163 レイスは小娘達に疲れた
自分を見ずに去っていく後ろ姿。それは、最後通牒のようにも感じられるものだった。
忘れようとしていた存在が今頃になって姿を現し、なのにあまりにもあっけなく去っていく。
キャサリンは涙ながらに叫んだ。
「止めてっ。止めてくださいっ、お父様っ。あの子がまた行ってしまうっ。また私からっ」
ウルシークに助けを求めながらも、キャサリンはその背中から目が離せなかった。
乾ききった砂を思わせる金の髪。憎んだ女と同じ色合いを持ちながら、それでも自分が産んだ息子。
離れていく歩みを止めたいのに自分の足が動かないのは、その拒絶が恐ろしいからだ。
いつだって自分が産んだ息子は、自分ではない人を選び続けた。
自分の、・・・愛を裏切って。
「私のリシャールがっ、またもや奪い去られますのよっ」
ぽたぽたと黒髪から落ちるワインを気にせず、キャサリンは両手を握りしめてウルシークを振り返った。
「キャサリン・・・」
ウルシークもまた頭からワインの雫を垂らしている。それはその食事室にいた全員に言えることだ。
何故なら優理が食事室の外に出た途端、テーブルの上でゆらゆらと揺れていたワインは全員の頭へと落ちてきたからである。為す術もなく、誰もが頭からびしゃっとワインをかぶるしかなかった。
「あの女にっ、・・・ウンディーネとかいう女にっ、私のリシャールがっ」
キャサリンの瞳から流れる涙が、髪から落ちるワインと合わさって薄まっていく。
アレクシアと優理の顔立ちは全く似ていなかったが、そんなことは関係ない。
結局、同じではないか。死んだと思ったのに、それでも永遠にアレクシアは自分から奪い続ける。
人々の称賛も、皆の支持も、子供さえも・・・。
(どうして、・・・どうしてなのよっ)
どうして今になって現れたのか。
死んでも尚、ウンディーネは甦り、勝者として高笑いし続けるのだ。
「お母様、落ち着いて」
「ああっ、エリーネ・・・!」
横に座っていたエリーネがその肩に手をやれば、キャサリンは娘に縋って泣き崩れた。
「母様。私はここにいますが?」
リシャールが戸惑いながらもそう声をかければ、キャサリンはいやいやをするかのように首を横に振る。
困り果てた顔で、リシャールはウルシークを見た。
「リシャール、エリーネ。キャサリンを部屋に連れていくがいい。いつまでもワインをかぶっていても仕方あるまい」
「はい、お祖父様。では失礼いたします。ドレスも着替えなくては。ね、お母様?」
「行きましょう、母様。すぐに湯を用意させます」
「髪を洗わないと。ね、お母様」
ウルシークに促され、リシャールとエリーネは両側から支えるようにしてキャサリンを連れていく。
意味が分からないといった顔のリシャールだが、ウルシークは説明する気にもならなかった。
「結局、あの女が言った通りになるのか」
自分の頭から滴るワインを手で髪と共に後ろへ流し、ウルシークが独り言つ。
「ウルシーク様。すぐに湯の用意をさせますので、どうぞ・・・」
神官ルドヘルムがウルシークの近くに寄っていけば、比較的若い神官が使用人達に入浴の用意を命じに行った。
柔らかな布を持ってきた側付きの神官ランドットが、ウルシークの濡れた髪を慣れた手つきで拭いていく。
自分の頭をテーブルにあったナプキンで拭いていた神官ガントークが、苦笑しながら口を開いた。
「どうでしょう。アルド様は薬入りの物ばかりではなく、入っていない物もお食べになりませんでした。しかも核心に触れることはだんまりで・・・。ですが、よくぞあそこまでお育ちになったものです。昔はとても細身な少年でいらした」
その薬入りの食事を用意させておきながら、後半の言葉にレイスへの情をガントークは覗かせる。
「そんなことよりも、あのお嬢様です。この場にいたのが我々だけならばともかく、若い者達が同席していたのが問題です。アレクシア殿がウンディーネだったことはともかく、アルド様がまさか実の娘に恋愛感情を抱いているとなっては、それを大神殿に密告する者が出るやもしれません」
神官キアランは深刻な顔つきになる。
自分達はもう長くウルシークに仕えてきた。今となっては一心同体だ。
だが、若い神官達は他の高位神官に取り入る為に、そういったウルシークの負の情報を手土産に鞍替えするかもしれない。
「それこそ、ウンディーネにそういった法は適用されるのかという問題も発生しそうです。あのお嬢様は人間なのか、ウンディーネなのかと、そういったことも考えねばなりますまい。しかも大神殿で審議を受ける際にもあのような大きな態度で出られてはどうしようもありません」
神官ルドヘルムが、そこを指摘すれば、ウルシークはランドットを見た。
「ランドットよ、どう思う?」
「昨夜からアルド様を拝見しておりましたが、・・・やはりドリエータの地下牢へ放り込まれたというのはアルド様で間違いありますまい。神子姫様を追う彼らに、その情報を簡単にぺらぺら吐いたと言われる道案内の男。まさかそれがアルド様とは・・・」
実はその男のことも、大神殿はかなり捜しているのだ。何かを知っているに違いないと。
だが、薄い金髪に茶の瞳という条件だけでは、そうそう見つかるものでもなかった。
ウルシークもまた、その男は全く自分とは関係ないというスタンスをとるつもりである。自分の孫息子の不祥事で、自分と自分に付き従う人々全てをどうして道連れにできようか。
「金で自分の良心を売り渡し、娘すら自分の為に利用する・・・。そこに矛盾はありません。朝の祈りすらせず、まともな世界から足を踏み外した男。実の娘を溺愛し、血が繋がっていないのならば妻にすればいいなどと、愚かなことを言い出す。アルド様はもう堕ちてしまわれた」
「・・・ふむ」
「ですが、やはりおかしいのです。アルド様にそういう者特有の卑しさが見えず、そしてあのお嬢様にそういう女独特の媚びも何もなかったところが」
ランドットは、読みきれなかったレイスと優理を思い返す。罪を恥じていないから卑屈にもなっていないだけかもしれない。だが、本当にそうだろうか。
「単にアルド様を取り戻す為、わざとそう匂わせただけの嘘かもしれません。父親であるアルド様を自分のものだと言い放ち、ここの使用人をも教育がなってない礼儀知らずだと言ってのけるようなお嬢さんです。虚勢であれば立派なものかもしれませんが、なんとも捉えにくいと申しましょうか」
ガントークの意見に、誰もが疲れた顔になった。
「市場で占いをして稼ぐ女がどういうものかをこちらが知らないと思っている態度でもありませんでした。あの胆力は評価いたしますが、いかんせん・・・」
表情に困りながらもガントークが言葉を続ければ、ウルシークも小さく息を吐く。
「後程、テオドールを報告に来させよ。よりによって、あのような小娘の味方をしてここを教えるとは」
しかし、ウルシークの唇はやや弧を描いていた。それに気づいてランドットが微笑む。
「ウルシーク様。お顔が笑っておられるようですが?」
「ふっ、・・・隠せぬものか。あの女を連れ込んだ神官は全て彼女から手を引いたという。その理由が今朝分かった」
ウルシークは立ち上がった。
「室内で溺死させられそうになれば二度と手を出そうとは思うまい。生きるか死ぬかで命乞いさせられたとあればな。それすらあの女なら笑って見ていただろう。・・・キャサリンがあそこまで拒否しなければ、アルドは手元で育てたかったものを。あのユーリという娘もだ。あの闘志、男なればさぞ面白いことになっただろう」
才気ある若者は嫌いではない。だが、それは自分の子飼いであればだ。
優理のプライドの高さは、ウルシークにとって不快なものではなかった。勿論それは、自分の曾孫と思っていればこそである。
もしも赤の他人ならば、ウルシークもその無礼は決して許さなかっただろう。
「ですがアルド様も、お一人で生きるようになってから、あのアレクシア殿によく似ていらしたというのも・・・。あの頃はとても繊細な少年でしたが、今やかなりふてぶてしくおなりだ。ましてやお嬢様をあんな生意気に育てたのでは、どこにも嫁がせることなどできますまい」
神官ルドヘルムが悩ましげに案じる。
「まあ良い。年寄りとは話が通じぬ頑固者でなくてはならぬ。せいぜい、リシャールとエリーネにも言い聞かせよ。アルドはもう道を踏み外した愚か者なのだと。二度と係わることまかりならぬと」
ウルシークはそう言うと、べたつく髪を洗いにと、食事室を出ていった。
二食抜きだったものだから、バスティアの家でレイスはがつがつと優理が作った朝食を食べていた。
「ケチねー。まともなご飯も出してくれなかっただなんて。大体、ご飯に眠り薬なんて仕込んでどうする気だったのかしら。ご飯への冒涜よ、ホント。混ぜるなら残飯に入れなさいよ、残飯に」
「よくアルドを返してくれたもんだ。凄いもんだな、ユーリさんは」
特に空腹ではないテオドールはレイスの向かいに、優理はレイスの隣に座り、のんびりとお茶を飲みながら会話している。
実の父と息子より、嘘の祖父と孫娘の方が会話は弾んでいた。
「そうでしょ。私が涙ながらに、
『お父様を返してっ。私にはお父様しかいないのっ』って訴えたら、誰もが心を打たれて、
『こんな不出来な男でもかまわないのならば。どうぞお受け取りくださいませ』って、差し出してきたのよ」
優理は平然と嘘をかます。
全てにおいて否定したいレイスだが、食べる方を優先しているものだからどんどんと話は進む。
「本当かい? いや、案内だけでいいというから心配していたんだ」
邪魔だと判断し、道案内だけさせて優理はテオドールを追い払っていたのである。
敵の首領であるウルシークに逆らえないテオドールなど、連れて行ったところで足手纏いにしかならないではないか。
テオドールはバスティア家でやきもきしていたが、レイスは優理と共に戻ってきた。
「ええ、全く問題なかったわ。だってあの場にテオドールさんが来ちゃったら、更に人間関係が混乱して揉めるだけじゃない。こういうのは単純な方がいいのよ。成人していない娘を父親が放り出していいわけがないんだから」
こんがりと焼いてある厚切りハムと目玉焼きを切り分けながら、レイスはそれをパンと共に口へ放り込んでいく。野菜がたっぷり入ったスープも、飲むというより飲みこむ勢いだ。
このペースではもうすぐデザートだろうかと、優理はリンゴを取り、ナイフで切り始めた。
「ウルシーク様、かなり怒っていたのではないかな」
「そうでもなかったわよ? 怒ってはいたけど、表面だけね。本気で怒ってなかったみたい」
優理は軽く流してみせる。
たしかにウルシークは怒っていたが、その瞳の奥に自分を観察する冷静さもあったことに優理は気づいていた。
「なんでそう言いきれるのかね?」
「だって・・・」
心拍数が普通だったと言おうとして、優理は言葉を止めた。
「ユーリさん?」
「・・・んー。ねえ、レイス。リシャールって名前、どう思う?」
「あいつの名前だろう?」
顔を上げずに、レイスは丸焼きされたじゃが芋を二つに割り、バターを塗りつけ、塩を振った。流れるような動きで、それを口の中に放りこんでいく。
「そうなんだけど、ほら、いい名前だなぁとか、格好いいなぁとか、そういうの感じない?」
「名前如きにそんなことを考える奴がいるのか? 名前は、つまりそいつを認識する為の呼称にすぎない」
「・・・うーん」
優理は小さく唸った。
駄目だ、これは。レイスはこういうことを察する能力が決定的に足りていない。
(ううん、違うわ。こっちが望む答えを待っていた日には、永遠にそれは来ないだけなの)
大切なのは結果を自分から奪いに行くことだ。優理は、自分を鼓舞する。
そう、こういう輩には実力行使あるのみなのだ。白を黒と言わせる。否を是と言わせる。それでこそ自分ではないか。
というわけで。
「それでも素敵な名前だと思わない? ね、そうでしょ? そう思うわよね?」
優理は左手をテーブルについて支えにした上で、レイスの首元を右手で握った。
「あのな、ユーリ。俺の襟首を掴んで無理に言わせようとするのはやめろ」
「だからね、素敵な名前だなぁって、レイスは思っているのよね?」
横に座る優理に襟を掴まれてぐいぐいと引っ張られては、さすがのレイスも食事を続けられない。
一番早い解決法をレイスは選んだ。
「そうだな」
「よろしい」
レイスを解放すると、優理はテオドールに向き直った。
「聞いたでしょ、テオドールさん。レイ・・・アルドはね、リシャールって名前をとても素敵で格好良くて羨ましいなって思ってたのよ」
「かなり話を盛り上げ過ぎてないか、ユーリ?」
「レイスは黙ってご飯食べてなさいっ」
その食事を邪魔した犯人はピシッと言い放つと、テオドールに念押しする。
「だからね、ちゃんとテオドールさんも言うのよ? アルドは、リシャールって名前が自分の名前だったらいいなぁって思うぐらいに羨ましく思っていたんだって。ちゃ・ん・と、奥さんに」
「・・・その事実を捏造しているようにしか見えないんだがね、ユーリさん」
「捏造は捏造というのがバレない限り、真実なのよ」
どこかの国王みたいなことを優理は言う。ディッパと優理は、そういう意味でとても気が合う盟友だ。
二人は、自分の利益に繋がる嘘なら何とも思わない神経の持ち主だった。
「ねえ、テオドールさん。私、あなたのお母様のことについても説明してあげたわ。本来、価値ある情報ってタダじゃないわよね? なのに、それを無料で提供した私の可愛いおねだりぐらい、聞き入れてくれる誠実さがあってもいいと思うの」
「・・・誠実って、・・・ユーリさん」
「言っておくけど、私、情報はいつだってそれなりに相応しいお金を取っているのよ? テオドールさんですら知らなかったあの情報、あなた達に言わずよその神官に売りつけていたら幾らになったと思う?」
「そ、それは・・・」
「ね? それを考えれば、私、無理なんか一つも言ってないじゃない。ただ、奥様に会った時、
『アルドは、リシャールという名前を、本当はとても素敵で格好良くて、自分もそんな名前が欲しかったなぁと羨ましがっていた』って言うだけ。誰も損しないし、傷つかないわ。そして簡単でしょ?」
「・・・分かった」
「よろしい」
誰よりも年下なくせに、一番偉そうに優理は頷く。
「だがねぇ、ユーリさん。名前なんて、普通は墓地に行って語感のいいものを選ぶか、神殿にある名前の参考表を見て適当に選ぶものなんだがね」
約束はさせられたが、全くそれに意味や価値を見出せないテオドールが一般常識を説明すれば、ぴきっと優理の額に青筋が走った。
「そうだな。ユーリ、たまにお前はどうでもいいことに意味を持たせたがるが、はっきり言えばただの感傷だ。普通、名前ってのはそんな程度のもんだぞ」
「レイスは黙ってご飯食べてなさいっ」
この無頓着親子がと、優理は小さく怒鳴りつける。
(なんでこう、誰もが無神経なのかしら)
優理は、自分の繊細な神経ではあまりにも耐えられない心荒む現実に、溜め息をついた。
「もう終わった」
優理が切ってくれたリンゴもとっくに腹の中だ。
食後の茶を飲み干すと、レイスは立ち上がる。
「じゃあ、お前がいるとか言うベリーと鳥とを買って帰るか。こっちの市場なら鴨とかも売ってるだろう」
「あ。そうだけど、ちょっと待って、レイス。せめてお祖父様とお祖母様にご挨拶していきなさいよ。裏庭ならそこじゃない」
「昨日、窓から見た」
「窓から見ただけで終わらせるんじゃないわよっ」
どいつもこいつもどうしようもないわねと、優理はレイスの服を引っ張るようにして裏庭へと連れて行った。
久しぶりに再会した長男が年下の少女に振り回されているのを見ているテオドールも、月日とは様々なものを変えていくのだなと、笑いを堪えてついていく。
三人が裏庭に行けば、たしかにそこに昔はなかったという池があった。
「恐らく、水脈に戻ったのね」
優理が小さく呟く。
聞き咎めるかのように、レイスは斜め前にいる優理を見下ろした。
「水脈?」
「ええ、そうよ。恐らくそのアレクシアさんに残っていたウンディーネの欠片が、水へと戻っていったんだわ」
レイスの疑問にそう答えると、優理はその池に手を浸した。
ガサガサッと、何人かの足音がしたが、優理は振り向かなかった。テオドールとレイスはそれがリシャールとエリーネであることを確認し、そのまま優理に向き直る。
「好きになった相手の種族から元のウンディーネに戻ろうとする時、そこに水があるとは限らないでしょ? だからウンディーネは地下深くにある水脈を地上に呼び出すの。そうして水の中に戻るのよ。本来の世界へ」
レイスもその澄んだ水に触れてみた。それはとても冷たい水だ。
それでも懐かしい気配が自分を包む。
(お祖母様、あなたの気配だ)
残り香に近いものだったが、レイスは思わず目を閉じた。
「深い水脈は世界を網羅するもの。アレクシアさんはランディさんの愛を得て人になったけど、亡くなった二人は共に水へと還っていったのね。ここにもう二人はいないわ。アレクシアさんはどこに帰りたかったのかしら」
「恐らく、・・・女神様の気配が残る場所だろう。いや、神子姫様の気配かもしれんが」
レイスが小さな声で答える。
「そうかもしれないわね」
優理は寂しそうに微笑んだ。
「どういうことだ、アルド?」
「言葉通りよ、テオドールさん。ウンディーネがゲヨネル大陸を出てきていたなら、それは恐らく女神か神子がいたから。アレクシアさんは、かつて女神もしくは神子と共にいたの」
リシャールばかりか、更にその後ろにやって来ていたランドット達も息を呑んだ。
「誰よりも近くでいたんですもの。女神に会ったこともない神官が偉そうに女神の名を持ち出したところで、彼女にとっては鼻で笑うようなものだったかもしれないわ」
「本当にせせら笑っていたぞ、お祖母様は」
「でしょうね。・・・だけど、こんなことで無駄な崇拝をされても困るの。レイス、そのまま池に触れていてちょうだい。せめてあなたがその最後に立ち会ってあげて」
優理が池に向かって何かを呟くと、どんどんと池の底が盛り上がってくる。それでも池の水が溢れないのは、盛り上がった分だけ池の水が減っているからか。
やがて池は消え去り、そこは通常の地面となってしまった。
「これでおしまい。全てはその思い出の地へ。ウンディーネの愛は、その相手と共に成就もしくは消失するもの。その愛を利用する他者など許されないわ」
テオドールは亡き母のことながら、驚きに言葉も出ない。
レイスは、自分の手を見つめた。
懐かしくも清冽な気配に包まれていた掌から、どんどんと水の気配が消え去っていく。
「ごめんなさい。寂しい思いをさせてしまった、レイス?」
その掌を見つめ続ける顔に寂寥を見出し、優理は尋ねた。
残しておいた方が良かったのだろうか、レイスの為には。
「いいや。これで良かった。お祖母様は人間という種族を好いてはいらっしゃらなかった。ここに気配を残し続けておいても空しいだけだ。お前にそれを終わらせてもらえたなら、望外の喜びだろう」
「・・・良かった」
その言葉に安堵した優理は、ぽてっとレイスに抱きついた。相手のプライバシーに配慮しつつ情報を読むのはかなり負担がかかるからだ。もう力が入らない。
「愛は愛で終わらせて、ウンディーネに戻ってくれていればまだ生きていられたのに。どうして永遠の命を放棄してまで、愛を選んだのかしら。愛はあっても、仕事仕事で、留守がちだったくせに」
愛を貫いた水の妖精を悼みながらも、それでもと優理の中にそう思う気持ちがある。
生きていてくれれば、連れていってあげられた。アレクシアにとって恐らく一番相性がいいであろう遥佳がいるゲヨネル大陸に。
「お祖父様も高位ではなかったからな。遠くまで行かされたり、厄介な仕事を押し付けられたり、大変だったんだ」
「仕事と言えば家庭を顧みなくていいと思う、典型的な言い訳ね」
「・・・男は、仕事をして稼ぐことで愛を示すものなんだ」
何故自分が責められると思いながらも、レイスは祖父のランディを庇ってみた。
(こいつの場合、理屈が先にきすぎるんだな)
抱きついている娘の頭を撫でながら、レイスはその鬘をきちんと整えて外れにくくする。
あくまで強気でいく優理だが、それだからこそ後になって考えてしまうのだろう。自分はそれで正しかったのかと。
しかし今になって何を誰が思おうと、祖母が亡くなった事実は覆らない。
「愛は長さじゃない、ユーリ。思いの深さと、その喜びが全てを決める。お祖母様は幸せに生きた。お前にはそう思えなくても」
「幸せかどうかなんて、他人のことなんて分からないわ」
「分かる必要などないだろう。心は、その人だけのものだ。だから、・・・お前が申し訳なく思う必要など全くない」
「・・・だけどっ」
反射的に、優理は反論しようとした。
神子姫を失ってから、長い間、ウンディーネは一人でいたのだ。このジンネル大陸で。
それはどんなに孤独な時間だったことだろう。ランディという神官と出会わなければ、ウンディーネは今も一人だった。
(ウンディーネは情の深い妖精。だから女しかいないの。それだけの深い思いを抱けるのは女だけだから)
ずっと、そのウンディーネは・・・。
(真琴。あなたは平気なのかしら。きっとあなたと一緒にいるウンディーネも同じように、あなたがいなくなってもそこで待ち続けるのよ、永遠に)
ああ、だから自分はゲヨネル大陸の妖精を側に置きたくないのだ。
優理は目を閉じた。
(その愛に、押し潰されそうになるから)
自分へ向けられる、惜しみなく深い愛情。それは永遠に続くのだ。自分なら耐えられない。
それに絡め取られてしまえば何もできなくなってしまう。
「考えるな。お前は顔を上げて全てを切り捨てていけばいい。それこそが誰よりも深く広い、お前の愛となるだろう」
そう言ってくれるレイスの言葉に甘えてしまいたくなる。
自分の背負う全てが怖くなるから。
「うん」
そうだ、レイスは決して自分を責めたりなんかしない。
こうやって気弱になってしまうのは、今だけだ。
だからこの家に置いて帰ろう。ウンディーネの愛など、見なかったことにして。
『ウンディーネ、お水をお願いできる? 少しでいいのよ、すっこっしっで。分かった?』
『勿論ですわ。どれくらいですの? ふふっ、今日もたっくさん出して差し上げますわ』
『きゃーっ、出し過ぎよぉっ。だから少しでいいって言ったのにぃっ』
『でしたら泳ぎましょう? この私にお任せくださいな。どんなに大きな湖でも、何なら海まで続く川でも。ふふ、今日もとても可愛らしい姿を見せてくださいな。あっぷあっぷって泳ぐ姿がもう本当に愛らしいんですもの。ね? 大丈夫、私がいる限り、決して溺れたりなどさせませんわ』
『私はぁっ、お茶を飲むためのお水を頼んだのっ。泳ぐ為じゃないのよっ』
心なんて分からない、遥佳じゃないから。
だけど途方もなく遠い、あまりにも隔てられた過去の時間。今となっては何も残っていない、思い出す人すら失われた過去の出来事が、優理の胸を締めつける。
ずっとウンディーネは待っていたのだ、帰らぬ人を。
そうしてその生の終わりにランディと出会って・・・。だけどそれまで、ずっと彼女は・・・。
(私もいつか誰かをそうして置いていくのかしら。悲しみと共に)
優理の涙をレイスのシャツが吸い取っていった。
「レイスは、・・・私より先に死んでくれる?」
「ああ」
そんな二人を、どこか声を掛けられない空気が包む。
テオドールもリシャールも、そしてエリーネや神官達もまた、何も言えずに立ち尽くすことしかできなかった。
疲れきってしまったのだろう。自分に抱きついたまま寝てしまった優理を、軽々と横抱きにして、レイスはテオドールを振り返った。
「俺はもうすぐこの国を出る。準備で忙しいんだ。二度と煩わせないでくれ。じゃあな」
あまりにもあっさりとした別離宣言である。
レイス以外の人間に、「え? それだけ?」みたいな空気が流れた。
アレクシアがウンディーネだったことはともかくとして、彼女が女神様もしくは神子姫様に親しくお仕えしていたという衝撃的なことを知って、何故それで落ち着いているのか。
しかも隠し子だという少女は、朝だというのに、くぴくぴともう寝ていた。
「アルド兄様、それはどちらに・・・」
「これから決めるさ。俺を兄と呼ぶのは止めろ、リシャール」
けんもほろろな対応に、リシャールは父のテオドールを見る。
「だが、アルド。本当にウルシーク様は納得なさったのか? いや、そのお嬢さんはそう言っていたが」
どう判断すべきかと、テオドールはリシャール達の後ろにいる神官達に目を遣った。
(納得したなら彼らが追いかけてくること自体がないと思うんだがな)
そういったテオドールの気持ちは、神官達にも分かっていたらしい。
困り果てたような顔でランドットは軽く両手を広げてみせる。
「そちらのお嬢様が、アルド様の所有権を主張なさったのです。よりによってウルシーク様に向かってですよ、テオドール様」
特に喧嘩を売る気はないらしく、微笑を浮かべてはいた。
「所有権ですか」
テオドールもどう反応すべきか迷ってレイスを見たが、彼は平然と優理の銀髪を整えている。
しかし、ランドットの声にならない声による、「ご自分の息子と孫娘に、きちんと礼儀を教えこんでいただきたいものですね」という要請が、テオドールの耳には届いていた。
きっとそれはテオドールの気のせいではない。
「アルド。所有権というのは?」
「こいつはそういう奴なんだ。俺を父と思う前に、自分のものだと思ってる」
「そ、そうか」
レイスの説明は、テオドールには理解できない世界だった。
そんなレイスの反応を冷静に確認した後、ガントークは苦笑してテオドールに説明する。
「ウルシーク様も、もうアルド様はいなかったものと思うようにと。リシャール様とエリーネ様にもそう伝えるように仰ったのですが、お二方とも先に邸を抜け出してしまわれておいでで、だから追いかけてきたのですがね」
ガントークはレイスに向き直る。
「アルド様。先程、アレクシア殿は女神様のお側にいらしたと、そちらのお嬢様は仰った。そして、あなたもそれを知っておられた。そうなのですね?」
「悪いが記憶にない。うちの娘だってそんなこと言っていない。目を開けて寝ぼけてたんだろう」
平然と、レイスはすっとぼけた。さすがに誰もが呆気にとられた顔になる。
(アルド、お前って奴はなんという・・・)
テオドールは今すぐこの場から失踪したいと、願わずにはいられなかった。
ここに集っている神官達の、「父親として息子をどうにかしろ」という、目は口ほどに物を言うそれがあまりにも自分の肌にピリピリと痛い。痛すぎる。
(アルド兄様。そういう性格だったんですね)
(アルドお兄様。なんて白々しい人なの)
実の弟妹も愕然とした顔で、レイスへの評価を新たにした。
「とぼけないでくださいっ。私達はたしかに聞きましたっ」
「もしもそれが本当のことでしたら、まさにテオドール様の昇格も間違いありますまいっ」
「大事なことなのですっ、どうかきちんとお話をお聞かせくださいっ」
ガントークの後ろにいた若い神官達が、口から唾を吐く勢いでレイスに向かって噛みつく。
「馬鹿馬鹿しい」
軽く肩を竦めると、優理を抱いたままレイスは歩き出した。
「アルド兄様、それはとても大切なことです。もしもご存じなら教えてください。まさか、バスティアのお祖母様がそんな名誉なことを・・・」
レイスは振り返って弟に冷たい視線を向ける。
「それで神官を名乗るのか、リシャール?」
「え?」
リシャールはたじろいだ。
「お前だけじゃなく、そこにいる奴らもだ。だからゲヨネル大陸の妖精も幻獣も神官なんぞに神子姫の情報を与えないんだ。名誉だの昇進だのに、女神様を巻きこむな。そんな虚栄心と利己心に満ちた存在だから、神子姫様にもお祖母様にも神官達は嫌われたんだ」
「・・・兄様」
そこで黙りこんだのはリシャールだけではない。
ガントークはレイスを検分するかのような瞳になり、ランドットが口を開く。
「ゲヨネル大陸に行ったことがないとおっしゃりながら、よくご存じのようですね、アルド様」
「お祖母様の考え方なら、知る時間は十分にあったからな」
「だからアレクシア殿が女神様に仕えていたとご存じだったのですね?」
「記憶にないと言わなかったか?」
ランドットは駄々っ子を見守るような表情になり、穏やかに尋ねた。
「冷静にお考えになってください。ここでそれを教えて下さったら、テオドール様やリシャール様の昇格も早まるのですよ? あなたにとっても悪いことではありません。高位神官が身内にいれば、何かと役立つことはあるのではありませんか? 大神殿の中枢にご家族がいらっしゃることは、利こそあれ、不利益などありません」
「大神殿? 女神様を前面に出しておきながら、女神様も神子姫様も完全不在の道化集団だろう? そこでどんな権力闘争をやらかそうが知ったことではないが、お祖母様を巻きこむな」
本来は無視していけばいいだけのことを、ここまでかかずらってしまったのは、やはり己の中に残る弟妹への情だろうか。
それをランドットに見透かされているようで、レイスも内心では苛ついていた。
だが、レイスの表情があまりにもリシャールを馬鹿にしているものだったので、そこにリシャールへの情を見出した者はおらず、ランドットもまた苛つかずにはいられない。
「まるでご自分は女神様に忠実であるかのようなおっしゃりようだ。ですがアルド様。あなたこそ、神子姫様を利用しようとした人間の一人では? 覚えがあるのではありませんか? どうしてあなたが地下牢にいたかをよく思い出されるといい」
レイスは、フッと嘲るような表情になった。
どうして自分がドリエータ城の地下牢にいたのか? そんなこと、全てにおいてその神子姫様とやらがあの医師達を欲しがったからに他ならない。
しかもその神子姫様は、こっちがひどい目に遭ったというのに、自分の方が被害者だと言わんばかりの勢いで八つ当たりしまくってくれた。
よく思い出せ? いかにその神子姫様が我が儘で人を利用してばかりなのかを?
相互理解など目指す気はないが、互いの認識には凄まじい乖離があると、レイスも感じずにはいられない。
(なるほど。だからお祖母様もアホらしくて何も言わなかったんだな)
自分がその立場になって理解できることがあると、レイスはしみじみ思った。
世間はあまりにも都合がいい人格へと、神子姫達を神格化しすぎだ。
「お兄様、どういうこと? 何かなさろうとしたの? お兄様、お祈りもなさらないし、本当はとっくにおかしくなってらっしゃるんじゃないの? まさか神子姫様に何か・・・」
「俺のことは放っておけと言わなかったか、エリーネ? お前はお前の結婚話の覚悟を決めるがいい。どう生きるも生きぬも、お前次第だろう」
「私のことより、そっちの方が大事じゃないのっ」
「何がだ」
レイスの赤茶けた瞳がエリーネを睨めつける。
「俺を責めることで現実逃避するな、エリーネ。お前は、人を責めることで自分が正しい立場にあると思いこみたいだけだ。結局、お前には何の覚悟もない」
「な・・・」
冷たい兄の言葉に、エリーネの頬に朱が走った。
「大体っ、そこの子がウンディーネの力を引いているなら、私の立場をその子が背負うべきなのよっ。それこそお兄様は私に対して悪いと思いませんのっ?」
「全く思わないな。お前とこいつとでは、生きる覚悟も根性も違いすぎる」
黒い髪に緑の瞳をしたエリーネ。それは母と同じ色合いだ。
最後に見た時は7才だった妹は、いつしか母のスカートの後ろから恐々と自分を見るのではなく、こうして自分で主張するようになっていた。
全く嬉しくはないものだなと、レイスは思う。
「言っておくが、エリーネ。こいつは金なら十分に持っている。自分を試したいと、好きで占い師をやってるだけだ。お前にそれだけの覚悟はあるのか? 恵まれた環境に背を向けて生きようとする人間を、その努力をしたこともない奴がどうこう言う権利はない」
その言葉に、神官キアランが軽く眉根を上げる。それならば、占い師をしていても春をひさぐ必要はないからだ。
だが、どうして彼女はそんなことをしていたのだろう?
まさか、世を忍ぶ仮の姿は怪しげな女占い師といった優理の様式美ポリシーに、キアランが気づく筈もなかった。
「じゃあ、お兄様はどうですの? その子を働かせて生活しておいでのお兄様は」
「お前達が何をどう考えようが勝手だが、俺がその思考に付き合う義務はない」
ぐっと唇を噛みしめたエリーネは、それでも馬小屋に入っていこうとするレイスに叫んだ。
「じゃあお兄様が私達に迷惑をかけるのはどうなんですのっ。お兄様が神子姫様を利用したというのであれば、お兄様もお父様も、お祖父様にも迷惑がかかりますのよっ」
「そんな事実がどこにある。使用人達に守られてぬくぬくと暮らすだけの無能なお前と違い、神子姫はとっくに幻獣や妖精、そして異才の元神官を従えて世界中を飛び回っている。それをどうやって利用できるんだ。そんな間抜けな妄想を垂れ流す愚かさを広言するな。恥ずかしい」
「・・・!」
「馬鹿な女を可愛いと思う男もいる。そういう男を見つけるんだな、エリーネ」
痛烈な皮肉は、エリーネではなく神官達にぶつけたものだ。けれどもエリーネはそれに気づかず、勢いのままに兄の後を追いかけながら確認しようとする。
「では、・・・では、お兄様は神子姫様を利用することなどしていないと断言できますのね?」
「当たり前だ」
自分は利用されている側だ。
レイスは優理を一度肩に担いだ状態で馬に乗り、そうして抱え直した。
「ん・・・」
その動きに、優理が薄目を開ける。
「寝てろ。お前を落とすことはない」
レイスらしく淡々とした口調だったが、妹への言葉と違ってそこには柔らかな響きが含まれていることに気づき、エリーネが唇を噛んだ。
「だけど、慰謝、・・・料、取り、損ねた・・・の」
勢いのままにレイスを取り戻してきてしまったが、お金は沢山持っていそうだったし、ウルシークからも慰謝料を取ってくればよかった気がする。
寝ながらそんなことを優理は考えついていた。
そうだ、こいつも馬鹿だったと、レイスは馬をゆっくりと歩かせ始める。
「たまには金を巻き上げないことを学べ。こないだも十分に分捕っただろう」
「・・・れは、それ。これは、・・・これ」
さすがにレイスも呆れてしまうが、主張の途中で、優理はくぅーっと寝入ってしまった。
「アルド。行くのか」
「十年以上いなくてもお互いに問題なく過ごしてきた。これからもそうだろう」
「この家は、お前にやりたいと思っていた」
「必要ない」
そのまま馬を進ませていく後ろ姿に、テオドールは何か言おうとして、けれども今になって言うこともみつからず、仕方なく思いついて言ってみる。
「目覚めたら、彼女にありがとうと伝えてくれないか」
「ああ」
門を通過し、去っていく長男は振り返ることもなかった。
テオドールは、大きく息を吐かずにはいられない。
(もうお前にとって私達は家族じゃないんだな、アルド)
それは仕方ないのかもしれない。あの時、彼の言葉を誰も信じなかった。
(私がしてやれたのは、・・・見送ることだけだった)
彼はあまりにも異端だった。一人だけ薄い色の髪をして、キャサリンにも疎まれて。
ゆえに彼が求めた居場所は、ランディとアレクシアが暮らすこの家だった。
最後まで理解できなかった母、アレクシア。この家で、彼はアレクシアとどんな日々を過ごしていたのか。
――― 都合よく特性が出るなら苦労しないわ。あなたはただの人間。
優理の言葉が甦り、テオドールの胸に突き刺さる。
どうして両親は、最後までアレクシアが元はウンディーネだった事実を教えてくれなかったのか。たった一人の息子だというのに。
そんなにも、自分を信用していなかったのか。
(いや、あの父と母だ。何も考えていなかっただけかもしれない)
目を閉じれば、両親の在りし日の姿が浮かんでくる。
ああ、本当に・・・。
『まあ、テオドールは神官になるの? そうしたら神殿が遠すぎる場所に暮らす人達の村まで行くのね。そうして女神様を讃えるんだわ。なんて素敵なのかしら。そう思わない、ランディ?』
『そうだなぁ。きっとそこには素晴らしい愛があるんだ。な、アレクシア』
『何を太平楽なことを。俺は真面目に努力して上を目指すんだ』
『上? 上ってあの神官の階級のこと? テオドールったら、本当にまだまだお子様なんだから。ふふ、しょうがないわねぇ』
『お子様なのはお母さん、あなただ。俺は、大神殿で働く神官になりたいんだからなっ』
『それはいいんだがなぁ。そこにお前の幸せはあるのかい、テオドール?』
ああ、本当にあの人達だけは最後まで理解できなかった。
あまりにも非常識で、あまりにも身勝手で。
いつだって奔放で、いつだって迷惑ばかりで。
だけどどうしてあの人達が語っていた愛を、今も自分は忘れられないのだろう。
少し離れた場所から様子を窺っていたカイネと合流し、やっとレイスもほっとした気分になった。
「なんかベリーと鳥肉が欲しいとか言ってたな」
「ふぅん。たまには鶏以外の肉が欲しくなったのかね。ユーリちゃんも食い意地が張ってるからなぁ」
馬を預かり場所に預け、優理をおんぶしながら市場へと出向く。
「なあ、レイス。ブラックベリーじゃ酸っぱくないか?」
「パイを作るとは言ってたが、最近、ソースにこだわってるからな。ベリーも余ったらソースにするつもりだっただろう。それならブラックベリーも安い」
ドレイクの資産管理もしているレイスは、経済観念がかなり発達していた。
「ユーリちゃんもやるとなったらこだわる子だからなぁ。じゃあ、ブラックベリーとブルーベリー、ラズベリーも買っていくか」
カイネの方が、気前がいい。普段、優理の手料理をご馳走になっているだけに、ラズベリーも黄色い実と赤い実とを買い求める。
「そこまでいるか? 買いすぎだろう」
「いいじゃねえか、食う奴は沢山いるしよ。こうして寝てると可愛いんだがなぁ」
レイスの肩に顎を載せて寝ている優理の頬を、カイネは面白そうに笑いながら撫でた。
この街は大神殿や王宮がある為、市場も品揃えが多い。
「あの鶉の卵と牛肉が、・・・私を、呼んでる」
ついでに安く売られていた鵞鳥の肉を買い求めれば、優理も寝ぼけながら薄目を開けて希望を出してくる。
「別に卵も牛肉もお前を呼んでないと思うんだがな、ユーリ。で、どれくらいいるんだ?」
レイスは買う量を尋ねた。
「ん、これくらぁい」
「お。何だ、ユーリちゃん、起きたのか」
「これくらいで分かるか。どれくらいいるんだ?」
「んー。起きた? 起きたかも・・・?」
そう言いながら、優理は再びこてっと寝てしまう。
「しょうがねえなぁ。まだ眠いんだろ、ユーリちゃん。昼は食ってってもいいかと思ったが、何か買ってくか。で、途中の野原かどっかで食おう」
「そうだな。あとは牛肉と鶉の卵か。・・・って、そっちはティネルでいいだろが。あっちの方が安い」
折角だからとドレイクやフォルナーが喜びそうな酒とつまみも買い、レイスとカイネは帰ることにした。情報交換は移動中でいい。
優理にはクルンの実でも食べさせておけば、やがて元気に目覚めるだろう。
ウルシークの部屋へ報告に出向いたテオドールとランドット達だったが、そこでリシャールは自分の部屋がある区画へと戻るしかなかった。
「お前は部屋に戻れ、リシャール」
ウルシークにそう告げられてしまったからだ。
(どうして私が追い払われなくてはならないのだ)
同時に祖父の言うことは絶対である。
諦めてとぼとぼと自分が暮らす区画へと戻り、自室の扉をカチャッと開ければ、その音に心が疲れていることを感じた。
荒っぽくドタドタと足音たてて横断し、寝室の扉を開けて寝台に寝転べば、様々な思いが溢れてくる。リシャールは右腕を両方の瞼に乗せるようにして、せめて自分の視界にだけはと闇を作り出した。
(やっぱり、・・・男だったじゃないか)
何を恨めばいいのか、本気で分からない。
分かっているのは、自分が途轍もなく愚かだったということだけだ。
(今更、何を言えるというんだ)
しかも今回、兄にもその娘にも、こてんぱんに罵られてばかりのような気がする。
――― それで神官を名乗るのか、リシャール?
兄の言葉が耳の奥で何度もこだまする。
――― 名誉だの昇進だのに、女神様を巻きこむな。そんな虚栄心と利己心に満ちた存在だから、神子姫様にもお祖母様にも神官達は嫌われたんだ。
神殿とも神官とも無縁で生きてきた兄の方が、まるで全てを分かっているかのように。
――― 何でもかんでも女神様を持ち出せば相手が黙りこむと思うんじゃないわよ。それは女神様の威を借る狐ってだけね。だから神官は小物って言うのよ。
しかも兄の娘には、必要以上に馬鹿にされた気がしてならない。
――― 小物が嫌なら、神官なんて女神様に纏わりつく、ただのコバンザメね。
女神様に仕える神官は、どこにあろうと敬意をはらわれるものだ。ましてやリシャールは、エリート街道を歩いている青年である。
そんなチンピラ扱いされたのは、初めての経験だった。
心ある普通の人々が聞いたなら、そのあまりにもひどすぎる暴言に、誰もが優理を非難したに違いない。
(なのにどうして、彼女の言葉が胸に突き刺さるのだろう)
それは恐らく、あの二人が揺るぎない価値観を既に構築しているからだ。
――― 神子姫はとっくに幻獣や妖精、そして異才の元神官を従えて世界中を飛び回っている。
それではまるで置いていかれているのは神官である自分達ではないか。
「くそっ」
仰向けになったまま、リシャールは寝台を殴らずにはいられなかった。
すやすやと寝ていた優理だが、寝ぼけながらもレイスに幾つかクルンの実を食べさせられたものだから、野原で昼休憩する頃には目が覚めていた。
「何故かしら。お昼の時間なのにお腹が空いてない」
白身魚と野菜のマリネ、平べったいパンに生ハム、そして薄切りチーズと林檎。
それらを前にして、爽やかな風が吹く草原の中、優理は悲しげに呟いている。
「そりゃ寝てたならそんなもんだろう。腹が減ってから、馬の上で食べろ」
「そうだな。ユーリちゃんの好きな具をパンに挟んでおくといい。ほら、せっかくの草原だ。走りまわれば腹も減るさ」
「あのね、カイネさん。私、原っぱがあるからって走り回る程、お子様じゃないの」
真琴じゃあるまいし、これでも自分は花も恥じらう年頃の乙女なのだ。優理としては、淑女の扱いを求めるものである。
「だけどあそこの岩の上で飛んでる蝶、捕まえて標本にする人がいるぐらいに人気らしいぞ、ユーリちゃん。高く売れるんだとよ。たしか銀貨二枚だったか?」
「なんですってっ」
くるっと優理は振り向いた。
「どこっ? どこの蝶っ?」
「あ、草の間に入っちまった。まあ、出てきたらすぐ分かるさ。全体がかなり綺麗な青色に光る蝶だからよ」
「銀貨二枚ねっ」
ぱたぱたと、優理がその岩の方へと走り出していく。
「おーい、ユーリちゃん。翅が傷んだら価値は落ちちまうんだぞぉ」
「任せてっ。私なら完璧っ。翅なんて傷ませないわっ」
カイネがその後ろ姿に向かって声をかければ、曇りのない笑顔で振り向き、親指を立ててきた。
「なんであいつは小銭稼ぎとなると目の色変わるんだろうな」
「そこが可愛いじゃねえか、ユーリちゃん。・・・大体、ユーリちゃんの腹が減ってないの、お前がクルン食べさせたからだろ」
「・・・たまには走り回るのもいいかもな。お子様体型に少しはメリハリもつくだろう」
レイスも遅い朝食だったのでさほど空腹ではなかったが、カイネは夜明け前から出てきていたものだから、かなり早いペースで食べていく。
「で、大丈夫そうか?」
「分からん。元々、昔から何を考えているか分からん相手だ。とりあえず大神殿は、城だの塔だの壊してくれるハールカ姫では扱い辛すぎると、マジュネルのマーコット姫か、ゲヨネルにいる神子姫に繋ぎをとってお迎えしたいそうだ。だが、俺がドリエータ城で捕らえられた男だと確信している奴らもいた」
「・・・さっさと移動した方が良さそうだな。お前もユーリちゃんも」
カイネは扱いやすいという意味と、遥佳が被った冤罪について少々考えこみ、それについては何も言わないことにしたらしく、建設的な意見を捻り出してきた。
「そうだな。俺の隠し子では政略結婚の役には立たんと返品を喰らったことだし」
「へえ? ユーリちゃん、可愛いのによ」
岩の周りをあちこち覗きこんで蝶を捜している優理を眺め、カイネは不思議そうな顔になった。
優理は性格も素直だし、経済観念もきっちりしているし、家事も得意だ。国王だの王子だの貴族だのと話ができる教養もある。パッパルート王宮での振る舞いを思い出せば、恐らくその気になれば礼儀作法も完璧だろう。
本来の素性を出さずとも、どこに出しても恥ずかしくない令嬢ではないか。
決して下品なところもない。何が問題だったというのか。
「あいつと結婚してもらうには、黄金で出来た城を差し出さなきゃいけないらしい。しかも、神官なんぞ女神様に纏わりつくコバンザメだと言い放ってくれた」
「あー、そりゃ永遠に嫁にはいけそうにないなぁ」
なるほど、全てはあの性格か、困ったもんだと、カイネは苦笑いした。
「ま、本当にユーリちゃんがお前を取り戻して来るとはな。良かったよ」
ぱんぱんと、レイスの肩を叩く。
どんな時でも、カイネはハッピーな面を見出して生きていくのだ。
「俺を返さないなら、俺の隠し子様は大神殿に出向いて、俺が実の娘に性的虐待していると暴露してくれるそうだ。そしてあの家に関係する神官全て、醜聞と共に破滅させてくれるらしい」
「あー、そりゃユーリちゃんだもんなぁ。やるかもなあ」
レイスがどんな目で皆から見られたことだろうと、カイネも同情せずにはいられなかった。大体、何がどうなって隠し子なのか。
「だけどなぁ、レイス。最初から隠し子だなんて言わなけりゃ良かっただけだろが。かなり無理があったぞ、ありゃ」
「ユーリの家を住所にしておいたのと、俺への興味を失くしてもらうのとに、一番いい理由だったんだ。あの発育不良娘なら、多少のサバもきく」
「まぁな。あの胸の無さならそうだろうが、いかんせん、口から出る言葉が全く子供じゃねえ」
「・・・口を塞ぐのさえ成功すれば問題ない」
カイネは、レイスの口調に疲労を感じ取る。
「成功したのか?」
「問題は人の目に見えない第三の手を俺が持たないことだった」
その隠し子とやらは、草むらを蹴ったりして隠れている虫を驚かし、目を皿のようにして銀貨二枚に化ける蝶を探しまわっている。
怪我をさせることも、痛めつけることもなく口を塞ぐのはたしかに難しそうだ。
「だが、キースヘルムの旦那も闇討ちであいつらを始末しまくっている。あそこもどっちが先にやられるかだ。かなりバカスカ殺してるからな。おかげで元手下らがお前を探しまわってるぜ、レイス」
「何故だ?」
「キースヘルムの旦那が執着した素人娘はユーリちゃんだけだ。それを隠せるとしたらお前さんだけだからだろう」
カイネは、ドレイクが全てをレイスに押しつけただけだという事実を言わなかった。
平常時のカイネは、駄目な子にも甘くなってしまうタイプなのだ。
「本気でユーリは先に出すか」
「あそこから出なければ安全だぞ? 俺達だって尾行には注意してる」
カイネの言葉に、レイスは首を横に振る。
「いや。もうここまで来たら予定を早めてでも出国させよう」
どうせ受け入れ先のパッパルート王国にはディッパがいるのだ。
彼ならば王宮に優理を迎えて世話ぐらいしてくれるだろう。
「どうしたよ、レイス」
何故、そこまで焦るのかと、カイネが問いかけるような顔になった。
「世間一般常識を無視して喧嘩を売るような小娘、これ以上、野放しにできるか。次は誰に噛みつくやら知れたもんじゃない」
「あー、そりゃしょうがねえ。自分が一番偉いと思ってるだろうしよ」
「自分が世界で最上だそうだからな」
カイネも、そんなこと言ったのかよと、失笑してしまう。
「その通りなんだが、ユーリちゃんの場合、態度がでかすぎるから、誰も本気にしてくんねえんだろなぁ」
ある意味、世間における神子姫幻想が原因だろう。たとえ優理が、「この私こそが・・・」と、名乗ったところで誰も信じなさそうだと、カイネは思っている。
「だが、パッパルートの王宮なら大丈夫だろう。あそこなら、あの態度のでかさも諦めている上、トップが味方だ」
大事なのは、優理の正体を知っても利用しようとしない相手に守られていることだ。
レイスは自分を過信するつもりはなかった。だからこそ、今まで生き延びられたと思っている。優理の安全に対しても、細心の注意を払ってそれを見極めなくてはならないと考えている。
パッパルート王宮内の暗殺候補者達は遥佳によって全員排除されたようだし、今ならば優理も安全だ。それにエミリールとウルティードもいる。身を守ることに関して、あの二人はかなりのエキスパートだ。
「そうか。ユーリちゃんはまた喚きそうだが、そこらへんはうまくやれよ、レイス」
「あいつが暴走しなけりゃな」
「いくら何でも、これ以上はないだろ」
「ああ」
レイスとカイネは頷き合う。
その視線の向こうで、様々な蝶や蛾に翻弄されながら、お金になる蝶はどれだと、優理が奮闘していた。
銀貨二枚に化ける青い綺麗な蝶を捕まえた優理は、長い草の茎を編んで虫かごを作り、そこに蝶を入れていた。
「銀貨二枚。なんて素晴らしいのかしら。そうしたら何が買えるかしら」
うふふふふと、それを考えているだけで幸せになれるらしい優理はとても安上がりな娘だ。
「たしか牛肉と鶉の卵がいるんだろ、ユーリちゃん。それは市場で俺が買ってってやるし、ついでに蝶も売ってきてやるよ」
「ありがとう、カイネさん」
ティネルの街に入った時点で、後はもう優理は隠れ家に向かった方がいいと判断したカイネは、そう言って虫かごを預かった。
「じゃあな、レイス。さっさと連れていけ。ドレイクやエミリールも心配してる筈だ」
いくら銀髪の鬘をかぶせていても、目端の利く奴なら誤魔化せない。何故ならキースヘルムの元手下達も追い詰められている。
そのカイネの気持ちはレイスにも通じていて、当然とばかりに頷いてきた。
「ああ。大体、感情のままにお前は動き過ぎなんだ、ユーリ」
「何よぉ。私のおかげで助かったくせに。レイスってばナ・マ・イ・キ」
「お前の生意気さに勝てる奴はいない」
「ふぅーんだ」
ぷいっと横を向く優理だが、その焦げ茶色の瞳が見知った顔を見つける。
ちょうど馬に乗ってこっちにやってきている金髪の男は、かつてキースヘルムの手下の一人として紹介されたことがあったからだ。
(どこかで見たことある顔だわ。たしかあれは、幼な妻の私にメロメロという設定だった人よね)
そう、名前は・・・。
「あ、そうよ。フレドルクさんだわ」
「えっ? ユーリちゃんっ!?」
「うわぁ、久しぶりねー。元気だった?」
やっほーと、手を振る優理を、レイスとカイネが止めようとした時には遅かった。
何故なら優理は銀貨二枚の臨時収入が入るということでとてもご機嫌だったからである。気分はハイでありアッパーだ。
「ユーリッ、この馬鹿っ」
レイスが逃げようと思った時にはもうフレドルクの馬はそこに来ていて、がしっとレイスの持っている手綱に手をかけている。
レイスが遅かったというよりも、鬼気迫る迫力に押し負けたと言っていい。
「ユーリちゃんっ。会いたかったんだっ」
優理の髪は銀色になっていたが、そんなことはフレドルクにとって何ということではなかった。大事なのは優理を見つけ出すことだったのだから。
「え? やだぁ、フレドルクさんたら。キマリーで別れて以来よね。元気だった? ・・・えぇっと? 何か疲れてる?」
そこまで言った優理は、そう言えばキースヘルム達は追徴課税で大変な状態だったのだと思い出す。
フレドルクの顔にはかなりの疲労が浮かんでいたからだ。まさか自分を探してずっと馬で走り回っていたとは思いもしない。
(あら、そういえばまずいわ。私の銀貨二枚収入がばれたら持っていかれちゃう)
お金は大事なのだ。いくら知り合いでも、そこはなあなあになってはいけない。
「良かったっ。ユーリちゃん、捜してたんだよっ」
「お金なら無いわよっ」
ぴしゃりと、優理は叫んだ。強請集りには最初が肝心なのだ。
「金じゃないっ。ボスのことだっ」
「ボスとおだてられてもお金は無いのっ」
ぴしぃっと、優理は拒絶した。甘い言葉に騙されてはいけないのである。
「金じゃなくてボスなんだよっ」
「だからボスにしてくれてもっ、・・・ってボスって、・・・キース?」
おや? と、優理は首を傾げた。
「うちのユーリをお宅の面倒なごたごたに巻き込まないでくれないか。いくら賢そうなことを言ってても、所詮、こいつは馬鹿なんだ」
レイスは、手綱から手を離せと、フレドルクに要求する。
馬を走らせて無理に振りきるわけにいかないのは、隠れ家を知られたくないからだ。
「ちょっと待って、レイス。誰が馬鹿ですって? 私はいくら何でも考えなしにホイホイお金を出したりなんかしないわよっ」
銀貨二枚の収入を人に貢ぐような馬鹿だと思わないでほしい。
優理はプライドにかけて主張する。
「レイスさん、そう言わないでくれっ。うちだって死活問題なんだっ」
「だからこそ巻き込まないでくれ。いくら生意気なクソガキでも、これでもうちの大事なドレイクの弟なんだ」
「誰が弟よっ。その前に『大事な』のはドレイクなのっ、私なのっ」
「そうっ、ボスの大事なユーリちゃんならどうにかなる筈なんだっ」
カイネは蝶の入った虫かごを持ちながら、馬鹿馬鹿しい気分になった。
(俺、明け方前から連れ出されてんだけどな。今日ってのはまだまだ終わらねえのかねぇ)
優理はちゃんと行きも帰りも馬上で睡眠をとっていたが、カイネはずっと休みなしである。
「こんな非力で生意気なだけの子供に無茶を言うなっ。お宅のことはお宅で片付けろっ」
「ユーリちゃんならどうにかなる筈なんだっ」
「こいつを人質にするのが、何がどうにかなるだっ」
フレドルクとレイスが言い争っている中で、優理も自分の身が危険となればそこは問い質したいというよりも、逃げようという気分になったらしい。
「ちょっと待って。どうして私が人質なのっ」
割り込むように優理が叫んでいる。
「ユーリちゃんっ。一度は結婚していた仲だろうっ。頼むっ、一生のお願いなんだっ」
「そうかもしれないけどっ。だけどあれっ、関所を通過した時点で解消よねっ!?」
「そう言わずっ。通過しなかったんだから、まだ有効だろうっ」
「だけど人質なんて嫌ぁっ。ご飯だって美味しくないし、不自由な目に遭わされるのよっ」
「そんなことしないっ。どんな条件でも飲むっ。頼むっ、頼むからっ」
「嘘よぉっ。人質って言うと、お掃除させられて、まずい残りご飯食べさせられて、そして四畳一間の侘しいお部屋で、服だってぼろぼろで涙ながらに鼠だけが友達なのよぉっ」
フレドルクと優理の会話。
そのあまりの馬鹿馬鹿しさに、レイスがかなりやる気を削がれていくのがカイネには分かった。
(思うに、さっき咽喉が渇いたとか言い出したユーリちゃんにワインを飲ませたのがまずかったんだろうな)
だが、都合よく果汁など持っていなかったのだから仕方がない。あのワインはかなり口当たりも良かったらしく、優理はこくこく飲んでいたのだ。
(寝ててくれる方が静かだからと止めなかったのが裏目に出たか)
カイネは空を見上げて溜め息をつく。更に今日は長い一日になりそうだった。
事務所に、何故か優理を連れたレイスがやってきたものだから、ドレイクはとても嫌そうな顔になった。しかもレイスの後ろには見知った顔とカイネがいる。
「なんや、レイス。なしてこっちにユーリ連れてきとんのや。で、そちらはんは、と」
「フレドルクさんだ。ユーリが声をかけてくれてな」
「あー。そんなこったろ思たわ」
それでは銀の鬘も全く意味がないではないか。
「ほんま、お前はん、出かける度に男、連れ帰ってくんのな。どないかしぃ、その性癖。行く末怖すぎやわ」
椅子から立ち上がり、ドレイクは机を回るようにしてレイス達の近くへと寄っていき、何故か、むすっとした顔の優理の額をピンッと指で弾いた。
「で、なんでふくれっ面しとんのや。ん、ユーリ? ちゃんとレイス連れて帰ってきたんやろ。もっとご機嫌な顔しぃや」
「ドレイクぅ」
「なんや、どないした」
どうしたものかと思い、まずは優理に話しかけることで時間稼ぎをしていたドレイクだが、優理が抱きついてきたので、左手をその背中に回し、よしよしと頭を撫でてみる。
いつもこう素直だと可愛げもあるのだが。
「銀貨が、銀貨二枚が、・・・今日は沢山持ち込まれたからって銀貨一枚と銅貨五枚だったのぉ」
「意味分からへん」
「銀貨二枚で、あの特別バター買おうと思ってたのにぃ」
「バターなんぞ普通のでええやろが」
「違うのよぉ。あれはとってもとっても美味しいのよぉ。そのまま舐めても美味しいのよぉ。だけどカロリー高いし、あれに慣れたら安いのが悲しくなるから我慢してたのにぃ。今日は臨時収入だから買えるって期待してたのにぃ」
「・・・・・・」
ドレイクは、レイスを見た。
「ワインで酔っ払ってんだ、こいつ」
「そんでか」
「野原で捕まえた蝶が銀貨二枚で売れると期待してたらしくてな」
「納得したわ」
ドレイクは、駄々っ子相手に真面目になる必要などなかったことに気づく。
「バターぐらい買うたるし、そないなことでぐちぐち言わんの。それよかユーリ、お前は素人や。こんな所に来るもんやない」
それはいささか苦々しげな口調だった。
「ドレイク」
「なんや」
優理が少し甘えたような声で名を呼ぶものだから、ドレイクも穏やかに問い返した。
「なんでキースのこと、教えてくれなかったの?」
「・・・・・・」
「ひどい。レイスもドレイクもカイネさんも教えてくれなかったなんて」
被害者ぶる優理に、レイスは冷静な声で言い聞かせる。
「なあ、ユーリ。だが、かなりの課税がかけられているのも事実だぞ? お前、金が絡むとなったら無関係だってわぁわぁ喚いといて、それはないだろう」
「そういう問題じゃないのっ」
優理は、キッと振り向いた。
「私はねっ、私にだけ内緒にされていたのが気に入らないのよっ」
「いやいや、ユーリちゃん。ほら、これでドレイクにも文句言ったんだから、気はすんだろ? ドレイクやレイスだってユーリちゃんを心配してんだ。な? 今日は疲れてるだろ? もう休みたいだろ? キースヘルムの旦那もあれで馬鹿じゃねえ。どこぞで折り合いはつけるさ」
カイネがそこで取り成すように言って、終わらせようとする。
「ドレイクさんっ。うちのボスを動かせるとしたらユーリちゃんだけなんですっ。どうか助けてくださいっ」
そこでフレドルクが身を乗り出してきた。
「ユーリちゃんっ。君だけが頼りなんだっ。もう他に打てる手はないっ」
「ちょい待ち、フレドルクさんとやら。うちのユーリをなんに使お言うんや。出直し。こんでも傷一つつけられたら困る子なんやで」
ドレイクは優理を左手で抱え込んだまま、フレドルクを冷たい瞳で見た。
「傷などつけませんよっ、ドレイクさんっ」
「ほんなん信じるアホがどこにおるんや。キースヘルム誘き出すんに使うた後は皆で楽しむんがオチやし、使えへんかったら八つ当たりでボロボロにされるだけやろが」
「そんなことはしないっ」
「ほないな寝言、よそで言うてき」
ドレイクが、冷たくあしらう。
「寝言なんかじゃないっ。ユーリちゃんっ、君だけが最後の希望なんだっ。頼むっ、兄貴達を助けてくれっ」
「いい加減にしろ。さ、お引き取り願おうか。ユーリ、キースヘルムのことは本人がどうにかすべきことだ。お前が関与するようなことじゃない」
レイスもまた、フレドルクを冷たい目で見下ろした。
こうなったら尾行されぬよう、他にも誰かを呼んで撒く必要がある。そうして優理をきちんと隠さなくては。
今もこの部屋の外では、何人かが聞き耳を立てている。状況を読んですぐに動く為だ。
「ううん。待ってちょうだい、レイス」
その時、優理はとても気が大きくなっていた。だからレイスを制して微笑んでみせる。
そう、自分こそがナンバーワン。人はそうやって自分に誇りを持っていきていかなくてはならない。そうではないか。
(だって、私こそが世界で一番なんですもの)
そんな優理は、お酒を飲んだら思いっきり気が大きくなるタイプだ。
「この私に助けを求めるだなんて、とても賢いと思うの。・・・勿論、その見返りは期待できるのよね?」
ドレイクの腕の中にいる優理は、フレドルクを振り返った。
その瞳に、銀貨二枚をせしめ損ねた恨みを見出したのはカイネだけだったかもしれない。美味しい特別バターの恨みかもしれないが。
「え? あ、ああ。まあ、そりゃそれなりに・・・」
フレドルクが見返りという言葉に戸惑い、何と答えていいか分からず、あやふやに言葉を濁す。
「じゃあ、聞かせていただきましょうか。いいえ、フレドルクさん。あなたじゃなくて、そういうのを決められる人とお話し合いしたいわ。だって取りはぐれるだなんてごめんだもの」
「ちょい待ちぃや、ユーリッ。何考えとんのやっ」
「阿呆なことを言い出すな、ユーリ」
ドレイクとレイスが制止しようとすれば、優理はがしっとドレイクとレイスの腕を掴んだ。
「勿論、可愛い私の身の安全の為に、ドレイクとレイスもついてきてくれるわよね? 勿論、カイネさんも来てくれるわよね? 私を一人になんてしないわよね? か弱い私が、見知らぬ男達に恫喝されたりなんかしたら可哀想すぎるわよね?」
「・・・・・・」
ドレイクがレイスを見た。
「ドレイクとレイスとカイネさんなら、他の人にも協力を頼めるわよね? だって私、男の人達に囲まれて脅されるの怖いもの。フォルナーさん達なら私をそんな目に遭わせないわよね?」
レイスは視線を逸らしてカイネを見た。
「あー。何十人、用意してくりゃあいいかねえ? あっちに乗りこむとしたら」
カイネはぽりぽりと首の後ろを掻いて、ドレイクを見る。
(あかん。カイネはユーリにめっちゃ甘い奴やったわ)
どうして自分達が数十人がかりでキースヘルムの元手下達の所に行かねばならないのか。放置しておきたいのに、それではどっぷり首まで浸かる事態ではないか。
「なしてお前はそう危ないことに首ばっか突っ込むんやっ! こんボケ娘がぁっ」
「そこにお金があるからよっ!」
「ちゃんとこんアホ、躾けとけやっ、レイスッ!」
「俺の責任か? 育てた親に言え、親に」
「お前の隠し子やろがっ」
「そもそもカイネが安請け合いしたのが後押しになったんだろうっ」
「俺のせいかよっ」
その言葉に、フレドルクが驚いた顔になる。
「えっ? まさかユーリちゃん、レイスさんのっ? ドレイクさんの妹じゃなくてかっ」
レイスをまじまじと見てきたのは、幾つの時の子かと逆算せずにはいられなかったからか。
ぐるぐると責任を押し付け合う三人の男達は、互いの優理への甘さを棚上げして相手を責め立てていた。
(幾つの時の子だよ。すげえな、おい)
まじまじと見てくるフレドルクの心情すら自分の脇役とばかりに、優理はこぶしを握って天井へと振りかざす。
「蝶で稼げなければキースで稼ぐ。そう、諦めずに努力すれば報われることってあるわよね」
そして興奮したことで更に酔いがまわったのか、目をとろんとさせていた。




