103 ラルースは帰国し、遥佳は暗躍した
ギバティ王国に戻ったラルースを待っていたのは、兄王の悲しむような、労わるような、それでいて困ったという感情を表す眼差しだった。
「よく戻った」
「兄上、この度は・・・」
「よい。分かっておる」
兄として、弟の疲れたような顔を見れば分かる。決して浮ついた気分でいたわけではないのだと。ラルースなりに苦悩はしていたのだと。
公的な場所ではなく私室で弟を迎えながら、ギバティ国王は棚からとっておきの酒を選び出した。
「どうだった、ルートフェンは? 国としてはつまらんものだっただろう」
「はい、・・・いいえ。たしかに我が国のような賑わいはありません。ですが素朴で健やかな、そんな国だと思いました」
まるで第二王女エルネーのように。
このギバティ王国が成熟しきった甘露したたる美女ならば、ルートフェン国は未熟な青い乙女のようだ。
そうラルースは思った。
洗練されたものなどはない。どこも粗削りだ。けれども自分にはその方が良かった。
羽飾りや宝石のちょっとした色合いがどうだのこうだのと、そんなものに血道をあげる貴婦人よりも、野原で馬に食べさせる柔らかな草を見つけようと頑張るエルネーを見ている方が好ましかったのだ。
別れ際のパッパルート王弟デューレの言葉が耳に蘇る。
『ラルース王子。本当に望むのであれば、あなたの誠意を見せてください』
『それはどういう・・・』
『さあ?』
デューレが言っていたのは、カディミアのことなのか、エルネーのことなのか。
分かったのは、あのデューレはまさにルートフェン国で非公式ながらもそれなりの相談役としての地位を確立していることだ。
『道中お気をつけてお帰りくださいませ。またお会いできることを楽しみにしております』
見送りしてくれた第一王女カディミアは、文句のつけようのない立派な立ち居振る舞いだった。
反対に第二王女エルネーは無邪気なものだった。
「え? ラルース様、帰っちゃうの? 次はお姉様との結婚式なの? なら、それまでに私、上手になってるからね」
ラルースが贈った弓矢を練習しておくと、そんな約束を一方的にしてきた。
(兄上も疲れておいでのようだ)
ラルースはそう思い、出された酒を口に含む。
思わず、笑みが零れた。
「いい酒ですね。久しぶりに飲みました」
「なんだ。やはりルートフェンの酒は不味かったか」
「はあ。あ、いえ、・・・ちょくちょくとあちらで食事を頂いていたものですから、健全にワイン程度ですませることが多かったのです。王女達は果汁や茶が多く、滞在していたデューレ王子も茶が多かったので」
「なるほどな」
ならば夜にたしなむかと言えば、明日はどこにカディミアやエルネーを連れ出してやろうかと、そんなことを考えたりしていたものだから、ゆっくり酒を楽しむことも忘れていた。
何故ならちょくちょくと同行するデューレの存在があったからだ。
何かと為政者の立場で話してくるデューレに馬鹿にされまいと、嫌でも先に学んでおかねばならぬことは多かった。
予習は大事である。
それでも色々な場所で彼に教わっていたのだが、エルネーよりは呑み込みが良かったであろうことだけが救いだ。これでエルネーよりも理解能力がなかったら、ラルースとて自分に泣いてしまったことだろう。
「ラルースよ」
「はい」
「パッパルートのデューレ王子、どうであった?」
「大人しいことは大人しいですが、・・・かなりルートフェン国王一家に信頼されておりました」
「そうか」
自分に問いかけてくる兄王は、本当は違うことを聞きたいのではないかと、そんなことをラルースは思った。
「兄上?」
「いや。ディッパ王の婚約者だが、・・・ユーリ姫の話は出たか?」
「いいえ、全く」
「そうか」
物憂げにギバティ国王ブラージュは、とろりとした琥珀色の酒を眺める。
「ディッパ国王の婚約者、まさに災厄の姫であったわ」
「どういうことでございましょう?」
「いや。パッパルート国王の代理として出てきたユーリ姫。我が国の事情もかなり詳しかったが、その言葉、全てにおいて正しかったようだ。だが・・・」
「兄上?」
疲れているようだと、ラルースは思った。
黒髪だからというだけではないだろう。その顔色に影が差しているのは。
「たしかに全ての改革を行うには確実な手段ばかりだった。それは認めよう。だが、・・・反発が大きすぎる」
今や神子姫に対する怨嗟がこの国には渦巻いていると、ギバティ国王が溜め息をつく。
「女神様に一番近いと言われた我が国の民が、まさか神子姫様を罵り呪う日がくるとは・・・」
「それは・・・! それは、許されることではありませんっ」
さすがにラルースも驚いて身を乗り出す。
「その通りだ。だが、国民は甘やかされてきた現実しか知らん。それがなくなるというのはどういうことかと、神子姫様さえ捕まえて言うことを聞かせればいいと、そんなことすら言い始める輩が出てきておる」
「それは・・・」
勿論、それは自分達も考えたことがなかったとは言わない。まだ幼児であれば、育て方によっては都合のいい姫君に仕立て上げることもできただろう。
かつてはギバティ王国中枢部もそれを考えはしたのだ。
だが、本当の神子姫は自分の頭で考え、動くことのできる少女達だった。
奪われた絵を自力で奪い返し、更には傷つき病み衰えた人々を助けようと治療院で働き、そして恐るべき幻獣をも従えることができていた程に。
「ですが、噂ではどうやら・・・」
「その通りだ。彼の軍事大国ドモロールの城の内部を破壊し、国王と宰相を退位させた。それは、あの地下牢で泣き暮らしていたハールカ姫の仕業だと言う。・・・この短期間で、どれ程に凄まじい進化を遂げているのか、神子姫は」
「あの姫君が・・・」
ラルースも、グリフォンへと走り寄っていった遥佳を思い出す。あの時は、神官イスマルクの後ろに庇われている大人しい少女にすぎなかった。
「ドモロール新国王アクネトス。早速、神子姫の為にと、闘技場を造ることを表明したそうだ」
ラルースは、自分の耳がおかしくなったのだろうかと思った。
「何故、そこで闘技場?」
「ちょっと感性がおかしいのだろう」
兄弟共に、全くもってその意図が分からない。
だが、よその国の決めたことに口出しする権利はなかった。
「キマリー国王妃は神子姫の為に温室、その母国ドモロール新国王は闘技場。いつか神子姫様がおいでになったら進呈するということで、普段は大々的なそれに使うようだが、そういう時も女性は無料らしい」
「どちらも計算高いことだとしか思えぬのですが」
単に自分達が造る建物の理由に神子姫を持ってきただけではないのか?
そう思えて仕方ないラルースだ。
肝心の神子姫が二回も訪れたと有名なディリライトの首長は、特に何もするつもりはないらしい。
「ディリライトは長閑な海だけが取柄でございますからな。お気に召していただけたなら何より」
そんな風に韜晦しているばかりだ。
しかしディリライト島へ観光に行く人々は急激に増加しており、かなりディリライトの懐は潤っているとか。
「人は豊かになることを受け入れられても、貧しくなることは受け入れられんということだ」
兄王の言葉に、ラルースは唇を噛んだ。
「そなたにも、ルートフェンのような二流国家ではなく、まともな国に出して我が国を豊かにさせる役割を担わせろと、そこまで思っているらしい」
「・・・そこまで私に高値をつけるとは思えませんが」
苦笑せずにはいられないラルースだ。
王族でありながら神官のように全ての聖典を諳んじているといわれるラルース王子の虚像は、ラグトア伯爵の次男がラルースのフリをして行ったものにすぎない。
ルートフェン国では、様々な国の古典に明るく神官のように敬虔だと言われるラルース王子としての教養を全く要求されなかったが、それは単にどうでもよかったかららしい。
どうやらデューレは、その辺りの事情をすぐに察していたようだが。
どうせなら茶飲み友達ではなく、第二王女エルネーの家庭教師としてラルースを使おうとして、「ん?」と、思ったらしい。すぐに馬脚が現れたというところか。
しかし、そうなったらそうなったで、馬術の指南役にラルースを使おうとしてくるのだから人使いの荒い王弟ではあった。
あんな弟を持つディッパはよく耐えられるなと、そう思ったぐらいに。
「ラルース」
「何でしょう、兄上」
何度も言いかけて、しかしそれを止めて、かなり時間が経ってからそれをブラージュは口にした。
「そなたは好きにするとよい」
「・・・兄上?」
「カディミア王女であろうと、エルネー王女であろうと。はたまた全く違う姫君だろうと。勿論、そうなると立場はかなり違ってくるだろう。だが、・・・もうそなたの犠牲で何が変わるものではない」
兄王の瞳が陰っているのは、元々灰色がかった青い瞳のせいだろうか。
ラルースは重苦しいものを胸に感じた。
「せめてそなただけでも、後悔のない人生を歩むがいい。我が国で、よその気に入った王女を娶ってもいいのだ。誤解のないよう、それを二人きりで伝えたかった」
兄の言葉にラルースは俯く。
「国王としては、決まった言葉しか言ってやれぬ。だが兄としては、そなたの幸せを願っているのだ」
その言葉は重石のように物理的な何かを伴っていると、ラルースは感じずにはいられなかった。
ミザンガ王城に滞在している遥佳は、夜明けを前にして悩まずにはいられない。
こればかりは難しい問題だと、遥佳は思った。
「ハルカ? 何を考えてる?」
起きだすには早い時刻だ。
けれども目が覚めてしまったので、ぼうっと考えていた遥佳に、同じ寝台にいるヴィゴラスが声をかけてくる。
「心配しないで、ヴィゴラス。ちょっとね、筆跡を真似するのが得意な人はいないかしらって、そう思ってたのよ。頑張れば、私でも大丈夫かしら」
偽造文書は犯罪だ。
しかし、ヴィゴラスはそういうことを指摘する気など全くない幻獣だった。
自分の胸を枕代わりにしている遥佳の黒髪にキスして、不思議そうな顔になる。
「あのレイスとかいう男達ならできるだろう?」
「そうなの?」
「できないのか?」
「できそうかも。そうね、そういう手があったわね。あの人達なら誰かはできるわよね」
遥佳はヴィゴラスの黄土色の髪に手を伸ばした。所々に赤や白といった色を滲ませる柔らかな色だ。
服を着てくれていないのはどうかと思うが、事情的に仕方ない。
それに一晩、遥佳を抱いて寝ていたからか、ヴィゴラスの心も落ち着いているようだった。
「ねえ、ヴィゴラス」
「なんだ? やっぱりその名前はハルカだけが呼べばいい。他の奴に呼ばれても嬉しくない。ハルカだけでいい」
とてもご機嫌そうに遥佳の黒髪を指で梳いてくる。そして遥佳の頬に頬ずりしてくるのだから、やっぱりやることは年上に思えなかった。
よほど今までの日々が辛かったのか、昨夜からヴィゴラスの心は赤や黄色や緑、青、ピンク、オレンジと、様々な色で輝いている。
だから遥佳までそれにつられて、昨日は赤やピンク、青や水色、緑や黄緑、橙に黄色、紫や藍色、金や銀と、カラフルに輝く雲の上で飛び跳ねる夢を見てしまった。
「イスマルクと一緒に、おつかいに行って来てほしいの」
「え(なんであいつと行かねばならんのだ)」
とても嫌そうな気配が流れてくる。
どよよーんと、暗雲がヴィゴラスの心に広がっていく。
「どうせ私、日中はこのお城でやることがあるもの。ね?」
「え(まさかハルカは一緒に行ってくれないのか?)」
とても悲しそうな気配が流れてくる。
薄暗い曇り空から、ヴィゴラスの心にざぁざぁと激しい雨が降り始める。
「イスマルクとヴィゴラスなら任せられるわ」
「え(そんな・・・、そんな悲しいことがあってもいいのか)」
とても恨めしそうな気配が流れてくる。
ヴィゴラスの心の中ではゴロゴロゴロと、真っ黒な雲と土砂降りの後ろで何かが鳴り始めた。
「もう。しょうがないわね」
遥佳がヴィゴラスの頬にちゅっとキスすれば、かなり機嫌が良くなる。
いきなりヴィゴラスの中にある暗雲には太陽が放つ黄金の光が広がっていき、雲は白く輝き、雨が止んで空が晴れ渡っていった。
幸せそうに遥佳の頬にヴィゴラスがキスしてくる。
「駄目?」
「駄目じゃない。とてもとても、とっても嫌だが仕方ない。それにまだ、ハルカはここから帰る気はないんだろう?」
さすがのヴィゴラスも諦めるしかなかった。実際、ここはゲヨネル大陸ではない。遥佳も頼める相手には限りがあるのも分かる。
(ハルカにまでペガサスやドラゴンが浸食してきたら冗談ではないのだ)
もしもここで断ったなら、遥佳はあのペガサスやドラゴン達に頼むかもしれない。
そうなると唯一の楽園すらあの強欲で遠慮のない幻獣達が、ヴィゴラスから奪い取っていくことだろう。
(マコトだって俺がもらったのに、「ちゃんとカイトさんに返しなさい」って、取り上げるような陰険な奴らだったしな)
そう思ってしまえば尚更だ。
(あんな無神経なペガサスやドラゴン達などハルカに近づけてたまるものか)
ヴィゴラスは苦悩の溜め息を洩らした。
宝物の維持は何かと大変なのだ。狙ってくる邪悪な全ての生き物を排除しなくてはならない。
しかもこの宝物は動くし、喋るし、意思があるのだ。困ったことに、他の生き物を排除したら怒る。
ならば諦めて一番の存在でいるしかない。
(時にグリフォンとは苦難の道を往かねばならぬもの。それもまた誇り高き幻獣の運命なのだろう)
そういう特別な宝物ならば、隠して眺めているだけというわけにもいかないのだ。泣く泣く傍を離れなくてはならないこともあるに違いない。
そんな思考は、くっついていることにより遥佳に筒抜けだった。
このグリフォンの視覚はおかしいような気がしてならない。
「困った子ね、ヴィゴラス。私は宝石じゃないのよ」
「宝石よりも素敵だ」
しかも真琴は金色の髪にセピア色の瞳といった姿になっていた。遥佳だって今の艶めく黒髪もいいが、黄金の色になっても素敵に違いない。
焦げ茶色の瞳だって、赤みを帯びたそれに変わるならとても幻想的だろう。
今の姿も、やがて変化するであろう姿も、どちらもとてもいい。こんなにもわくわくさせてくれる宝石があるだろうか。
(駄目だわ。ヴィゴラス、考え始めたらもう止まらなくなってる。そんなに家出してた間、辛い思いをしてたのかしら)
ヴィゴラスの妄想を放置し、遥佳は寝台からするりと抜け出た。
「む。ハルカが逃げた」
「逃げたんじゃありません。用意してるだけでしょ」
隠しておいた紙とメモ用紙を取り出し、さらさらとメモ用紙に遥佳は用件を書いていく。それらを袋に入れて、しっかりと口を結んだ。
それを寝台で座ったまま、掛け布団でどうにか下半身を隠しているだけのヴィゴラスに、遥佳はよそを向きながら渡す。
「これ、持ってってね、ヴィゴラス」
「ハルカは恥ずかしがり屋だな」
面白そうな顔になって話しかけてくるのだから、本当にこの子はどうすればいいのだろうと、遥佳は思った。
「あなたが恥ずかしがってちょうだい」
同じだと分かっていても、やはりグリフォンの姿と人間の姿は違うと感じる。
止めたくても赤くなる自分の反応はどうしようもなかった。
(ちゃんと怒ろうと思ってたのに)
昨夜は流されて終わってしまった。今朝も用件の方が先で、怒るのは後回しになっている。
そんな自分は甘いのだろうか。
「もうすぐ夜が明けるわ。ヴィゴラス、グリフォンの姿に戻って。ここのお部屋、お菓子しか置いてないのよね」
何か食べさせてあげたくても、厨房でこっそりご飯を作るのは難しかった。
顎の下の羽毛で遥佳の頭を撫でてくるグリフォンに向かって、遥佳はぼやかずにはいられない。
(食事ならユウリ殿に出してもらうからいいのだ)
「ごめんなさいね、ヴィゴラス。さすがにあなたが見つかっちゃったら、私の正体がばれちゃうの」
(知っている。だから朝日が昇る前に戻るのだ)
何も分かってないペットのようでありながらヴィゴラスは賢く、何も説明しなくても分かっているようだった。
だから遥佳も翻弄されてしまうのだろう。
グリフォンの姿に戻ったヴィゴラスが、バルコニーへと続く窓の所へてくてくと移動する。
「ところでヴィゴラス。私が渡した袋、どこに持ってるの?」
その前脚に何も持っていないことに気づき、遥佳が尋ねる。
(宝物と一緒の所にしまった)
「それってどこにあるの?」
ヴィゴラスは少し迷ったようだったが、(ここだが?)と、見せてくれる。
驚いたことに、グリフォンにはカンガルーのようなポケットが、お腹にあった。
「き、気づかなかったわ。今までちょくちょくと触っていたのに」
何かとヴィゴラスの前脚の間に座らされていた遥佳だ。だからヴィゴラスのお腹は背もたれとしてよく使っていた。
そんなところに宝石が入っていたならゴツゴツしていたと思うのに、全くそんな覚えがない。
(羽毛や体毛で入口のカモフラージュは完璧なのだ。その気になったらハルカも仕舞えるのだ)
誇らしそうに胸を張るヴィゴラスだ。
「絶対に仕舞っちゃ駄目よ」
(何故だっ。グリフォンの爪と嘴に守られた、最高に安全な場所なのにっ。とっても安全なんだぞっ。怖いことなんて何一つないのだぞっ)
「そんなとこに入る方が怖いわよ」
がぁーんと、ヴィゴラスはショックを受けたらしい。
実はそれなりに自慢のポケットだったのだろうか。
もしかして自分は、母の子でなければ寝ている間にこのポケットに仕舞われていたのだろうか。
(あり得るわ。ヴィゴラス、遠慮してアレだったんだもの)
遥佳は、今までペタペタ触っていたのに全く宝石のそれに気づかなかったというのは、もしかしてグリフォンの表皮はかなり分厚く頑丈なのかもしれないと、そんなことを思う。
(これ、私の身の安全の為にも忘れた方がいいんじゃないかしら。うん、これはそのまま忘れましょ。その方がいいわ。きっとそうよ)
そしてこの話題は二度と出さない方がいいような気がする。
もし、「試しにハルカも入るといい」などと言われてすぱっと入れられてしまったら、二度と出てこられないかもしれない。
さすがのイスマルクもまさかヴィゴラスの中に遥佳が閉じ込められているとは気づかないだろう。
それこそ誰にも見せずに一人占めとはなんて素晴らしいんだろうと、ヴィゴラスは遥佳の言葉を聞かなくなってしまうかもしれない。
だから遥佳は、このことは自分の記憶から削除することに決めた。
「優理によろしくね。あと、イスマルクに心配しないでって伝えて」
(分かった)
その大きな翼をぱさりと広げて、グリフォンはまだ暗い空を飛んでいく。
(だけど、心の中では思いっきり恨んでいたわね。ずっと傍にいるって言ったのにとか、愛してると言ってくれたのにとか)
真琴もそうだが、ヴィゴラスもあれでかなり忘れてくれないタイプだ。
遥佳はヴィゴラスが大好きなものは何だろうかと考えた。一番は遥佳だ。・・・うん、駄目だ。
(しょうがないわ。何かヴィゴラスが喜びそうなことを考えておきましょ)
それでも心がとても軽くなっている。
好意の全てを向けてくるヴィゴラスの想いは、遥佳に向けられていた全ての敵意を遮断する程に揺るぎがなく強烈だ。
(だから私は今日も歩きだせる)
遥佳だけの可愛らしい小鳥は、遥佳だけは傷つけない守護者でもあった。
東の空が白み始め、薄桃色と茜色、そして青紫色に交じり合った景色を作り出していく。
「さっ、今日も頑張りましょっ」
まずは着替えようと、遥佳は今日の服を考え始めた。
ザンガにある大きな屋敷で、優理は呟いた。
「いつになったら私の姉妹は戻ってくるのかしら」
先程からペンを片手に机に向かっていたドレイクが、そこで応える。
「せやな。同じ顔やし、いっそ身代わりになってきぃや。どうせ分からへんて。上手うやれば王子はんのお妃はんやで」
「やめとくわ。それより偽造文書ってできたの?」
「でけたけど。・・・なぁ、先に押印されとるん、うっとこの王子はんの印章やと思うんやけどな。これ、ばれたら縛り首もんやで」
「ばれなきゃいいのよ」
優理は堂々と言った。
ばれたら力技で押しきればいいのだ。
渡されたその筆跡を真似して贋の手紙を書きあげたドレイクは、いざとなったら自分がこれを書いたことを知る全ての人間を抹殺しないとヤバイと、そんなことを思う。
使われている紙も、ミザンガ王室の紋入りという特別紙だ。
「はい、ヴィー。できたみたいよ」
「できたそうだ。さあ行こう、イスマルク」
早くおつかいをすませて戻ってきたいヴィゴラスがイスマルクを急かす。
イスマルクは前かがみになって椅子に座りこみ、がしがしとその黒髪を手で掻きむしっていた。
「ああ、なんてことだ。あの純粋で心美しい彼女が、どんどんと皆に汚されていく。なんてことを彼女に迫ったんだ、あのクソ王子は」
「なあ、イスマルク。どう考えても王子の筆跡と印章を押した紙を手に入れて犯罪行為を先導しているのは、その純粋で心美しい彼女のやってることでしかないと思うんだがな。肝心の王子は全く知らんと思うぞ?」
カイネは苦悩する元神官の視力と頭脳回路を本気で危ぶんだ。
その一幕を黙って見ていたレイスは、用意してあったバスケットをヴィゴラスに渡す。その中には子豚の丸焼きとパンとワイン。
「レイスはいい奴だ」
「そうか」
レイスはもう一つのバスケットも差し出した。その中には野菜を詰めこんだ鵞鳥の丸焼きが入っている。
「うむ。お前にならユウリ殿を任せてもいい」
「そうか」
「ちょっと待ってちょうだい、ヴィー。どさくさに紛れて私を丸焼き如きでレイスに売り飛ばすんじゃないわよ」
段々自分が安売りされてきているような気がする優理だ。
以前は子豚の丸焼きお弁当で、今回は子豚と鵞鳥の丸焼きお弁当。
「どうしましょう、リリアン。子豚の丸焼きでユーリが買えてしまうんですって」
「あらあら。沢山の人が押し寄せて丸焼き祭りになりそうね」
あの考え無しグリフォンにも困ったものだと、リリアンとガーネットはそれを眺めていた。
本当はもう優理の荷物も運んだから真琴の所へ戻るべきなのだが、その前に遥佳の荷物をパッパルートの守り人の所へ運んであげようと思ったのだ。
イスマルクと遥佳がいる状態で、更にこの荷物となれば、ヴィゴラスとて運べないことはないが、安全性が落ちる。
それならばリリアン達が、せめて守り人の所まで、もしくはゲヨネル大陸まで同行してあげた方がいいと判断するのは当然だっただろう。
しかし遥佳はミザンガの第三王子に連れ攫われてしまったという。それは大変だと、助けに行こうとしたら、どうも何かが違う感じだ。
「どうする、リリアン?」
「どうにかなるでしょ。マーコットは少なくともお誕生日まで島にいる筈だもの。それからディリライトに向かうでしょうし」
ガーネットに対し、リリアンが肩を竦めてみせる。
二人は壁際に立ってそんなことを話していたが、サフィルスは初めて会う男達じゃないしねと、堂々とソファの上で寛いでいた。
優理は優理で、昨夕、ここに着いたばかりだ。そして、
「あー、つっかれたぁ。今日はもう休むぅ」と、レイスが作ってくれたご飯を食べて爆睡していたので今日は元気いっぱいである。
ヴィゴラスはヴィゴラスで、
「なんでいないのだ。冗談ではない」と、遥佳を迎えに行った筈が朝帰りときた。
そして今日はイスマルクを連れてヴィゴラスは出かけるらしい。
「落ち込むのは後だ、イスマルク。彼女はいつだって可愛い」
「お前が止めないからだろっ。この役立たずがっ」
「俺が一番愛されているからといって妬くな。男の嫉妬は見苦しい」
そんなことを言って、ヴィゴラスはイスマルクを引き摺って出て行った。片手に子豚と鵞鳥の丸焼きが入ったバスケットを持って。
「ちょっと待ちなさい、ヴィー。私とガーネットも行くから」
「そうね。サフィルス、後はお願い」
やはり心配だと、リリアン、そしてガーネットがその後を追いかける。
「ぅげっ。来なくていいっ」
「あなただけだとイスマルクをどうするか分からないじゃない。あなたの乱暴さは目に余るのよ」
リリアンは、ヴィゴラスの抗議を却下した。
「女手だってあった方がいい筈よ。それにイスマルクの襟を掴んでいくんじゃありません。本当にあなたはもう・・・」
ガーネットも言葉を添える。
「良かったわね、ヴィー。両手に花で。行ってらっしゃい、リリアン、ガーネット」
残されたサフィルスは、やはり自分が優理の護衛役なのかなと、そんなことを思ってヴィゴラスに小さくひらひらと手を振ってあげた。
「どこが花だっ。こんなのはただのクズ石だっ」
勿論、そんな反論は聞かなかったことにする。
グリフォンには強く生きてもらいたいものだ。
「さっ、お土産があるのよ。あのね、カイネさんにはとってもいい革砥なの」
「なあ、ユーリ。俺も細かいこた言うつもりはないんやが、一番世話してやっとんの俺や思うんやけどな。なして真っ先にカイネやねん」
ドレイクが唇を尖らせる。
「あ、ドレイクのもあるのよ。だけどドレイクには面白グッズだから後の方がいいじゃない。えっとね、何か面白そうな手裏剣を見つけたからそれも」
「シュリケン? 何や、それ」
「見たら分かるわよ。ドレイクのはね、ペンに見せかけた剃刀とか面白系でいったの。だからみんなでゆっくり見たいでしょ? で、最後なの」
さすがは軍事国家ドモロール王国。そういう物が色々とあった。
「ええけどな。けど、ほんなんに限って能力は低いんやで」
「そこまで私に分かるわけないでしょ。改良とかはそっちでやってよ」
「そらそうや」
食堂の隅に積まれていた箱を開けて、ガサゴソと優理が中身を取り出し始める。
皆が注目していたら、ガラスの雑貨からミニナイフから刺繍糸まであらゆるものが詰め込まれていて、早速レイスが呆れた声になった。
「お前は一体何を買い出しに行ってたんだ」
「えへへへ。あ、そうだ。幾つかはそっちで買ってよ、レイス。普段の仕入れ値よりも遥かに安いから」
「どれがだ?」
「えーっと、ちょっと待ってね。この箱じゃないみたい」
うんしょうんしょと広げていく中には毛皮から文房具からあらゆる物が入っている。
「なあ、ユーリ。これはかなり高い細工物だと思うんだがな。この石はたしかドモロールの特定の地域でしか産出されん筈だ」
「え? あ、いいでしょ。こっちで買ったらそれ、十倍の値段はするのよ。だから買ってきちゃったぁ。売ってもいいんだけど、欲しいんなら特別に仕入れ価格で譲ってあげるわよ。ハールカが世話になったみたいだし」
特に金銭関係には目を光らせているレイスがそれを手にすれば、どうだと優理が胸を張る。
(ふっ、この私の買い物上手さに恐れ入ってひれ伏すがいいわっ)
ドレイクとカイネは互いに視線を交差させた。
ざっと見たそれでも金貨100枚は下らないだろう。どこからその金を調達したのか。
しかも開けていない箱はまだあるのだ。
『なんか言ったってや、カイネ』
『レイスに任せる』
見ればレイスは、埋もれるようにして入っていた鞣革を手に取っている。
「これはいい。端っこの部分で試させてもらっていいか? 幾らだった?」
「えーっとちょっと待ってね。それ、何種類か買ってきてるのよ。それぞれ値段が違う筈なの」
土産は土産としていい物を買ってきているが、それとは別なのがこれらだ。
だから優理は自分のチョイスを褒めろとばかりに、いそいそとメモを探し始めた。
やはり自分の仕入れを評価されるのは気持ちがいい。
「そうか。ある程度は勉強してもらいたいもんだがな」
「そちら次第ね」
ドレイクとカイネを置き去りに、肝心のレイスは紙とペンを持ち出して買い取り価格交渉を始めていた。
ミザンガ王国第三王子ゲオナルドは王城の中に自分の住まいとなる棟が与えられている。そしてまた、衣服等の予算もつけられていた。
その中から適当に自分の服を買ってもらっている遥佳である。
(やっぱりね。そんな気はしていたのよ)
そういった支出のそれまでの記録を見せてもらいながら、遥佳はそう思った。
勿論、何の肩書きもない遥佳がそういったものを見る権限はない。
しかし遥佳には奥の手がある。そう、脅迫という名の奥の手が。
誰にだって他人には知られたくない秘密の一つや二つはあるものなのだ。
「おや。ハールカ殿。こんな所にいらしたとは」
「あら、シャレール様。ごきげんよう」
そこにやってきた第一王子にして王太子であるシャレールは、複雑そうな表情を浮かべた。
(ごきげんよう、ではないだろう。今のは、こんな所にいていい筈がないだろうと、そういう意味なんだが)
よりによって出納関係の部署にいたのは、末弟ゲオナルドの自称婚約者である。この城内で学生を表す緑色のヴェールをかぶっている彼女の姿は特徴的で、見間違う筈もない。
「何をしていたのかな?」
遥佳は困ったように俯いてみせた。
「ええ。それが私、いきなりここに連れてこられてしまいましたでしょう? 服は勝手に購入していいということでしたので、今までの記録を見せていただいていましたの。やはりそれまでの方より出すぎる真似などできませんもの」
とても従順で控えめそうなセリフだが、こんな事務方の所にまで入りこんでいる時点で控えめさなどは皆無と分かる。
「そういうのは、ちゃんと女官達に相談すべきだよ、ハールカ殿。こういった所に立ち入るべきではないな」
シャレールは顔を青ざめさせている担当者に、咎めるような視線を送った。
それまでの方というが、ゲオナルドは今まで正妃を一人しか娶ったことはない。離婚してしまったが、きちんとした手順を踏んで他国の王室から嫁いできた正妃と、家名すら不明の愛人から始まった庶民の娘とでは立場も格も違うのだ。
仮にこのままゲオナルドの妻に落ち着くとしても、正妃にはできない愛妾止まりの娘が、それまでの正妃と同じクラスの扱いを受けようという方が図々しい。
「ああ。この方をお責めにならないでくださいな。だって女官の話など全然役に立たないからこちらに来たんですもの」
うふふふと、遥佳は笑顔を浮かべる。
しかし、その焦げ茶色の瞳は全く笑っていないようだと、緑の透かし織りに隠れがちな眼差しに、シャレールも気づく。
「役立たない? だが、君は城のことに疎い。女官の忠告をないがしろにすべきではないよ。それにどんな理由があろうと、君にそれを見る権限はない」
「この方だって、私が指摘したから見せてくれたのです。変な疑いを自分にかけられたくなければ当然ですわね。正しく記帳していた担当者より責められるべき方は沢山いらっしゃるようですが?」
遥佳は、自分が見ていた記録を差し出した。
シャレールが、遥佳の指で指し示されたそれを辿っていく。
「ゲオナルド様がいいかげんで役立たないのは分かっておりましたけれど、これはないんじゃありません?」
「・・・なるほど」
シャレールは改めて遥佳を見直した。
「女官の交代をお願いできますか? 少なくとも女主人の相談役として全く機能しない人間を、このままゲオナルド様の棟に置かれていても困ります」
「まずはゲオナルドを通しなさい。それが筋というものだ」
「そうなると全員を辞めさせるのがオチですよ、シャレール様」
遥佳は物憂げに忠告する。
「ゲオナルド様って、服は着られればいい、食事はお腹が膨れたらいい、掃除しなくても人は死なないって持論の持ち主ですもの。ましてやこれを知ったら、私がいれば世話はしてもらえると割り切り、ブチ切れて全員放り出すだけです。・・・まあ、女官に自分の妃を蔑ろにされていた間抜け王子としては手遅れですけど。ですが第三王子にそんな真似をさせるのはよろしくないのでは?」
「・・・君は」
シャレールは、まじまじと遥佳を見下ろした。
当時は正妃がいたというのにゲオナルドが手を出して孕ませたという庶民の娘。
だが、どこかおかしいと思っていた。
何か違和感があったのだ。
「住まいや使用人に全く興味のない第三王子の役に立つ人選をお願いします。そして私に対しても、きちんと常識的な対応ができる女官を」
遥佳が重ねて言えば、シャレールも頷く。
「善処しよう」
「早急にお願いします」
遥佳は念を押した。
「明日になってもまだいるようでしたら、私が解雇しますから」
「君にそんな権限はないんだがね」
「ゲオナルド様に一言言えばすぐにできます。けれど、混乱するのはよろしくないでしょう?」
ゲオナルドは自分の言いなりだと言わんばかりの遥佳だ。
しかし、それは決して誇張ではない。
実際、遥佳はゲオナルドの手綱をしっかり握っていて、最近はあのボサボサ髪もむさい髭面も見ないですむというので城内でも好評だったりするのだから、恐るべき娘ではあった。
「他の方付きの女官と、ゲオナルド様付きの女官との交代でお願いします。性格がよくて真面目な人を回してください。女官の再教育はそちらでお願いします」
「女官の教育は女主人の役目だ。君がやるわけではないと?」
「庶民の娘にそこまで期待しなくてはならない程、この城は人材不足ですか? 私、ゲオナルド様のことではこの短期間でかなりの成果をあげたと思いますけど?」
それを言われればその通りである。王子に取り入っていい思いをしたい愛妾ならば贅沢に溺れていただろうが、遥佳は徹底的にゲオナルドの躾をしている。
この娘は何をその視線の先に見て動いているのだろうと、シャレールは思った。
「分かった。ならば母の所に行こう。女官長も呼び、母からの命令としてもらわねば、秩序が崩れる。君も同行してくれるかな?」
「はい」
王妃の前に行くなど尻込みするのではないかと思ったが、遥佳が頷いたことにシャレールは改めて、何とも庶民の娘らしくない娘だと考える。
けれども貴族令嬢ではないのは見ていれば分かった。
「シャレール様もご存じだから構わないでしょう? じゃあ、ついでにシャレール様とアルマン様のそれも貸してちょうだい。比較用で、王妃様の所に持っていくから」
勝手に担当者にそういうことを命じるものだから、おいおいと言いたくなる。
しかし担当者から問われるような目線を受けて、シャレールは頷くしかなかった。
どちらにせよ、この娘に指摘されるまで気づかなかった自分達が愚かなのだ。
(こうなってはこの担当者も責めるわけにはいかないか。まだまだ隠し玉を持っていそうな娘だ)
もしかしたらこの娘は、ゲオナルドの元妃の関係者なのか。
「どうぞ、ハールカ殿」
「恐れ入ります」
王太子シャレールは遥佳をエスコートして歩きだした。
ミザンガ王妃を前にした女官長と何人かの女官達は、それを見せられて慌てて帳簿をめくった。
そして王太子シャレールに対し、何を言えばいいのか分からないといった感じの視線を向ける。
結果を聞いた王妃は呟いた。
「何故、こんなことに・・・。だって、それではまるで我が国が冷遇していたかのようではないの」
テーブルには帳簿が広げられており、皆が着席していた。
その中でただ一人、全く帳簿を見る気のない遥佳は、のんびりとお茶を飲み、出されたお菓子を食べている。
「王妃様なり女官長なりの主導で冷遇していたのではなかったのですか? だってゲオナルド様のお妃様がミザンガのやり方を尋ねても、故郷の国のやり方でいいのではありませんかと、全く相談に乗ってくれない女官達を揃えたんですもの。
言うまでもなく、この国の文化には不慣れな王子妃。ましてや夫をわずらわせないのが妻の務めだと思っていらしたら、耐え続けるしかありませんでしたよね。そんな女官を配置した夫の家族には余計に相談できません。
毎日、あの棟にいる女官達は楽しかったと思いますわ。だって王族を皆でよってたかっていびることが出来たんですもの」
遥佳は、そこでアーモンド入りクッキーを齧った。
こういう薄い生地もたまにはいいかもしれないと思う。
王妃の所で出る焼き菓子は甘さ控えめだった。
「ハールカ殿。何故そんなことを知っているのだ?」
「私、街で占い師をして生計を立てておりました。ここに連れてこられた時に、前のお妃様のことを占ったのです」
「つまり君の占いの結果か。それは妄想と言わないか?」
「だから今、あなた方が調べているのではありませんか? 私の妄想など関与できない、このお城で保管されていたそれらの帳簿をよくご覧ください」
シャレールに問われた遥佳は、そんな言葉を返す。
「私も庶民の娘だからと、最初は部屋の掃除すらしてくれませんでした。ゲオナルド様と並行して躾け直した結果、今ではお掃除もするようになりましたし、雑巾の絞り汁入りのお茶も淹れなくなりましたけど」
「それは言いがかりだろう。普通、そんな茶を淹れる侍女はいない」
「私もこのミザンガ城で初めてそんな侍女を拝見しました。ゲオナルド様はよく元お妃様と食事を分け合っていらっしゃいましたから、その時にはしなかったようですけど。個別で食事していたなら、どうだったのでしょう」
「・・・なるほど。それで君はゲオナルドの棟の女官と侍女を全部、他の女官や侍女達と入れ替え、その再教育はこちらでしろと言ったわけだ」
シャレールも、自分が先に遥佳と会話する方が、聞いている王妃や女官達にも事情が分かるだろうと思っただけだ。
先程の遥佳の希望を口にしてみせる。
「ゲオナルド様も女官達も同じレベルなんです。私が目を光らせている時には大人しく従っても、目を離したらすぐ元通り。そんな所に、ゲオナルド様の子供を連れてくることなどできません。本当に困っております」
「つまり、ゲオナルドの子をこの城に引き取れと?」
「このままよそで育てましょうか? 今なら私の実家に連絡を取れば、第三王子の子供と知れば養育してくれるかもしれません。ところでゲオナルド様の長子が城外で育つ危険性を理解しておいでですか、シャレール様?」
「なるほど」
やはり身分目当ての女性とは少し毛色が違うようだと、シャレールは思った。
こういう会話も嫌いではないが、生意気だと嫌がる男は多そうである。
「それに全ての女官を統括するのはそちらの女官長で、ミザンガ王国女性の頂点にお立ちになるのが王妃様です。ゲオナルド様のお妃様を迎えたのは国交にも深く関与すること。それをわざと壊した女官と侍女達について、責任はどなたにあるのでしょう?
それは女官を管理できずに追い払われた元お妃様の責任ですか?
その辺り、ちょっと外交担当の大臣にお尋ねしてもいいでしょうか」
「そ、それは・・・」
さすがに女官長の顔色が変わった。
「私は被害者です。お妃様とうまくいかないゲオナルド様、昼間から酔っ払って私を襲ったのですもの。婚約者には責められ、家から追い出され、泣くことしかできない赤ん坊を抱えて誰も助けてくれなかった日々。・・・発端はどこにあるのか、責任はどなたにあるのか、私が調べたくなっても当然だと思いませんか?」
「あの、その、・・・お嬢様。お気持ちはお察ししますけど」
「察してくれる気持ちがあるなら、今すぐ棟の女官と侍女とメイド、全て引き取ってください。そしてこちらには性格の良い女性を配置してほしいのです。明日から」
「・・・それが難しいと言っているのだがね。簡単に配置換え出来る筈もないだろう。そう思いませんか、母上?」
女官長の窮地を見かねたシャレールが口を挟んで、王妃を巻き込む。
「そうね。ハールカさん。配置換えをする時にはやはりある程度前に打診して、それから決定するのよ。そこまで急には出来ないわ。そこまで急ぐ理由でもあるの?」
「ええ。今夜には発表し、明日中に女官と侍女達は追い出すつもりです。信頼できない人がいるより、私が世話した方がマシですもの」
「あなた一人でゲオナルドの世話をするのは無理よ。王子は市井の殿方とは違うわ」
様々な社交やその場に応じた装い。客に対しても失礼のない対応。
住まいがあればいいものではないのだ。
女官は秘書のような役割をそれぞれに持っていたりする為、いなくなったら全てが滞る。
だから王妃は、落ち着くようにと遥佳を諭した。
「王妃様。シャレール様が赤ん坊だった時のことを思い出してください。無力な小さい子供。もし、そこでシャレール様のお皿やカトラリーを、床を拭いた雑巾で拭きあげる女官しかいなかったらどうします? シャレール様に床を拭いた雑巾を舐めさせて育てますか?」
「そ、そんなことはしないわ。勿論、そういう人なら辞めさせるのは当たり前でしょう」
王妃にとって、それは全く想像もできない世界である。
「ええ。ですから私、皆を辞めさせると言っております。あの人達、元お妃様には皆で協力して嫌がらせしていました。王妃様や女官長を疑っているわけではありませんが、そこまでゲオナルド様と元お妃様との婚姻を破綻させたかったのですか?」
「そんなわけないでしょうっ。それどころか、なるべく口うるさくしないようにと・・・。外国の王女殿下だったのよっ。だから女官達にも報告させて、二人がうまくいくようにと・・・っ」
三人の王子達のそれぞれの妃。
序列を乱さず、しかし誰かが肩身の狭い思いをしないようにと、姑にあたる王妃なりにバランスをとってきたつもりだった。
「そして元お妃様には何もお尋ねにならなかったのですよね? その配慮が、女官達が口裏を合わせれば元お妃様をいくらでも追い詰めることができることへと繋がったわけです。信頼できない女官などそのレベル。・・・実は、子供を預けていた里親が高齢で体調を崩し、倒れたと連絡を受けました。私が引き取らねばなりません」
「え・・・」
皆の目が、遥佳に向けられる。
「私は大人です。自分のことは自分でできます。ですが子供はまだ三才。そしてこのお城には王子妃すら、徒党を組んで辛い目に遭わせていた女官と侍女とメイドばかり。
シャレール様は、ゲオナルド様の子供が雑巾の絞り汁を飲まされても、こっそりといじめられていても平気かもしれませんが、私は子供をそんな目に遭わせるつもりはありません。ゲオナルド様は大人なんですから自分のことは自分でしていただき、私が子供の世話をします」
「それは、・・・さすがに無理よ」
王妃もそうとしか言えなかった。
「その為にゲオナルド様を教育したのです。・・・王妃様。今まで私が頼れるのは自分だけでした。そして小さな子供が頼れるのは母親だけです。ゲオナルド様は役に立ちません。そしてあの棟に、信頼できる女官がいないことは確認済みです」
そこで女官長が王妃に目線で尋ねる。王妃は頷いた。
「ハールカお嬢様。そういうことでしたらこちらで女官と侍女はすぐに手配いたしましょう。明日ですね?」
「ええ。明日には全員を入れ替えてください。子供を虐待せず、私が相談してもいい加減な対応をしない女官や侍女達を」
「分かりました。・・・ところでハールカお嬢様。その指輪、とても素敵でいらっしゃいますこと。あまりにも存在感があって驚きました」
女官長は、いきなり話を変える。
遥佳もグリーンダイヤモンドの指輪をはめた左手の中指を、そっと右手で撫でた。
「有り難うございます。こんな昼間につけるものではありませんが、母から持たされたものです」
「お嬢様のお母様のものでしたか」
遥佳は昔を懐かしむような微笑を浮かべる。
「ええ。困った時には売ってお金にするようにと、母からこっそりもらったものです。どんなゲスな男の子供でも、赤ん坊には罪が無いからと」
「ゲス・・・」
女官長も二の句が継げなかった。
「学校帰りだった13才の私をいきなり宿に連れ込んだ酔っ払い男が、王子様と知る由もありません。そんな男に娘が妊娠させられたと知った母ができたのは、この指輪を私に持たせることだけでした」
そっと、遥佳が白いハンカチを目に当てる。
そこにいる中で一番若いシャレールでさえ30代。そして遥佳は17才。
誰もがいたたまれない思いを抱かずにはいられなかった。
しかし指輪が気になっていた女官長である。
「あの、お嬢様。失礼ですがその指輪、見せていただくことはできますか?」
「申し訳ないのですがお断りします。これは見せびらかすものではありません。売る時にも買い取り先は既に母から教えられておりますから」
「そうですか。失礼いたしました」
「いいえ」
そこで遥佳は立ち上がった。
「それでは私、そろそろ失礼します。家具を買いに行かねばなりませんので」
「家具?」
シャレールが怪訝そうな顔になる。
「ええ。まさか外国から嫁いできた王女様の為に用意されたお部屋と家具を、私と子供が使うわけにはいきません。ですから模様替えをしようかと」
「まさか街に買いに行くつもりか? 普通、そういった家具は城から発注するものだ」
何も分かっていない庶民の娘に、王太子は城のやり方を教えた。
遥佳の言い分が、それを凌駕してくるとは思わずに。
「その発注してくださるゲオナルド様はお仕事でいません。女官達は頼りになりません。そして動けるのは私だけ。・・・いいですか、シャレール様。小さな子供には柵のついたベッドだって、柔らかな遊び道具だって、子供用の食器やスプーンだって必要なんです。何かといえばゲオナルド様を通せと仰いますが、放っておけば子供は育つと思っているような方に何ができますか? 私、もう何も期待しておりません」
そこで遥佳を止めたのは王妃だった。
「お待ちなさい、ハールカさん。そういうことなら女官長、すぐに手配してちょうだい。もう我慢できないわ。一体どういうことなの。ゲオナルドの所はどうなっていたの。すぐ調査させなさい」
「かしこまりました、王妃様。それではお嬢様。すぐにそういった家具や遊び道具も、お話を聞いて手配させていただきます。後ほど、新しい女官達を連れて伺います。どうぞお部屋でお待ちください」
女官長もさっと立ち上がる。
何故ならこの場にいる王妃も女官達も、皆が苛立っていたのだ。
身分低い娘が愛人として乗り込んできて好き勝手にしていたのなら、軽蔑して終わり、次の段階へと進んだだろう。
そうではなく、第三王子の愛人として乗りこんできた娘はゲオナルドの性根を叩き直し、王族の側で仕える女官達の不出来さを次々と指摘し、場合によっては女官長以下、政務部門から叱責どころではない責任を追及されかねない事実を出してきた。
彼女はよほど優秀な学生だったのか。それとも、いずれ大勢の使用人達を差配する女主人になる教育を実家で受けて育っていたのか。
――― 過去のこととはいえ、まずは調べなくては。
――― 一方的な言い分を信じるわけにはいかない。けれどもし、それが本当のことなら・・・。
礼儀作法や教養を兼ね揃え、選ばれて王城の女官になったと自負していた彼女達にとって、遥佳が指摘するような女官達の存在は、恥でしかない。
王妃や女官長に、虚偽の報告をしていたなど、あってはならないのだ。
「分かりました。ではよろしくお願いします。それでは王妃様、王太子様。私は失礼いたします」
軽く礼をとってから出ていく遥佳を見送ってから、残された女官達は一気にざわめく。
「あの頃はたしかアイナーティルディ様にこそ問題があるという報告がされていたかと思いますが・・・」
「ええ。ゲオナルド様がどんなに歩み寄ろうとしても無視なさると」
「ミザンガをお嫌いになり、何を言っても聞いてくださらないという話でしたわね」
年配の女官が、コホンと咳払いして真っ先に気を取り直した様子だった。
「女官長。ゲオナルド様がお子様だった時の家具を見てきましょうか。何かと転げまわるゲオナルド様でも落ちなかった柵がついていたかと思います」
「私もお手伝いしましょう。小さな子供用の家具など今からの発注では間に合いません。昔の物ではございますが、きちんと管理されていた筈です」
そこで女官長も王妃を見た。
「妃殿下。昔、ゲオナルド様がお使いになっていた家具を持ち出してもよろしゅうございますか?」
「あれは丁寧に作られていたものね。いいわ、ゲオナルドの棟に運んであげてちょうだい。庶子とはいえ、ゲオナルドにとって初めての子供。・・・彼女はかなり聡明そうだし、実際、ゲオナルドの変化は凄いものだわ」
そこでシャレールが、気になっていたことを口にする。
「だが、母上。やはり彼女はゲオナルドに取り入ったどころか、何というのか、まるで・・・」
「ええ、シャレール様。何と申しますか、ゲオナルド様を軽蔑しているように見受けられました」
シャレールと女官長の会話に、古参の女官が口を開いた。
「あの、女官長。ハールカお嬢様の外見が好みだったということでしたが、ゲオナルド様、酔っていて性格を見抜けなかったのかもしれません。酔いと目が覚めてみたら性格があわなすぎて逃走したとか、そういう状態だったのでは?」
「ええ。ゲオナルド様が王子殿下だと知ってもあの態度とは、あまりにも・・・。そしてあの指輪。かなり値打ち物に見受けられましたが、資産家のご令嬢だったのかもしれません」
女官長の言葉に、王妃も頷いた。
「私もそんな気がしたわ。ゲオナルドのことをまさにダメな人間扱いしていたように思えたの」
それは気のせいではなく、純然たる事実だ。
遥佳はゲオナルドとの出会いの時からムカムカしていたのだから。
ずっと尽くし続けてくれていたイスマルクを使って脅したのが、ゲオナルドの運の尽きだった。
――― 遥佳のお気に入りに手を出すべきではなく、本気で怒らせてもいけない。
優理か真琴がいれば、そう忠告した筈だ。
「母上。とっくに彼女、ゲオナルドのことを役立たずとか間抜けとか言っていましたよ。それに、・・・市井なら普通に犯罪者です。その取り締まりの最高責任者がゲオナルドですが」
「そうだったわね。愛妾扱いになるにせよ、せめてゲオナルドの子供だけはきちんと育てさせなくては。女官長、最優先で対応してちょうだい。・・・いずれ彼女にはいい縁談を見つけてあげるにしても、今はせめて彼女の好み通りに内装は調えてあげて」
「かしこまりました」
どんなに遥佳が脅しても、反省などしない女官や侍女達は隙あらば失脚させようと考えていた。
ゆえにこうして遥佳は全員を追い払うことにしたのである。
そして場合によっては王妃そして女官長が、外交を破綻させるのに関与したと判断されるかもしれない事態を、遥佳はちらつかせた。
第三王子の棟から放り出された彼女達がどうなるのか、・・・ブラック遥佳は、もう知る気もない。
ミザンガ王国第三王子ゲオナルドは、視界も明るくなる程に前髪をきっちりと切り揃えられている。
そして着崩した跡がつこうものなら嫌味と皮肉を言われ続ける為、だらしなく着崩すことすらできないという日々にうんざりしていた。
(ルディーも口うるさかったが、あいつは言うだけだった。しかし、このクソ娘は違う。本気で実行してきやがる)
勿論、男には仕事があるのだ。時には着崩すことだってあるのは当然だ。
なのに、どういうことなのか。
ゲオナルドが服をぐしゃぐしゃにして戻ってこようものなら、嫌いな食材を使ったメニューがオンパレードで並ぶときたものだ。
(おかしい。俺は苦手な食いもんなんざ出てきても顔に出したこたねえ。だからバレてる筈がねえ。なのになぜバレてやがるんだ。料理人までこいつの言いなりときた)
さりげなく、その晩の寝室には自分の嫌いな香水がひと吹きされていたりもした。
枕から甘い香りがほんのりと漂うのならば、ちょっと幸せな気持ちになれるのかもしれない。だが、その反対を遥佳は突っ走る。
陰険すぎるのだ、あまりにも。
(ひでえ。やっと休めると思った途端、あの陰険ゲジゲジ野郎を思い出すような香りが枕からふんわりと漂うって何なんだよ。あんなクソじじいの愛用品をどうして知ってんだよっ)
小遣いの隠し場所が全てバレているというのもひどすぎる。
いつの間にか全て回収され、毎日、小遣いは手渡しときたものだ。だから買い食いもできない。
「何故、俺が俺の金をお前にもらわにゃならんのだ」
「それが家庭円満のコツなんです」
「円満なのはお前だけで、俺にゃあ全くもってひび割れ状態だっつーの」
一応、部下を連れて奢ろうかと考えている時には多めに渡されるが、しかし残った金をどこかに隠し持っておこうにも、いつの間にか回収されるのだ。もしくはそれがあるものとして、差額しか渡してもらえない。
惨めな思いとはこういうものかと、ゲオナルドは知った。
(なんで俺、こんな奴に目ぇつけちまったんだろう。とほほ・・・)
それだけ遥佳がゲオナルドを管理しているとなると、人はその変化に対して敏感に反応する。
そんなにもゲオナルドが身なりから何からを気にする程にご執心だという噂にもなるわけで、結果としてゲオナルドは遥佳にベタ惚れということになっていた。
全ての縁談が壊れた理由は、隠し子の存在によるものだが、さすがにまだ実物を確認していない為、そんな理由は国王夫妻と王子達も口を噤んでいる。
(兄上達に融通してもらおうにも、俺に小遣いは渡すなと、とっくの昔に根回し済みときたもんだ。あの小娘、いつの間に話を通しやがった)
どうして自分は生まれ育った城でこんなにも肩身の狭い暮らしをさせられているのだろう。
そんなことを思いながら、ゲオナルドは今日も重苦しい気分で城の中にある自分の棟へと帰る。他の家族の所には逃げられない。
何故、自分はこんなにも退路を断たれて生きていなくてはならないのか。悪いことなど何もしていないのに。
けれども今日は帰宅した途端、笑い声が響いていた。しかも、出迎えの女官すらいない。そりゃ昨日、大がかりな女官の入れ替えがあったから仕方ないのかもしれないが。
(なぁにやってやがるんだ、あいつらは)
そう思いながらいつも通りに団欒室へと顔を出せば、そこには遥佳だけではなく女官達が集まっていた。
皆が絨毯の上に座りこんでいるが、いつの間に板敷だった筈の床は絨毯敷きになったのか。
「まあ、お上手ですこと」
「ふふふ、こちらですわ。さあ、ボールを投げて」
布でできたボールを持った幼児がよたよたと厚い絨毯が敷かれた部屋で歩いている。
そしてボールを投げようとしていた。
「えいっ」
掛け声と共に、青いボールが投げられてぽすっと床に落ちる。
「ほほほ。遠くまで投げることができましたわね」
「今度はこっちに投げてくださいな」
女官達も楽しそうに子供の相手をしていた。
「あら。お帰りなさいませ、ゲオナルド様」
そこで遥佳がゲオナルドに気づく。
すると女官達もハッとしたように立ち上がり、一斉に礼をとった。
「「「「「お帰りなさいませ、ゲオナルド様」」」」」
ボールの投げる先を失った赤毛の幼児は、戸惑ったように周囲を見渡す。
今まで座っていたのにどうしてみんなは立ち上がったのだろうと、不安そうな顔になって今にも泣きだしそうだ。
すると遥佳は幼児を手招いた。
「いらっしゃい、ルーちゃん。さあ、お父様のお帰りですよ」
「おとーさま?」
けれども遥佳の後ろに隠れようとしてしまう子供は、ゲオナルドが怖いらしい。
「ちょっと待て。ハールカ、てめえ・・・」
どこから誘拐してきやがったと、そう問い質そうとしたゲオナルドだったが、周囲の目を考えるとその先を言えなくなる。
そんな事情を理解しているくせに、遥佳は頭にかぶった緑の透かし織りを揺らし、ぐすんと下を向いて鼻を啜ってみせた。
「ごめんなさい、ゲオナルド様。だけど私、もう耐えられなかったんですっ。愛しい坊やと別れて暮らすことに・・・っ。だって、このお腹を痛めて産んだ子なんですもの」
嘘泣きも堂に入ったものだ。
(嘘こけやーっ!!)
わなわなと震えるゲオナルドを尻目に、遥佳はハンカチを取り出して涙を拭う仕草をしてみせる。
「ご迷惑とは分かっております。この子は所詮、日陰の子供。ですが、ここにはこれだけの女官の方々がいて、見守ってくださる。ならば、やはり手元で育てたかったのです。だって、ゲオナルド様と私の愛の結晶なんですもの」
その言葉に、うんうんと女官達が頷いた。
王太子とあればそれなりに格式や序列を尊ばねばならなかっただろうが、ゲオナルドは第三王子。
しかも妃に庶民あがりの娘を持ってこようとしてきている愚行ぶりはともかく、庶子であれ、ゲオナルドの子供というのであればやはりそれなりの環境で育てるべきだ。
だから女官達もゲオナルドへ非難の視線を向ける。
「どうか、ゲオナルド様」
「お可愛らしい坊ちゃまではありませんか」
「警護もつかぬ街中で育てられて何かあっては大変でございます」
「ここの棟でしたら、さほど格式に囚われることもございませんでしょう」
次々に昨日配属されたばかりの女官達に迫られ、ゲオナルドは白旗を掲げるしかなかった。
「好きにしろ」
ぱあぁっと、皆の顔が明るくなる。
「ああ、坊や。これで家族仲良く暮らせるわね。お父様もあなたに会いたがってたのよ」
「・・・・・・おい」
遥佳が抱っこした幼児をゲオナルドに差し出してくる。
そして先程までの苦悩に満ちた演技は何だったのかと言わんばかりの冷静な言葉を、素早く囁いてきた。
「高い高いぐらいはできますよね?」
「てめえは俺を何だと思ってやがる」
「・・・ふぇっ」
その口調に子供が泣きそうになったので、ゲオナルドは慌てて表情を取り繕った。
「あー、ほらほら、泣くな。怖くない怖くない。ほーら、高い高い」
「きゃーぃっ」
そんなゲオナルドと子供の様子に、昨日入れ替えられたばかりの女官達も微笑む。
「なんて可愛らしいこと」
「やはり親子は一緒が一番ですわね」
そんなとぼけたことを言ってくれるときたものだ。
ゲオナルドは、自分の全てが完全包囲された気がしてならなかった。
「さ。じゃあ、私達はお食事の用意をしなくては。ゲオナルド様のお帰りをお待ちしていたんですもの。すぐに用意できますから、それまでお世話をお願いしますね。どうか皆さんも、ゲオナルド様の父親としての自覚が出るよう、協力をお願いします」
「かしこまりました、お嬢様」
食事の用意なんて言い訳だろうと、そう言いたくなる程に無理のある理由で、遥佳が子供をゲオナルドに押しつけて部屋を出ていこうとする。
ゲオナルドは本気で狼狽えた。
「おいっ。俺は子供の世話なんて・・・」
「遊んであげればいいだけですよ、ゲオナルド様。ちゃんとよだれは拭いてあげてください。すぐ転ぶから、何かにぶつからないよう気をつけてあげてください。足をもぞもぞさせたらトイレですから連れてってあげてくださいね」
遥佳が、さくさくと決定していく。
「私はゲオナルド様の上着を部屋に掛けてまいりますから」
「・・・なら自分で服ぐらい掛けてくるから、この子供はお前がみとけ」
「ほら、鼻水が出てるじゃありませんか。拭いてあげないと、ゲオナルド様のシャツが鼻水まみれになりますよ」
ゲオナルドは慌てて腕の中にいる子供を見た。
「うわっ。拭いてやるからちょっと待てっ」
「鼻を拭く布は机の上にある黄色いのです。力任せにゴシゴシなんてしないでください。子供の肌は弱いんです」
「ぅぎゃーっ、だから待てぇっ」
待てと言われても、子供の鼻水は止まらない。
ゲオナルドは、いきなり出現した子供の世話に追われることになった。