185 レイスは白柱に登り、小猫は叫んだ
ゲヨネル大陸にある樹木の妖精の家で、日当たりがよく、あまり風も強く吹いてこない場所を、カイトは区画化した。
そうしてドラゴンになったリリアンやルーシーと一緒に程よく耕してから、肥料を混ぜ込む。
ドラゴンの尻尾や脚はとても素晴らしかったが、地面を掘り起こしてもらった後は人の姿に戻ってもらい、どれくらいの数がこれから必要になるかを話し合ってもいた。
「うわぁーん、カイトぉ」
そこへ聞きなれた声が飛び込んでくる。
いきなり突撃してきた真琴に、カイトは背後からドシンッと抱きつかれた。
「な、何だ。どうした、マコト? ん? 何かあったのか?」
「ひどいんだよぉっ。イスマルクったらっ、イスマルクったらぁっ」
「イスマルクさんがどうした? 何だ、挿し木するのを断られたのか? それならまあ、俺も見よう見まねだができるだろう。そんなことで泣きべそかくな。な?」
そこへガーネットと共にやってきたイスマルクが、真琴が放り出していった藁束を拾い上げて文句を言う。
「ちょっと待て、マーコット。どんなひどい人間なんだ、俺は。全く、カイトさんの姿を見つけた途端、持ってた藁も放り出していくし、枯れた花を捨てただけで俺を一方的にひどい人扱いするし。一体なんなんだ。ちゃんとやりかけたら最後までやらないと駄目だろう」
「ごめんなさい、イスマルク。すみません、カイトさん。マーコットったら、イスマルクがウンディーネと恋人同士になってたものだから、ショックを受けてしまったんですわ」
一応、真琴も手伝うというので藁束を一つだけ持たせていたものの、ほとんどの藁を持っていたガーネットがおろおろとしながら説明した。
「ああ、それは良かったですね、イスマルクさん。ってお前、イスマルクさんとあのウンディーネがうまくいくといいなって思ってたんじゃなかったのか、マコト? なんでショックなんだ?」
「なら一緒に連れて来ればよかったんじゃないの? 置いてきて大丈夫なの、イスマルク? ウンディーネと恋人になったなら、普通はどこにでも一緒にいくものだと思っていたのだけれど」
あらまあとリリアンは微笑むだけだったが、ルーシーは少し不安げな様子でイスマルクに問いかける。
「まだ人の姿になったばかりだから無理はさせたくないんだ。それにあの家なら目の前にウンディーネ達もいるし、何かあっても大丈夫だし、寂しくないだろう? 俺も安心して留守にできる。どうしても出先でやることっていうのは女性には不向きな作業だから、連れてきたくはないな」
「ああ、そういうことなのね。誤解されてないならいいんだけど。やはりウンディーネの恋人には私達も気を遣ってしまうのよ、イスマルク」
「別に誤解なんてされようがないよ、ルーシー。俺の心の一部は彼女と共に在るし、彼女の心も俺と共に在る。普通の恋人の方がよほど不安になるものだと、こうなって初めて知ったぐらいだ」
たしかにイスマルクの様子には全く動じるところがなく、そんなものなのかと、その場にいたカイトやリリアン達もそう受け止めるしかないのだが、そうではないのが真琴だった。
「聞いた、カイトッ? 信じらんないっ。イスマルクってば、イスマルクってば、とっても仲良くなってるし、すっごい落ち着いてるんだよっ」
「何故それで、お前がそこまで何かを主張したがっているのかが全く俺には分からないんだがな? お前はさっきから何が言いたいんだ?」
よしよしと、その背中を軽くぽんぽんと撫でながらカイトもそれを尋ねる。
「だって、だってだって、イスマルク、今までずっと誰かに告白されても、うんって言えずにお断りばっかりしてきたんだよっ。そしたら恋愛だってできないのに決まってるのにっ。そんなイスマルクがウンディーネ好きだって気づいたら、ちゃんと告白もできないだろうし、私っ、お手伝いするつもりだったのにっ。なのにっ、なのに、なのにぃっ」
「いや、大の男が好きになった女がいたとして、お前に何を手伝ってもらうまでもないだろう。そもそもお前、何を手伝う気だったんだ?」
「告白の仕方とかっ」
さすがに、その場にいた誰もが沈黙するしかない主張だった。
「それは思いっきり余計なお世話だろう。そういうのは二人だけのことであって、他人が関係するもんじゃない。大体、告白もできないだろうしって、どこからそんな発想が出てきてたんだ」
「だってイスマルク、女の人とは緊張してまともに会話もできない人なんだよっ」
「お前なぁ。勝手に決めつけるな。大体、女性に不自由してきてないのぐらい、見れば分かるだろう」
「ええっ!?」
その言葉にガーンとショックを受けた真琴は、カイトの胸に埋めていた顔を、そろりとイスマルクの方へと向ける。
(そ、そんな・・・。汚れなき乙女な筈のイスマルクがっ!?)
ジェルンやドリエータでの暮らしの中、可愛い遥佳や真琴の前では品行方正、女性と連れ立って歩く姿すら見せたことのなかったイスマルクは、真琴に向かってにっこりと微笑んだ。
さっきまで一方的に詰られていた時の不満顔は、とっくに消滅している。
「その通りだな。神官が女性に対して浮ついた気持ちで話しかけることなどあり得ない。
マーコット、機嫌を直してくれ。今度、うちのエレオノーラに何か贈り物をしたい時は相談させてもらうよ。女性に不慣れな俺じゃそういうのは全く見当がつかないし、マーコットの意見はとても役立ちそうだ」
「何、その余裕っぷりぃーっ」
その上滑りするかのような神官の在り方を告げる言葉に、純粋で無垢な、それこそ女性と二人きりになったら真っ赤になってまともに話すこともできないと信じていたイスマルクが、実は全くそうではなかったのだと、真琴は知ってしまう。
品行方正でガチガチに真面目な教科書を体現していた元神官は、ちゃんと女性とのお付き合いをもこなしていたのだ。
そして、そんな浮ついた気持ちで女性に話しかけることがない神官は、この世界に存在しないのだ。
「裏切り者ぉっ」
泣きながら再びカイトに抱きついてしまった真琴に、イスマルクはやり方を間違えたかと、途方に暮れてしまった。
言うまでもなく、ほとんどの神官は全く女性に不自由していない。
「すみませんね、イスマルクさん。今日、寝不足でちょっと朝からぐずり続けてるんですよ。俺も何もしてないのに朝から浮気だの何だのと言われてたところです。ちゃんと目が覚めたらいつものマコトに戻りますから。・・・ほら、マコト。ちょっと猫になって寝てろ。な?」
「うわぁん」
それでも言われた通り小猫になった真琴は、カイトの腕の中でひっくひっくとぐずりながら寝てしまった。
「全くしょうがないな。まあ、大好きなお兄さんに恋人ができたショックみたいなのもあるんでしょう」
「はは。自分の方が先に恋人作っておいてですか。全くもう可愛いなぁ、マーコットは。もしかして俺のラブレターでもエレオノーラに届けてくれるつもりだったのかな。全く困ったもんだ」
全く困ってない笑顔で、イスマルクはカイトの腕の中にいる小さな鼻先を撫でてやり、その涙を拭う。
どんなに綺麗に育っても、やはりこういうところがお子様すぎて可愛らしい。
「そうかもしれないですね。きっとイスマルクさんの為に、愛の仲立ちってのをしてみたかったんでしょう」
「女の子だなぁ」
男同士、自分の恋愛に他の人を挟むなどといった感性がある筈もなく、カイトとイスマルクは苦笑いせずにはいられなかった。
「カイトさん、良かったらこの中に。柔らかい布も敷いておきましたから」
そこでリリアンがバスケットを差し出す。
「すみません。ついでにちょっと見ておいてもらえますか? こんな小さな猫、鷹とか鷲に狙われたら大変ですから」
「分かりましたわ。ふふ、泣きながら寝ちゃっただなんて、本当にイスマルクのこと、大好きでいらしたんですのね。きっと一緒に恋愛の相談にも乗ってみたかったんでしょうね」
「と言われてもなぁ。今更、やり直すわけにもいかないし・・・。弱ったな、帰ったらエレオノーラに相談してみるか」
イスマルクとて、後から言われてもどうしようもないことはあるのだ。
「起きたら機嫌も直ってますよ。そういうこともあるって、マコトも学ばないと。大体、二人がうまくいくといいなと悩みながら、それでうまくいったら文句言うって何なんだか。・・・今、ユーフロシュエは自分の枝を切りに行ってるんですよ。ただ、ユーフロシュエにはマコトの正体は伏せてあるんです」
「ああ、そうらしいですね。何でもスズメバチで攻撃されたとか? 俺もされたら困るな。まあ、みんながいてくれるから大丈夫か。マーコットも仲のいい友達ができて嬉しそうでしたね」
そう言いながら、イスマルクは背負ってきた荷物の中身をその耕された区画に混ぜていく。
「ああ、イスマルクさんも肥料を持ってきてくれたんですね。俺もいくらかは混ぜ込んでおいたんですが」
「肥料というか、肥えた土ですね。あまりにも肥料をやり過ぎても栄養過多になりすぎてしまうので、十分に肥やした土を持ってきたんです。どうせ挿し木なら最初は表面程度ですし。それに奥の手がありますからね」
「奥の手?」
「ええ」
イスマルクは、カイトに向かって小さく笑った。
「挿し木をしたその場所で、マーコットを遊ばせておけばいいんですよ。マーコットもハールカも、いるだけでその周囲の自然が成長していく。そのドライアドが戻ってきたら、この場所にささっと小さく切った枝を沢山植えて、後はその真ん中にマーコット入りのバスケットを置いておけば完璧です。テクニックなんて必要ない」
「・・・なるほど」
ある意味、ずるのような気がしなくもないが、どうせ寝不足の小猫は寝ているのだし、問題ないだろう。
カイトとイスマルクは軽くそれらの土と藁を混ぜて、そうしてユーフロシュエの帰りを待つことにした。
大神殿の敷地内にある屋外会議場。それは一番収容人数が多い施設だ。
けれども生きている間に二度目があるとは限らない白柱登攀とあって、その話を聞きつけた神官達が集まったばかりか、神官を育成する学校まで休校となって教師達まで押しかけるという事態を迎え、まさに観客席はすし詰め状態だった。
「全く、人が何の為に白柱登攀だなんてものをブチ壊したと・・・。だが、あの文字を知るとは懐かしいというものか」
それらを大神殿の屋根に座って見下ろしながら、ドレス姿でぼやく異質な見物人もいたが、それに気づく者はおらず、まさにどれぐらいで失格するだろうかと、そんな話題ばかりが渦巻いている。
そして舞台の中央にいる男の周囲に数人の神官がいたが、その内の一人、神官シャリールが、大きく持っていた鉦を叩き、声を張り上げて皆の注意を促した。
「では、これから白柱登攀を開始いたします。
これは、二つの試練から成ることをご説明いたします。
まず一つ目。表明者は、これから創世の理を始まりから終わりまで暗誦していくことになりますが、途中で分からなくなったり忘れたり、そして章を飛ばしたりするだけで一つ目の試練は失格となり、そのまま二つ目の試練へと移行いたしますが、この時点で合格はありません。
ですが、今回の表明者は、古語にて行うということで、監督官には神官ファロン殿が加わっておられます。ただし長丁場になった際、かなりの負担がかかるかと思いますので、古語及び創世の理の原著に自信のある方は監督官の席まで名乗り出てください」
実際、数時間では終わらないといわれる一つ目の試練である。第3神殿から神官ファロンを連れ出してはきたものの、できればもっと人にいてもらわないと厳しいと思うのは当然だっただろう。
すると、神官学校の教師をしている神官が立ち上がった。
「自信という程ではありませんが、まだ本を見てならばどうにか・・・。古語はカタコトですが」
「ではどうぞこちらへ」
第4等神官イルカンに、その監督官の席へと案内される。
「そして二つ目の試練。これは、一つ目の試練を終えた後に行われますが、その際、この場に居合わせた皆さんに、一つずつ火のついた薪を舞台に投げ入れてもらうこととなります。
その試練に打ち勝って生き残ってこそ、白柱登攀は成功したと看做されます。何か質問のある人はいますか?」
誰も手を挙げなかった為、神官シャリールは、レイスの方を振り返った。
「表明者アルド君。何か言いたいことはありますか?」
「特にありません」
「そうですか」
シャリールは、声を張り上げた。
「それでは開始する!」
カァンと、鉦の音が響き渡る。
レイスはゆっくりと深呼吸をした。
(大丈夫。これはお祖母様がいつも矛盾を指摘しながら話してくれた昔話だ。抜け落ちていた部分もきちんと補完した)
何を緊張することもない。
そうしてレイスは口を開いた。
白柱登攀などという身の程知らずな特攻をしかけた男に、好意的な感情など誰も持ってはいなかった。
だが、レイスの声は伸びやかに響いていく。
『Hgiauhc nnarc rom ga thcaet ra an iiiamacs el salos an enierg.
(天にまで聳える大木が、この世界に太陽の恵みをもたらさぬとあっては).
Tiht na nnarc,suga hciorhs na salos na hmalat.
(しかしてその大木の倒壊により、慈しみ深き光が地上を照らした)』
それは、古語など分からぬ神官達にとって、異国の詩歌を聞いているかのようなものだ。意味は分からずとも、ただ耳に心地よく届いてくる。
『Riauf na nairhg na nahmod hbrag.
(その曙光が、荒廃した大地を遍く包み込んだ)。
Nisna dats na hcaetsiahb a riahm adaf,nisna nael na rismia rahmnairhg.
(これにより、長き雨期が終わりを告げ、そうして長き乾期へと移行したのである)』
元々、レイスに好意的な感情など全くない神官ファロンですら、その発音を聞いて初めて自分が思っていたイントネーションとの違いに気づくなどといったことを繰り返せば、かなり惜しくなり始めていた。
優秀な後継者を欲しがらぬ者がいるだろうか。
(なんということだ。さすがはランディ殿が自慢していただけはある。見習いになる時には是非うちで確保するようにと、神殿長にも頼んでおいたものだが)
親に疎まれ、父方の祖父母に養育されていた少年だ。母方の祖父が出てこないなら簡単なことだろうと思っていたら、他にもっと有力な神官からの申し込みがあったのか、学校側からはいささか難しいようだと、そんな返事がきていた。
ファロンの睨みつけるような視線すら、今のレイスには全く届かないのだろう。
(何故、あのような青年が、そんな風にアレクシア殿に似ておるのか・・・!)
フードを目深にかぶった彼は、瞼を伏せがちにしながら、まるで舞台の主人公を務めている役者のようにリラックスした姿勢で、ゆったりと白亜の円形舞台の中央を歩きながら語り続けていた。
それこそがファロンに、誰に口説かれようとも受け流すだけだった永遠の美女を思い出させずにはいられない。彼女もまた人の目も、自分に向けられる感情も、全ては存在していないかのように一顧だにせぬ神経の持ち主だった。
(アレクシア殿。あなたが語る言葉を誰もが心待ちにせずにはいられない程、あなたはいつまでも美しかった)
朝から始まったそれは、もうとっくに昼を過ぎて夜を迎えようとしている。
いつ失格するかと眺めていた神官達も、途中で思い思いに休憩を取りにいっていたが、ファロンは軽食を持ってきてもらって、ずっとそれを聞き続けていた。
手元にあるそれらをめくりながら、未だに一つも間違いがない。そのことに驚かされ、だからこそ惜しくなる。
『Ebic dur ata nna,si ennia hcord a nnanael ahcalloinnioc ahcaesiuhcmort.
(どんな物事であろうとも、極端に傾くこと、そしてそれを実行すること、決してまかりならぬと)。
Mialhgohfd enioad e.
(それを代償に、人は学んだ)』
舞台の中央にいる彼は、章ごとにある程度の間を取りながら少しの休憩は入れるが、それでも深呼吸8回程度と決めているのか、全くペースによどみがない。あくまで神経集中の時間なのだろう。
さすがに疲労の汗も激しいのか、時折、レイスの周囲で太陽が照らし出す光を受けて、キラリとその雫が光っていた。
「ファロン殿。さすがにお疲れでしょう。こちらの方にお任せして、夜は休まれた方がいいのでは?」
小さな声で、イルカンが問いかけてくる。
「いや。恐らくその必要はあるまいよ、イルカン殿。・・・見事なものじゃ。恐らくこのままいけば夜更け前に終わるであろう」
舞台の外縁、つまり最前席の手前のあちこちに灯りが設置されていく。また、座席と座席の間にも灯りが置かれていった。
「通常、一昼夜はかかる筈ですが?」
「ゆえに古語なのであろう。現代語となれば訳する以上、その意味を分かりやすいよう話さねばならぬ。ゆえに長くなるが、古語を話すのであれば早く終わるわけじゃ。・・・あの者自身は気に食わぬが、この才だけは惜しまずにいられぬ。完璧と言ってよい」
そう言いながらもファロンは書物から目を離さず、レイスの声を聞き続けている。
「本当に。これはもう是非、学校で講義をしてもらいたいぐらいです。古語の美しい韻をここまで使いこなせるとは。きっと生徒達にとっても素晴らしい経験になるでしょう」
学校の教師をしている神官が、その横で頷いた。
そういった彼らの会話を、背後で聞き耳を立てている神官達もいる。
『どうやら今夜中に終わるらしい』
『今の所、全く失敗してないそうだ』
そういった囁きがあちこちへと広がっていった。
明日の昼までかかるとなれば一度帰宅してこようと思っていた神官達も多かったようだが、そうと知れば話も別だ。誰もが手早く食事をすませて戻ってきた。
『Dac e arg?
(ならば愛とは何か?)
Rraid es hmaen.
(それを世界が人に問いかけるであろう)』
朝から始まってもう夜だというのに、疲れを見せることもなく、レイスは淡々としたものである。
周囲の灯りが彼の白い試験用の衣装を、そして彼の周囲に飛び散る汗を照らしだし、まるで小さな灯りが彼の周りで飛び跳ねているかのようだ。
これだけの観客に囲まれて尚、ただ一人、舞台の中心で堂々と暗誦し続けるレイスの姿を見ながら、第5等神官ランドットは横にいた第6等神官ガントークに言わずにはいられなかった。
「どうやればあれだけ口を動かし続けても全く声に影響なく、そして昼食もとっていないのに全く疲れを見せることなく立ち続けていられるのでしょう。・・・本当になんて方だ」
「隠していた鷹の爪は二段構え、三段構えってことですかね。勘弁してくれって思い始めてますよ、本当に。このままいけば、・・・いや、だがこれだけの人数がやがて火を投げ入れるとなれば、生きていられる筈がない。せめてその時にはこの場から去るしか・・・」
既に、どの座席の足元にも一本ずつ薪が置かれている。やがて彼の暗誦が終われば、誰もがそれに火をつけて投げ入れるのだ。
『Si rutaerc etlliac e eniud.
(なれど、人は迷わずにいられない、哀れな生き物)』
ランドットとガントークは、自分達よりも苦悩しているであろう血族へと目を遣る。
食い入るように見ている第2等神官ウルシーク、第4等神官テオドール、第6等神官リシャールだが、年齢的なものもあるのか、ウルシークには疲れが色濃く出ていた。
「ウルシーク様。少しお部屋でお休みになって来た方がよろしゅうございます」
「いいや、テオドール。これを見届けぬわけにはいかぬ」
「最後まで私がおります。どうぞウルシーク様。・・・リシャール、お祖父様をお部屋に。これ以上は、お心に負担が掛かろう」
「はい」
だが、ウルシークはそこで立ち上がることなく、首を横に振る。
「いいのだ。見届けねばなるまい。行方知れずとなり、どこまで身を落としたかと思っていたアルドが、たとえこの先の結果が一つであろうと、あそこまでやっておるのだ。どうして見届けずにおれようか。全く、・・・何という胆力ぞ」
フードで隠れている上、あまりにも広いこの屋外会議場だ。レイスの顔は座席から覗きこみにくい。
けれどもゆっくりと歩きながら暗誦しているレイスの下半分の輪郭や、薄い色合いの髪の毛ぐらいは分かるもので、同じ学校に通っていた神官など、彼の正体に気づいた者もちらほら出ている様子だ。
『あれ、アルドじゃないか?』
『だよな。アルドって名前なんだろ?』
『すげえよ。いきなりいなくなってたけど、生きてたんだな』
そうして星の瞬く静かな夜を迎え、けれども焚かれた灯りゆえに会議場が熱気を維持している中、レイスは朗々と両手を天に広げ、その言葉を告げた。
『Ram nis ennir na aidnab na loas oes.
(我らが女神の作り上げたこの美しき世界を)』
それをもって、レイスの暗誦が終わる。
その時、真っ先にパンパンパンと、拍手を贈ったのは、監督官でもある神官ファロンだった。
大会議場で、レイスの暗誦が終わった時、雷のようなパチパチパチという拍手、そして、わあぁっと割れんばかりの歓声が沸き起こった。
それは、高位の神官はほとんど名門出身が占める神殿にあって、あえてそれに真っ向から立ち向かっているかのような姿が感動を呼んだこともあるだろう。
神官学校に通っていた時のレイスは、第7等神官ランディとアレクシアの子供と思われていた為、同窓生は第2等神官の孫などと誰も気づいていなかった。
「見事なものだ。・・・アルドか。亡くなったものとばかり思っていたが、あの才、惜しすぎる」
「全くですな。だが、決まりは決まり。できるならば助命し、我らの下につけたいものだが。やはり舞台慣れしている」
第1等神官ディオルグラードがその舞台度胸に感心すれば、同じく第1等神官のドリエスが同意する。
「たしか彼はウルシーク殿の孫息子だった筈。乱心して幽閉されていた筈が、どうやって抜け出てきたのやら。なるほど、だから彼の白柱登攀をウルシーク殿が反対したのか。大人しさでは定評のあった孫息子に振り回されまくりとは、彼もまた気の毒に」
全く同情していないような口調で、第1等神官ゲランが呟いた。
夜の闇が会議場の周囲を覆っているが、ほとんどの席は埋まったままだ。
「見事なものだった。感動したよ」
第4等神官イルカンがレイスの所へと行き、労っている。
熱狂している観客をよそに第2等神官ウルシークは険しい表情を崩さず、テオドールは悲痛な表情を、そしてリシャールは唇を噛みしめているのが分かった。
「ここで殺すのはあまりにも惜しい。どうせなら子飼いとしたいものだ」
そう言ってディオルグラードは立ち上がる。皆がざわめく中をゆっくりと舞台へと下りていった。
そしてレイスの所へと近づけば、軽く礼をとってくる。
「見事なものだ。白柱登攀を表明した者よ。このまま、ここで取り下げてはどうだ? 第3等などというのはさすがに諦めよ。その代わり、試験なしで神官として特別に認めてやろう」
その言葉に、見守っていた誰もがしぃーんと静まり返る。
レイスは表情を変えることもなくその言葉を聞いていたが、ゆっくりと首を横に振った。
「試験を受けて神官になる決まりを、破っては示しがつかなくなります。その話はどうぞ辞退させてくださいますよう。・・・そして、白柱登攀は誰もが表明する権利を持ちます、神官様。私は自らの運命を賭けて、表明したのでございます。どうぞこのままお続けください」
「・・・その死に、何の意味があると?」
「生きる意味を決めるのは他人ではございません。我が心を知る者が意味を知るならば、それこそが本望にございます」
「ならば好きにせよ」
わざわざ第1等神官自らが声をかけて慈悲を伝えようとしたのに、それを切り捨ててくる姿勢に、ディオルグラードは白けた思いにならずにはいられなかった。
ふんと鼻を鳴らし、自分の席へと戻る。
「アルド君。今の方はただの神官ではなく、第1等神官様だったのだが」
「どうせ死ぬのであれば、最後に言葉を交わした相手が何等だろうが意味などありません。それよりも早く進めていただけないでしょうか」
「・・・本当にいいのかね? このままここで取りやめると言い出したなら、それを認めてくれると思うのだが」
「不要です」
レイスはそう言い放った。
(思ったよりも使いすぎた。保持している水を、これ以上は減らせない)
早くしてもらわなくては困るのだ。
だからレイスが急かせば、イルカンも諦めた風情で他の部下達に手を挙げて用意をするように告げる。
「しかたない。ならばこれを」
「何でしょう?」
「毒薬だ。苦しみそうならばこれを飲みたまえ。生きながら焼け死ぬ苦しさを味わうことはない」
「・・・ありがとうございます」
イルカンが手渡してきた丸薬は、それこそが慈悲なのか。
彼が背を向けて座席へと歩きだした時点で、レイスはそれをさりげなく床に捨てた。
「表明者の心清らかなることを示す為、その炎を投げ入れよ!」
大きく、その声が会議場に響き渡る。
誰もが自分の炎で人が死ぬのは嫌なのであろう。
順番に座席から立ちあがり、階段状になった場所に設置されている炎を自分の薪に移して、舞台に投げ入れていくのだが、それはレイスにははるか届かぬ外縁にばかりに投げ入れられた。
それは初めの内だけだ。何十人も入れていけば、やはり外側よりは内側に投げ入れる者が増えていった。
前の席にいた第1等神官やウルシーク達は早めに投げ入れることとなったが、やはりほとんどレイスには当たらぬ外側に入れていたものの、その燃え上がる煙がレイスの姿を隠していく。
「人とは、自分の醜さが見えぬところでは大胆になるもの。最初は決して当たらぬ場所に投げ入れていても、本人の姿が煙で隠されてしまえば、どんどんと本人をめがけて投げつけるように入れていくものだ。今までの表明者は、それで衣服もろとも凄まじい火傷を受けて苦しみながら死んでいったという」
「どうして彼はこのような死に方を選んだんでしょう」
イルカンが苦々しげに言えば、その横にいたヴォルミットも瞼を伏せた。
「早く入れていけ」
「押すな、こっちに火が移る」
そんな言葉があちこちでざわざわと交わされていたが、それでも長い時間をかけて皆が舞台へと火のついた薪を投げ入れ終えた頃には、もう大量の煙をあげて燃える炎しか見えない。
その煙が苦しいからと、会議場の外へ出ていく者がほとんどだった。
「イルカン様。なぜ、ファミルイード様、ドリエス様、ウルシーク様は残っておられるのでしょう」
「さあな。だが、他の方々もさっさと出て行かれたし、どうせすぐに出ていかれるだろう」
ヴォルミットに気のない返事をしながらも、今、会議場に残っているのは、僅か数名の高位神官と監督官達、そして物見高い普通の神官達だ。
「ウルシーク殿はあの者の祖父にあたられる。見届けぬわけにはいくまいよ」
ぽそっとファロンが告げたものだから、イルカンは振り返った。
「はぁっ!? ウルシーク様のっ? なら、こんなことしなくても十分にっ」
「孫ではあるが、孫として扱われてはおらなんだからな。仕方あるまい。もしかしたらこれが命をかけてまでの抗議だったのやもしれん」
そんなファロンの顔も炎に照らされている。炎に囲まれてもう見えはしないレイスを見ようとするかのように、それでも彼はまっすぐに舞台の中央を睨みつけていた。
だが。
「うわあぁっ、炎がっ!!」
「誰か油でも撒いたのかっ!」
いきなり、ドオォンッという凄い音を立てて炎が柱のように会議場の一番高い位置よりも高く噴きあがる。
それこそ大神殿の敷地外からでも認められる程の火柱が、夜の闇の中に立ち上がった。
「なっ、何だっ、あの大きさはっ」
「何をやらかしたっ!!」
「大量の油でも入れたのかっ」
屋外会議場の外にいた神官達も慌てふためかずにはいられない。
「みっ、水をっ」
「無理ですっ。あれ程の炎を消化できる水などっ」
「それでもまだ残っておられる方々がいる筈だっ。せめて水をもって助けにっ」
わあぁっと凄まじい混乱が起きた。
一方、沐浴の時点で服に出来る限りの水を留めていたレイスは、自分の周囲に投げ入れられた薪と炎を見ながら、この水でどこまで生き延びられるかと考えていた。
(熱気は仕方ない。後は、自分にぶち当たる炎を消していくしかあるまい。なるべく水蒸気も集めてはいたが)
どうしても生粋の水の妖精ではない以上、できることに限度がある。
それでも全く勝算がないわけじゃない。水で自分の体を覆い、そうして生き延びることができるのならば・・・。
「無茶するもんだなぁ。何だ、生粋の人間じゃないっぽいな。何を求めてこんなことしているんだ?」
ふと気づけば、炎と煙に囲まれている中、目の前に人が浮かんでいた。
まるで炎の妖精と言わんばかりに、炎と煙を背にし、長い髪をたなびかせた美しい女だ。場違いにもドレス姿で。
「お前は・・・?」
「何だ。神子様ぁって感動して抱きついてくる場面じゃないわけか? こんな炎の中、目の前にいきなり現れてやっているのに」
「生憎と、お前は神子姫じゃない。だが、人ではないのも分かる」
不思議なことに、今、周囲からの熱気が全く感じられない。
「炎の妖精か?」
「いいや、違う。だが『神子姫じゃない』ねえ。・・・可愛いか、お前が知る神子姫は?」
「さあ。考えたこともない」
「だが、こんなことをしたのはその為なんだろう?」
「だとしても、理由なんてどうでもいい」
レイスは、その女をまっすぐ見つめた。
「俺がしようと決めてしただけのこと。その理由をあいつに押しつける気などない」
プッと、女は噴き出す。
「あははは、そりゃいいや。神官なんて、二言目には女神様の為、あなたの為だって言うのがお決まり文句だってのにな。いきなり神官を目指しときながら、それに逆行するか」
「・・・・・・」
「ただの勘違い男なら殺しておこうかと思ったが、それなら話は別だ。こんな阿呆な制度、完膚なきまでに叩きのめしておくつもりだったが、・・・その為ならいいさ。はははっ。それぐらい、くれてやろう」
それは哄笑と言うべきか。面白がっていると分かるそれは、まさに高みからレイスを見下ろしているかのようだ。
ひとしきり笑ってから、彼女は笑いすぎて目尻に浮かんだ涙を拭う。
「まあ、いい。お前の味方をしたがっているシルフとサラマンダーがいる。そろそろ退散しよう。じゃあな、表明者君」
「待てっ。素性ぐらい名乗ってけっ」
「最初の生き残った表明者さ。お前は私に続いて二番目の成功例となるだろう。じゃあな」
ひょいっと、高く跳躍してその女が夜の闇に溶けていく。
彼女がいなくなった途端、熱気がレイスを包んだ。あまりの熱量と空気の少なさに、レイスの体が圧迫される。
「ぐぅっ」
思ったよりも激しく肺を痛めつけてくる呼吸困難だったが、すぅっと、爽やかな風がレイスを包んだ。
「え? ・・・シルフ、か?」
きらきらと煌めく小さな妖精が、レイスの周りを飛び回っている。
『高い空気を呼びこんだのよ』
『半分ウンディーネの周りにグルグル風を作ったよ』
『これで苦しくない筈なの』
『シルフ、偉い』
『黒髪の姫様、きっとお喜びになるの』
『姫様も喜んでくれるね』
『サラマンダー、駄目ねえ』
『そういえばサラマンダー、何してるのかな』
風の妖精の言葉など分からないが、レイスは小さく微笑んだ。
「ユーリが寄越したのか? 馬鹿だな、放っておいていいのに。だが、助かった。これだけの熱量は、思ったよりもきつい。けっこう水も使ってしまったしな」
風の妖精達がやってきたことに、優理の意思は全く影響していなかったが、誰も気にしない。
「綺麗だ。やはり妖精の気配は違う」
感謝を込めてレイスが褒めたので、風の妖精達はとてもご機嫌になった。
『シルフ、やっぱり綺麗だって』
『当たり前だよね』
『半分ウンディーネもシルフ、一番綺麗って思ってる』
『シルフ、一番』
レイスの周囲を凄まじい勢いの旋風が取り囲み、炎の熱気と煙を遮断する透明な壁を築き上げていた。
保持していた水を使わずにすみそうな成り行きに、ほっとしていたレイスは、そこで足元にいる生き物に気づく。
「ヤモリか? だが、こんな夕焼け色のヤモリなど」
焼け死んだら可哀想だと思ったのだが、同時に食えるかどうかを考えていたのはレイスだからだ。生き延びる為に、食べられる物は何でも食べてきたし、毒があるかどうかの見極めはとても大切だ。
けれども目の前にいたヤモリらしき生き物は、どんどんと大きくなっていく。
(え? 何だ、段々・・・)
最初は小指サイズだったのが、手のひらサイズ、そうして肘の先サイズ、やがて腕サイズ、・・・そうして人の身長ぐらいに大きくなった。
「山椒魚? まさか、これが本物のサラマンダーか。凄まじい気配だ」
自分の周囲を取り囲む炎など格違いだと分かる。まさに夕日のような美しさ、そして苛烈な気配がそこにあった。
――― 当然なのだ。
その言葉に、フッと火の妖精は満足げに頷く。
そして一気に、レイスの周囲を取り囲んでいた炎が、今までのような煤や煙を生み出していたそれなどお遊びだったというかのように、ドドォーンッと大きな音を立てて天まで届く火柱を立ち上げた。
更に、監督官達がいる席とは違う側に移動していたリシャールは、舞台を炎が包み、ほとんどの人がいなくなった時点で、頭から水をかぶってから駆け寄ろうとした。
「いけませんっ、リシャール様っ」
「放せっ。今なら助けに行っても分からないっ」
「その前にあなたが死にますっ」
「放せっ。兄様がっ、・・・本当に死んでしまうっ」
それを察していた神官達がリシャールを押さえつける。
半狂乱でリシャールが暴れるものだから、ほとんど八人がかりで押さえつける羽目になった。
「放せっ。あの人をっ、二度も失えるかっ」
「あなたまで犬死にさせるわけにはいかないんですっ」
「うるさいっ」
そんな騒ぎすら、バチバチバチと大きな音を立てて弾ける薪と爆ぜる小さな火の珠の前には大した音ではないのか、煙はどんどんと大きくなり、炎もまた舞台を大きく包んでいた。
「兄様っ、・・・どうしてっ!」
どんなに手を伸ばしても届く筈もない。
それでもリシャールは手を伸ばそうとした。少しでも兄の近くにと。
「リシャール様を連れていけっ。ここから引き離すんだっ」
「はいっ」
「余計なことをするなっ!」
だが。
そんな騒ぎですら、突然の大爆発の前には動きを止める。
ドオオーンッと、大きな音を立てて、天まで届く大きな炎の柱が立ち上がったからだ。
そのあまりの美しさに、誰もが目の前のそれを見つめて、・・・言葉を失った。
とても凄まじい天まで届く炎の柱。それはもう煙すら流れてこない程、全てを焼き尽くす圧倒的な炎だった。
そうして轟音と共に大きく赤々と、全てを照らしだして燃えていた炎はいきなり鎮火する。
それはもう、あっけないと言っても良かっただろう。
それだけに、もう誰も生きている筈などなかった。
あまりにも大きな常軌を逸した炎の柱に包まれて、骨すら残ってはいまい。誰もが焼死体どころか、灰すら残っているか怪しいと思っていた。
それなのに、白い屋外会議場を煤で真っ黒に染め直した焼け跡に、一人の男が煤に汚れることもなく立っている。
それを認めたイルカンは、一種の恐怖さえ覚えた。
(なんてことだ・・・!)
しかも、あまりにも大きな火柱だったことが原因だろう。
火が落ち着いた時点で、第1等神官も全員が戻ってきていた。
「これこそが、女神シアラスティネル様のお慈悲か」
そして生き残っているレイスを確認した神官のほとんどが、膝をついて祈りを捧げている。
「水を舞台に流せっ。まずは冷やすんだ」
「はいっ」
試験監督官の神官シャリールの命令を受けて、神官達が水を舞台へと流し始めた。
じゅわじゅわっ。もわもわっと熱のこもった水蒸気が立ち込めては風に吹かれて熱気を冷ましていく。
「あの、・・・こうなりますと、白柱登攀は成功ということになりますが、・・・よろしゅうございますか?」
おそるおそる、イルカンは第1等神官達の所へと行き、それを確認する。
「仕方あるまい。なんということだ。・・・まさか、こんな奇跡が」
第1等神官ゲランが、それに了承を伝えた。
やがて舞台に流されていく水が特に熱も持たなくなった様子を見計らい、イルカンは煤で真っ黒になった舞台に熱が残っていないかを確認しながら、レイスへと近寄っていく。
「大丈夫かね、アルド君?」
「ありがとうございます、神官様。おかげさまで何ともありません」
「それこそが奇跡だ。何故、このようなことができたのかね?」
「さあ。女神シアラスティネル様のご慈悲かと」
ふわりと、かぶっていたフードを外して、レイスが祈りを捧げれば、それはまるで聖人による祈りにすら見えた。
(こういう時、やはり祈っておかないとまずそうだ。ま、全て煤で汚れてくれて助かった。あの床一面の文字が解読されてしまえば、実は創世の理の順番と粗方を全て床に書いておいたとばれてしまう)
そんな理由で祈るレイスは、基本的に女神を敬愛しているが、祈りそのものには価値を見出していない男である。
証拠隠滅に協力してくれた火の妖精には、いつかとても素晴らしい蝋燭を進呈しよう。
その長い祈りが終わるのを待ち、イルカンは大きな声で告げた。
「これにて白柱登攀の成功を告げ、第3等神官アルドが生まれたことをここに認める!! この場は解散せよ。明朝、大神殿内にて発表されるであろう!」
そうしてレイスに向かい、興奮冷めやらぬ様子でイルカンは説明する。
立場上、クールに振る舞いはしたものの、奇跡を見てしまったのだ。どうしても沸き立つ心があった。
「今日は大神殿内に部屋を用意しよう。ゆっくり休みたまえ。明日、皆の前で新しいメダルが君に与えられる筈だ」
「ありがとうございます。ですが帰宅するので大丈夫です」
「いや、疲れてると思うんだが、・・・帰宅するのかね?」
「大神殿内だと、客が多くてかえって休ませてもらえない気がするのです」
「それはそうかもしれんが、それを言ったらおしまいだろう」
なんだか感動の薄い表明者である。
「本日はお世話になりました。色々と思いやりをかけてくださいましたこと、感謝申し上げます」
「いやいや、まさか成功するとは思わなかった。悪いことをしたね」
そこへファロンが、よろよろとした足取りで近づいてきた。
まるでレイスを刺殺したいと言わんばかりの、それでいて何かを堪えているかのような、憎しみとも悲しみともつかぬ形相である。
彼の口から出たのは弱々しい言葉だった。
『Ra hbrahm ut i?
(何故、彼女を殺した?)』
レイスは少し躊躇ったが、ファロンの瞳を見つめ、そうして溜め息をつく。
無視しても良かったが、きっとそれでは何もケリをつけられないだろうと思った。
『Hmiu.
(殺してない)
Ihb is ani yriaf ecsiu.
(彼女は、ウンディーネだった)』
その言葉に、ファロンの瞳が大きく見開かれる。
「まさか・・・。いや、それなら・・・」
ファロンは黒く煤のついた床にもかかわらず、脱力して膝をついた。そうしてぺたりと、腰を下ろしてしまう。
汚れることすら、今の彼には気にならないようだった。
「おお。ランディ殿・・・」
ぽつりと、黒い雫がその床にできあがる。
彼にその真実を明かしたのは、祖母に対するその恋情を哀れに思ってしまったからか。彼は水の妖精の愛がどうであるかを知っている様子だった。
(お祖父様の知人だったか。いや、もしかしたらそれでお祖母様とも知り合ったのかもな)
そう思いながらレイスはファロンから視線を外し、その場から立ち去った。
(誰にでも、叶わなかった恋の思い出はある。ましてや知人の妻だったなら告げることすらできなかったかもしれん)
そうして灰すら残っていない真っ黒で煤だらけの舞台をゆっくりと歩き、舞台から座席に続く階段を上がっていけば、そこには何人もの神官達に取り押さえられているリシャールがいる。
「馬鹿だな。助けに来る気だったのか? 犬死にに意味などない、リシャール。そして勝負とは、勝てる時だけやるものだ」
「・・・・・・」
その言葉を受けて、ウルシークやテオドールがとても嫌そうな顔になった。
――― 普通は当たり前に死ぬものだがな。
――― アルド。お前って子は・・・。
その周囲にいた神官達など、本気でげんなりとしている。
できればもっと感動できる言葉を告げてほしかった。
だが、リシャールだけはそうじゃなかったらしい。
「アルド兄様・・・」
「いつまでもそんなところで男にくっつかれてるんじゃない。さっさと立ち上がって帰宅して寝ろ、リシャール。俺は帰る」
「あ。じゃあ、私も帰りますっ」
そのまま立ち去ろうとするレイスに、何かをやり遂げたという高揚感は全く見えなかった。
ウルシークの側近神官達は、もう理解不能だと思考をストップさせている。
「ならば、大神殿で休むがいい。私の区画なら部屋も余っている」
「断る。俺は大神殿にもあんたにも組み込まれる気などない」
祖父の言葉に、レイスはいつも通り容赦がなかった。
「待ってくださいっ、アルド兄様っ」
さくさくと立ち去っていくレイスだが、この奇跡を見てしまった以上、その通路にいた神官達も道を開けずにはいられない。
レイスを見るその目には、畏怖があった。
そんな所を好きで通るわけではないが、この会議場は、一番高い座席の所まで行かないと、外へと下りる階段がないのだ。
「なんともな。・・・さて、今夜は騒がしくなりそうだ。テオドールよ、しばらくは帰宅できまい。慌ただしいのはこれからであろう」
「はあ。ですが、自分は何も分かっていないのですが・・・」
睨むかのようにして見つめてくる第1等神官達の瞳を、ウルシークは感じていた。
いや、第2等、第3等であっても、レイスがウルシークの孫息子だという話はもう伝わっているのだろう。話しかけてくるタイミングを計っている様子だ。
それなのに、まさかウルシークを置き去りにしてレイスが一人でさっさといなくなるとは思わなかったらしい。
(さて、どうするべきか。アルドよ、お前は・・・)
彼が殺したとされる祖母が水の妖精であったことなど、今更、証拠はない。口に出しても、嘘だと決めつけられたなら反論もできない状態だ。
だが、この白柱登攀をし遂げた今、水の妖精の血を持っていたから生き残れたのだと、そう言い張ることも可能になった。
(いや、実際、そうかもしれぬ)
思えばアレクシアがただ一人手元で育てた孫息子。それはそういうことではなかったのか。
ウルシークは、黒焦げになった屋外会議場の舞台に目を遣った。
レイスがいたと思しきあたりだけ、白いままのその舞台を。
信じて疑わなかったものがそうではなかったと知った時、人は虚無を知るのかもしれない。
「そうして私は、新たなステージへと旅立つのであります」
ゲヨネル大陸の聖地で、今、小猫は賢者となってそう悟りを開いていた。
ソファの上で一匹、胡坐を組んで瞑想する小猫には、独特な気配が漂う。
そんな小猫の縞模様の背中を、同じ部屋にあるテーブルを挟み、ゴブリンの花見酒を一緒に飲んでいたシムルグとカイトは横目で見ながらひそひそと囁いた。
「悟りを開くというよりも、これってアレだろ。・・・キスも知らない純情な妹だと思っていたら平気で男と朝帰り出来る子だと知ってしまった兄貴の放心と落ちこみってのが、近い感じか」
「だけど兄妹のように暮らしていたんですよね? なんでイスマルクさんが女性と話すこともできないなんて思いこんでいたんだか。しかも暮らしている目の前にいるのはウンディーネという女性集団ですよ?」
「鼻の下を伸ばすような話し方してなかったから、マーコットもスルーしてたんじゃないか?」
「なるほど」
自分の感情に従って好きに生きている真琴だが、それでもイスマルクは遥佳と共に汚れなき無垢なイメージで統一されていたのか、今日はずっと小猫の姿で変な方向へ突っ走っている。
自分の木から枝を切ってきたユーフロシュエが戻ってきても、小猫は目を覚ますこともなく落ち込んで眠りについていた。
『えっ? マーコット、眠いからって帰っちゃったのか? まあ、寝不足だったもんな。なら、うちで泊まっていけばよかったのに。カイト、お前もあんな状態で帰らすなよ』
『えーっと、まあ、ユーフロシュエ。マコトの代わりにこのバスケット入りの眠り猫がいるから、これで我慢してくれ。可愛いだろう。同じマーコットって名前なんだ。な?』
『ん? これもまた汚い気配の猫だな。まあ、姿だけは可愛いが。で、何をこの猫はぐしゅぐしゅ泣きながら寝てるんだ?』
『えーっと、・・・きっと猫は猫なりに落ちこむことでもあったんだろう』
しかし、その小猫を落ち込ませた張本人は、ユーフロシュエと仲良く顔合わせが出来ていた。
『初めまして、ドライアド。イスマルクだ。マーコットと仲良くしてくれてありがとう』
『ユーフロシュエだ。マーコットはユーシェって呼んでる。どっちでもいい。・・・同じ人間なのに、こっちは普通の気配だな。どこか清浄さすらある』
『ははは。ありがとう。だが、それは俺の努力じゃないな。暮らしている前の湖にはウンディーネ達がいて、彼女達がどうやら俺に祝福をしてくれていたらしいんだ。そのせいだと思う』
『へえ。ウンディーネに祝福されたか。道理で』
『その内、行動範囲が広くなったらうちにも来てくれ。俺の恋人はウンディーネだったんだ。とても素敵な女性だ。是非紹介したい』
『そりゃおめでとう。喜んで行かせてもらう。今度、その恋人も連れて遊びに来てくれ』
『ああ。人になったばかりで、連れ歩くにはまだまだなんだ。その内、馬に乗ることを覚えたら連れてくるよ』
そうして手早く枝を幾つもの棒にしてしまったイスマルクとカイトは、既に植えるだけにしてあった穴に次々と入れていき、挿し木を完成させてしまった。
『ま。せっかくだからここでお茶でも淹れるよ。やはり風の強さとかも見ておきたいし』
そんな理由をつけて小猫入りのバスケットを挿し木スペースの中に置き、皆で休憩して時間を潰していたのである。
さりげなくバスケットの中には小猫が目覚めても食べられるお菓子や、お茶の入ったカップを入れておいたからだろう。
時折、目を覚ました小猫はそれらを食べてまた不貞寝していたらしい。
けれども小猫がいたおかげで、半日しか経っていないのに僅かながらも根が生えてくるという素晴らしい成果だった。
『凄いんだな、イスマルク。マーコットが自慢していたわけだ。こんなにも早く根が出るだなんて』
『いや、そんな。リリアン達がうまい具合に耕しておいてくれたからさ。カイトさんが、明日もマーコット連れて来るって話だし、きっとすぐに育つよ』
そこで、リリアンが口を挟む。
『ねえ、イスマルク。私達、今日、そちらにお邪魔していいかしら。ウンディーネが人間になったなら色々と入り用な物ってあるでしょう? あなたも詳しいとは思うんだけど・・・』
『そりゃ助かる。エレオノーラも俺相手じゃ言えないこともあると思うし。是非、頼むよ』
そうして、リリアン、ルーシー、ガーネットはイスマルクと一緒に帰っていったのだが、去り際にこっそりとルーシーが、
「ふふ。今日はカイトさんに思いっきり甘えてご機嫌を直してくださいね」
と、バスケットの中の小猫にキスしていったのをカイトは知っている。
だが、樹木の妖精の家から帰宅して夕食の時間になっても、小猫は小猫のままでしょんぼりとご飯を食べていた。
人間の姿に戻ると椅子に座らなくてはならないが、小猫だと青い大鳥やカイトが膝の上に乗せて撫でてくれるので、そうして心の平安をとっていたらしい。
食後のデザートを食べる頃にはご機嫌になるかと思いきや、それでもソファの上で変な悟りを開き始めた。
「まあ、男の立場で言わせてもらうなら、だ。がっつかない時点でそれなりに女慣れしてるだろうがよ。あんだけいいお兄さんでいられた時点で不自由してないって分かりそうなもんだがな」
ベーコンをじっくり炒めて出てきた脂でじゃが芋の角切りを炒めて塩コショウしただけのつまみは本当にシンプルだが、シムルグは気に入ったらしい。
ピックフォークで突き刺しながら、ちびりちびりと飲んでいる。
「どうでしょうね。そういう対象として見てなかっただけじゃないですか。本気で可愛がってるじゃないですか、マコト達のこと。マコト達だって実のお兄さんのように懐いてたようだし、・・・だから俺もマコト達の正体に気づかなかったんですよね。兄がいる時点で」
「ああ、そっか。まあ、そりゃそうだな。たしかに血縁関係全くないってのに一つの家で暮らしてて健全モードって、普通はあり得んか。普通は何らかの恋愛ニアミスシーンが多発するよなぁ」
「ですよね。その鈍さに俺は感動モノですよ。普通は誰だって意識すると思うんですがね」
「イスマルクもなぁ。きっと他の能力が鋭い分、そっちの感性はドンにぶなんだろ」
「ですかねぇ」
他人事なので、まさにそんな感じでイスマルクのことすら酒の肴にしている男達だったが、そうなるとムゥッと不機嫌になるのは小猫だ。
「どうせ、どうせ私も鈍いもんっ。イスマルクより鈍いんだよ、どうせっ」
「あー、ほらほら。そう拗ねるな、マーコット。な? 悟りを開く前にこっち来て一緒に食べろよ。そしたら花見酒も少し飲ませてやるから。これはなぁ、ちょっと甘い香りがしたかと思うと、キンッと鼻の奥にその酒精がきて、なかなかいいんだぞぉ」
「ちょっと待ってください、シムルグ様。あまりマコトに酒を飲ませるのは・・・」
「大丈夫だって、一口だけだし。それに、酒飲んで忘れてしまえばいいんだって。なー、マーコット」
「にゃー」
さすがに一人で拗ねているのも飽きてきた小猫だ。
シムルグにちょこっと花見酒を分けてもらえば、なんだかぽわぽわと愉快な気持ちにもなる。
「イスマルクのばかぁーっ」
「一人だけいい思いしてぇーっ」
「私が教える筈だったのにぃーっ」
その夜、ゲヨネル大陸の聖地には月に向かって吼える小猫がいた。
「お前が何を教えられるというんだ?」
「愚かな奴よなぁ、マーコット」
酒は心の憂いを払うという。
そんな小猫の憂いは、肝心のラブモードなイスマルクに全く届いていなかった。




