9 遥佳と真琴はドリエータで暮らし始めた3 (拾ってみた)
家に閉じこもりがちだった遥佳は、お菓子作りもするが、小さな刺繍なども大好きだ。
スカートには大きなポケットを自作してつけている。やはり大きなポケットは便利だ。色々な物を入れておける。
(それにこれを入れておいても大丈夫)
真琴が王宮に忍びこんで取り戻してきてくれたスケッチ。
ドリエータ近辺では馬や牛の革なども安いので、厚みのある焦げ茶色の革で枠と裏打ちをしてもらうよう、真琴がお店で手配してきた。
街角に貼られている女神と三人の神子の絵に似ているが、真琴が持ち込んだものは黒一色のラフなスケッチだ。
「何だ、あの貼り紙を真似して描いてもらったのかい? 色もつけてもらえばよかったのに。何なら絵描きを紹介しようか、坊主?」
「ううん、これでいいんだ。何も手を加えないでほしいの。黒一色だからいいんだよ」
店主の提案を当然のことながら真琴は断り、そうしてでき上がったのはハガキサイズの革製パスケースみたいなものだった。
光沢のある焦げ茶色の革製ケースに入っているのはICカードではなく、タイガの描いた自分達のスケッチ。それを遥佳はいつもスカートのポケットに入れている。
どこかに置きっぱなしのまま、何かあった時に持ち出せなかったら悲しすぎるからだ。
(お父さんの残してくれた形見だもの。いつか優理に見せてあげなきゃね)
遥佳はそう思っていた。
ドリエータでも便利な街中に部屋を借りている遥佳や真琴と違い、イスマルクは治療院で住み込み生活だ。
「おはよう、ハールカ、マーコット。今日はお休みじゃなかったのか?」
「そうなんだけど。おはよう、イスマルク」
「おはよう。ハールカがイスマルクの様子を見ていくって言うからさ」
「そうなのかい? ほら、お菓子をあげよう」
今日はお休みの日なので、また馬に乗る練習をしながら第7神殿に行くつもりだった遥佳達だが、どうせ治療院は貸し馬屋の近くにあるしと、イスマルクの部屋にひょこっと顔を出してみた。
二人の頭を撫でながら、イスマルクが引き出しから飴細工を取り出して渡してくる。
「ありがとう。あっ、馬だ」
「マーコットは馬と仲良しだからね。ハールカは花模様だよ」
神官は様々な行事を行うことから、イスマルクはかなり器用だ。
パンも焼けるし、料理もできる。子供達に配る為のお菓子作りも手慣れたものだ。
イスマルクの部屋も自分の陣地だと思っている真琴は、いち早くベッドの上に座って遥佳の袖を引っ張った。
遥佳も笑ってベッドに座る。
イスマルクが来てから、ハミトとレイノーの部屋もかなり片付けられていた。
「ありがとう。とても可愛い。あのね、ちょっと教えてほしいことがあるの。・・・えっとね、イスマルク。神殿って牛とか飼ってるの? そうしたら神殿の焼印とかつけたりするの?」
飴をぺろっと舐めれば甘さが口いっぱいに広がっていく。
遥佳と真琴は、にこっと笑い合った。
「神殿の焼印がついた牛? また変わった質問を」
イスマルクは右側の眉を上げて少し考える。
「だって神殿だって沢山の神官様がいるでしょ? 牛とか豚とかいたらお肉を買わなくていいし、便利じゃない?」
その心を読もうと思えば読める遥佳だが、必要がない時はしないようにしていた。誰にだって心の秘密は守られるべきだし、イスマルクは敵ではないからだ。
「うーん、神殿っていうのは信者がお参りもするからね。家畜みたいなものを飼うと、ちょっと信仰心が困ったことになっちゃうんだよ」
「どうして困るの? イスマルク、お肉食べてたよね? 本当は宗教的に食べちゃいけなかったの? もしかしてお酒を般若湯って呼んで、これはお酒じゃありませんお薬ですよとか言って、ルール破りを誤魔化してるの?」
「君の目に、俺はどういう人間で映ってるんだろう。・・・暴飲暴食じゃないなら何を飲み食いしたっていいじゃないか」
真琴の質問に、イスマルクは遠い目になる。
「たとえば二人共、神殿に行って有り難いお説教を聞き、お祈りをするとしよう。世界を包む愛を感じ、今日も自分は愛する気持ちを忘れずに・・・って思っている時に、すぐ横からいきなり、ブーッとか鳴かれちゃったりしたらどうなる? 一気に厳かな空気が台無しになっちゃうだろ?」
「うーん、たしかに。『さあ、皆さん。祈りましょう』って言われた時に『ブゥッ、ブフォーッ』って豚が返事したら笑っちゃうかもね」
「ちょっと楽しそうね、それ」
「じゃあ、ハールカ。今度、豚を連れて神殿にお祈りしに行ってみる? ペットなんですって言えばいいよ」
「それはよしなさい。思いっきり怒られても知らないぞ、マーコット。さすがに笑いを追求しているわけじゃないからね、神殿は。だから鶏とか豚とか牛とか、そういう臭いとか鳴き声とかが出るものはあまり飼わない。勿論、神殿から遠い場所にそういうのを飼うならいいんだろうが。ただ、神殿の焼印ってのはなぁ」
イスマルクはそこで困ったような顔になった。
「焼印があると何かまずいの?」
「普通の家畜につける焼印は所有を示すが、神殿は別なんだよ、ハールカ。ご神体の形は、全て女神シアラスティネル様に属することを表す。神殿に掲げられているマークは御神体の形でもあるんだ。だから家畜にご神体の模様の焼印がつけられる場合、それは女神様に奉納されるって意味なんだ。つまり、捧げものだね」
「え、そうなの? 神殿の模様がついてたら、それはお供えされた牛なの?」
「そう。だけど、普通の牛についている焼印は所有者とか牧場を表しているから、別に捧げものでも何でもないよ」
遥佳と真琴は顔を見合わせた。
「えーっとさ。じゃあ、イスマルク。もしもその女神様に捧げられた牛がその辺りを歩いてたらどうなる扱い? それって誰のもの? 女神様の受け取り拒否ってことになっちゃうわけ?」
「受け取り拒否って、そりゃないだろう、マーコット。なんで君はそういうことを思いつくかねぇ。未だかつてそんなことが起きた例はないよ」
イスマルクがとても情けなさそうな顔になる。
真琴の中では、これこそはと選りすぐられた最高級の奉納物すら、普通の宅配物と同じ扱いになっていた。
「だって生きてる牛なんでしょ? 散歩に出て迷子になったりもするんじゃない?」
「だからってそこら辺を歩いてることはないよ。ご神体の焼印が押された生き物は、聖神殿の近くにある決まった建物内に供えられる。それらはいつの間にか消えているから、女神様のおわす聖神殿に移動して、・・・・・・そう言えば、聖神殿にいた筈のそれらはどうなったのかな」
「もう食べられた後だったのかもね」
「分からないわよ。ちゃんと保護されたかもしれないわ」
「もしくは一緒に潰れたのか。さすがに誰もそんな話はしてなかったな」
そこでイスマルクが考え込む。
聖神殿が崩れたという大事件は世界に広まっているので、お付き合いで遥佳と真琴も腕組みをして考えるポーズだけしてみせた。
黒髪の三人がそうやって仲良く「うーむ」と唸っている姿はちょっと統一感がある。
「そうだな。聖神殿のあった聖山の近くで保護されているかもしれないが、その場合は女神様からのくだされものという扱いになるだろう。有り難く見つけた奴が頂戴するんじゃないか?」
「神殿が回収しないの? 拾った人がその場でもらえちゃうんだ?」
「女神様に捧げた時点で、神殿はもう関与できない。女神様が民にくだされた縁起物ってことで、有り難く皆で分けて食べればいいって判断するだろう。さすがに一人占めはどうかと思うが、まず口出しはしないだろうね」
そうかそうかと、真琴は頷いた。
「そうなんだ。女神様からのくだされものってことになるんだね。じゃあ、もらっていいんだ」
「ありがと、イスマルク。やっぱり頼りになるわ」
ほっとした顔になる遥佳と真琴を見て、イスマルクは子供らしい想像の翼を羽ばたかせたのだろうと、そんなことを思う。
(大人びたように見せかけても、やはり世間知らずな子供だな。聖神殿が崩れたっていうんで、牛が逃げ出したかもしれないなんて考えるとは)
子供は本当に心が豊かだ。大人では考えつかないようなことを考えてくる。
昨夜は、神殿の模様がついている牛の夢でも見たのだろうか。
(10代なんて俺はとっくに修行に明け暮れていた。夢など語る余裕はなかった。これが恵まれた家庭に育つってことなのか。妬む気にはなれんが、変なところで敵を作らないよう気をつけてやらんとまずい)
イスマルクは、遥佳には育つことができなかった妹を、そして真琴には兄妹仲良く暮らせていたらこうだったのだろうかという憧憬を投影していた。気分はすっかり二人の兄だ。
「こんなことで頼りになるも何もないだろ。どっちにしても聖神殿は遠い。今から行っても、そんな牛が道を歩いてるとは思えないな。俺も聖神殿のあった聖山には行ったことないしね。二人共、変なことを考えないように」
それでも現実的な視野に立ってしまうのが大人で、イスマルクはそう釘を刺した。
好奇心の赴くままに、こんな少年少女が聖神殿への旅に出たのではたまらない。世間には危険が沢山あるのだ。
人を疑うことも知らない遥佳と真琴など、どんな目に遭わされることか。
「え? そうなの? だけど聖神殿が崩れた時、神官って押し寄せたんじゃなかった?」
「そりゃ女神様に何かあったならお助けする為にも駆けつけるが、最初に聖火が消えたんだ。ならばどうして火事場泥棒みたいなことができる。今、行けるとしても、女神様が長き眠りにつかれた以上、神子様こそが聖山の所有者でいらっしゃる。その意思を無視して踏み荒らすような真似はすべきじゃない」
「踏み荒らしてる神官、沢山いるけど?」
そこで言わずにはいられないのが真琴だ。恨みは根深い。
イスマルクも不本意そうに黙りこんだ。
「てかさ、イスマルクもその踏み踏みする為の探索に出てる人だよね? あんな所で座りこんでたのもそれでしょ?」
「踏み踏みって・・・」
「踏み踏み」
「いや、ワイン造りじゃないんだから」
収穫した葡萄を大きな盥に入れ、足踏みして潰す作業がワイン造りにはある。
機械で潰すワイナリーが多いが、小さな農場ワイナリーは裸足で葡萄を踏むのだ。
「そういえば葡萄の足踏みって凄い疲れるっぽいよね。思うんだけど、広いプールを造ってさ、そこに葡萄を入れて馬に足踏みさせればよくない?」
「馬が糞したら終わりじゃないか。足を動かすってのは大きな意味があることなんだよ、マーコット。たとえ疲れ果てても休めばまた元気になれる。そうして人は歩きだすんだ」
「上司神官の言いつけで」
「そう、上司の・・・って、色々あるんだよ、大人にはっ」
イスマルクと真琴のやり取りを、最近の遥佳は黙って見守るようになった。
(イスマルク、小さい時に亡くなっちゃった妹さんを私に重ねてるって教えてから、真琴ってば自分だけのけものだって拗ねちゃったのよね。それなら女の子のフリすればいいのに)
そんなイスマルクも遅々として進まない捜索に焦れている。
(どれだけ噂を拾っても、全くお見かけしたという話を聞かない。この辺りでは見かけない男性と幼児という組み合わせで捜しているのに。せめてお気持ちだけでも聞けたなら)
苦悩に満ちた青年の肩を、真琴は訳知り顔でぽんぽんと軽く叩いた。
「大変なんだね、大人って」
「安心していい。君も数年後にはその仲間入りができるからね、マーコット」
最後に一刺し、イスマルクは反撃した。
世間知らずな十代の子供は生意気な口をたたいていても可愛らしいものだ。
非現実的な楽しい夢が現実に起こるのではないかと、そんな気持ちをワクワクしながら語るのだから。
(そんな能天気なことを思ってた朝の俺を殴ってやりたい)
休日の夕方を迎えたイスマルクは、床に座り込みたくなった。
「モオオオォ」
「ンモオオー」
「メエエェ」
そんな鳴き声が、治療院の裏庭に響き渡る。
(そうだ。あのマーコットが裏の馬小屋を掃除していたのを、俺はおかしいと思わなきゃいけなかったんだ。ハールカと違って、用事がないものはいつまでも放置する子だというのに)
イスマルクは虚ろな笑いを浮かべるしかなかった。
入院患者と急患だけだからと、今日はのんびりしていたハミトとレイノーまで治療院の外に出てきて呆れ顔だ。
「ハールカとマーコットはお役立ちなもんを拾う才能でもあるのか、ハミト?」
二人が来てから畑が豊かになったこともさることながら、コケコッコーと鳴く鶏で起こされる朝が当たり前になってしまった。
今までとは違う日々を実感しているレイノーが、ボリボリとその赤毛の頭を掻きながら尋ねる。
「どうしよう、ハールカ。僕達、褒められてるよ」
「そうね、マーコット。頑張って引っ張ってきたものね」
ぐったりと疲れきってベンチに座っていた子供達だが、そういう会話をする元気は残っていたらしい。
「おー、凄い凄い。お前らが鶏に突かれるわ追いかけられるわ、きゃーきゃーわーわー、いつまで経っても卵を取れずに騒いでいるからって、今や寝たきりだった爺さんらまで卵集めに外へ出ようとするぐらいだかんな。ほんと、ここまで皆が笑顔になったのはお前らのせいだぞ」
がしがしと二人の頭を撫でるレイノーは、ここにいる三人の中で一番面倒見の悪い大人だ。
嫌われているわけではないので、遥佳も気にしていない。
「もう少し素直に褒めてよ、レイノーさん。鶏と戦うのも大変なんだよ」
「分かった分かった。今度、二人にニワトリ頭の帽子を買ってやる」
「なんでニワトリの帽子なのさ」
「一緒に小屋に入れば仲間だと思われて仲良くなれる。コケコケ鳴く練習しとけよ」
「いーりーまーせーんー」
そんなレイノーと真琴を無視して、ハミトは遥佳の手前で少ししゃがんだ。
「俺はハールカを捕まえた自分は偉いと思うべきか、それとも君達の親御さんとどうやって話し合うべきか、かなり悩んでるよ。ご両親は手広く商売をしているって話だったが、まさか貴族か大商人だったりするのかな? こんな立派な牛をあっさりと買ってくるだなんてどんな資金力なんだ? いくら裕福でも子供がしていいレベルを超えている」
「えっと、・・・だけどね、どれもお金、かかってないの、ハミトさん」
困った顔で、遥佳はハミトを見つめ返す。
「え? ハミトとハールカ達って、同じ家に住んでるんだろ? 身内じゃなかったのか?」
「うちの二階を二人に貸してるのさ。ご両親が仕事であちこち出かけてるそうで、子供に旅は危険だから連れていけないそうだ。一階には祖父母が、三階には俺が住んでるから、子供達には安心だと思ってたんだが、・・・これが知られたら誘拐されてしまう。お金には困ってないと思っていたが、さすがに持ちすぎだ」
ハミトの指摘に、イスマルクも深刻そうな顔になる。
「しょうがない。それは俺が関与したことにしよう。俺はどこからかやってきた薬師って触れ込みだし、いざとなればそれだけの資金を持っていたと言っても、誰も否定できる理由がない。ぎりぎり辻褄はあう」
「悪いがそうしてくれ、イスマルク。お宅はこの治療院で暮らしているし、そうそう誘拐の危険性もない。いいな、レイノー?」
「へーい。けどなあ、そこまで心配しなくても大丈夫だろ。生き物はその親御さんとやらが戻ってきたら返せばいいし、そりゃ二人が持ってきてくれる乾燥野菜は有り難いが、この畑もかなり広いだろ? 物々交換で手に入れたと言えば誰だって信じるさ。何より病人達が二人の味方だろうがよ。狙われそうな噂なんて流れねえと思うぞ?」
勝手に話を進める大人達に、遥佳と真琴は異議を申し立てた。
「買ってきたんじゃないもん。落ちてたんだもん。イスマルクだって、これはもらっていいって言ってたもん」
「あのね、本当に買ってきたわけじゃないし、勿論、盗んでもいないの。だから、心配は要らないと思う」
二人が、道を歩いてたら落ちてたんだと主張する一頭の山羊と二頭の牝牛。
貸し馬屋の店主と仲がいい二人は、裏庭の柵をとっくに修理してもらっていた。
「あのなぁ、マーコット、ハールカ。なんで先に頑丈な柵ができ上がってて、でもって都合よくこんな丸々とした牛や山羊が道に落ちてるってんだ。つくならもっとマシな嘘をつけ。野良の牛ってなぁガリガリなもんだ」
「本当だって。じゃあ牛、見てみてよ。あの焼印がついてる牛は見つけた人がもらっていいって、イスマルク言ってたもんっ」
レイノーにおでこを指でピンと弾かれてしまった真琴が額を押さえて反論する。
「そう苛めるな、レイノー。イスマルクも逃げ出して野良になって久しい牛のことを言ってたんだろ。焼印がついてるなら農場もすぐ分かる。連絡すれば保護したってんで問題にはならん筈だ。どれ、どこのだ」
ハミトとレイノーが牛の焼印を確認すれば、見覚えのある神殿のマークだった。
「これは、・・・神殿の模様か? 神殿で牛なんて飼ってたかな? なら、神殿に返しにいくか」
首をひねるハミトだったが、このドリエータにある神殿へ牛を迎えに来てくれるよう頼めば、この辺りの神殿では牛など飼っていないと言う。
(やばい。俺、第1等から直接の命令受けて動くから、現地の神殿とは係わりたくないっつーか、係わったら厄介なことになる)
イスマルクはヘタなことを言うと自分の素性がばれそうで(いや、別にばれたところで悪いことをしているわけではないのだが)、口を噤んでいた。
すると鼻高々なのは真琴だ。
「ほら。やっぱり野良牛でしょ? だからここで飼っていいでしょ? ちゃんと世話するから。乳搾りしたら新鮮な牛乳も手に入るんだよ。凄いでしょ」
「あのなぁ、マーコット。まあ、持ち主が見つかるまでは飼ってもいいが、・・・実際、助かるしな。だが、届け出だけはしておこう」
真面目なハミトは、その焼印のマークを書き写してから治安官の所へ届け出しに行く。
やがて確認の為にやってきた治安官も、
「たしかに神殿のマークに似ているが、神殿では飼っていないと言われたわけか」
と、首をひねった。
「そういった牛の届け出があったらすぐにこちらへ連絡しますよ、先生。自警団にも、城の兵士さん達にも伝えておきましょう。だが、病人に新鮮な牛乳を提供できるならいいことだ」
「これで一件落着だね。僕、もうお腹すいたから帰りたい。この子達、僕とハールカがお尻を押して歩いたげたのに、すぐ座りこんで動かなくなってたんだよ。お願いだから動いてって頼んでも10回に9回は無視してたんだよ」
「私も、疲れちゃった」
見上げればもう日が暮れている。
子供達二人が悲しそうな瞳で見上げてくるので、治安官は二人の頭を撫でた。
「じゃあ、一緒に帰ろうか。見つけて連れて帰ってくるだなんてお手柄だったね、マーコット君、ハールカちゃん」
「山羊のお乳、栄養あるって聞いたから」
「牛乳もあったら嬉しいよね。治安官さん、乳搾りできる?」
「ああ。今度教えてあげよう」
そう言って、子供達と手を繋いだ治安官は帰っていった。
職務上、治安官もよくこの治療院には世話になっているからだ。
肝心の二人がいなくなってしまった三人は顔を見合わせる。
「逃げたな、子供達。落ちてるなんてあり得ねえだろ。神殿の焼印がついてて神殿が引き取らないっておかしいだろ。なのになんでそれで終わるんだ、おい、ハミト」
「俺ももうあちこち行って疲れた。一件落着したそうだし、飯にするか、イスマルク」
「ああ」
その夜、皆が寝静まってから治療院の裏庭に向かうイスマルクの姿があった。
イスマルクは丸々と太った美人な牝牛に向かって語りかける。
「なあ。ここら辺を歩いてたってことは、やはり神子様方は第7神殿にいらっしゃるのか? お前達が出歩いてきて、神子様方の栄養は大丈夫なのか? それとも牛乳はお嫌いだからって追い出されたのか?」
牝牛はつぶらな黒い瞳を向けるだけで、全く質問に答えてくれなかった。
「どうしよう。神子様方は牛乳嫌いなのか? ならチーズやバターも嫌いなのか? 小さい時に栄養が足りてないんじゃよくないだろう。牛乳嫌いなら、せめて豆や木の実といった栄養をきちんと取っていただかないと・・・」
その好き嫌いも気になってしまうイスマルクは、幼少時の栄養は大事だと考える神官だ。
「ンモオオーゥ」
「メエェ」
「コケッコ」
暗い夜空に牛と山羊と鶏の鳴き声が響き渡る。
自分の探索方向は間違っていないようだと確信したものの、肝心の神子達には全く辿りつけていない事実に落ちこむイスマルクだった。
女神シアラスティネルが暮らす聖神殿が建っていた山は、現在立ち入り禁止となっている。
聖なる国として名高いギバティ王国の城では、今日も臣下達を怒鳴りつける声が響いていた。
「まだ神子姫様は見つからんのかっ。ええいっ! 大金を出して偽者なんぞを掴まされてくるとは何事だっ! このうつけ者共がっ!!」
この失態続きに、ギバティ国王ブラージュは怒りで目が眩みそうだ。
緊急異常事態との一報を受け、聖神殿へと向かった将軍は多くの騎士や兵士達と共に死亡した。
生き残った一人の兵士が持ち帰ってきた女神と神子達を描いたスケッチは、人の出入りが少ない広間に飾っておいたのに盗み出された。
表沙汰にできないオークションに神子姫が売り出されると聞いて、大金をはたいて競り落とさせればただの幼女だったという体たらく。
現在、女神によく似た色合いの娘達が高く裏で売り買いされているとか。
「この王城に盗賊の侵入など許すとはっ。このような失態、どうして表沙汰にできるというのだっ。探せっ、草の根分けてでも彼の絵を探すのだっ!」
様々な街角に貼られた女神と三人の神子達を描いた絵は、その元になるラフなスケッチがあってこそだった。それを飾っていた部屋はきちんと施錠され、兵士も巡回していたというのに、いつのまにか消えていたのである。
国の名誉の為にも盗まれたなどと公表はできない。その写しを描かせて飾ってあるが、本物の行方は杳として知れなかった。
もしかしたら盗品として売り出されるかと思い、そういった物を扱う所にも探りを入れさせているが、そんな物を扱うような集団がいることこそ、不愉快でしかない国王ブラージュだ。
盗品を売買するような奴らなど一気に滅ぼしてしまいたくもなるが、そういった組織があればこそ見つかる物や情報が手に入るのだと説得され、諦めるしかなかった。
「そんな汚らわしい犯罪者共を見逃せというのかっ」
「その通りでございます、陛下。もしも我が国にそういった者達がいなければ、たとえば行方知れずになったりして連れ攫われた女人や盗難にあった物などもすぐ他国へと流れることになりましょう。そうなれば永遠に戻ってくることはございません。多少は費用も嵩みますが、我が国にそういった裏の取引市場があればこそ、取り戻せてきたものも多いのでございます」
盗品や人身売買を行う組織などあっていい筈がない。
不幸な事件や民が増えるだけではないかという国王の意見は、却下された。
「他国に流れる前に取り戻せばよいであろう。犯罪者が利を貪り、善人が虐げられることなどあってはならぬ」
「どうやってでございますか。移動とは道を使うとは限りません。山や川、森や海を、いつ、どうやって移動するかなど誰にも分からぬのでございます。ましてや盗まれたのが絵画ならば丸めて無造作に野菜などに紛れて持ち出されるやもしれませぬ。人間とて手足を拘束されて荷物と共に運ばれたなら見抜きようがございません」
「そなた達の力不足を開き直るか。一つ一つの荷を調べる手間を惜しむかっ」
「ならばご自身で一度やってみらっしゃいっ」
臣下ながら、国王が子供の時から教育係を務めた爺である。物わかりの悪さを叱りつける大音声だった。
「ならば陛下。この王城に納められる程度の野菜や果物や肉や魚程度なら大した量ではございません。納品される荷の中に、小さなスケッチを入れてみましたので、それを見つけてくださいませ」
国王の爺やにして相談役でもあるブルッカー伯爵は、有言実行の老爺である。
兵士達に手伝ってもらいながら、捜索を実行した国王はかなりへとへとになってしまった。
その上、隠されていた小さなスケッチは見つからなかった。
「そなた、こんなにも国王を働かせておきながら絵は入れなかったのだな。恥ずかしいと思わんのか、その性根を」
「ご冗談を。きちんとスケッチは入れておりました。陛下が見つけられなかっただけでございます」
そうして年老いた爺は、御者台の下にある小さな隠し棚を引き出して絵を差し出した。
「この王をたばかったかっ。どこが食料に紛れているというのだっ」
「盗まれた物がどうして荷台の中にあると限りましょうか。陛下、全てを点検しろとは、こういうことでございます。食料を全て点検するだけでも、王のおかげで朝の内にこの王宮に納められなかった食料が皆の昼食へと影響しました。ですが国境を通る荷は、こんな少ないものではございません。この国にどれだけの民がいるとお思いでしょうか」
「・・・ぐっ」
「お分かりくださいませ。陛下が民を思うお気持ちは尊くとも、悪党を見逃さねば更に救いがなくなるのだと」
ギバティ国王は、悔しさに頬の内側を噛む。
(兵士達の手際は悪くなかった。彼らもかなり協力してくれた。私が食料を載せた荷台以外の場所を探すよう命じなかっただけではないか)
そこで人のせいにする程、ギバティ国王も暗愚ではない。
「戻る。荷はきちんと運ばせよ」
「かしこまりました」
やがて執務室に戻った王は、不貞腐れた顔で椅子に腰かけた。
それを追ってきた爺と、他の騎士や役人達がしかめ面でかしこまっている。
「長年に渡って続いてきたことでございます。悪に生きる者が絶えぬ以上、必要悪はあるのでございます。その清濁呑み込んでこその王ではございませぬか」
「もうよい。分かった。まずは何としてでも見つけるのだ。手段は問わぬ」
臣下達の説得に、国王ブラージュも折れるしかなかった。
ドリエータの治療院で住み込みをしているイスマルクと真琴は仲がいい。
何かと突っ張りたい真琴が絡んでも、イスマルクがそれに気づいていないからだ。いや、気づいていてもどうでもいいのだろう。
人のことなんてあまり知りたくなかった遥佳だが、最近、人間観察というテクニックを身につけてしまった。
(イスマルクって、あの顔だから細かそうに見えるけど、実はかなり鈍いんじゃないかしら)
少しウェーブがかった黒髪に、暗い蒼の瞳。どこか陰鬱そうな雰囲気があるイスマルクは、神経質そうなイメージがある。
けれども遥佳は見てしまった。
ある夕方、急な入院患者が何人かばたばたと決まり、用意してあった夜のデザートが足りなくなってしまったのを。
昼の内に遥佳が人数分、切り分けておいたスポンジケーキはとてもふわふわしていた。
夕方の配膳準備に来たイスマルクは、夕食を必要とする人数が増えたことに気づき、少し考えたようだった。そうしておもむろに大鍋に彼はヨーグルトとクリームを入れてかき混ぜると、そこに全てのスポンジケーキを投入したのだ。
ふわふわな食感が楽しめたであろうスポンジケーキはヨーグルトクリームの中にドボドボッと埋もれた。イスマルクは木べらでダイナミックにぐしゃぐしゃと掻き混ぜる。
そうしてイスマルクはヨーグルトクリームまみれのスポンジケーキを小さな深皿へ盛りつけ、人数分を揃えた。その上から刻んだクランベリーなどを散らしていたから見た目は良かったが、遥佳は知っている。
あれは失敗したスポンジケーキの誤魔化し方だと。
『ちょうど良かった。あの人、便秘が凄いのに言えないみたいだから下剤を混ぜとくか。ヨーグルトでお通じが良くなったと思うだろ。女性はデザート残さないしな』
厨房の窓の外にいた遥佳は、それを聞いてしまった。
(イスマルク。あの人が便秘を相談できなかったのは、あなたにだけは知られたくなかったからなの)
しかも下剤の苦みを消す為に、遠慮なく甘みを足している。スポンジケーキのふわふわ食感もベストな甘さも意味なしだ。
(エプロン、持って帰るの忘れたから取りに来たんだけど、やっぱり明日にしましょ)
そうして遥佳は、入り口で待っていた真琴に、やっぱり今日は持ち帰るのをやめると言って、借りている部屋に帰った。
それ以来、イスマルクは繊細そうだけどそうじゃないかもしれないと、そんなことを思っている。
勿論、イスマルクの仕事はかなり真面目だ。
無駄が出ないように薬の在庫管理のやり方を決め、ハミトとレイノーが積み上げていた患者の病歴内容を整理し、投薬した内容なども分かる限り記録していっている。
それで喜んだのがレイノーだった。
「お前が女なら嫁にすんのにな。ついでにうちの嫁さんの感情も整理してきてくれ」
「あのなぁ、家庭から逃げる男ってのは惨めな老後一直線だぞ? どんな仕事熱心な男かと思いきや、ただの帰宅拒否かよ。そんなに奥さん怖がってどうすんだ、おい」
レイノーが結婚していたとは、遥佳もびっくりだ。
ただの雑用係なのだが、治療以外の全てを担当しているものだから、遥佳は何かと人の会話を廊下で聞いてしまう。
「けっ。てめえも一度は経験してみろや。人生の幅が広がるぜ。女に憧れてる内は小僧ってこった」
「ほっといても人の横幅は広がるもんだ。焦らなくても、誰もがいつかは三段腹さ。てか言ってることは、尻に敷かれてます宣言だろ、先生サマ? あんたを頼りにしてる患者さんが泣いちまうぞ」
この治療院では医師も医師には見えないが、イスマルクもまた薬師に見えない。
立ったまま左手で食事をとりつつ、右手で何やらぺらぺらとめくっている彼らは雑談ですら片手間なのか。
(ああしていると人の悩みを聞く神官をしていたのが信じられないけど、・・・だけど患者さん達にはやっぱり神官様って感じだもの)
優理がイスマルクを寄越してくれたことを、遥佳は感謝していた。
苦痛に呻く人や、家族が治療院に入院したことで明日からの生活をどうしようと嘆く家族に対し、イスマルクは腰をかがめて手を握り、その痛みに寄り添おうとする。
「あなたは強い人です。この痛みに耐えようとする心がある」
限られた予算で、それでもイスマルクはなるべく痛みを取る薬を作りあげる。そして薬だけではどうしようもできない痛みに耐える人の体をさすり、その傍で誰もが知っている神話を語ってあげたりもする。その人が寝つくまで。
「今は何も考えられないかもしれません。・・・それでもあなたが語りかけてくれたからこそ、ご主人の意識は戻ってくることができたのです。どうか奥さんも涙を拭いてください。あなたはとても素晴らしい方です」
病人だけでなく、イスマルクはその家族にも寄り添う人だった。
この治療院で寝泊まりしているイスマルクは、夜中にも見回りをしているらしい。
眠れない人がいれば、その人の横で星の見方などを語ってあげたりするのだ。小さな低い声で。
あまりにも貧乏で神官へのお布施を払えない人がいたが、イスマルクはその人にも祈りを唱えてあげていたのを遥佳は知っている。
誰もが眠っている深夜に、こっそりと神官の服をまとって。
「ああ。・・・なんて、有り難い。神官様、だったの、・・・ですね」
「内緒ですよ? 特別休暇中なんです。ですが、祈りを取り仕切る資格はありますからね」
その人は感謝の涙を流し、やがて次の日からイスマルクの顔を見ると微笑むようになった。そうして安らかな顔で亡くなった。
普段着ではあったが、その手を握って最期を看取ってあげたイスマルクはとても優しい顔をしていた。
(よく気がつく人なのよね。なのにどうして真琴の気持ちには気づかないのかしら)
真琴が自分を心配してくれる気持ちは嬉しいが、単に真琴は優理と離れ離れになって、やさぐれているだけじゃないだろうか。その八つ当たりをイスマルクにしているだけだ。
止めたいのだが止めきれない遥佳がいた。
「今日こそーっ、背後からキーック」
「やれやれ。今日も元気だな、マーコット」
背後から飛び蹴りしてくる真琴の足をパシッと片手で阻止すると、
「人を荷物扱いしないでよっ」
と、騒ぐ真琴を肩に担ぎ、イスマルクは薬草取りに出かけてしまう。
(荷物の方が余程いいわよ、真琴。役に立つ物が入ってるんだから。あなた、迷惑しかかけてないでしょ)
足を掴んだまま肩に担ぐので、逆さまに吊るされて連れていかれる真琴が情けなくて、遥佳はそっと違う方向を見た。
どこまで自分の姉妹は男の子っぽくなってしまうのだろう。
(俺ってば真琴に好かれてるよなーっで照れてるイスマルクが鈍感すぎる。他の人なら真琴、あなた、暴力的すぎて牢屋行きよ? イスマルクは勘が良すぎてあなたの攻撃位置や威力を把握できてるけど、普通はできないのよ?)
イスマルクの中では、真琴は世界で一番遥佳が好きで、二番目に自分のことを好きなんだなと、そんな解釈がされていた。
真琴が傍にいると、浮気したーとか、自分を捨ててーとか、そんな念がダイレクトに伝わってくるのでちょっと鬱陶しい、いや、気まずい遥佳である。
(そんなに私がイスマルクを信用したのが許せなかったの? だけど真琴、イスマルクといつも遊んでるの、私じゃなくてあなたよね?)
遥佳と真琴が揃っていると集まってしまう世界の祝福は、今の所は畑の育成と牧草、家畜の健康に特化しているから、忙しいハミトやレイノー達には気づかれないでいる。
イスマルクには気づかれるのではないかとハラハラしていたが、イスマルクは自分が人よりも鋭い勘があるせいか、この畑の異常な収穫にも無頓着だ。
――― へー。さすが緑の手とは特別なんだな。
それで終わった。
それだけだった。
(おかしいでしょっ? 三日で収穫できる蕪っておかしいでしょっ? 二十日大根より速いのよっ!?)
尚、本来は二十日前後で収穫できる筈の二十日大根は、一日で収穫できてしまっている。
イスマルクはハミトやレイノー達と、薄切りハムの中に二十日大根とバターを包んで食べるのにはまっていた。あの辛さが、頭をリフレッシュさせるそうだ。
異能を持つ人間は、他者の異能に対する許容量も広いのだと、遥佳は知った。
(ハミトさんとレイノーさんは仕事してるか死んだように寝てるかだから、ご飯も美味しいかどうかしか考えてないからいいけど・・・。駄目だわ。お仕事以外、ここの男の人達って頼りなさすぎる。この治療すること以外は破綻している治療院をまわせるのは私しかいない・・・!)
真琴は畑でごろごろしているのが仕事だが、遥佳は雑用係として忙しいのである。しかもイスマルクと一緒に山まで行くので、仕方ないから遥佳が畑で水やりもしていた。
今日も牛に餌をやりにきた遥佳だが、治療院の畑の奥側で倒れていたそれを見て、動きが止まった。
(これも、・・・落ちてたんですって言えば飼ってもいいのかしら。だってどう見ても落ちてる)
遥佳と真琴は、色々なものを拾ってくると、ハミト達は思っている。
まずは鶏と人間。次に山羊と牝牛。
(そこまできたら、次はもっと大きなものを拾ったとしてもしょうがないわよね? 悪くないわよね? だって私達、何もしてないもの)
裏庭の地面に倒れていたのは、大きな鷲の上半身にライオンの下半身を持つ幻獣。
大きな鷲の翼で空を飛び、鋭い爪で牛や馬といった獲物を捕らえ、ライオンの下半身は岩をも打ち砕くと言われている。
(牛みたいに、幻獣も落とし物で届けなきゃいけないのかしら。見なかったふりしたら、他の人が見つけて連れてってくれるかしら)
頭の中で色々とシミュレーションしてしまう遥佳の視界にいたのは、大きなグリフォンだった。
遥佳が見つけてしまったグリフォンには、知性があった。
上半身は白を基調とした大鷲、下半身は茶のライオンという姿のグリフォンは、ゲヨネル大陸にある崖の上で暮らす生き物である。
空を悠々と飛びまわり、獲物を引き裂くその爪と嘴は鋼鉄のように鋭い。下半身にあるライオンの脚もまた太くてがっしりとしている。
(ど、どうしよう。このグリフォン、とてもお腹すいてる)
それに気づき、遥佳はがくがくと震えはじめた。幻獣グリフォンは肉食で、馬や牛を襲って食べる。
今は目を閉じてあちら側を向いているが、意識が覚醒したのが分かる。そう、遥佳の気配に気づいたのだ。
今、背後にいる遥佳を襲って食べていいかを考えている。
「あの、・・・お腹すいてるなら、お肉の塊、持ってきてあげましょうか?」
遥佳は、勇気を出して話しかけた。
「キュイ」
「・・・か、可愛い」
背を向けて横になってるグリフォンの嘴から出た鳴き声に、きゅんっとしてしまった遥佳だ。
遥佳側にある大きな翼は、白い中に僅かに赤や茶、黒が混じっていてどこか柔らかい雰囲気を作っている。
けれどもグリフォンの心の声はそんな可愛いものではなかった。
(私を疑ってる。優しい言葉をかけながら武器を取ってくるんじゃないかって警戒してる)
だから遥佳は言葉を続けた。
「あのね、私ね、ここでご飯を作ってるの。だけどあなた、野菜や果物よりお肉がいいんでしょ? チーズは食べられる? 牛乳は飲める? ここは治療院で、人間の治療をする場所なの。あなたは人間じゃないけど、似たようなものよね?」
どうやらチーズや牛乳も大丈夫らしい。果物や野菜も出されたら食べるらしい。
「まだ疑ってるのね。じゃあ一緒に食べてあげる。そうしたら毒とか入ってないって分かるでしょ? だけど私はお肉に火を通さないと食べられないから、生肉じゃなくて煮込んだ肉でもいい?」
「キュッ」
可愛らしい声だが、肉は生の方が良かったらしい。
(ケッ、煮込んだ肉ぅ? んなもん、ダシガラじゃねえか。そりゃ食うけどよ、食うけどさ。なんで俺がダシガラなんぞを)
心の中ではまさに文句たらたらだ。
遥佳は困ってしまった。
「えーっとね、じゃあお肉は生で持ってきてあげる。外側をナイフで削れば安心でしょ? 牛と猪と豚、どれが好き?」
「キゥッ」
いきなり鋭い声が響く。
食欲が、可愛い鳴き声を作る余裕をなくさせたのだ。
「分かったわ。全部持ってきてあげる。ご飯を食べたら手当てもお願いしなきゃ。人間以外の患者さんは初めてだけど」
どうやら食欲に負けたらしいグリフォンだ。のそのそと起き上がろうとする。
「駄目よ、目が回ってるでしょ。ご飯を食べたら目も回らなくなるわ。ここで大人しく待ってて。ね?」
そう言って遥佳は食べ物を取りに行った。
(私を襲う気持ちはなくなったみたいだけど、本気でお腹すかせてる)
まずは包丁、そして牛、豚、猪、鶏の肉を骨付きのまま特大トレイと共に台車に載せて、厨房から裏庭へと運ぶ。そこで屋外に置いてあった手押しの一輪車に移した。
本来は収穫物などを運ぶ為のものだが、畑のように舗装されていない場所で荷物を運ぶのに運搬用一輪車はお役立ちだ。
「お待たせ。はい、お肉。食べやすいように切ってあげるわね」
グリフォンは向こう側を向いて倒れていた為、大回りしてから遥佳は声をかける。
「どのお肉からがいいかしら。骨は突っかかっちゃうから、身が多い牛からがいいわよね。・・・これぐらいだと大きすぎる?」
「クェッ」
嘴の大きさを考えて、遥佳はグリフォンの一口サイズに切ってみた。持ってきた特大トレイの一つにそれを取り分け、黄緑色の瞳から見えるようにかざす。
「え? これが小さいの? 嘘ぉ、かなり大きいわよ。あのね、だけど咽喉に詰まったら大変よ。お肉が詰まったら息ができなくなっちゃう。最初は小さいものから食べた方がいいわ。はい、口を開けて」
パクッと黄色い嘴を開いたグリフォンに、遥佳は肉を投げ込んだ。嘴の中に隠れていた大きな舌が少し外した軌道を修正する。
(ううっ。小さいって文句言ってる。もっと大きく切れって文句タラタラ)
敵愾心が消えたと判断した遥佳は、せっせと肉を切り分けた。
グリフォンの嘴の中に、次々と肉が消えていく。
「骨の周りはせせるように削ってあげるわ、美味しいもの。だけどそれだと時間がかかるでしょ? 先にチーズと牛乳を持ってくるわ。これは後で削ってあげるから食べちゃ駄目よ? 骨が刺さったら危険だもの。あ、この包丁にはもっと触っちゃ駄目よ? 怪我しちゃう」
「キュイ」
僅かにしか肉がついていない骨を一つの特大トレイの上に置き、もう一つの特大トレイに包丁を置いた遥佳は、一輪車を押してチーズや牛乳を取りに行った。
(牛乳を入れるのは洗面器でいいかしら)
うんしょうんしょと野菜や果物も積めるだけ積んで戻れば、肉は消えている。
「嘘・・・。どうして骨付き肉が骨になってるの」
「キュウウ?」
「お肉は勝手に消えないから。・・・パクッと食べて、骨だけペッしたのね」
「キュッ、クェ?」
「ううん、目の前にお肉があったんだもの。怒らないわ。お腹空いてたら誘惑に勝てないのは仕方ないでしょ」
散らかっている白い骨が哀れなものだが、肥料になると思えばいいことだ。
「そういえばお肉の外側、削ぎ取ってあげるの忘れてたわ。ごめんね。次、チーズ食べる?」
「キュッ」
そこでチーズを切って嘴の中に放りこんだが、今度はあまり喜ばない。
「チーズはしょっぱすぎたのね。野菜と果物を食べればちょうどよくなるわ。私達だってチーズはパンやドライフルーツと食べるもの」
どれが好きかと、野菜をそれぞれ見せて選ばせながら、遥佳はグリフォンに食べさせていった。
「ケプッ」
やがて満足そうなげっぷをしたので、遥佳は小さく微笑む。
「もう起き上がれるようになった? 牛乳は流しこんだらむせちゃうでしょ。自分で飲んでもらわないと困るの」
体を少し転がすようにして、グリフォンが下を向く。その嘴の下に、遥佳は牛乳を入れた洗面器を持っていってあげた。
ぴちゃぴちゃと飲んでいるグリフォンから、幸せそうな感情が流れてくる。
「どこか怪我をしたの? それとも病気なの? あなた達はこの大陸にいないんでしょ? 何か事情があったの?」
「クルルルッ、キュウ、キェッ」
とても可愛い返事が戻ってくるが、心の声はなかなか可愛らしくない。
(怪我なんてしてねえよっ。腹が減ってただけだっつーのっ。別にどこの大陸に行こうが俺の勝手だろっ)
そうなのか、空腹なだけだったのか。
遥佳はぷぷっと噴き出しそうになるのを本気で我慢しなくてはならなかった。
「お腹すいてたのに、家畜とか襲わなかったのね。偉いわね、あなた」
グリフォンが何かを問いかけるように、白い羽毛に覆われた頭部をくるりとまわして遥佳を見つめてくる。
「嫌だったらごめんなさい。あなたが心で思ってくれたら私にはそれが分かるわ。心を読まれたくないなら、ここからいなくなるけど?」
(別にかまわん。隠さなきゃならんこともないからな)
薄い黄緑の瞳は、まさに猛禽類のそれだ。
遥佳に心を読まれると知った途端、口調が変わった。
「どうして家畜とか襲わなかったの? そこにも牛や山羊はいたのに」
(家畜とは人が飼っているものだろう。俺は自分の生き方を大事にしてるが、他人のそれも無視するわけではない。だから山にいる野生の獣を捕らえようとしたら、なんか変な空気が・・・)
そこで遥佳ははっと気づいた。
「まさか第7神殿の方に近づいたの? あそこ、硫黄ガスが出てるから、生き物は眠るように死んじゃうのよっ?」
(神殿? ああ、そうだ。俺は白い欠片を見つけようとして、だからあの白い建物ならと・・・)
「白い欠片?」
遥佳が首を傾げれば、グリフォンの心に浮かぶのは白く輝く石の欠片。
(女神の暮らしていた神殿の欠片だ。白く輝く、とても綺麗な石)
「聖神殿の欠片が欲しくてこっちに来たの? だけど聖神殿はとっくに崩れてるし、そんな理由で海を越えてきたなんて・・・」
(グリフォンは宝物を集めるのがグリフォン生であり、存在意義なのだ)
「そうなんだ」
なんだかとても立派なことを言ってるようだが、光ってるものを集める鴉とやってることは変わらない。
(鴉は光っていれば何でも嬉しいけど、グリフォンは宝石や本物の黄金じゃないと喜ばない。お金がかかる子なのよね)
高級品じゃないと満足しない上、彼らは見る目もあるのだ。
「聖神殿の欠片ね。あの第7神殿の欠片なら分けてあげられるけど、聖神殿だなんて・・・。しょうがないわ、イスマルクに相談しましょ」
(イスマルク?)
「ええ。神官なのよ。今、真琴と一緒に薬草を採りに行ってるの。だけどあなたが見つかっちゃうと、みんなが怖がるかしら。大人しいのよって言えば大丈夫かしら」
大食らいだが、家畜を襲わない賢い幻獣だ。だけどこんな大きくて獰猛な生き物、怖がるなという方が無理だろう。
遥佳が考えこんでいると、白みがかった薄茶色の頭が近づいてくる。
自分よりも大きな鷲の頭を、遥佳はそっと撫でた。ふわっとした羽毛が暖かい。
「綺麗な黄緑色の瞳ね。なんて名前なの? 私は遥佳。だけどこっちの人には呼びにくいから、ハールカって呼んでもらってるのよ」
(どうして人の名前なのに、人が呼びにくい名前なのだ?)
くすっと遥佳は笑った。
「内緒よ? この世界で育ったわけじゃないからなの。私達は違う世界で育てられたのよ。だからあっちの世界で通じるような名前にしてあったの」
(ふむ。ハールカ、ハルーカ、いや、ハルカ、だな。まあ、大丈夫だろう。ハルカ、ハルカ、うん、これでいいんだな?)
「ええ、そうよ。ハルカでいいの。で、あなたの名前は?」
(グリフォンに名はない。流れ星のように我らは孤独に生きるのだ)
「孤独って言うけど、恋はするでしょ? オスとメスがいるんだから」
(グリフォン同士で雛を作ったりもするが、番っても自分の宝物を相手に取られたら困る。だから一緒には暮らさない)
「宝物を取り合っちゃうの? 二人で所有するんじゃなくて?」
(宝物を巡って熾烈な戦いが発生するのだ。一緒になんて暮らせない。ゆえに孤高の幻獣なのだ)
「そう。大変なのね」
そこまで宝物を集めてどうするのか、そこを指摘したくなる遥佳だったが、その辺りの内情は気づかなかったことにした。
彼らには彼らなりのルールがあるのだから。
「だけど呼ぶときに困るわ。なら、呼び名をつけていい?」
(かまわん)
しばし、遥佳は考えた。
「じゃあ、あなたの名前はヴィゴラス。どう? 嫌?」
(別にそれでいい)
「ふふ、ヴィゴラスってのはね、元気だったり強かったり精力的だったりする意味なの。もう二度とあなたが行き倒れたりしないように、ね。おまじないもこめて」
(・・・ふむ。まあ、悪くない)
クールに受け入れたグリフォンだが、ライオンの尻尾がご機嫌で揺れている。
遥佳を見つめていた黄緑色の瞳が細められて、大きな鷲の頭が遥佳の小さな左肩に乗せられた。けれども重さを感じない。
(撫でろって言ってるのね。なんて人懐っこいのかしら)
遥佳が大きく両腕を広げても、グリフォンの首に回しきることなんてできないが、それでも遥佳はグリフォンの咽喉に顔を埋めるようにして撫でてみた。
ご機嫌ですりすりしてくるグリフォンが大きすぎて尻餅をつくが、重くはない。
(というか、私はどうして鳥さんに押し倒されているのでしょう。可愛いからいいけど)
柔らかな草が一面に生えた草原で遥佳は仰向けにひっくり返り、その上に大きなグリフォンが翼を広げて遥佳を包んでいた。
そして遥佳が何をしているかというと、頑張ってそのグリフォンの顔を撫でているのである。
グリフォンはうっとりとして瞳を閉じていた。
「あああーっ!!? 遥佳ぁっ!!」
そこで大きな悲鳴が響き渡る。
「イスマルクッ! 遥佳がっ、遥佳が食べられてるぅーっ!!」
「おっ、落ち着けっ、マーコットッ! まだ、食べられてないっ。だっ、大丈夫だっ。人間より牛の方がいい筈だっ」
グリフォンがそちらを向けば、黒髪の大小サイズの人間が二人いた。
遥佳もそこで、自分達がまさに捕食スタイルであることに気づく。
「ちょっとどいてね、ヴィゴラス。起き上がらないと、あなたが乱暴な子って思われちゃう」
「キュウウ、クェッ」
渋々とグリフォンは遥佳から離れた。
遥佳も立ち上がって、背中やスカートの土埃をぽんぽんとはらう。
「真こ、・・・マーコット。お帰りなさい。あのね、彼はね、ヴィゴラスって言うの。とっても賢くて紳士的なグリフォンなのよ。イスマルクもお帰りなさい」
戻ってきたら治療院に遥佳はいなくて、ならばと裏庭に捜しに来たら、そこにいたのは大きくて危険な幻獣だ。
真琴だけではなく、その後ろにいたイスマルクも蒼白になっていた。
「ハールカ、刺激しないよう、ゆっくり離れるんだ。牛を柵から放せばそっちを襲う。いいか? 叫んだりしないで」
「心配しなくてもヴィゴラスはご飯食べたばかりよ。それに家畜は襲わないわ」
大鷲の上半身を撫でながら、遥佳はグリフォンに二人を紹介する。
「あのね、ヴィゴラス。私と同じ顔してるのが、真琴。マーコットって呼んでもらってるの。その後ろにいるのが、神官だけどここで薬師をしているイスマルク。だけど二人にはあなたの気持ちは分からないの。ごめんね」
(別にどうでもよい。それは当たり前のことだ)
遥佳が全く警戒していないのなら危険はないのだろうと、真琴が近寄ってくる。
「ヴィゴラスって言うの? かっこいいね。グリフォンなんて初めて見た。ね、触ってもいい?」
(いいぞ)
「いいって言ってるわよ。あのね、首筋の下側なんてとってもふわふわしてるの。目なんてとても綺麗なペリドット色なのよ」
「へえ。あ、ホントだ。すっごーい。上半身は空の王者で、下半身は陸の王者かぁ。いいなぁ。とっても強そう。今度はこーゆーのもいいかも」
(強そうじゃなくて、強いんだ)
「本当に強いんだって言ってるわ」
「そうなの? じゃあ番犬できる?」
(番犬? とは何だ?)
そんな二人を止めたかったイスマルクだが、ヘタに刺激もできない。というのも、グリフォンはかなり知能が高い幻獣だからだ。
けれども危険すぎる。あの鷲の爪はあらゆる生き物を引き裂き、嘴はあらゆるものを噛み砕く。自分の持っているナイフでは到底敵うわけがない。
(いや。あの散らばってる骨は一体・・・。骨は吐きだしたのか。骨など気にしない筈なんだが、・・・グルメなのか? まさかと思うが、ハールカはグリフォンを餌付けしてしまったのか?)
どっちにしても骨から肉をこそげとるような凄まじい舌を持っていることに変わりない。下半身はライオン。それこそ力強く生き物を踏み砕く後ろ脚ではないか。
「あ、そうだ。イスマルク、あのね、ヴィゴラスね、聖神殿の欠片を探してこっちに来たんですって。あれってまだ聖山に残ってるのかしら。それともどこかで売ってる?」
「聖神殿の欠片? あれは世界のあちこちに散らばった筈だ。女神シアラスティネル様の愛を運んで。あれが欲しいのか?」
「そうなの。ヴィゴラスはちゃんとポリシーがあってね、悪いことしている人から財宝を盗るのはいいけど、普通の人からは取り上げないようにしてるんですって。だからどこかに落ちてないかと思ってこっちの大陸にまで来たらしいの」
そこでイスマルクは遥佳に尋ねた。
「どうしてグリフォンの言葉を理解してるんだ、ハールカ? グリフォンの鳴き声は言葉ではないのに」
「だって・・・。目と目を合わせれば通じ合うでしょ?」
苦しい言い訳だが、遥佳はそれで乗り切ろうとする。
「いや、大抵のアイコンタクトは誤解で終わる。自分の気持ちは分かってもらえて当たり前っていう、察してクンばかりが社会に蠢いてるからな」
「それもそうね」
「何よりイエスかノー、右か左といった程度のことすら誤解で終わるアイコンタクトでそこまでの情報を読み取ろうとしたら、多くの道具が必要となる。占い師のカードの絵柄じゃ到底足りない」
どこか疲れたような目になった遥佳は、そこでグリフォンに抱きついている真琴に囁いた。
――― だから言ったでしょ。所詮、イスマルク、巷の占い師なんて信じてないんだって。
――― だからって優理のこと忘れる? なんかちょっとおかしくない?
――― 彼、過ぎたことは忘れないとやってられない仕事ばかりだったからしょうがないのよ。情報源なんて多すぎて記憶に留めてられないの。情報を得て向かった先で、また情報を探して得たら動いて、また情報を・・・の人生だったんだもの。
こそこそと話し合う二人だが、イスマルクは珍しく遥佳が沢山喋ることにも気づいていた。
(幻獣が来たから興奮してしまったんだろうが、いつもは吐息に少しだけ声を乗せる程度なのに。思えばマーコットは並外れた緑の手の持ち主だ。妹のハールカが生き物の気持ちを細かく察してしまう能力を持っていたとしてもおかしくない。だが、幻獣の気持ちを勘違いして惨殺されてからでは遅い)
遥佳の言葉が正しいかどうかを確認するのは簡単だ。
そこでイスマルクは、石の欠片を取り出した。
「街道で拾ったものだ。これは誰のものでもなかったから。聖神殿の欠片だよ」
ずっと懐に入れていた女神の気配が残る聖神殿の欠片。神子姫探索のお守りにと、イスマルクはずっと小袋に入れて胸に提げていた。
「えっ。いいのっ? ありがとう、イスマルク」
遥佳がイスマルクの傍まで近寄り、その白く輝く石を受け取った。
(ああ、シアラスティネル様・・・っ)
イスマルクの全身を、鳥肌のようなものが襲う。女神の気配が残る石を渡した時に、自分を包む柔らかで優しい気配が去ったことを知った。
その寂しさと切なさは言葉に言い尽くせない程に悲しい。
「やっぱりイスマルクに相談して良かったでしょ、ヴィゴラス。あ。だけどそのままじゃ持っていけないわね。何か入れる袋を縫ってあげる。サイズ、測らせてちょうだい。足に引っ掛けるようにしてあげた方がいいのかしら。首に提げた方がいいの?」
遥佳から差し出された欠片を、グリフォンが鳥の前脚で器用に掴む。
(ふむ。これだ、これ。女神の息吹が伝わってくる)
「そうなの? よかったわね、ヴィゴラス」
そこで遥佳はイスマルクを振り返った。
「ありがとう、イスマルク。代わりにイスマルクには、何か他の物を・・・」
そこまで言いかけた遥佳が、言葉を途切れさせた。イスマルクが信じられないと、遥佳と真琴をその蒼い瞳を丸くして見ていたからだ。
(まさか・・・。この二人、いや、このお二人が・・・)
そこで自分を包む女神の気配が去ったからこそ、イスマルクの異能がその事実を感知する。目の前にいる存在が持つ、女神に似た気配を。
「やめてっ。イスマルク、気づかないでっ」
地面に膝をつこうとしたイスマルクに、遥佳が駆け寄った。
「ですがっ」
「お願いっ。私達はそんなのを求めてないのっ」
自分に縋りつく遥佳を、片膝をついたイスマルクは震える手で支えようとする。
あれ程までに求めた存在がこんなにも身近にいたのだ。
大きすぎる歓喜に、これは夢かと、イスマルクは遥佳を抱きしめたくなった。
「お願い。気づかないで、放っておいて。私達は・・・」
事態を悟った真琴が、遥佳をイスマルクから引き離した。自分の背中に庇うようにして。
「マーコット、・・・いや、マーコット様」
「やめてよ、そういうの。そもそもそれ、本当の名前じゃないし」
イスマルクを挑発的に睨みつける真琴は、遥佳を守ろうとしている。
それを理解したイスマルクは小さな溜め息をついた。
大体、彼女達に敵対する意思など自分にはないのだ。
「分かりました。いや、分かった。何も気づかなかった、そして何も知らない。・・・こうなった以上、きちんと私の、いや、俺の立場を表明させてもらうが、俺は大神殿トップの密命を受けて動いてはいるが、同時に単独行動だ。だから、・・・何も気づかなかった以上、報告することなど何もない。そしてハールカ、マーコット。もし君達が望むなら、俺にできる範囲でその願いを叶えるよう努力するつもりもある。元より俺の忠誠の対象は、神殿上層部ではなく君達のお母君だ」
「信じられないな。イスマルク、神官だし」
ツンと、真琴はそっぽを向いてみせる。
その背後から、遥佳が真琴の頭をコツンと小突いた。
「どうしてそう意地悪言うのっ、真琴ってばっ」
「だあってぇっ。イスマルク、狡いんだもんっ」
「はっ? 俺の何が?」
さすがにそれは言いがかりだろうと、イスマルクが目を剥く。
「大体、遥佳は私のなのに、遥佳は自分から寄ってくしっ。優理も勝手に別れておいて、イスマルクにはしっかり会ってあげてるしっ。イスマルクだけ狡いよっ」
「もうっ。どうしてそう子供みたいなこと言うのっ」
「だって子供だもんっ」
「もう高校生でしょっ」
「高校行かなかったもんっ」
そんな真琴に業を煮やしつつも、諦めて遥佳がその頬にキスする。
「優理と真琴は特別だって分かってるでしょ。どうしてそんなことで拗ねるの。それを言うなら、真琴ばっかりイスマルクと遊びに行ってるじゃない」
「遊んでないもん。お仕事だもん」
しつこく反論はするが、キスされたのでちょっと真琴の機嫌も直ったらしい。言い返す勢いが弱まっている。
「遊んでるじゃない。おかげで私が畑にいる羽目になってるのよ?」
「むぅっ」
「大体、イスマルクが薬草捜して、イスマルクがそれを摘んで運んで、真琴、何にもしてないじゃない」
「してるもん。私がいるとインスピレーションが湧いてる筈だもん」
「薬草捜しにどんなインスピレーションが必要なのよ」
「それは、・・・知らないけど」
今までのぼそぼそした小さな吐息のような声と違い、真琴と普通に言い合っている遥佳の声は、真琴と全く一緒だ。
(少年と言われれば少年に見えるが、少女と言われれば少女に見える。髪の短さが先入観を増幅させていたのか。俺は馬鹿だ。なんで気づかなかった。何よりこのグリフォンに、敵意は全くない)
考えてみれば、出会ったのは第7神殿の近く。そして二人が持ち帰ってきたのは、女神に捧げられた牝牛。
何よりも人間を嫌っていることで有名な幻獣が、遥佳には大人しく撫でられていた。
「だから遥佳がもっと私をかまってくれればいいんだよ」
「私の体力を考えてちょうだい」
「愛があればどうにかなるよ」
「ならないわよ」
痴話喧嘩みたいなものを繰り広げてじゃれる二人を放置し、ヴィゴラスはまだ残っていた野菜や果物を食べ始めている。
「えーっと、ヴィゴラス? 目的の聖神殿の欠片は手に入れたんだ。そろそろゲヨネル大陸に戻ったほうがいいんじゃないか? ジンネル大陸は居心地悪いだろう」
人参を気に入ったのか、切なさそうに最後の人参を掴んで眺めているグリフォンに、イスマルクは話しかけた。
「キュウ、クィ?」
何を言われているのか分かりませんという感じで小首を傾げてくるが、大きな鷲すぎて可愛げは全くない。
前脚で握っている人参をひらひら振って、何かアピールしてきた。
「しょうがないな。肉食だと思ってたが、野菜も食べるのか」
イスマルクが畑から人参を一本引き抜き、畑の横を流れている小川で軽く濯いで渡すと、目を輝かせて齧りつく。
「人参は葉っぱも調理できるんだが、さすがに生では食べないか?」
更に何本か抜いて渡すと、人参の葉ももしゃもしゃと食べた。そして問いかけるような視線を向けてくる。
「いいんじゃないか? この畑はマーコットが作ってる。だが、治療院で使う分も必要だから、あそこの赤い紐と青い紐、緑の紐の中にある分は食べないでくれ。白い紐からこっち側は、牛用だから食べてもいい」
するとグリフォンは、白い紐よりも奥側にある野菜を引き抜いて食べ始めた。
しかも泥付きは美味しくなかったのか、二本目からはきちんと小川で洗っている。
(なるほど、グリフォンは人語を解すること、そして学習することがこれで証明された。まずい。ここの野菜、かなり美味いんだよな。舌を肥えさせたか?)
このまま居ついてしまうのではなかろうか。グリフォンは孤高に生きる種族の筈だが、食欲に負けたりするのだろうか。
とりあえず遥佳が気に入っているとなったらこのグリフォンもどうにかしなくてはなるまいと、イスマルクは諦めの境地で考え始めた。