゴラスやグラディウス、自分のしたいことしか考えてないのよ? 主張しないと本当に好きにされちゃうんだから」

「無理はしなくていいのですじゃ。誰もがあなた方の幸せを祈っておるだけですぞ、ハールカ」


 慌てて言葉を重ねた遥佳に、玄武は苦笑しながらその黄色い瞳を和らげた。


「我々守り人は、たとえハールカが卑怯で悪辣な性格だったとしても、それでも味方ですのじゃ。いい子である必要などないのですぞ? 悪い子でも駄目な子でも、我らにとっては愛しき存在ですからのう」

「・・・うん」


 知っている。どの守り人もいつだって優しい。

 自分達が望めば、どこまでも願いを叶えてくれるだろう。彼らが守る聖地は、自分達の為だけの楽園だ。


「こんなのでどうですかのう」


 そうして渡されたのは、野原で座りこんで花束を抱えて楽しそうに笑っている黒髪の遥佳と、誰かに話しかけようとする瞬間の静かな笑みを浮かべる金髪の遥佳の絵だった。


「凄いわ。こんな短時間で、しかも白黒のスケッチなのに雰囲気が出てる」

「絵があれば、後はちょっとしたお知らせ程度ですみますからなぁ。さくさくっと書いてしまえばいいのですじゃ」

「ええ。これならすぐに書けそう」


 大人になりましたと、ご挨拶みたいな文を書けばいいだろう。

 遥佳はその絵を抱いて嬉しそうに笑った。


「ハールカ。我らはハールカが一ヶ月ごとに恋人を取り替えようが、百人の愛人を作ろうが、全く気にしませんからな。余計なことは考えず、ご自分の気持ちに素直になりなされ」

「ありがとう、玄武さん」


 自分の部屋には机もある。さすがに屋外で文章を書くのは落ち着かない。


「早速、お部屋で書くわね。あ、玄武さん・・・」

「そういう気を遣われる必要はありませんのじゃ。飲み食いせずとも生きていけますからのう。その笑顔だけで十分ですぞ。それにここは我が聖地。何の不足がありましょうか」


 わざわざ茶などを出そうとか考える必要はないと言われ、遥佳は少し背伸びして玄武の頬にキスした。


「ありがとう。そう言えばヴィゴラス、どこまで行っちゃったのかしら」

「方角的に、試作栽培地でしょうなぁ。隠してあったというのに目敏(めざと)いものですじゃ」

「試作って、それ、取っちゃっていいの?」

「聖地から出さんでくだされば、全く問題ありませんのう。ましてやハールカならば、全て刈り取ってお部屋に飾っても構いませんなぁ」


 ででんっと、いきなり大きな白い亀に変身した玄武は、そう言ってのそのそと歩いていく。湖へと帰るのだろうか。


(その試作って誰が作ったのかしら。マジュネルだから玄武さん? 土いじりなんて全くしなさそうな感じなのに)


 そんなことを思う遥佳だったが、何にしても玄武がさらさらと描いてくれた自分の似顔絵はとても上手だった。






 ギバティールにある真の大神殿。そこ集うのは神官ばかりで、一般人はまず入ることができない。

 だが、本日は珍客があった。日中にやってきた国王一行ではなく。


「ああ、ここには物を置けるようになっているから、大抵は花瓶などを飾るように思われがちなのですが、決して神殿では置かないのです。ええ、猫ちゃんには特別にお教えしましょう」


 にこにことして説明するのは第2等神官ニコラスである。

 大きな大理石を彫りこんで作られた柱の手前にある、物を置けそうな背の低い四角い台。それもまた重厚な石造りだが、その彫りこんだ模様の一部に手を突っ込んで何やら力を入れたと思ったら、ニコラスの手の動きと共に台が少し動き、中の暗い空洞が見えた。


「にゃっ」


 石を滑らかに動かす為に、どうやら金属で出来た部品も使われているようである。


「ええ。ここは避難場所なのですよ。こうして中に入り、この裏側にあるここを掴むようにして元に戻します。大神殿が攻められることは今までありませんでしたが、万が一のことを考えて、ここはこういった様々な仕掛けがあちこちにあります。中には武器を仕舞ってある隠し場所もあるのですが、それは警備にあたる神官達が管理しています」

「なー」


 ずいぶんお金のかかった建物だと思ったが、細工や仕掛けにも手を抜いていない。

 小猫は感心せずにはいられなかった。

 どこからそんなお金が集まったのだろう。神殿、怖すぎる。


(維持管理費だけでも凄そう。やっぱりおうちはこじんまりしてる方がいいよ)


 王城の庭園も綺麗だったが、城の説明をしながら、

「何なら大神殿の観光もしてみますか? 普通の人が入れない方の大神殿も案内しますよ?」と、ニコラスから問われたので、つい小猫も頷いてしまったのである。

 どうやら自分は、イスマルクが妻の妹だと言っていたルーシーだと思われているらしい。そうなると自分は猫の獣人ということになるのだろうか?


(まあ、カイトも虎の姿の時は言葉喋れないし、こんなもんだよね)


 大神殿にある彫刻なども、前足で示しながら首を傾げるだけで説明してくれるのだから、かなり濃厚な芸術品鑑賞をしている気分だ。どれもこれも、その当時の最高の芸術家や職人による渾身(こんしん)の作らしい。


「何か起きた時は、ルーちゃんならどこかに隠れておいてくださればいいですからな。こんなに小さな猫を襲う者もおりませんでしょうが」

「本当に、なんと愛らしい」


 そう言って撫でてくるお爺さん達の名前を覚える努力を、小猫は既に放棄した。

 何だかどのお爺さんも小父さんも、自分を抱っこしたがっているので、順番にその腕や肩に乗ってあげているのだが、おかげで、彼らも少し離れて散らばり、小猫が興味を持った物の近くにいる神官の腕にジャンプしてくるのを待っていたりする。

 しかし、説明役はずっとニコラスだ。彼はそういったものに詳しいらしい。


(なんか本当に猫って人気なんだね。そういえばドモロールの隊長さん達もそうだった)


 小猫にメロメロになるのはディリライト首長だけではないらしい。

 これがパッパルート王宮に行くとスカンクだ。

 

「なー?」


 しかし、あの女神を表すというマークだけは謎だ。どうしてあんな模様になったのだろう?

 グルグル模様と直線模様を掛け合わせたようなそれは、何がどうして母を表しているのかが意味不明である。

 だが、小猫がどんなに女神のマークを前足で示しても、ニコラスも小猫が何を問いかけたいのか分からないらしく、首を傾げてしまった。

 仕方がないのでその質問は小猫も諦めた。


「あの、ドリエス様。夕食の用意が出来ました。どうぞ食堂へ」


 どうやら自分達を捜していたらしい神官がやってきて、一人の偉そうな神官に耳打ちする。


「夕食の準備が出来たそうですぞ。食べられるものだけお食べになってくださればいいですからな」


 にこにこと小猫に声をかけてくるドリエスに、

「にゃ」と、返事してその肩にジャンプしたのだが、大神殿には食堂があるのだろうか。


(おかしいなぁ。たしか大神殿所属の神官には寮があるんじゃなかったかな? イスマルク、僻地の神殿から呼びつけられた時はそっちで寝泊まりしてご飯を食べてたって言ってたような・・・)


 高位神官になれば大神殿の中に部屋ももらえるらしいし、更に第1等とか第2等になると、応接室や小さな厨房もついた区画がもらえるらしい。

 しかし、食堂? そんな場所があるのだろうか?

 イスマルクは第5等で僻地の神殿長だったから知らなかっただけかもしれない。

 そんなことを思いながら、ドリエスに撫でられていた小猫だが、その移動が階段になった時点で、比較的若い神官の肩に、ひょいっと飛び移る。


「えっと、・・・ああ、そうですね。階段だからドリエス様には手すりをお持ちになるようにと、そう思われたんですね。本当にルーちゃんはお優しくていらっしゃる」


 どうやらこの一行の中ではあまり高い位ではなかったらしいその神官が、自分の肩に着地した小猫を撫でながらそう言えば、皆の突き刺さるような彼への視線も和らいだようだ。


(そうそう。お年寄りが違うことに気を取られてると、踏み外すだけなんだよ。遥佳もそうだけどさぁ、ホント、危なっかしいのなんのって)


 うんうんと頷く小猫は、さすがに撫でられすぎて疲れたのだ。豪華な細工ばかり見て、食傷気味というのもある。

 この中ではあまり位が高くないらしいその神官は、急遽、食堂とされた広間に小猫を連れていくという大役を仰せつかったとばかりに、少し頬を上気させている。

 いつもは大広間として使うそこは、神子姫様の愛猫がやってきたというので、慌ててテーブルと椅子が並べられて食堂へと変化し、本日、大神殿にいた神官達が勢揃いしていた。

 しかも高位神官が抱えている料理人達が協力し、それぞれの厨房を使って用意した食事は、寮の料理人達も動員しているから、かなり豪勢な夕食になっていたと言えるだろう。

 

「えっと、ルーちゃん。良かったらディオルグラード様の肩にどうぞ。ルーちゃんのお席は、ディオルグラード様とファミルイード様のお席に近いから、そちらの方が・・・」

「にゃ」


 素直な小猫は、ちょうど横にいたファミルイードの手の中へと移る。ディオルグラードが誰か、分からなかったからだ。


「おうおう。本当に可愛らしい」

「なー」


 美味しいご飯をくれるらしいので、とても小猫は愛想がよかった。かつて真琴が揉めた相手なのだが、小猫はもう顔など覚えていないし、既に終わったことだと、自分がやらかしたことも忘れている。

 だが、開けられた扉の向こうの食堂とやらは、とても広かった。

 ついでに大勢の神官が着席せずに立った状態で待っていて、何だか遅れた自分が悪いんですか? と、言いたくなる状態である。


(うわぁ。こんなに沢山の人で一斉に食事するんだぁ。なんか合宿みたい)


 目を丸くする小猫は一番奥、つまり最上席に連れて行かれてしまった。


(・・・・・・。神子姫様の猫って、凄い身分の高い存在だったんだね。知らなかったよ)


 小猫の為の席には、一口サイズに切り分けられた料理が、数十種類もあっただろうか。彩りよく幾つもの皿に二つか三つずつ盛られて、ちゃんと皿と皿の間には猫が移動できるだけのスペースがあった。


(皿の無駄遣いってこういうのを言うんだね。というか、私の為に何人分の席を使ってるの? それだけ獣人が何を食べるか分からないとか? 普通だよ、人間も獣人も)


 皿を前にしたテーブルの上に置かれた小猫は、偉そうなお爺さん達を斜め左右の席に従える形になってしまったのだが、「神子姫様の愛猫」でこの待遇なら「神子姫様」なんてどんな扱いになるんだろうと、悩まずにはいられなかった。

 小猫と共にやってきた神官達が腰を下ろしたのを確認して、立って待っていた神官達も着席する。


「では、本日はこの食卓への祈りを捧げてから食事といたしましょう」


 そんな言葉が響いて、誰もが祈り始めたのを、小猫はじーっと眺めた。


(朝だけすればいいんじゃなかったっけ? 夕食はしないんじゃなかったかな。それともケースバイケースって奴?)


 よく分からないが、何をどう祈るかもしらない小猫は、大人しく座って待つしかない。

 やがて終わったらしい神官達が顔を上げて小猫を見てくる。

 小猫は、いつになったら食べられるんだろう? と、小首を傾げた。


「猫ちゃん。あなたが食べてくださらないと、皆も食べません。お好きな物を食べてくださいね。お代わりもありますよ」


 第2等神官ニコラスが、戸惑う小猫に少し離れた場所から声を掛けてくる。


(なるほど。客人が箸をつけたのを確認してから食べるというアレだ)


 なかなか礼儀正しい神官達だと思いながら、小猫は、ちろりと、綺麗な小さいカップに入った黄色のスープを舐めた。


――― おおっ。


 なんだか、ざわっとしたどよめきが起きているような気がしたが、南瓜(かぼちゃ)のスープはどこかナッツのような風味も混じっていて、なかなか美味しい。

 

(隣には、具入りのコンソメスープみたいなのがあるけど、好きなのを飲めってことなのかなぁ)


 小猫のサイズを考えてだろうが、他の人のようなスープ皿ではなく、小さなカップに入れられているので、お腹いっぱいになりそうにもない。


「猫ちゃん。どっちのスープが君のお好みにあったかな?」


 両方のスープを平らげた小猫は、かなり迷ったが南瓜のポタージュスープを前足で示す。


「なるほど」


 ニコラスの手元には、何故か紙とペンとインク壺が用意されていた。

 それからも皿に盛られた二つもしくは三つのおかずを食べる度に、

「どの料理が一番好きだった?」

と、尋ねられる。


(猫の嗜好を私に訊いても無駄なんだけど。猫の獣人だって、その人その人の好みは全然違うよ。ま、いいけどさ)


 言われてみればどれも味付けが違ったなぁと、そんなことを思いながら、付き合いのいい小猫は、自分が一番気に入った味つけのおかずを答えていったのだった。




 疲れきったイスマルクが城から大神殿に戻ってきた時、とっくに夜は更けていた。

 もう城に泊まった方がいいと言われたものの、小猫が心配なイスマルクは何があっても大神殿に戻ると主張したのだ。

 だが、何ということだろう。自分の部屋に戻っても、小猫はいなかった。


「ニコラス殿っ。猫を何処(どこ)に連れて行ったんですかっ!?」


 夜も遅いと分かっていたが、イスマルクは第2等神官ニコラスの所に怒鳴りこんだ。


「ああ。あなたの寝室に放りこんでおいてくれという伝言は聞きましたけどね。そんな男の寝室に可愛らしい猫ちゃんを放り込む間抜けがいるわけないでしょう。ちゃんとお好きなお部屋を選んでお休みいただきましたよ」


 自分の部屋で机に向かっていたニコラスは、呆れたと言わんばかりの顔で、何やら書いていたらしいペンを止めてそう言い捨てる。


「部屋を選ぶ? って、どなたの客室を提供されたんです?」

「あなたは馬鹿ですか。そんなの、神子姫様のお部屋に決まっているでしょう」

「って、どうして・・・」


 それこそニコラスの目は軽蔑すら孕んでいたかもしれない。


「神子姫様が可愛がっておられた猫ですよ? それこそ一緒にお休みしていたことでしょう。ならば神子姫様の為に用意されたお部屋にお連れするのは当然のこと。全く、それを図々しくも自分の部屋で一緒に寝ようとは。いくらあなたが第1等神官でも許されませんよ」

「あ、はい。すみません」


 言われてみればそうなのかもしれないが、どうしてここで自分が怒られなくてはならないのだろう。


(そうかもしれないが、猫だろ? なんで俺が怒られるんだよ。勿論、ちゃんと俺の寝台を譲って、俺はソファで寝るつもりだったさ。一緒に寝たりなんてするわけないだろが)


 自分の方が高位の神官な筈なんだがと、そんなことを思いながら、イスマルクはそういう扱いにも慣れている男だった。


「夜遅くにお騒がせしました。失礼します」

「どのお部屋か、お聞きにならないんですか?」

「え。ああ、なら緑っぽい部屋でしょう」


 神子姫の為に用意された三つの部屋。どれも豪華だが、一つはピンクや白をベースにした可愛らしく女の子らしい部屋、一つはグリーンや空色をベースにした爽やかで軽やかな感じの部屋、そして最後はワインレッドや濃紺などを取り入れて高貴な雰囲気に仕立てた部屋となっている。


(神子姫ハールカ様の愛猫がグリーンの部屋ね。こんな夜遅くまで拘束されて、それでも戻ってくるとは、余程心配だったんだろうが)


 真琴の好みを考え、グリーンをベースにした部屋だろうと思ったイスマルクの勘は、外れていない。

 ディオルグラード達は三つの部屋、どれも隅から隅まで見せて、選んでもらったのだから。

 ニコラスは小さく溜め息をついた。




 小さく、トントンとノックして扉を開けて、最初の部屋へ入る。勿論、扉は後ろ手に閉めた。


(幾つ、続き部屋があったかな。本当に何人で暮らせるかって感じの広さだよ)


 そんなことを思いながら、イスマルクは次の扉をノックする。

 返事を待たずに入ると、そこは誰かとお喋りしたりするための団欒用の部屋だ。勿論、後ろ手に閉める。

 そしてその奥の部屋へ続く扉をノックする。


「マーコット?」


 返事を待たずに開ければ、やはり無人だが、そこは私室の一つだ。

 というわけで、また奥に続く扉をノックする。今度は衣裳部屋だっただろうか?


「マーコット? もう寝てるかい?」

「あら、イスマルク? どうぞ」


 やっと返事が返ってきたと思ったら、それは真琴の声ではなかった。


「ルーシー。着いたのか。良かった」

「ええ。なんでもマーコットったら、私と勘違いされてしまったんですって?」

「まあね。だけどこれで安心だ」


 衣裳部屋といっても、そこに掛けられている衣装はほとんどない。サイズが分からないからだ。

 けれどもソファやテーブルまで用意されたそこは、身支度をする為の、とても豪華な部屋だった。


「マーコットはもう寝ちゃったのか?」

「ええ。気を遣って疲れたそうですの。だけどマーコットったらハールカのお説教から逃げているところでしょう? 明日の朝には発ちますわ。朝食を食べてからだと、ここの歓待から逃げられなくなりそうなので、夜明けと共に」

「そうか。じゃあ、朝食を用意して夜明け前に届けるよ。どこかでゆっくり食べればいい」

「ありがとう。助かるわ」


 ルーシーの向かいのソファに、イスマルクは座る。


「で、ルーシーの夕食は? 食べてないなら運んでくるよ。まあ、手抜き料理にはなるけどさ」

「マーコットがご馳走尽くしにあっているのを窓から確認して、外で食べてきましたわ。ご心配なく。だけどイスマルクの猫じゃなくハールカの猫だと思われたんですって? 名札も無駄でしたわね」

「ああ。ただの猫だと言い張ろうとしたら、動物禁止の大神殿で俺が自分の猫だと言い張ったのと、ディリライトでの外見的特徴が知られていたのとで、ピンときたらしい」

「あらまあ。だけどあの姿、どなたも気に入ってくださったからと、マーコットも猫ならアレと決めてるんですのよ。困りましたわね」


 全く困っていないような顔で、ルーシーはそんなことを言う。

 ルーシーが主張したあの茶色ベースの縞模様(タビー)な猫は、あちこちで大人気だ。何よりカイトの心をノックアウトしたのがいい。

 しかも人間に自分の名前を呼ばれるなど冗談ではないが、これが真琴の仮の名前として自分の名前にちなんだルーちゃんと呼ばれることになったとなると、今度はとても気分がいい話なのである。

 真琴を独占しているかのような、この優越感。


(やっぱりカイトさんを押さえておいたのが良かったわね)


 ディリライトで同じドモロール軍に属していたこともあり、カイトはドラゴンならラーナやリリアンよりルーシーとの方が話しやすいようだ。そして真琴も、ルーシーなら単独行動をお願いしても大丈夫だと思っていた。

 だから何かある時、レオンともうまくやっているルーシーが、真琴の第一選択となるのは当然である。

 

「まあ、いいや。ルーシーがいるなら安心だ。一緒に寝てくれるんだろう?」

「ええ」

「寝室の鍵だけ掛けておいてくれ。明日、夜明け前にはここに朝食を詰めたバスケットを置いておくよ。あ、そうだ。マーコットに頼まれた封筒なんだが・・・」

「ああ、それでしたらマーコットが鞄に入れた状態でもらっていましたわ。身元保証の書類ならとっくに用意してもらいましたのに、まだ必要だったのかしら。マーコットったら、内緒って言うんですもの」


 ルーシーは、少し恨めし気な流し目をイスマルクに送った。何故なら、そんなことは聞いていなかったからだ。


(ここは単なる待ち合わせ場所のつもりだったのに、本当にもう。すぐに誰からも愛されていらっしゃるんですもの)


 遥佳を足止めするように頼んであるとはいえ、あのヴィゴラスだ。当てにならない。

 ドレシアで買った荷物を運ぼうとして、そんな理由で、買った物はこっそりと無人島とかに隠しておかないかと言い出した真琴だった。


『ヴィゴラスってば、遥佳に「お願い」とか言われたらホイホイ他のこと全部忘れちゃいそうだもん。あくまでヴィゴラス、保険でしかないんだよねー』

『なら、私が第7神殿にだけ運んでおきますわ。私だけなら怒られませんもの。ね?』

『本当に? ルーシー、土壇場で遥佳の味方になったりしない?』

『しませんわ。ね、約束』


 だから第7神殿に荷物をルーシーが置きに行って、真琴はイスマルクのいる大神殿で待つと、そういうことになっていたのである。


「あれ? 内緒でルーシーと賭博パーティに行くって言ってたぞ? だから別口で保証人の書類を用意してほしいって言ってきたんだ。まあ、俺もルーシーがいるなら大丈夫だろうと思ったんだが、違ったのか?」

「まあ。賭博パーティ、諦めてませんでしたの?」

「ああ。それならかえってルーシーの方が同性だから目を離さずにいられるだろう? どっちも美人だけに変な奴にも狙われるかもしれないけどさ。カイトさんに内緒ならルーシーが頼りだ。頼むよ」

「ええ、人間などどうにでもなりますわ。そこは心配なさらないで。・・・だけどもう、マーコットったら、秘密ばかり作ってどうするのかしら。嘘を重ねると面倒になるだけですのに」


 ルーシーは、それでもどこかご機嫌そうだ。


「そ。だから身元保証の名前にルーシーの名前を書いてて、それを見られたもんだからマーコットの名前がルーシーだと勘違いされたのさ。おかげで俺じゃなくエイドリクス様が、その保証人の役目を分捕(ぶんど)ってった」

「あらまあ。ですが、楽しそうでしたわね。マーコットったら何処(どこ)に行っても愛されてしまうんですもの。見てて気が気じゃありませんでしたわ」

「しょうがない。マーコットだからな」


 苦笑してイスマルクは立ち上がり、起こさないようにと静かに扉を開ければ、寝室で寝息を立てている小猫がいる。

 小さな窓際の灯りはあるが、豪華な天蓋付きの大きな寝台の中、前足を万歳状態ですやすや眠る小猫に眩しいものではない。


「本当にもう、心配だけさせて、いなくなってはやきもきさせて。なのに、可愛すぎて怒れない」


 そうやってぼやきながらシーツから出ている小さな頭を指先で撫でると、イスマルクは小猫の額にキスした。

 一体、どんな寝相なのか。


「おやすみ、マーコット。いい夢を。じゃあ、ルーシー。頼むよ」

「ええ」


 寝室を出て行くイスマルクを見送り、ルーシーは寝室に鍵を掛けた。

 何人が一緒に眠れるのだろうと思える大きな寝台は、小猫も呆れていたぐらいだ。


(それでも一緒にいたいのはカイトさんですのね。全くもうあの朴念仁ときたらどうでもいいことばかり気にして。だけどそういう獣人だから私達ともうまくいっているわけだけど)


 両の手足を広げて、ぐたーっとうつぶせに寝ている小猫は、野性を見失いすぎている。

 それでもルーシーの優しく撫でてくる指に気づいたのか、目を閉じたままゴロゴロと咽喉を鳴らして体を反転させるとその手に絡みついてきた。

 じゃれついたまま、くぴーと寝てしまう小猫は、今も楽しい夢を見ているのだろうか。

 ルーシーは静かに微笑んだ。






 マジュネル大陸の聖地には、ちょっと男性的な建物が遥佳達の為に建てられている。二階にある部屋は、新築ならではの木の香りがしていた。

 開け放ってあった扉から、グリフォンが入ってくる。

 玄武のおかげで宿題だった「大人になりました宣言」を書き終えていた遥佳は、それらを黒い鞄に仕舞って、明日の服をどれにしようかと、考えているところだった。

 今までの自分の服は優理の部屋に移動させるしかないだろう。サイズ的にもう着られない。


「遅かったのね、ヴィゴラス。どこまで取りに行ったの?」

(どれが一番綺麗に光るか、暗くなるまで待っていたのだ。あそこの崖の途中にある洞窟の中の花は、暗くなると光る。ハルカに似合う色の光を待っていた)

「そうなの? ここだと明るいから普通の薔薇にしか見えないわ。綺麗な白薔薇ね」


 その前脚にある一輪の白薔薇。


(ハルカはこういう少し大きな薔薇も好きか?)

「ええ、好きよ。何よりヴィゴラスが選んできてくれたんだもの。とても嬉しいわ」


 遥佳は青いガラスで出来た一輪挿しを手に取り、そこに水を入れた。

 そうしてヴィゴラスの持っていた白薔薇を受け取り、そこに挿す。


「暗いと光るの? じゃあ寝室に置いたらきっと綺麗ね。暗い中、ぼんやりと光ってくれるんですもの。一緒に見ましょうね、ヴィゴラス」

(気に入らなかったら、違う光るのを取りに行く)

「馬鹿ね。何色だろうと、関係ないわ。私の為に選んでくれたのが嬉しいの。さ、私、お風呂に入りに行くから、ヴィゴラスはここで待っててね」


 グリフォンの大鷲の頭にキスすると、遥佳はそこの棚の上に一輪挿しを置いた。

 眠る時、寝室へ持っていけばいいだろう。

 そうして大人になった時用の寝間着と下着を見繕えば、自分の腰にふわふわした羽毛を擦りつけてくる存在がいる。


(一緒に入る)

「駄目です」


 きっぱりと遥佳は撥ねつけた。


(だが、グリフォンの姿なら一緒に寝るのも入浴するのもいいのではないのか?)

「寝る時はグリフォンの姿ならって言ったけど、お風呂を約束した覚えはないわよ、ヴィゴラス。グリフォンの姿でもヴィゴラスはヴィゴラスで、大人でしょ。私も大人になったんだから、一緒のお風呂は駄目でしょ」


 愛さえあれば全てが許されるマジュネル大陸の住人ですら呆れ返るのがヴィゴラスの執着だと知った遥佳は、毅然とした対応が大事だと学んだ。

 だからちゃんとお断りできる自分は、もう立派な大人の女性だ。


(そんな・・・。俺は、ハルカの長い髪を洗うのを楽しみにしていたのに。黄金色の髪なのに・・・)

「・・・金属の金と、髪の金色は別物だと思うのよ?」

(グリフォンにとって、黄金の輝きはグリフォン道そのものなのに・・・。俺は、ハルカが黄金の髪になったら、その輝きを失わないようにと、お手入れ法だって学んでいたのに・・・)

「・・・黒髪だった時も色々してなかった?」

(ハルカの髪の輝きを守ることができるのは俺だけだと信じて・・・。だから俺はずっと努力していたのに・・・)

「・・・いつから私の髪の護衛になったの」

(聞いた話だが、パッパルート国王の護衛は風呂まで護衛するそうだ。どうして俺は、それができないのだろう)

「・・・・・・」


 あまりにも悲しみに沈むグリフォンに負けた遥佳は、体を隠して髪を洗うだけならばということで妥協するしかなかった。

 けれど、そう思って一階の温泉が湧き出るそこに行って、ふと棚を見た時、気づくものがある。


(もしかして、これ、()帷子(かたびら)ってものだったのかしら)


 生成りの麻で出来た布が置いてあるなと思っていたが、麻製の(リネン)タオルだろうと思っていたのだ。

 生成りと言っても、通常よりも少し暗い色合いだったので趣味じゃなく手に取ることがなかったのだが、広げてみれば、麻で出来た貫頭衣のような形状で、まさに湯あみ用の衣服だった。


(もしかして白じゃないのも体が透けないように? ああ、なんかもう・・・)


 そこの棚をきちんと見てみれば、男性用のものもある。男性用もまた似たようなデザインで、腰だけじゃなく上半身もそれなりに隠してくれるタイプだ。


(これ、誰が使うことを想定していたの・・・?)


 これらはカイトと真琴用に用意されていたのだと信じたい。自分用じゃないと思いたい。

 遥佳は、洗い場に髪を洗う為のセットをいそいそと用意しているグリフォンをちらりと振り返った。


(ブラシだけで何種類あるのかしら。だけど考えてみればグリフォンの前脚で私の髪を洗うとは思えないわ。それこそ、やっぱり私の髪を傷めるからとか言って、人の姿に変わった筈よ。だってヴィゴラスだもの)


 遥佳さえ体を隠していればいいというものではないのだ。その危機に、遥佳は気づく。


「ヴィゴラス。ここでお風呂に入る時にはコレを着てね」


 遥佳はにっこりと、男性用のそれを差し出した。

 すると、ヴィゴラスは怪訝そうに大鷲の首を傾げる。


(別に俺は見られても気にしない。それに、そんなので体を隠していたら、ハルカがドキドキしてくれないではないか)

「やっぱり人の姿に戻る気だったのねっ」


 ちゃんと()帷子(かたびら)を着ないかぎり髪を洗わせてあげないと言いきった遥佳だったが、自分は間違えたのではないかと思うのは早かった。

 何故なら、体を隠しているのだからいいだろうと、湯に浸かっていても体を密着させてくる迷惑な男がいたからだ。


(隠してさえいれば洗っていいってものじゃないと思うの。だけど髪は良くて、どうして体は駄目なのかと言われると、答えに詰まる・・・)


 背中の見えている部分と腕ぐらいならいいと言えば、その背中のいい部分と駄目な部分の違いは何かと尋ねてくる。

 結果として目隠しをした状態で遥佳の体を全て洗い上げた青年を、明日からどうすればいいのか、遥佳には分からない。


(明日、グラードさんに宿題を渡したらゲヨネルに帰りましょ。ええ、対抗できる手段はラーナ達しかいないわ)


 一番駄目なのは、ヴィゴラスにねだられてしまえば受け入れてしまう自分なのだろう。

 そう分かっていても、甘えるような顔で見上げてくる大鷲の頭を持つ幻獣は可愛い。きゅるっと鳴く姿も、遥佳にとっては、自分だけに甘えてくる幻獣のそれでしかない。

 

(だけど、寝る時はグリフォンでっていうのは守らせてるものっ)


 そこだけがもう救いだ。

 分かっている。自分が現実から目を背けていることなど。

 とりあえず暗い寝室でぽうっと(うす)(くれない)に光る白薔薇はとても綺麗だった。






 ギバティールの中でフェイロック達が用意した一軒家の一つ。

 そこで過ごしているエレオノーラは、来客に気づいて玄関まで出て行った。


「いらっしゃい、アルド」

「何度も言っているだろう。自分から出てくるなと。女というだけでも目をつけられやすいのに、美人となったら、見かけた奴が徒党を組んで襲ってくるぞ」


 自分が鍵を開ける直前で内側から扉を開けられたものだから、ぶすっとした顔で文句を言うレイスに、エレオノーラは肩を竦めてみせる。


「ごめんなさいね。だけど私のことは心配いらないわ。だって人の目がない分、殺しちゃ駄目って思う必要ないもの。何人でかかってこようが関係ないわ。私を殺せるのはイスマルクだけ」

「やめてくれ」


 後ろ手に玄関を施錠して、レイスは食料品を抱えたまま調理場へと歩いていった。

 道行く人々に自分の顔を見られないよう、夜が明ける前にやってきたのだが、文句を言いながらも彼女の気配は自分に馴染んで心地よい。


「起きてたなら、遠慮なく灯りをつけてていい。ちゃんと油もたっぷり置いてあるだろう?」

「そこまで必要ないんですもの。怪しまれないように一つぐらいはつけてみるけれど、それだけだわ。あなたよりも私は夜目がきくのよ」

「そうかもしれないが、普通の人間は闇を恐れるものだ。それらしい行動をしておいた方が油断を誘える。男なんて単純なもんだ。イスマルクさんも、自分の恋人を守れる男でいたいと思ってるだろう。恋人の方が強いと知ったら、男は落ち込むだけだ」

「・・・あら」


 ほんのりと、エレオノーラの頬が赤くなる。


「そんなものかしら」

「そういうものだろう。愛されている自覚ぐらいはあると思うが?」

「それはあるけれど・・・」


 手を洗ってから持ってきた野菜や肉をレイスは刻み始めた。興味深そうな顔で、エレオノーラはそれを覗きこんでいる。


「少し早いが朝食にしよう。そこのパンを出してくれ。それからスープ用の深皿と平皿を出してくれないか?」

「はぁい。ふふ、アルドのご飯ってイスマルクとも違うのよね。面白いわ」

「食えりゃ何でもいいだろう」


 レイスは、厚みのある牛肉を筋切りしてからこんがりと焼き、鳥ガラをぐつぐつと煮出して取ったスープが残っていたからそれに刻んだ野菜を入れてスープにした。持ってきた果物は刻んでサラダだ。

 そんな調理の傍ら、レイスは乾燥した豆を水に漬けて下拵えをしておく。


「アルドのご飯はそれでも丁寧だわ。何故かしら」

「ユーリのせいだな。あいつの作る飯は、一人一人に出すというクセがあったし、煮込む時間も俺達よりも短かったり長かったり、微妙に違った」

「それを食べてる内に、うつっちゃったのね」

「かもな」


 そうしてテーブルに料理を並べると、二人は向かい合って座って食べ始めた。


(三人目の神子姫様は、三食とも丁寧に作って食べたいお方なのね。朝は卵料理だと思ってたわ)


 朝からステーキを焼くものだから、きちんとした食事なのだなと思ったエレオノーラだったが、単に夜通し働いたレイスが空腹なだけである。

 理解不足と説明不足が、優理のせいにされて終わってしまっていた。

 一人は退屈だろうと、レイスはこうして食材の配達がてらエレオノーラに食事を作っていくが、おかげで仲間達からはイスマルクの妻を寝取ったのではないかと噂されている。


「明日、イスマルクさんの第1等神官就任を祝う宴が、城で開かれるらしい。その日にはもうバスティア家に戻っても大丈夫だろう」

「あら。全部終わったの?」

「いいや、あと二人残ってる。忍びこむに忍びこめん状態でな」

「そうなの」


 エレオノーラは頷いた。

 モサペーチ男爵は、ガラス工房からの帰り道、いきなり馬車の車輪が外れたので驚いて降りてきたところ、手助けをしようと集まってきた通行人の一人がこっそりと毒を塗った針を彼に刺したことで、しばらくしてからいきなり泡を吹いて倒れた。

 その通行人は、勿論、レイスの仲間の一人だ。

 ティシリ伯爵は、数時間前、寝ているところを忍びこんだレイスによって始末された。あと少ししたら、横で寝ていた夫人が冷たくなった夫に気づいて悲鳴をあげることだろう。


(問題は大貴族すぎると、情報が手に入らないことだったな)


 残るはレスティエ公爵とレイモン侯爵なのだが、レスティエ公爵の居住部分の見取り図が手に入らなかったことが痛かった。暮らしている家族の人数も不明だった為、あまりにもリスクが高すぎたのだ。救いはレイスのお守りがそこにあることだが、それだけだ。

 そしてレイモン侯爵は邸内にも愛人を何人か囲っているものだから、寝室の特定が難しく、こればかりはどうしようもない。

 レスティエ公爵もレイモン侯爵も、ふらりと外出してくれるタイプじゃなかった為、見張らせてはいたが、襲撃できる隙がなかったのである。


「アルドはどうするの?」

「今日には、明日のイスマルクさんのことが大々的に知らされるだろう。だから俺は今日、大神殿に戻る」

「・・・イスマルクのことを愛してるわ。だけどそれは、あなたがどうなってもいいということではないのよ、アルド」

「そういう意味じゃない。だが、彼は普通の人間だ。俺を狙ってくれるならどうにでもなるが、彼を狙われてはどうしようもない。大人しく大神殿で飾られていてくれれば良かったんだが」


 レスティエ公爵もレイモン侯爵も、どちらも放っておけば隙は生まれた筈だ。それを待つつもりが、どうやら城でイスマルクを祝う宴が開催されるらしいと、そんな情報が入ってきた為、レイスも予定を変えるしかなかった。

 カチャリとフォークとナイフを置くと、エレオノーラはレイスの所へと歩み寄り、その上半身を包むように抱きしめる。

 座ったままのレイスだが、抱きしめてくる柔らかい体を突き放すようなことはしなかった。


「なんて性質(たち)の悪い子なのかしら。こうやって気まぐれに訪れてはいいように私の愛情を利用して、そして用が終わるとぷいっと出て行くんだもの。私、尽くしても尽くしても報われることなく捨てられる女がどんなものだか、よく分かってしまったわ」

「人聞きの悪い・・・」


 レイスの体を浄化していくエレオノーラの力は、薄皮を剥いで真の力を引き出すかのように、レイスの感覚を研ぎ澄ませていく。

 人間として生きるレイスを妖精の方へ引っ張りこみすぎるのではないかと、エレオノーラはあまり浄化をしたくはなかった。けれど、イスマルクを守る為にも動こうとしていることを知ってしまえば、レイスを弱い人間のままで放置するのも躊躇われる。

 命は失われてからでは遅い。

 浄化された体の方が、水の妖精(ウンディーネ)の力を上手に使えるのだ。


「愛情を逆手に取られるって、こういうことを言うのかしら」


 そんなエレオノーラの気持ちを分かっているくせに、この困った坊やは、エレオノーラの所へやってきては今の状況を説明していくのだ。

 そうなったら浄化してあげないわけにはいかないというのに・・・!


「どちらかというと俺が一方的に人妻に入れあげて、通ってきては失意の退散ってところだろう?」


 一人で過ごしている人妻の所へ食べ物を持ってきては料理を作り、そして同じ寝室に消えることもなく食事だけして帰る自分の方が、傍から見たら気の毒な立場だろうと、レイスは事態の訂正を試みた。


「まあ。まるで物語のようね。だけど駄目よ。イスマルクは私のものなんだから」

「誰がだ」

「あら。私の持っているもののなかで、一番価値があるのはイスマルクなんだから。それは、どんなに口説かれてもあげないわよ」

「・・・ご馳走さんだな」


 それでも自分が知る水の妖精(ウンディーネ)の中では、まだエレオノーラが一番常識的だと思うレイスだった。






 まだ暗い大神殿の中を、イスマルクはこっそりと自分用に用意された厨房へと向かっていた。

 帰る自宅も無い、あったとしても帰宅なんてさせてもらえないイスマルクは、大神殿で作られた料理を食べている。

 夜明け前に焼きたてのパンと搾りたてのミルクが配達されてくるのだが、調理に取り掛かるのはもう少ししてからだ。

 思った通り、厨房に置かれているパンとミルクを見て、イスマルクは持っていたバスケットにそのパンを入れた。

 ミルクは配達用のミルク缶に入っているので、少し小さめなミルク缶に小分けする。


(後は、ハムとチーズを塊で入れておけばいいだろう。余ったら次の食事に回すだろうし)


 そんなことを思いながら、一番美味しそうなハムを選び、何種類かのハードチーズをダイナミックに切り分けて詰めていった。

 果物も忘れてはいけない。ちょうどここにあるのは、オレンジか。


「良かったら、この葡萄もいかがですかな。昨日、届いたばかりで、大粒で甘いのですよ」

「あ、有り難うございま、・・・す?」


 振り返ったイスマルクは、ここにいる筈のない顔に、動きを止める。


「年寄りになると朝が早くていけませんな。昨日はかなり遅かったはずですが、もう起きておいでとは、空腹に耐えかねたというところでしょうかな?」


 そう言いながら、ウルシークは持っていた小さな籠から、かなり立派な葡萄を取り出した。


「あ、はい。そうなんです。って、ウルシーク様はどうしてこちらに?」

「様は不要ですな」

「あ、はい。すみません。で、ウルシーク殿はどうしてこちらに?」

「葡萄を食べていただきたいと思いましてな」

「はあ」


 そんな食べ物をやり取りする仲だった例はないのだが、どんな風の吹き回しだろう。

 だけど大粒で立派な葡萄だったので、それはそれで有り難い。


「アルドは、何を考えておるのでしょうな」

「分かりません。ですが、大局的な視野に立っているのだろうと、それだけは思います」

「・・・よくお分かりのようだ」

「いえ、分かりはしないのですが、・・・信じているだけです」

「ほう」


 頷いたウルシークだが、本当に納得したかは分からなかった。


「昨日、神子姫様が可愛がっておられたという猫をエイドリクス殿が大神殿に連れて戻りましてな」

「えっと・・・」


 いきなりの方向転換に、イスマルクの目が丸くなる。

 何と言えばいいのだろう。

 イスマルクの背中を、何だか気持ちの悪いざわざわ感が流れていく。


「誰もが喜んで案内したのはいいのですがな、何故か女神様を表すご神体を指差してばかりだったというのですよ。それの意味が分からないと、ニコラス殿が困っておりましたか。ですが、いくら獣人だから言葉が通じると言われても、ニャーニャーとしか喋ってくださらないのでは」


 イスマルクは少し考えこんだ。


「女神様のご神体というか、あのマークは人間しか使わないからでしょう。マジュネル大陸だと祈りはしますが、祈りの言葉もありませんし、祈る形に決まりもありません。そしてゲヨネル大陸は常に世界そのものが女神様の恩恵だと感謝を捧げているので、あのような形状を必要としません。

 言われてみれば、女神様とは似ても似つかないあのマークを何故使っているのかと、そう尋ねられたことが・・・」

「ほう。それで何とお答えになったのですかな?」

「・・・女神様を表すご神体はあの形だとずっと決まっていたから分からないと。だから多分、ここなら教えてもらえると思ったのではないでしょうか」


 しーんと、その場に沈黙が満ちる。


「言われてみれば、昔からそう決まっておりましたな。似ても似つかないとは」


 やれやれと、そうごちるウルシークは、本当に葡萄を分けに来てくれただけなのか。


「あ、あの、ウルシーク殿?」

「いや、そろそろ帰りますかな。暗い中、ごそごそしておるのはネズミだけで十分でしてな」

「・・・・・・(そういうあんたは何なんだっ?)」


 何故、自分はネズミ扱いされているのだろう。

 戸口へと向かうウルシークだが、入れ替わるかのようにニコラスとフェリオが入ってくる。

 すまなさそうな顔のフェリオだけが、まだ自分の気持ちを分かってくれそうだと、イスマルクは思った。


「あ。これを差し上げますよ。なかなか美味しいベリーなんです。お好きかどうか知りませんが」

「あ、有り難うございます?」


 これは猫を持ち帰ってしまった詫びというつもりだろうか。

 小さな手のひらサイズの籠に入っているベリーは、つやつやと赤く光っていた。


「ご神体の形の意味が分からない、ね。神官にとっては当たり前のことも、そうではない方にはそうではないと。よく分かった。ふむ、そういうことか」

「あ、あの・・・」


 勝手にバスケットの中にベリーを入れて去っていく彼は何がしたかったのか。

 心はきちんと言葉にしてくれないと分からないのだと、出来ることならば説教したい。言っても無駄だから言わないが。


「ニコラス様。それだけじゃ誰だって気持ち悪いでしょう。説明ぐらいなさってあげなくては」


 一緒に連れてきた筈のフェリオが、ニコラスの背中に向けて注意するが、そこで振り返ってくれるようならフェリオの今までの苦労はなかっただろう。


「えっと、早朝からすみません。あの、お詫びにこれ、良かったらどうぞ。作りたてのバターなんです。パンに塗ると美味しいと思います。本当にすみません。大切な猫だったでしょうに」

「え? 有り難うございます。いいんでしょうか」

「勿論です。あ、こちらのマーマレードも美味しいと人気の品なんです」

「なんか、恐れ入ります」


 小さな瓶に詰められたバターと、木製のバターナイフ。そしてマーマレードの小瓶。


(毒入りじゃないだろうな。いや、いくら何でも、今の俺を殺せないか)


 フェリオは、それらをバスケットの中に入れると、愛想よく笑ってみせた。彼はいつだってニコラスの後始末係だ。


「それでは失礼します。どうぞあまり根を詰められませんように」


 軽く一礼して去っていく。

 第1等神官という地位にありながら、昨日は悲しい目に遭った自分へのご機嫌取りだったのかもしれないと、イスマルクは思った。


(頑張っている俺に差し入れってことなんだろうか。そりゃウルシーク様にとっては、レイスさんは孫だしな。ニコラス様も、神子姫様の愛猫を案内できた礼ってところか)


 それを食べるのは自分ではないのだが、やはり果物やバター等があって困ることはない。ここにもバターベル ※ はあるが、どうしても大きすぎた。


― ※ ― ※ ―

バターベル:バターの保存容器。

 まず、U型の容器にバターを詰める。そのU容器よりも大きめの容器に水を入れて、その大きめ容器にバター入りU容器をひっくり返して保存する。水があるのでバターが空気に触れず酸化しにくく、常温保存なので柔らかいバターを美味しく食べられる。水は二日か三日に一回は交換すること。

|  容器を伏せる  |

|  |バター |  |

|水_|____|水_|

 海外製品が数千円で売られているが、自分で湯飲みやぐい飲みやエッグスタンドにバターを詰めて、少し大きめな容器に水を入れてひっくり返す形で代用できる。しかし、日本は高温多湿なので毎日トーストする人とかクッキーを作ったりする人じゃないなら、あまりお勧めできない。

― ※ ― ※ ―


 どうしても小猫の栄養を考えてしまうイスマルクは、折角だからと茹で卵も作って、ピクルスも一緒に添えてあげた。


(良かった。きっとこれなら美味しい朝食になるだろう)


 廊下に出れば、誰の姿も無い。

 抜き足差し足で神子姫の為の部屋がある区画へと忍びこんだイスマルクは、小猫が使っているグリーンの部屋の衣裳部屋にそのバスケットを置いて、自室に戻った。



 そうして。

 朝食の時刻だからと小猫を起こしに行った神官は、衣装室に残された、

『お世話になりました。とても楽しかったし、美味しかったです』

のメッセージに、小猫の足跡というか手形というか、肉球マークがつけられたカードを発見した。

 がっかりした神官は多かったが、そのカードが誰の手に渡ったのか、イスマルクは知らない。



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