173 優理はアボルト邸へ行った
青い大鳥の守る聖地で、シムルグやカイトや真琴と共にバーベキューを楽しんできたイスマルクは、とても綺麗な星空が見える場所で夜景を楽しんでから帰宅した。
お散歩代わりにカイトと真琴が送ってきてくれたのだ。
「今日はありがとうございました、カイトさん。それにお肉や野菜も分けてもらっちゃって」
「いえ、こちらこそ。ガーネット殿の差し入れですから本当にお気遣いなく。・・・ほら、マコト。ちゃんと起きて『おやすみなさい』を言わないと」
「むー。・・・んー」
「ああ、いいですから寝かせておいてあげてください。本当に可愛いな。こんな猫の姿にもなれるんですよね。だけどこんな小さな猫じゃ梟とかに襲われてしまうかもしれないし、大事に連れて帰ってあげてください」
カイトの左手の上ですぴすぴと寝ている小猫は、淡い黒の縞模様を持つ茶トラ猫だ。イスマルクは手を伸ばして小猫の頭を指でそっと撫でた。
自分の鼻筋を優しく撫でられたものだから、小猫は幸せそうににゃごにゃご鳴きながら小さな前足をイスマルクの手に絡ませようとするが、短すぎてそれができない。
「はあ。いつもはウンディーネとサラマンダーとシルフがいるから放っておいても安心なんですが、どうもルーシー殿に貸し出してしまったようなんです。全く、何故か居眠りする時は小猫になるんですよね。踏まれたらどうする気なんだか」
ぼやきながらも、「それでは。良い夜を」と、カイトは小猫を連れて帰っていく。
「おやすみなさい。良い夜を」
それを見送ったイスマルクは、少しよろけながら玄関の扉を閉めた。
(さすがに酒がまわってきたな。獣人ってのは本当に酒に強い)
真琴の恋人であるカイトの前では気を張っていたが、いなくなったらだれてしまう。
だが、カイトの目を盗んでこっそりお酒を飲もうとしては飲ませてもらえなかった真琴を思い出すと、くくっと笑わずにはいられなかった。
綺麗な女性になっても、真琴の本質は甘えん坊ないたずらっ子のままだ。
(そういえば、今日、彼女はどうしたんだろう)
ここに戻ってきた時、カイトや真琴と一緒だったものだから湖の水の妖精達も楽し気に声を掛けてきた。
「お帰りなさい、イスマルク」
「うふふ、楽しかった? イスマルク」
「あら、可愛いわ。姫様、今夜は猫でいらっしゃるの?」
「お魚なら一緒に泳げるのにね」
「ふふ、カイトさんも一緒にいかが? 夜の湖で泳ぐのも楽しいと思いますのよ」
カイトはなぜか、水の妖精達に腰が引けていたが。
「俺のことは気にせず・・・。いや、本当に」
イスマルクとしては、真琴の恋人なのだから、花の下を伸ばされるよりはいい。
(ウンディーネは美人ばかりだから気後れしてるのか? やはり真面目なんだな)
真琴の恋人としては女性慣れしていない方が望ましいとばかりに、小さな笑みを浮かべてしまったが、まさか女性慣れ云々ではなく、第1回三大陸代表者会議が影響しているとは見抜けなかった。
けれどもその中に、いつもの水の妖精はいなかった。
(カイトさんも虎だから水が苦手なのかもな。そして彼女も川の方へ行ってるんだろう)
この湖は様々な河川と繋がっている為、水の妖精達の行動範囲はかなり広い。
面倒なので湯を沸かすこともなく、浴室で水浴びだけして、イスマルクは寝間着を着た。
そうして欠伸を連発しながら自室へ戻れば、ぱたっと寝台に倒れこんでしまう。
(ああ、そうだ。あの花も、明日の朝には水が腐らないようにしてやらないと)
目の端に映る蕾は、まだ開いていない。だけどもうすぐ咲きそうだ。
水を替えるのは駄目だと言われたが、何もしないままでは水が腐ってしまうだろう。
(だけどカイトさん、花粉が苦手ならあの庭、駄目じゃないのか?)
この花を嫌いなのだと真琴は落ちこんでいたが、あの聖地にある花壇なんて不気味な花が咲きまくりだ。あれはいいのに、どうしてこれは駄目なのか。
(この花の花粉だけが強烈なのか? 獣人はよく分からん)
そう思いながらイスマルクの意識はゆっくりと夢の国へと下りていった。
ギバティ王国にある大神殿。神官の中の神官が集うと言われるその場所には魑魅魍魎が棲んでいる。
伏魔殿とは、大神殿の為にある言葉だ。
「世も末ね。愛を司る女神を崇める神官がそこまで堕落しているだなんて、あまりにも嘆かわしいことだわ。結局、品行方正に生きているのは私だけなのよ」
団欒用の部屋で香り高い紅茶を出された優理は、ゆっくりとそれを口元に運びながらそう憂いてみせた。
その左の中指には橙色の山椒魚を模った指輪が嵌められている。人の目を惹きつける色合いといい、見事な細工といい、その紅玉髄の指輪は、誰もがまず目を奪われる逸品だった。
この団欒室には、ウルシークとテオドールとキャサリン、リシャールとエリーネといった家族だけではなく、ウルシーク付きの神官も集まってきている。
しかしキャサリンとエリーネは、優理の縁談があるというので、その嫁入り支度や相手側の家族との顔合わせのこともあって呼ばれただけだった。
まさかそれがあの場限りの婚約だと、分かる筈もない。
「品行方正に生きている令嬢が、牢に放りこまれるものでもないでしょう。強気なのは結構でございますが、リシャール様に泣きついた事実を直視なさってください、ユーリお嬢様」
「じゃあ、あなたはドリエータでお気の毒にも地下牢に押しこまれた神子姫様が品行方正ではなかったと言うのね?」
「そ、それは、不幸な行き違いが・・・」
「あと、泣きついたんじゃないわ。単に牢を出る手段に、ちょうどいいから呼んだだけよ。思えば先日の迷惑料も受け取ってなかったし。それぐらいでガタガタ言わないでちょうだい。嫌なら来なければ良かったんだから。来なかったところで、私には他にも出る手段はあったのよ?」
「・・・あのですね、ユーリお嬢様」
ランドットの苦言を、優理はそうやって黙らせる。
神官として、無実の身でありながら地下牢に入れられてしまった神子姫を非難などできない。更にリシャールだけではなく、エミリール達まで駆けつけていたことを知るランドットは、口を閉ざすしかなかった。
「まあ、いい。何にせよ、我が家の娘が男共と牢に放りこまれるなどといった醜聞などあってはならぬ。だが、どうして銀髪だった筈が黒髪になっておるのだ?」
「あら、曾お祖父様ったらご存じないの? 気分次第で女の子は服の好みも髪飾りも、そして口紅や髪の色も変えるものなのよ?」
「・・・・・・」
平然と優理はとぼけてみせる。
さすがは第2等神官の邸宅だ。出てくる紅茶もかなり質が良かった。
(たまにはいいわね、こういうのも。このカップも毎日使うには繊細すぎて遠慮したいけど、おもてなしで出てくるのなら悪くないわ)
そうして舅までもが黙らされてしまうと、さすがに何か言わなくてはならないと思ったのだろう、第4等神官テオドールが口を開いた。
何故なら周囲から吹きつけてくる、「この生意気な娘を祖父としてどうにかしろ」という無言の圧力が強すぎたからだ。テオドールにしてみれば、レイスの娘ではないということは赤の他人なわけで、どう対応すればいいのか、彼も彼で色々と悩ましい。
「えーっと、まあ、ユーリさんが無事で良かったよ。アルドは先に出国したとリシャールから聞いたが、あいつもユーリさんだけ置いていったとは何を考えているのか。それとも、さすがに本当のことなのか、事態が大きすぎて信じられないんだが、・・・なんでもキマリー国の伯爵家の方との縁談が持ち上がっているそうだし、だから置いていかれたのかい? そういうことならば・・・」
「あ、大丈夫よ、気にしないで。その縁談ならすぐに解消されるから」
「は?」
テオドールは面食らって優理をまじまじと見直した。
「いや、・・・その、本当にその縁談が持ち上がっているのなら、ウルシーク様も君を曾孫としてそれなりのお支度を調えてくださるおつもりのようだ。それを一体、すぐに解消されるとは・・・?」
「だってあれ、牢を出る為の方便だもの。あ、勿論、今、エミリール達が私の代わりに交渉してくれてる筈だから、それが終わるまで私はエミリールの婚約者よ? だけどそれが終わったらおしまい。その後はお友達に戻って楽しく過ごすの」
「・・・そ、そうか」
テオドールもまた黙り込む。
優理はレイスの子供ではない。だが、キマリー国王太子妃の実弟との縁談があるなら、養子縁組してでも、もしくはレイスの子供、つまりウルシークの曾孫として嫁がせても十分にこの家にとってメリットがある。
だからレイスの隠し子ではないことなど大した問題でもあるまいと信じたくて口を噤んでいれば、縁談は嘘ときたものだ。
テオドールはしばし考えた。一体、何がどうしてこんなことになっているのか。
黙っていても話は進まないのだ。ここで会話になるのは実の祖父ということになっている自分しかいない。
「なるほど。じゃあ、ここに来たのは・・・」
「連れてこられたのよ。私、牢の外に出たらそれだけで良かったのに。・・・まあ、お茶も飲んだことだし、そろそろ私、帰るわね」
「そうなのかい? だが、一人暮らしは色々と心細いだろう」
長く行方知れずだった長男が特別扱いする娘となれば、テオドールも自分の邸に滞在させた方がいいのではないかと考えた。
「そんなことないわよ。レイ、・・・アルドとも一緒にいるもの。あの牢の中では出国したって言ったけど、それは単にアルドの実家がここだと知られてゆすられても厄介だろうと思ったからそういうことにしただけで、アルドはまだティネルにいるわ。だから、心配しないで」
さすがに聞いていたリシャールが、あんぐりと口を開けてしまう。
「ちょっと待て。ならば、私を謀ったというのか?」
「謀ったんじゃないわ。守ってあげたのよ。いーい? 私と一緒に牢にいた人達はね、強請集りなんて普通にできる人達なのよ? アルドの実家がここだと知ったなら、それこそ口止め料とか色々と言い出して強請にくるだけじゃない。今までアルドが清廉潔白に生きてきただなんて本気で思ってるわけじゃないでしょう? 言っておくけどね、14才の少年が、親の庇護もなく、体も売らず、それでも十分なお金を稼いでいこうと思ったら、それなりのこともしないと生きていけないわよ」
「・・・っ!」
「そういう状況に追いやったのはこの家の人達でしょう? 本来はエリート神官で何不自由なく生きていく筈だったアルドを、アレクシアさん殺害の冤罪をかけて追い詰めたんだから」
リシャールが唇を歪めて下を向いたものだから、言いすぎただろうかと、優理は思った。
「まあ、当時はあなたも子供だったんだから考えなしだったのは仕方ないわ。普通は大人が子供の戯言なんて叱りつけて終わりなのに、馬鹿な神官が絡みすぎていたのも悪かったのよ。アルドも無駄に優秀だったから、それでも生きていけちゃったし。ただ、アルドだって犯罪行為に手を染めなきゃあれだけのお金は稼げないわ」
「・・・・・・」
優理の言葉を慰めだと受け止められる人間は少数だろう。ウルシーク以下、その場にいた神官達までもが唇を歪める。
それでもリシャールは顔を上げて優理を見つめた。何故なら、兄のことは出来る限り知りたかったからだ。
「過去は変えられないわ。だけど未来は変えられる。今のアルドはあなたを恨んでないわよ。自分がやってる犯罪行為だって、必要悪と受け止めている。何より彼は、・・・分かってるわ」
「・・・アルド兄様が何を分かってると?」
「神官になるばかりが、世界を救うわけじゃないってことを。そうね、様々な神官がいるわ。心から女神を信仰している人も、変に盲信している人も、ただ出世の手段と考えている人も。だけどアルドは神官じゃないけど、その心は最初の神官そのものよ。この堕落した世界を憎み、欲望のままに搾取する権力を憎み、他力本願なまま努力しない人を憎み、恩を忘れて自分の利益に走る身勝手さを憎み、全てを憎みながら、希望を胸に抱いて生きている。・・・当時も、彼らが心に抱いていたものはそれぞれ違ったわ。だけど誰もが違う理想を抱いて、彼らは女神の下に集ったの。自分達の手で世界を変える為に」
リシャールは首を傾げた。
「最初の神官?」
「そう。大神殿にある女神様に関した物ばかりを収めた書庫に入りこんで、古い言葉で書かれているそれを読んでみるといいわ。ただ、第5等以上のメダルがないと入れないから、テオドールおじい様のメダルを借りて入りこめばいいんじゃないかしら。最初の神官の成り立ちについて書かれている物がある筈よ」
そこで、ウルシークに付き従っている第7等神官のキアランが口を挟む。
「待ってください、ユーリ様。大神殿に女性が入りこめる筈もなく、ましてや古語となると読める人もかなり限られます。なぜそれを知っておられる? あなたは誰と繋がっているのです?」
「誰とも繋がってないわ。メダルなんて誰かの物をこっそり抜き取って、それから男の子の格好をして大神殿に入りこめば書物だって読み放題よ。あんな難しい物ばかりが置かれている書庫なんて、誰も来ないもの」
「そのことが明らかになった時点で、それこそ牢に放りこまれる事態ですよ、ユーリ様。さすがのウルシーク様とて庇いようがありません」
「なら証拠は?」
「証拠って・・・」
キアランが口ごもれば、優理はにっこりと笑って言った。
「私がそのメダルを手に入れて書庫に入りこんだ証拠はどこにあるの? 明らかになったらって言うけど、明らかになる日はこないわ。大体ね、神官だって威張りくさるなら女神に関する書物の全てに目を通すぐらいしなさいよ。それもできないくせに、できる私の頭脳と才能をやっかむものじゃないわ。どうせここにいる誰もが古語なんて読めないんでしょ? あ、アルドはウンディーネだったアレクシアさんから習ってたから読めるわよ」
「・・・・・・」
立て板に水とばかりに、さらさらさらと優理は相手を遠慮なく攻めては自分を持ち上げる。
どうしてこんな遠慮を知らぬ娘を育てたと、誰もがレイスに対して思った。
「そういう意味で、私は高位神官よりも優れていることを自らが証明してしまってるのね。・・・自分の優秀さが辛いわ。だって誰もついてこれないんですもの」
ふぅっと溜め息をついた優理は、それゆえの苦悩を嘆いてみせる。
周囲の無理解に苦しむ自分の悲しみを知るのは、恐らくジンネル大陸最古ともいわれるパッパルート王国の若き青年王だけだろう。
やはりハイレベルな人間の苦悩は、ハイクラスな国王にしか理解してもらえないのだ。
「ここまで生意気な娘を、よくその伯爵家ご令息は婚約者などと言ってまで庇おうと思ったものだ。だが、それだけ見る目はあるということか。あまりにも生意気すぎるが、その才をうまく使えばどれ程のものか」
「そういう下劣な目でこの私を見ないでちょうだい、ウルシーク曾お祖父様。エミリールに私を利用する気はないわ。年を取ったらそういう真の友情を信じることもできなくなるんでしょうけど、私もエミリールもまだまだ若いのよ」
「・・・・・・」
「若さって罪作りな時期そのものね。私は美しく年老いたいものだわ」
優理は話している相手を不愉快にするという才能があまりにも優れすぎている。ウルシークは右手の指先を軽くトントンと動かし、心を鎮めようとした。
だが、そこでエリーネが割りこんでくる。
「ちょっと待ってちょうだい。うちの家名があったならともかく、一般庶民で暮らしていたあなたがどうしてそんな方と親しくお付き合いなんてできるというのよ。アルドお兄様はアボルトの名を使っていらっしゃらなかったのでしょう? まさかと思うけれど、その伯爵家のご子息というのも詐欺か何かじゃないんでしょうね。大体、本来は王宮に滞在なさっている筈のお方が市井にいらっしゃること自体、おかしすぎるわ」
「いえ、エリーネ様。牢に行く前に確認いたしましたが、キマリー国大使が到着次第、事態の収拾にあたるということでございました。さすがにキマリー国大使が動くとなれば、ご本人様で間違いありますまい。それこそこちらにミンザイル様をお招きすべきかと思いましたが、ユーリお嬢様がご自分の後始末をミンザイル様に押しつけられましたので、それもできなかったのです。何よりこちらは全く事情が分かりませんでしたので、ユーリお嬢様をこちらにお連れしてお話を伺うことを優先いたしました」
説明しながら、ちらりとランドットは恨めし気な視線を優理に向けた。
「このカップのライン、悪くないわね。お茶の香りを楽しめるようになっているもの」
優理はそっぽを向いて、茶器を褒めてみせる。何故なら、お説教は大っ嫌いだからだ。
そのふてぶてしさ溢れる優理の態度を眺め、ウルシークはミンザイル伯爵家の長男とやらは、かなりの変わり者なのだろうと判じた。
きっとミンザイル伯爵家の次男、ロルファンがウルシークの心の意見を聞いたなら、
「そうなんですよ。兄上はほんっとうに変わり者なんですっ。ええ、女装するとか、年下になりすますとか、年下の女の子を演じるとかっ」と、大きく頷いたに違いない。
「その婚約が嘘であろうと、そこまで親しいのならばきちんとした後ろ盾さえあれば婚約が実現するのも夢ではないということだろう。我が家の娘ならば家格としてそこまで悪いものではない。ましてやキマリー国は、今、かなりの注目を浴びておる。そういうことと知れば、第1等神官ですらお前を養女にしてでも送り出すだろう」
「やめておくのね、ウルシークさん。私、どこの養女にもなる気はないわ。私の両親を恥じる気は全くないもの。それに結婚相手にはそれなりの理想があるのよ。そういう相手を見つけてからのことだわ」
「理想?」
ウルシークに向かって物憂げに話しながら、優理は結婚とは何だろうと改めて思う。それでもこの縁談を本気で進められてはたまらない。
それこそギバティ王宮に招待されて、自分は一気にパッパルート国王とキマリー国次期伯爵との二重婚約者姫だと大騒ぎになってしまう。どんな悪女として名を馳せてしまうことか。
「ええ、そうよ」
だからウルシークに向かって優理は堂々と言いきった。
「生まれてきた以上、人は自分の目標に向かって生きるの。私は私の力で成し遂げたいことがあるわ。人に頭を下げて生きるなんてまっぴらよ。自分の力で自分の未来を切り拓きたいの。そんな私を誰よりも愛して一緒に世界を奪い取りに行ってくれる人をいつか選ぶわ。それだけよ」
「・・・それは盗賊の思考だと分かっておるのか」
「どこも最初は盗賊よ。人の屍の上に成り立たない権力者はいないわ。ま、エミリールの身分を利用しようと思うのは勝手だけど諦めてちょうだい。エミリールだってまさか私との婚約を大々的に発表する程、愚かじゃないわ。で、そろそろ私、帰りたいから馬一頭ぐらい用意してくれないかしら」
これでも馬や驢馬に乗るのは上手なのだ。
紅茶を飲んだ優理は、そろそろおうちに帰ろうと思った。
「ならば私が送っていこう。しかし、事態が落ち着くまでこの家に滞在した方がいいのではないか? 少なくとも交渉とやらが終わるまでは。また牢に入れられたら大変だろう」
実の姪だと信じているリシャールが、そう優理に提案する。
「大丈夫よ。エミリール達がいるなら交渉はかなり有利に進むわ。私腹を肥やそうとした権力者さんも、まさかギバティ王族に伝手のある人間があそこで出てくるとは思わなかったでしょうしね。だけど送ってくれるなら送ってちょうだい。どうせアルドも私を迎えに来てくれている筈だから、途中で会えると思うの」
「そうなのか?」
「ええ。だって第2等神官のお宅となったら他の人では訪ねてきても門前払いでしょ。ならアルドがやってくるわ。だけどアルドにとってこの家に来るのは辛いと思うの。だから私は自力で帰るのよ」
リシャールが差し出した手に自分の手を重ねて、優理はソファから立ち上がった。そうしてテオドールに向かって微笑む。
「奥さんと仲直りできて良かったわ。・・・テオドールさんにとって名前なんてどうでもいいことだから分からなかったんでしょうけど、キャサリンさんはずっとアルドにその名前をつけようと思っていたのよ。自分とあなたの名前を少しずつ混ぜたそれを初めての子供に。彼がお腹にいる間、ずっとその名前で語りかけていたの」
それを聞いたリシャールはやや眼差しを細めた。
(一番目の子供に使えなかったからって二番目に回すこともないだろう。手抜きもいいところだな)
だが、今更だ。自分もあまり名前にこだわるタイプではないので、そんなものかと、そのまま扉の方へと優理をエスコートしていく。
「帰る前に、一つだけ教えていくがいい。どうして他国の貴族とそこまで親しく交流できたのかを。こちらとて知らなかったではすまぬ」
「知らない方があなたの心の平安の為にはいいと思うわよ、ウルシークさん?」
「聞かない方がよほど困る。好き勝手に生きていく前に、人は人の中で生きていることを学ぶがいい」
しょうがないと、優理はウルシークに向かってえへっという顔で説明した。
「えーっと、キマリー国王宮のどさくさって知ってるかしら? あの色々と貴族が処刑されたって事件」
「知らぬ者の方がおらぬ。その際、第二王子の存在が明るみに出て、その王子がディリライト島で神子姫様に求婚したのは語り草となっておる」
「まあね。で、今回、私と牢に入れられてたキースね、キマリー国で処刑リストにあがった貴族達を他国に逃がす商売をしていたのよ。その時、私も一緒にいて、そこで変装して情報収集の為に紛れ込んできていたエミリールと知り合ってお友達になっただけ」
「・・・なんだと」
その場に沈黙が満ちた。
「それは、キマリー国における反逆罪・・・。まさか、我が家からそんな・・・」
それまで黙っていたキャサリンが蒼白になる。そうしてふらりと上半身を揺らめかせたものだから、隣に座っていたテオドールが、「キャサリンッ」と、その肩を抱きとめた。
「あ、大丈夫よ。そういったことにはならない裏取り引きなら既に完了してるもの」
何と言っても自分のお友達はキマリー国第二王子ウルティード。そして王太子の近くにいる傍系王族シンクエンは自分の正体を知っている。
だから優理はひらひらと手を振った。
「まさか、うちのアルドもそれに関与してたんじゃないだろうね、ユーリさん?」
「ううん。あれはキースのやってたことで、アルド達は無関係よ。心配しないで」
「いや、君が心配しなきゃいけないことだろう。裏取り引きってそれこそ誰とだね? 裏切られる心配はないのかい? 君みたいなお嬢さん相手に約束を守る人ばかりじゃない」
「大丈夫よ。処刑する貴族のあぶり出しをしていた王族とは、謝礼金も受け取った上で契約終了してるもの。安心してちょうだい」
「謝礼金?」
「ええ、そうよ。キース達とどうでもいい貴族を逃がしたけど、その後でキマリー国の王族と取り引きして、匿っていた中から絶対にキマリー国が逃がしたくない貴族達を差し出したの。その際、エミリールも一緒にいたのよ」
ウルシークとテオドールの視線が交差する。更には同じ部屋にいた神官達の視線も様々な思考を孕んで行き来した。
たしかに聞かなかった方が心も平安だったと、ウルシークは思う。
同時にこれだけの胆力を持つ曾孫。男ならばどれ程に頼もしかったことか。つくづく孫息子を手放してしまっていたことが悔やまれてならない。
「なんて末恐ろしい娘だ。その年で二重工作をこなすとは。アルドも何という娘を育てたのか。あの元ウンディーネの女よりも図太いではないか。いずれは絞首刑となる犯罪者ではないのか」
「失礼ね。私ほど末頼もしい、愛と正義の使者はいないわよ。謝礼まで受け取っておいて、絞首刑なんてある筈ないでしょ。じゃあ、そういうことで私帰るわ。二度と会わないとは思うけど、皆さんも元気でいてね」
「・・・ここで我が家の禍根にならぬよう、始末しておくべきか。役立つかと思いきや、とんでもない災厄の種となりかねん」
「やめておくのね、ウルシークさん。その時はあなたを殺すだけよ。髪一筋の傷も私につけることは許さないわ」
リシャールに手を引かれて扉へと再び歩き始めた優理だが、ウルシークの目配せを受けたキアランが音もなく近寄って手を伸ばし、背後から優理の細い首を絞めあげようとした。
勿論、それは脅しのつもりでもあった。
「うわぁっ」
だが、優理に手が届く間際にその両手が火に包まれる。見ていた誰もが驚いて、ガタガタッと立ち上がった。
「キアラン殿っ?」
叫び声と物音に驚いてリシャールが振り返る。優理は気にする様子もなく扉を開けた。
「馬は勝手に借りていくわ。すぐに冷やせば火傷の痕も残らないから安心してちょうだい。だけど次は警告じゃすまないわよ?」
床にバンバンと自分の腕を打ちつけるようにして、キアランは袖についた火を消す。恐ろしいのは、優理は何もしなかった。それが分かっていることだ。
(ウンディーネなら水のない所ならば無力な筈なのに・・・!)
なぜいきなり何もない所から自分の衣服に火がついたのか。
別に殺そうとしたわけではない。ただ、動きを封じ込めて確保しようとしただけだ。
(なんて底の知れぬ娘だっ)
何があったのか分かっていないリシャールは驚いて、床に蹲って灰になった衣服を払い落としているキアランを見下ろしながら立ち止まっている。
「ちょっと待てっ。送っていくと言ってるだろうっ。未婚の娘が一人で出歩くものではないっ」
しかし気を取り直し、さくさくと行ってしまった優理を追いかけた。
ティネルの街に向かう街道の途中にある公園は、とても広くて長閑だ。移動中の人が休憩する為だからだろう。ベンチが幾つも置かれており、馬や馬車などを繋いでおく杭や柵もある。
「だが、なんで一番街道から遠い場所を確保するのだ」
「駄目ねえ。街道に近い場所に馬を繋いでおいたら、それこそ泥棒がさっと勝手に乗って逃げてくかもしれないじゃない。人っていうのは楽でありたいものよ。だから街道近くの杭に馬を繋ぐ。だけど自分の財産を守る気概があるなら、あえて道から一番遠く、乗り逃げされにくい場所を選ぶものなの」
「・・・・・・遠すぎじゃないのか」
そんなリシャールの言葉を無視し、優理は一番見晴らしが良くて、居心地の良さそうな木陰にあるベンチを選んだ。
(そう、理由なんてどうでもいいことなのよ。大切なのは時間を稼いで考えることだわ。どうやったらレイス達に馬鹿にされないかを・・・!)
無事に牢を脱出してしまえば、やはり優理とてこの後のことが気になる。
それこそドレイクに「だから言うたやろ。いらん欲出すからや。反省し」とか、レイスに「あいつらの上前を撥ねるつもりが、一緒に牢まで引き摺りこまれたか。阿呆だな」とか、フォルナーに「まあ、子供ってのは色々と失敗して成長するもんさ。飴舐めて、これからは大人しく家で留守番しとくといい。な?」とか、カイネに「マーコットちゃんはキースヘルムの旦那をぎゃふんと言わせてたが、反対にユーリちゃんはいいようにされてんだなぁ。ま、そんなこともあるさ」とか言われるのだなんて我慢できない。
だからこそこっそりとリシャールの手を借りて華麗に牢を脱出してみせる筈が、結果としてレイスの実家まで行く羽目になってしまった。
きっと間抜け呼ばわりされるに違いない。
(そう。私は別に為す術もなくレイスの実家に連れて行かれたんじゃないわ。行ってあげたのよ)
往生際の悪い優理は、そういうことにしようと思ったのだ。その為には誰もが納得するストーリーを作り上げて、「この私は常に深謀遠慮と共に在るのよ」と、高笑いしてみせなくてはならない。
(その為には口裏合わせあるのみ・・・!)
リシャールにさえ偽証させてしまえば、レイスに、「さすがユーリだ。凄いじゃないか。そういう優秀な姫君と分かっていたが」と、そう言わせられる素晴らしい話が作れるだろう。
その為にはまず恩を売りながら協力させるべし、だ。
というわけで、あまりにも遠回りしすぎて最初の目的を見失っている優理は、思考の迷路にはまりかけている自覚もなく、軽食を食べる為、ベンチに腰掛けたのである。
その優理が食べるのを楽しみにしていた軽食は、ウルシークの屋敷から少し離れた場所にある通りにあった店で売られていたものだ。
ティネルの牢で、残飯がどうだとかこうだとか、何かと食事に対する不満を優理はぶちまけていた。だからだろう、優理を追いかけてきたリシャールは、
「食事まで待てばいいだろう。泊まっていってもかまわんのに」と、文句を言いつつも、
「まあ良い。ならばどこかの店に食べに行くか?」と、料理店へ連れていってくれようとしたのだ。
(レイスと同じ顔なのに、口調も性格も違うから変。だけど私がレイスの子供じゃないって知ったらどう出るのかしら)
だけど最初に嘘をついたのはレイスだから自分は悪くない。騙される奴が悪いということで、優理はそれについて考えないことにした。何にせよ、今の自分は一文無し。お金を持っている人間に集るのは当然である。
「ううん。わざわざお店に入るだなんて勿体ないわよ。どこかで軽食を買って、途中で休憩しながら食べましょ」
「別に遠慮しなくても、姪に食事を食べさせる程度の甲斐性はあるつもりだが?」
「遠慮しているんじゃないわ。ただ、あまりここには長居したくないのよ」
そうしてちょうどあった総菜屋に入り、好きなパンと具を選んで挟んでもらい、ホットドックのような形のサンドウィッチにしてもらうことにする。
「小父さん。刻みピクルス、もう少し入れてほしいわ。マイルドな酸っぱさだけど味に深みがあってとても美味しい」
カリカリとピクルスを齧りながら、優理はこの酸味がちょうどいいと頷いた。
「うちの女房の自信作さ。チーズはどれにする? こっちのがお勧めだがよ」
「あら、駄目よ。もう少しセミハードで、ナッツっぽい味のこっちがいいわ。このピクルスの酸っぱさと相まってなかなかいけるもの」
「へえ、なかなか舌の肥えたお嬢さんだ」
「でね、そっちのさらし玉葱と、こっちのハムを挟んでちょうだい。そこのパプリカとクラッカーとチーズは別に包んで欲しいの。パンじゃなくてそのまま齧った方が美味しそう。あと、そこの果実水もね」
「ほいよ。えーっと、そっちの神官様はどうなさる?」
同じフード付きのマントでも、神官の衣装は普通の人が使うものと少し違う。だからだろう、店主はリシャールをすぐに神官と見抜いたようだった。
「そうだな」
普段、こんな所で買い食いなどする必要がないリシャールは戸惑わずにいられない。しかし、姪が当たり前のように味見しながら注文している横で、おろおろとするのもみっともなくて嫌だ。だからリシャールは、
「私のも、同じものを頼む。とても美味しそうだ」
と、まるで手慣れているかのようにそう注文した。
というわけで、ベンチに座り、馬にもそこらの草を食べさせている二人は長閑に寛いでいた。そよ風も心地よい。
「お空も綺麗に澄んでるし、公園を横断する水路のせせらぎも爽やかだわ。日頃の忙しさに追われてつい忘れてしまいがちだけど、こうして穏やかに過ごす時間って大事よね」
「そうだな。嫌味ったらしい上司も、私を追い落とそうとしている部下も、そして気を張る敵もいないというのは素晴らしい」
なんだか一気に気が重くなる話だ。
やはり大神殿なんてとんでもない場所だと優理は思う。
ドリエータで地下牢に入れられてしまった遥佳が、参考人として大神殿に送致されることがなくて良かった。あの遥佳なら真っ先に心を病んだことだろう。
そんなことを考えながら、優理は話に乗ってみた。
「神官にも上司と部下ってあるのね」
「ああ。かなり凄まじい派閥から何からがある。自分が所属していた上司を追い落とす情報を手土産に、敵だった神官に寝返るのは日常茶飯事だ」
「大変ね」
神官なんてなるものじゃないと、優理は思う。
最初から論外で近づくまいとは思っていたが、やはりどんなに将来有望そうな青年を見つけても神官ならやめておこう。そんなぎすぎすした関係を自分の周囲に持ちこまれたくない。
「それは仕方ない。・・・だからアルド兄様と出て行くならさっさと出て行った方がいい。アレクシアお祖母様がウンディーネだったのならエリーネの価値を落とすだけだが、女神様に親しくお仕えしていたとなれば反対に価値が上がる。だが、お前にはある能力がエリーネにはない。従って、出鱈目だと言われたらこちらも論破はできない。そうして女神様の名を騙りに利用したと弾劾されたなら、一気に私達は神官の風上にも置けぬ咎人扱いになろう。そしてお前にもとんでもない悪意の手が伸びる」
「・・・大変ね」
わざわざ教えてあげた情報なのに、優理も何だか虚しい気分だ。
簡単なことをこねくり回して難しい状態にする人間はどこにでもいる、大神殿にも。それだけか。
紛れもなく自分の祖母のことでも、リシャールとエリーネにとっては「聞かなかったこと」にするのが生き延びる知恵なのだ。
「だからお祖父様もあの件については口止めをなさった。過去のことなど確かめようがないからな。だが、誰が裏切るかなど分からんし、味方のふりをして誰かに情報を流しているかもしれん。アルド兄様とお前を捕まえて、自分の子飼いとすることを考える神官も出るかもしれない。いくらお前が生意気でも、アルド兄様を人質に取られてしまえば言うことを聞くしかないだろう。そしてアルド兄様もお前を人質に取られたら手も足も出ない」
「・・・・・・アルドは、私を大事にしようとしすぎる馬鹿なのよ」
自分を脅すことなど許さないと言おうとして、優理はジェルンの家でレイスが捕らえられたと知った時のことを思い出した。
恨みがまし気に文句を言ってしまう。
優理の名と外見的特徴が世間に知られてしまえばどうしても足枷は出てくる。普通の女の子として生きていくこともできない。
だからレイスは大人しく捕まったのだ。そして優理のことも言わずに・・・。
(私はただ・・・、母の娘ではなく、普通の女の子として世界一の富豪となり、全てを掌握したいだけなのに)
けれども自分を捜し出そうとする勢力が、そんなささやかな望みを許さない。
自分を見つけて都合のいい男を宛てがおうと、あまりにも悪辣すぎる魔の手を伸ばしてくるのだ。
「あら? そう言えば、たしか神殿って神子姫様好みの男の育成法とかやってなかったかしら。エリーネさんに縁談って言うけど、独身の神官は今、結婚できないんじゃない? それともやっと、そんな無駄なことをしても意味ないってことに気づいたの?」
「・・・何故、それを知っている」
「ちょうど人気のない公園で木に凭れて休んでいたら、その木の裏側を神官が何人かで歩いてきて、そんなことを話してたのよ」
そういう嘘をつく時には決しておどおどした素振りを見せないこと。それが嘘を見破られないコツだ。
「神官様とか言ってても、所詮はそんなものなのね」
優理が呆れた声で言い出したものだから、リシャールは慌てて否定しようとした。
「いや、待てっ。全ての神官がそういうものでもっ。・・・大体、それには崇高な理由があったんだっ」
「へー、崇高な理由が」
「そうだ。崇高な理由が」
こくこくと頷くリシャールに、ほー、そうなんだぁと、優理は頷いてみせる。
「で、どんな崇高な理由が?」
「勿論、神子姫様にお気に入りの男性を見つけていただき、そうして幸せに暮らしていただこうという素晴らしい配慮のある理由がだな、そこにはあったんだ」
「気に入らない神官しかいなかったらどうするの? あなた、自分が嫌いな女性がいるとして、その女性が『あなた好みの女性になる方法』の講義を受けたら責任もって好きになるのね?」
「うっ」
リシャールは胸を押さえた。
誰を思い出したのだろうと思いながら、優理は憐憫の気持ちでもって話を元に戻す。
「で、あなたものこのことその講義を受けてたわけ?」
「いや、私は受けていない」
「なんで? 婚約者がいたとか?」
「違う。丁度その頃、リンレイやドリエータ、ドレシアへ行ってたんだ。お祖父様達と共に」
「あらま。それは残念だったわね。せっかくの講義を聴けなかっただなんて」
「いや。今にして思えば、私の髪は茶色だが黒に近い。神子姫様のお好みに合致するかもしれないというのでわざと遠ざけられていた可能性もある」
全く心のこもらない優理の言葉に、リシャールは真面目な顔をしながら首を横に振った。
髪の色で好きな人を決める女なんているわけないだろうと、優理は思ったがそこは黙っておく。
「が、別に聴いたところで意味はなかっただろう。お前が言った通り、アレクシアお祖母様が女神様のお側にいたというのが本当ならば、恐らく神子姫様を手に入れるには、イスマルクとかいう神官の、まさに本気で人々の為に尽くす、そんな清貧なやり方では駄目なのだ」
「・・・なんでって訊いてもいい?」
なぜアレクシアが昔の神子姫と共にいたからと、リシャールはいきなり自分達を手に入れる方法を、「どうだ、こんなもんだぞ」とばかりに語るのか。
優理は眉間にとても深い筋を作って悩んでしまった。
「かつてお祖母様は言ったことがある。『いと高貴なるお方を手に入れる愛とは・・・』と。あの頃、小さかった私はいと高貴なるお方とは王族や貴族のことだろうと、つまりお伽噺による教訓なのかと思っていた。よく子供に話して聞かせるようなアレだ」
「はぁ」
たしかレイスが自分の弟を祖母コンだと言っていたような気がすると、そんなことを思い出しながら優理は相槌を打ってみる。
なるほど、一緒に暮らしていたのはレイスでも、それなりに祖母としてアレクシアはリシャールとも交流していたらしい。
「勿論、落ち着いて考えればかなり問題のある話だったが、お祖母様は変わった方だったから楽しい話だと、そんなものだったのだ。本気にしたこともなかった。しかし女神様に親しくお仕えしていたとなれば、違う見方ができる」
「アレクシアさん、何て言ってたの?」
なんだか嫌な気がしたが、怖いもの聞きたさで優理は尋ねた。
「お祖母様は言っておられた。いと高貴なるお方を手に入れようと思えば、慎重に慎重を重ねてその周囲に根回しし、手に入れた後でもごたつかぬように豪華な檻を用意しておき、そうして一気に皆で騙して手に入れるものなのだと。それこそが愛だと」
「・・・・・・どんな愛だとゆーの」
聞かなかったことにしていいだろうかと、優理の耳が受信拒否を希望する。
そう、聞くんじゃなかった。
視線を落とせば左の中指にいる橙色の山椒魚まで、呆れたとばかりに前足を広げて肩を竦めているではないか。
しかしリシャールはそんな優理の反応に気づかなかったらしい。とても大切な真理を語るが如く、話を続けた。
「大切なのは二重三重に罠を仕掛けることらしい。その程度の策略も巡らせられぬ男では、高貴な姫君を手に入れる権利はないそうだ。そして姫君を騙すのに誰もが協力してくれる程、男は姫君を強く望み、そうして皆が認めずにはいられない程、人格も優れていないといけないらしい」
「人格が優れている人が、そういう罠を仕掛けるとは思えないんだけど」
「そこは・・・、まあ、姫君を望む愛情の発露なのではないか?」
「・・・いつから愛情の発露が犯罪行為の免罪符になったとゆーの」
愛って何だろう。
(知ろうと思ったら知ることはできるけど知りたくない。・・・お母さんよりも前の時代だから関係ないと言えば関係ないけど。ううん、考えてみれば私のご先祖様っ)
いや、知るべきではない。そう、歴史の中に沈めていくべき過去はあるものだ。
だけど・・・。
思えば愛を司る女神シアラスティネル。彼女が誕生したことに、どんな秘話があったのか。
(愛があれば何でも許されるってものじゃない・・・筈よ。だけど、どうしてお母さんは愛を司る女神に、・・・ううん、考えるのは止めといた方がいいような気がする。ええ、きっと。過去は掘り起こすものではないの)
大神殿の講義も無茶すぎたが、リシャールの話も同様、本気で無理だ。
いと高貴なる姫君を遥佳や真琴として、あの周囲にいる誰が二人を手に入れるような罠に協力してくれるというのか。
「ま、神子姫様と一緒にいるグリフォンと元神官とやらが協力してくれる程の人がいればいいわね」
優理はそんな言葉で片付けた。意味は、「いるか、そんな人」である。
そして強引に話を変える。
「だけどあなた、レイ・・・アルドのこと、嫌いなんでしょう? だから人殺しだって決めつけて追い落とそうとしたんでしょう? なんでそこまでアルドのこと気に掛けるの? やっぱり罪悪感があるから? アルドは気にしてないと思うわよ?」
不意に話を戻され、リシャールが虚を突かれたような顔になった。
「ま、色々と事情があるならこの頼りになる姪御さんに任せなさいよ。私が乗り出して解決しない問題はないわ」
ここでレイスの弱みを握れば、怒られないかもしれない。
たとえ長く離れ離れだったとしてもリシャールはレイスの弟だ。
そんな思惑を胸に、優理はどんと来いとばかりにリシャールに向かって胸を叩いてみせた。
(ついでにレイスが聞かれたくない黒歴史を聞きだしてもいいしねっ)
自分の力を必要時以外は使わないようにしている優理だが、相手が勝手に喋ってくれたのならば自分のポリシーに反しない。
リシャールもまた、兄の娘でありながら年も近い優理に対し、かなり心の壁がなくなっていたようだ。
「そうだな」
そんな二人の様子を、街道に近い遠くのベンチに座って、レイスとルーシーは何だかなぁと言わんばかりに溜め息をついて見守っていた。
「シルフが会話を届けてくれるのは有り難いが、こんな阿呆な会話を続けさせる価値はあるのか? お前さん達が何をどう思ってるかは知らんが、ユーリの自信は全く根拠がないそれだぞ? あいつが乗り出して混乱した問題は数多くあっても、解決したことなどないと言っていい」
「あら。お食事の後はしばらく休んでおいた方がいいのですわ。そのまま馬に乗って、揺られて吐いたら大変ですもの。腹ごなしにお喋りぐらいさせて差し上げなくては。・・・まあ、かなり頭の痛くなりそうなお話でしたけど」
真琴と違って優理の運動神経はあまり良くない。そう思っているルーシーは、もう少し休憩させておいた方がいいと、主張する。
「あら、私は興味深いお話に思えましたわよ。我が同胞のことですもの。それにカイトさんも優しくておいでですけど、姫様だってそれぐらい強引な方がいいかもしれませんわ。帰ったら早速、姫様に話してさしあげなくては」
「やめておきなさいな、ウンディーネ。どれ程に皆が協力し、どんな豪華な檻を用意させていただいても、抜け出してカイトさんの肩の上でお昼寝なさってるんじゃ意味がないわ」
「それもそうですわね。姫様はそういうところが愛らしくていらっしゃるのですけど」
レイスを伴ったルーシーを案内してきた風の妖精は、リシャールと優理の会話を届けてきてくれる。
だが、優理と共にいる風の妖精と火の妖精は、どうせレイスとルーシーなら優理の味方だし、優理が何かしたいならわざわざ到着したことを伝えなくてもいいだろうと、優理にそれを黙っていた。
「猫かわいがりするのは結構だが、その神子姫という肩書きがなかったら、ユーリのやってることはただの詐欺、マーコット姫は破壊活動、それこそハールカ姫は猛獣の管理不行き届きという事実を理解しているか?」
何かと小銭稼ぎをしている優理は、皆の誤解を利用してちょこちょこと資産を増やしている。
しかも食事の材料代が無料だと思えば、ドレイクの後をちょこちょことついていくあたりもどうしようもない。
「大丈夫ですわ。ジンネル大陸ではそうなるかもしれませんけど、ゲヨネル大陸なら大したことじゃありませんもの。そうよね、ウンディーネ?」
「そうですわ。ユーリ姫様の詐欺程度、可愛い悪戯じゃありませんの。誰も石になるわけじゃありませんし、死ぬわけでもありませんもの。ドラゴンやグリフォンだって普通に岩どころか山を壊したりしますし、その程度で誰もガタガタ言いませんわ。ハールカ姫様だってあのグリフォンをあそこまで手懐けておいでですのよ。素晴らしいことですわ」
「それ以前に、そんな凶悪幻獣が存在しないジンネル大陸で、よその大陸と比べる意味はあるのか?」
レイスの至極もっともな意見は、多数決といった理由で黙殺された。