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8 優理は占い師を始めた2 (カイネ)



 ティネルの市場に小さな店を出している優理は占い師だ。だから占いを頼む客が訪れる。


「いらっしゃい、カイネさん。だけど本当に占い好きね」

「ああ、俺ぁいつまでも夢見る少年の心を持ってっからな。知らないのかい? 占いにゃあドリームが()まってんだぜ?」


 カイネという男性は、ふらりとやってきては優理に占いを頼んでいく。

 20代後半だろうか。薄茶の髪にくすんだ青色の瞳の持ち主で、おどけたように軽妙な話し方をする男だった。


「今日は何を占えばいいの?」

「そうさな。この国の明日を」

「大きく出たわね」


 格好よく言ってみせたが、カイネは全く占いなど信じていない人種だ。

 何を言っても動じない時点で、優理はそれを察している。


(いつものことだけど、本気で単なる暇潰しよね、この人。まあ、占いなんてしに来るのはそんな人ばかりだけど。・・・カイネさん。分かっているのは左手が少し不自由で、指の動きも遅いってこと。そして右手はかなり器用。気のいい農夫さんって感じだけど、占いなんかにお金を垂れ流してるダメ人間)


 そう思いながらも、優理はカイネに好印象を抱いていた。

 ぐらついていた椅子に気づくや否や、放置しておくと危ないからと、金槌と釘とを持ってきて手際よく直してくれたからである。

 ついでに店内の机や棚も補強してくれた。

 優理にとって質のいい常連さんだ。

 

「そうね。ギバティ王国の明日は、・・・曇りのち雨。明日のお昼過ぎは雨具を忘れずに」

「そうかい。なら明日はのんびりと過ごすかな。ユーリちゃんのおかげで、この間も雨を避けて出かけることができたって、知り合いが喜んでたよ」

「えへへー」


 占いと違い、自然の流れを読み解くのは百発百中の優理だ。特に天候を知るのはお手の物である。


「まだ時間あるでしょ?」

「ああ」


 銀貨を受け取った優理は倉庫兼休憩室に置いてあったピッチャーからカップにお茶を入れ、優理はトレイに載せた。

 カイネには大きなマグカップを用意してある。


「はい、どうぞ」

「すまんな」


 ハムやチーズや薄切り野菜を挟んだパンまで出され、カイネはくすんだ青い瞳を少し和らげて笑った。コルクのような薄い茶色の前髪が揺れ、額に巻いたバンダナに少し落ちる。


「占い屋とは思えんぐらいにサービスがいいな、ここは」

「仕方ないでしょ。カイネさん、いつもお釣りはいらないって言うんだもの。それに私もお昼ご飯なの」

「若いお嬢ちゃんが頑張ってるんだ。少しは援助するのが大人の男ってもんさ」


 軽くウィンクしてくるカイネだが、別に優理を口説いているわけではない。


「大人の男とか言うけど、カイネさんより学生さんの方がよっぽど大人ぶってるわ」

「子供ってなぁ背伸びしてえもんさ。なんだ、告白でもされちまったか? 式にゃ呼んでくれ」

生憎(あいにく)とラブレター書くの手伝ってあげてるとこね」


 カイネは三日に一回位のペースでやってくる。


(差額的に、サンドウィッチとお茶なら妥当なところよね)


 だから優理も自分の昼食と一緒に用意してあったのだ。

 店の表に「接客中。ご用の方は後程」の札を出して、優理はカイネと食べ始めた。


「しっかしなぁ、ユーリちゃん。たまにゃ黒以外のもんも着たらどうだ? 若い女の子が色気のねえ」

「ほっといてよ」

「なんならおじさんが買ってやろうか? ん?」

「おっこっとっわっりっ。そういうのは酒場の(ひと)に言いなさいよ」

「おや、一本取られたな。なんで昨日は酒場で女を口説いてたって分かった? 愛の力か? ん?」

「知りませんっ」


 優理がツーンとそっぽを向いて怒ってみせても、カイネは気にしない。


「いいもんを使ってるな。美味(うま)いよ」


 ちゃんと味わってくれるその食べ方を、優理は気に入っていた。


「カイネさん、お仕事は何してるの?」

「おっ、何だ。やっと俺に興味が出てきたのか? 何なら明日にでも嫁に来ていいぞ。安心しろ、大事にするから」

「行きませんっ。大体、こんなにちょくちょくと占いばっかに来てお金使って、普通はおかしいでしょ。どんな放蕩息子(ほうとうむすこ)よ」

「放蕩息子ならもっと金のかかる遊びをするさ。たかだか数日に一回の銀貨一枚じゃねえか」

「そりゃそうだけど」


 むぅっと唇を尖らせた優理を、カイネはその黒いヴェールの上からぽんぽんと鈍い動きの左手で軽く撫でた。


「黙って通わしときな。世間知らずなお嬢ちゃん」

「え?」

「化粧でごまかしてるが、まだ子供だろ。俺ぁ、そういうのを見抜くのは得意なんだ。せいぜい14、5ってとこか?」

「わ、私、そんなに子供じゃ・・・」

「そう動揺すんな」


 ぺろりと平らげてしまったカイネだが、少し零れたソースがついた親指を舌で舐めとる。


「ごまかすだけ無駄だぜ。で、幾つだ?」

「・・・じゅ、16よ」


 さすがに17は無理だろうかと思い、優理はそう言ってみた。


「ふぅん? ま、どっちでもいい。せめてそういう商売するにゃ、あと十年は待つべきだったな。もしくは後ろ盾を持つべきだった」

「どういう意味よ」


 意味ありげな言葉に、優理はカイネを見上げるように睨んだ。


「そういう意味さ」


 その言葉に優理は考える。


(カイネさんが言っているのは占い師としての仕事じゃないわ。やっぱりそれって・・・)


 勇気を奮い起こし、優理は背筋を伸ばした。


「あなた、誰なの?」

「もう名乗りはしていたと思ったがな。気が向いて顔だけ見に来たつもりが、まあ、なんつーか、坊ちゃん達を侍らして愉快にやってるもんだから、ついつい見守っちまってたんだな」

「見守ってたって・・・、今、こうして脅してきてるじゃない」


 信じていたからこそ、恨み言が優理の口から出る。


「何も脅してねえだろ。黙って俺を通わせとけとしか言ってないぜ?」

「そりゃそうだけど」

「悪いこた言わねえ。子供達ではしゃぐのもいい。だが、貴族だの何だのに手を出すな。お前さんは助けただけのつもりでも、邪魔された側にゃ厄介なもんがついてることもある」


 優理は僅かに目を見開いた。


「それって・・・」


 居心地の悪い沈黙がその場に満ちる。


「よお。邪魔するぜ」


 優理が黙りこんでいると、戸口でそんな占い屋に似つかわしくない低い声が響いた。

 いち早くカイネが立ち上がり、つられるようにして立った優理を背中に隠すようにして振り返る。


「キースヘルムの旦那じゃありませんか。占いをご所望で?」

「なんだ。本当にお前が通っていたのか、カイネ。お前こそ、占いなんざ信じてるたぁお笑いだな」

「旦那程じゃありませんよ。だが今日はもう店じまいだ、残念なことにね。何なら俺が代わりに占って差し上げましょうかい?」

「遠慮すらぁ。何だ、まだお天道(てんと)さんは高いってのに、もう店じまいか?」

「ええ。俺と一緒にね。たまにゃあこいつにも昼間っから楽しませてもらわねえと」


 馴れ馴れしく優理を左手で引き寄せたカイネだったが、優理は逆らわなかった。

 キースヘルムと呼ばれた金髪の男はどう見ても占いを頼むような男ではなかったからだ。

 骨格が太くて大きいからだろう。押し出しもいい。


(な、何、この人。山賊の頭領って言われても信じるわよっ)


 じろじろと優理を値踏みしてくる視線はまさに蛇が蛙を見つめるかのようで、今にも舌なめずりして食いついてきそうだ。


「そんなガキのどこがいいのか分からんが、ドレイクの預かりっつーんならここは退()こう」

「そりゃすみませんね」


 どこか軽いやりとりだが、その裏には色々な意味が含まれているのだろう。


(駄目よ。私自身がこの人を退(しりぞ)けなきゃ。カイネさんだって朝から晩までついててくれるわけじゃない。大丈夫、倒れてもカイネさんならひどいことしない。それにハッタリがきけばいいのよ)


 優理はそこでキースヘルムと呼ばれた男を探った。

 そうして大人びた裏声で、虚勢を張る。


「キースヘルムさんとおっしゃったかしら。どうせなら一つ、占いをしていかれません?」


 黒いローブに黒いヴェールは、神秘的な雰囲気を作り出す戦闘服だった。

 まさかここで優理が口を開くとは思っていなかったのだろう。二人の男が優理を注視する。

 そこで優理はにっこりと微笑んでみせた。


「お近づきのしるしに一つ特別に占ってさしあげますわ。・・・あなた、いつか部下に寝首を掻かれるわ。この国では知られてないけど、あなた、かなりの賞金がかかってるわね? 何のお仕事をしているか知らないけど、その国に行かせた部下がそれを知るの。そうしてあなたを殺す。その賞金を得る為に」


 キースヘルムがその太い眉を大きく跳ね上げた。力強い黄緑の瞳が優理を射抜く。


(かかったわねっ。(つか)みは上々(じょうじょう)っ)


 カイネも探るような目で優理を見遣(みや)った。


「殺されたくなければその国に部下を行かせないことよ、おじさん」

「誰がおじさんだ、このクソ生意気な小娘」

 

 それでもキースヘルムは、今にも噛みつきそうな表情のまま優理から視線を逸らさなかった。優理もまたキースヘルムを見据えている。

 やがて視線を先に逸らしたのはキースヘルムだった。


「カイネがいると思いやがって生意気なこった。だから子供は好かん」

「・・・タダで占ってあげたのに」

「るせえ、調子にのんな小娘。ほらよ」


 ポケットに手を突っ込んだキースヘルムが指で弾き飛ばしてきたのは金貨だった。


「お釣りがないわ。せめて銀貨で支払ってちょうだい」

「釣りはいらん。・・・・・・今回は退いてやろう。だが、あまり目立つ真似はすんじゃねえ。次は容赦せん」


 キースヘルムはそう言い捨てて出て行った。

 確実に去っていったと知って、優理が椅子に座りこむ。


「おかしいわ。あんな人と繋がってる筈がなかったのに。それにもうあの人達、捕まってる筈なのに」

「・・・当事者じゃない。本人だったりその息子だったりの女房まで考えたか? そいつが自分の兄弟に泣きついた先の繋がりは?」


 カイネが落ち着いた声音で指摘する。

 はっと優理は顔をあげた。


「あのキースヘルムに言い返した度胸は褒めてやる。あいつの情報を握っていた手腕もな。だが、今日はもう店じまいしろ。送ってってやる」

「いいわよ、そんなの」

「どうせ戻る途中だ。それに一緒に連れ立ってた方がいい。後ろ盾を持たねえのがまずかったって意味、まだ分からないか?」

 

 優理はまっすぐカイネを見た。探るように、知ろうとするように。


「あなた、・・・()(とう)な人じゃなかったのね、カイネさん」

「ああ。だが自警団や坊ちゃん達の親なんぞに助けを求めても無駄だぜ? 遠慮なくお前さんをいいように扱うだけだ。誰も彼も上司やお得意さんからのおこぼれをいかに多くもらうかしか考えてねえ。試しに泣きついてみるか?」


 優理は唇を噛みしめた。


(そりゃ人畜無害そうな雰囲気に騙された自分が悪いけどっ。悪いんだけどっ。占いなんか頼みに来る人がどうしてそういう世界の人だって分かるってのよぉっ)


 ここは日本と違う感覚の世界なのだと、優理は実感する。

 目の前にいる男は、必要とあればどんな犯罪もしてのける男だ。


(だけど私を(かば)ってもくれた、ただの気まぐれだとしても)


 まだ昼過ぎで、学校に行っている少年達は来ていない。


「そうね。今日は帰るわ。彼らをこんなことに巻きこめないもの」

「いい子だ」


 優理は手早く食器を片づけ、戸締りをした。

 その間、カイネが店の戸口に立っていたのは、睨みを利かせてくれていたからか。

 見せつけるように優理を左腕で抱き寄せ、カイネは歩きだす。


「今回は退()くって言ってくれたけど、・・・なら大丈夫なのかしら」

「そうだな。数日間は休みな。そして今度から厄介な恨みを買いそうなもんには触らんことだ。・・・あとはそうだな。俺と、二人分の飯を買って帰る感じで振る舞えばいい」

「それは私がカイネさんの情婦に見られるという意味では・・・」

「そうだなぁ。俺が口説き中の女にフラれるのは誰のせいだろなぁ。占いで当ててみるかい?」

「ごめんなさい」


 案内しなくても、カイネは優理の家を知っていた。


(神子様じゃなくて、ただのユーリが狙われるリスクを私は考えていなかった。そしてお買い物もカイネさんが全額払ってくれるという、この快感を。どうしよう、お財布を出さなくていいって幸せなことだったのね)


 かなりの量を買いこんできたので、しばらく閉じこもっていても食料はちゃんとある。


「ありがとう、カイネさん」

「数日ありゃ、キースヘルムも依頼人と決着つけんだろ。それからは大人しくお遊びだけですませろ」

「うん」


 優理は扉の鍵をしっかりとかけると、へにゃへにゃっと玄関で座りこんだ。


(こ、腰が抜けて立ち上がれない。なんて怖い人達なのよっ)


 軽く探っただけでも逃げ出したくなる程、二人の素顔は恐ろしすぎた。


(ここから逃げ出そうかな。もっと違う場所でひっそりと・・・。だけど次はカイネさんみたいな人がいるとは限らないし)


 優理は自分を抱きしめるようにして、震えはじめた体を落ち着かせようとした。


(遥佳、真琴。私は・・・)


 その気になれば全てを見通せるとしても、自分の体は非力な少女にすぎない。

 あんな恐ろしい人達の手にかかればどうなることか。


(だけどカイネさんの気まぐれにしても、それはそれで助かったわけだし、人前では情婦のように扱ってきても全く変なことしてこなかったわけで、そーゆー味方をいつの間にか作ってる私って凄くない? これって私自身の魅力があるってことよね? お母さん関係なくて)


 ある程度怯えてしまえば、あとは浮上するだけだ。


(毒を(もっ)て毒を制す。カイネさんが好意的ならそれを利用すればいいのよ)


 そんなことを優理は考え始めた。

 ぎゅっと自分を抱きしめすぎてしまったせいで、胸の下着がずれてしまっている。


(あ。胸パッドがずれた。家なんだし、もう外しとこ。この扉はかなり頑丈だし、窓にも太い鉄格子がはまってる。しばらくはおうちでゴロゴロしてれば終わるわ)


 無理にキースヘルムの情報を読んだこともあり、意識が遠くなりかけている。

 がくがくと震える足を撫でさすり、優理はよろよろと立ち上がった。

 





 施錠を確認し、窓や扉の内側に棚やテーブルを置いてバリケードを構築した優理は、ご飯を食べてから寝室にこもっていた。


(カイネさんは数日で片付くって言ってたし、あのキースヘルムって人も金貨を寄越したぐらいだもの。それなりに問題はクリアしてる。後は情報だけ。そう、同じ失敗を繰り返さなければいいの)


 全ての生き物に化けることができる真琴が自分の体力に見合った程度しか動けないように、全ての感情を見通せる遥佳が自分の許容量までしか心を読めないように、全てを知ることができる優理も自分の処理能力に応じた程度しか見通せない。

 だから身動き取れなくなってもいいように、優理はベッドに入って情報を集めていた。


(ああ、そうか。あの男爵、元恋人を押しつけた男には負い目があって、だから見逃したのね)


 ある男爵の領地における収穫物が、どうも減っているようだと相談された横流し問題。

 優理はその横流しに関係していた人達を調べ上げ、リストにして男爵に渡した。

 怒り狂っていた男爵は全員を投獄したと思ったが、どうやらその中の一人だけ、牢に繋がれることなく妻と共に領地外への追放ですまされたらしい。

 その男の妻は、かつて男爵の愛人だった。

 手切れ金と共に愛人を押しつけられたのが、その横流しに係わったメンバーの一人だ。だからこそ男爵も元愛人を一人で路頭に迷わせることはしのびなかったのか。


(甘いわね。女がいつまでも自分を愛してくれてるだなんて思うんじゃないわよ、男爵。その元愛人、しっかり自分好みの男に嫁がせるよう、あなたを操ってたのよ。でもって、自分の兄弟達に泣きついて、私への復讐を企てたんだわ。その依頼を受けたのがキースヘルムの組織だった、と)


 現在、キースヘルムは優理に厄介な男がついていると報告し、更なる追加料金の交渉に入ったようだ。

 誰しも追加料金なんて払いたくない。それで話し合いの場が持たれていた。


――― あの男は自警団とも繋がっている。やるなら男も自警団も始末しねえと、小娘から男に渡った横領の証拠が広まっちまうかもな。そうなるとお宅の妹夫婦が罰されずにいたことまで明るみに出る。で、金はどこまで出せる?

――― なんだと? そんなの、後から言われても分かるかっ。

――― そっちが先に調べとくことだった。うちは小娘への復讐を請け負っただけだからな。だが、手を出す前に厄介なヤツがついてると報告が上がってきたから伝えてるんだぜ?

――― チンピラと自警団程度なら、・・・一人や二人、死んだところで問題あるまい。

――― その通りだ。だが、殺人となると安くはできん。ましてやあちらは襲われることにも慣れてる。小娘一人を襲って売り飛ばすよりか高くなるってもんさ。

――― ぐっ。チンピラと自警団まで殺す必要はあるのか。

――― 調べた奴がそれらを置いてねえ筈がねえし、小娘ってなぁ、万が一を考えて男に渡しとくもんだ。不自然にあの小娘に何かありゃあ、終わった筈の事件の名前が一気に出回るだろうよ。路頭に迷った妹夫婦を助けられる奴は限られる。あんたがどこまで失ってもいいかの確認もしときてえ。

――― 兄さん。そりゃ口惜(くや)しいけど、こっちの名前が出たらそっちがまずいよ。

――― 哀れだと思わんのか。お前の姉夫婦はたかだか場末の女なんぞにしてやられたんだぞっ。

――― 姉さんの名前は出てないだろ。兄さんだってこんなので出世に響いたらどうするんだよ。横領した姉がいたなんて知られたら、こっちだって終わりだよ。


 自分の妹に泣きつかれたとはいえ、元はと言えば妹の夫が関与していた横領である。

 あまり大事にしたくない兄弟は、自分達にまで飛び火して職を失う方が厄介だと判断し始めた。


(私、本当に運が良かったのね。あのキースヘルムって人だったから殺されずにすんだんだわ。キースヘルムの手下ならあんな情報で見逃してくれなかったかも。カイネさんがいたから、キースヘルムって人もわざわざ自分から出向いたのかも)


 結果や事実は分かるが、優理に人の心など読めはしない。あくまで推測するだけだ。

 細かい人間関係は分からなかったが、優理はぱたっと両手の力を抜いてシーツに落とした。


(しょうがない。今度、カイネさんにはお礼に、・・・何をすればいいかしら)


 お礼には何がいいのだろうと悩む優理だ。


(そういえばカイネさん、左手が少し不自由よね。あれ、一体どうしたのかしら)


 優理はカイネの過去を見ようとした。


(サイテー。知るんじゃなかった。ホント最悪)


 黙って立っているなら朴訥(ぼくとつ)な農夫か、店で働く気の良さそうな見習いにしか見えない風貌。カイネには明るい太陽が似合う、・・・ように思っていた日もあった。

 カイネのあの左手は、傭兵として働いていた時に報酬として女も用意され、その(ねや)で切りつけられた怪我だった。


(さ、最低。何なの何なの、少年時代から何なのよぉーっ)


 知りたくもない男と女のあれやこれやがどんどんと出てきて、慌てて優理はそれを遮断する。

 ぜぇはぁ、ぜぇはぁと荒い息をつきながら、手ではなく真っ赤になった顔そのものでぽすぽすと枕を叩けば、優理は耳までその熱が広がっていくのを感じた。


(プ、プライバシーの侵害はいけないわ。そうよ、誰だってそういうのは見ちゃいけないのっ。・・・けどカイネさん、ベッドの中では暴君って奴・・・? じゃなくてぇーっ)


 禁断の扉を開けるには、まだ早い。いや、一生あんなのは開かなくていい。


(忘れるのっ、忘れなきゃいけないのっ。怪我の原因はどうでもいいのよっ。あの手、治せるかどうかだわ)


 それを探ろうと、優理はそっちに集中する。


(神経が切れてしまったのね。だけど違う神経が伸びてきてる。ああ、そうか。毎朝毎晩、努力し続けて、最初は全く動かなかったのに、今はゆっくりでもあそこまで動かせるようになったんだ。なら、もう少しだけその神経を伸ばしていけば元通りになるわ。少ないケースだけど、実例は十分にある)


 その為にはどうすればいいのか。


(う、うーむ・・・。やっぱり変に思われるわよね。思われるだろうけど、助かったのは事実だし)


 一般常識として、カイネのような人間は信じるべきではないと分かっている。けれども優理個人としてはカイネを信じてしまう。

 優理の噂を聞いて顔だけ見に来たつもりが、出入りしている少年達との関係にも興味を持ってかなり調べたと分かってしまっては。

 カイネは優理に見えない所で助けてくれていた。

 キースヘルムが動くようなことがなければ、ずっと客として見守り続けてくれただろう。


(そういえば、どうして私を・・・?)


 自分が可愛すぎたからだろうか。・・・彼の好みは妖艶系。

 家族の面影があったからだろうか。・・・姉妹も娘もいない男だ。

 実は何かの恩人だったからだろうか。・・・それまで接点は全くなかった。


(こういう時、遥佳がいればなぁ)


 そうすればカイネの心を全て見通してくれただろうに。

 優理は過去の事実しか分からない。優理がどうでもいいと思った情報が、本人にとっては大切なことだったりしても分からないのだ。

 優理は枕を抱え、右へごろごろ、左へごろごろとベッドで転げまわった。






 何の自慢にもならないが、占い師としての優理の店は閑古鳥が鳴いている。そんな時、優理はやってきた少年達と、おまじないグッズを作る。


(食べ物は賞味期限とかがあるけど、腐らない物は素敵ね。作成後、一年()とうが、二年経とうが新品のまま)


 土を()ねて形を整えて一度焼き上げる。それから釉薬(うわぐすり)をかけて絵付けして再び焼き上げた招き猫は、人目を引くことばっちりなアイテムだ。

 

姐御(あねご)。俺、思うんだけどさぁ、この猫、気持ち悪いスタイルにこだわらず、もっと可愛らしい格好にさせようや。ぐてっと寝ている形の方がナンボか可愛いぜ?」

「そうだよ、ユーリ(ねえ)。どうせなら兎とかの方がいいって」

「そう言うんならそういうのでもいいけど。じゃあ好きな物、作ってみなさいよ」


 日本で招き猫と言えば、コレクターだっている程に人気アイテムだったのに、場所が悪いのか。それともこの縁起物を理解しない彼らの感性が悪いのか。


(こういう異世界ならではの文化に触れて感動した客が押し寄せて一発大儲けする筈なのに。所詮、世間知らずな学生さんだから分かってないのね、社会の真理ってものを)


 あまりにも少年達からブーイングが多いので、優理は彼らにも好きなように作らせてみた。


「やっぱりさ、飾るなら小鳥だろ。女の子はそういうのが好きだと思うんだよ、俺は」

「そうかな? 僕は可愛らしい小物入れの方がいいと思うけどね」

「あのね、あなた達。ここ、占いの店って分かってる? 怪しげなおまじない関係の物を売ってるわけで、別に可愛い雑貨屋さんじゃないのよ?」

「細かいことは気にすんなよ、ユーリの姐御。売れりゃいいだろ。売れなきゃ金も入ってこないし、意味ないだろがよ」

「う。言うようになったわね」


 ででんっと並べておいても全く売れなかった優理の招き猫だが、少年達が作り上げた小鳥や甘え顔の猫といった置き物や陶器の小箱はそれなりに売れた。

 本来、こういう陶磁器は窯が必要なので専門工房で作られる。彼らのような学校に通う生徒がそういった作業をすることはあり得ない。それだけに少年達には新鮮な体験だったらしい。


――― ちょっと見本に姉上のを持ってきたんだ。腕輪を掛けておくと可愛いとか言ってた。

――― お前が作ったのさぁ、妹が気に入ってたんだけど、もっと耳が大きい方がいいって。

――― なんか重いなと思ってうちにある置物と比べてみたけどさ、もう少し厚みを減らした方が良かったのかも。空洞が小さすぎたんだ。


 少年達は自宅や様々な施設にある置物などをじっくり眺め、そしてそれに似せた物を作ることから始め、やがて少しずつ売れ始めたのを契機に、どんどんと改良を重ねていった。

 最初に教えてあげたのは優理だというのに、熱意が彼らの技術を優理よりも向上させていく。


(いっけどね、別に)


 悔しくなんてない。別に拗ねてなんかいない。ぐれてなんかいないのだからして。

 しかし、今日も今日とて暇なので、夕方にはやってくる彼らの為に、土を捏ねておいてあげる優理だ。


「何やってんだ、ユーリちゃん?」

「あら、いらっしゃい。カイネさん」


 うんしょうんしょと()ねていたら戸口に立った男がいて、それはカイネだった。


「おまじないの人形を作る土を捏ねてたの」

「ああ。そこの不気味な猫とかのか。他の鳥や兎はともかく、あの猫はやめた方がいい」

「・・・知る人ぞ知る、有名な猫なのに」

「まあ、一度見たら忘れられない変な顔と犬チンチンだ。そりゃ有名にもなるだろ」

「そういう納得がほしかったわけじゃない・・・」


 カイネには異文化の価値が分からないのだと、諦めた優理だ。

 どうして誰も彼も招き猫の有り難味を理解してくれないのだろう。


「大体、こんな怪しげな店で売るもんに根性入れる必要はねえんだよ。簡単にさくっと作って売ればいいんだから大きなもんも作る必要はねえ。どれ、貸してみな」


 カイネはその土を少し取り、左手は添える程度にして、ちょこちょこっと右手で捏ねて瞬く間に小さな蝶を作り上げてしまう。


「こういう小さなもんでいいのさ。

『幸運が小さな蝶となり、あなたの所へ飛んできます』

とか言って売りつけりゃいいんだ。銅貨の占いにそれ以上の金額出してくれるわきゃないだろ」

「そ、そうだけどっ。買うならやっぱり可愛いのが欲しいわよねっ?」

「こういう土だって陶器用だろうが。材料を無駄遣いしてどうするよ」

「無駄遣いって・・・」

「安い材料で利ザヤを確保。基本だろ」

「うぐっ」


 むうぅっと頬を膨らませた優理だ。


「まあ、前向きに考えることにしておきましょう」

「やれやれ。素直に認められんお年頃かねぇ」


 とりあえず土とカイネの作品は横にどけておいて、二人は手を洗って椅子に座った。


「あの蝶、売れたらちゃんとアイディア手数料は渡すから」

「銅貨一枚程度で売るもんの手数料なんて知れてるだろう。別にいらん。さて、今日は何を占ってもらうかな」

「それなんだけどね、ちょっとテーブルに左手を出して」


 動きの悪い左手をどうするのかと、カイネが疑問を顔に浮かべる。真面目な優理の顔つきに、黙ってテーブルに出した。

 その袖をまくって、優理は大きな傷跡の残る腕に指を走らせる。


「あのね、ちょっと腕と指が変な動きするけど、立ったりしないで。黙って見てて」


 優理が下を向いて小さく呟いた声を聞き届け、大気がカイネの腕と指を風圧で動かす。


「・・・うわっ」


 その気持ち悪さに、カイネは飛び跳ねそうになった。

 しかし優理の両手はそれを許さない。集中してカイネの腕に何度も指を往復させながら調べていく。


――― 少し強すぎるわ。あと少し腕を弱めて。だけど指は連動させたままで動かして。

――― この血をじわじわと流して。駄目、それでは流れ過ぎる。もっと絞って。そう、髪の毛よりも細く。そして切れているその筋を少しずつ伸ばして。


 カイネの腕を両手で強く押さえつけ、熱心に何かを探りながら呟いているような優理に何を思ったか、カイネは邪魔せずそれを見下ろしていた。


――― それを刺激するように。だけど刺激は常にじゃ駄目なの。そうよ、ゆっくりと、時折に。それじゃ多すぎる。僅かな刺激が神経を育てるの。駄目、それじゃ切れちゃう。そこは本当に震えるよりも細くしなやかに。


 やがてちょうどいいペースと配分を、大気と空気中に含まれる水分に学習させた優理だ。

 それらが皮膚の細胞に取り込まれていく先で、左腕に流れる血中での動きをどうにか調整し終える頃には、かなりの時間が経っていた。

 カイネが来たのは昼過ぎだったのに、もう夕方前だ。

 自分でも知覚できない程の小さな世界での調整を初めて行った優理は、ぐてっと椅子から落ちるようにして床に座りこんだ。


「おいっ。大丈夫かっ」

「ん。お水・・・」


 額から汗をかなり流し、目も既にしょぼしょぼになって開けられなくなっている優理に、カイネがカップに入れたピッチャーのお茶を飲ませる。

 それをごくごくと飲んで一息ついた優理は目をあけて、目の前にいるカイネに言った。


「あのね、カイネさん。私には占いの神様がついていて、お願い事を一つ叶えてくれるのです、実は」

「そりゃすげえ」


 カイネは本当に言いたいことを言わなかった。


「でね。多分これから毎晩、カイネさんが寝ている時間に左腕は今みたいな変な動きをすると思うけど、気にしないで寝てて」

「・・・ほう」


 多くの疑問はあったが、カイネは頷く。


「それを繰り返していけば、今よりももっと動けるようになると、・・・思う。多分」

「その最後の、自信なさそうなそれは何なんだ。おい、願いを叶えてくれる神様の力はどこ行った」

「この世界にいる神様は女神様お一人なのです」

「おいっ、占いの神様はどこだよっ」


 自分でも何を言っているのか分からなくなった優理だ。


(疲れたぁ。本気で疲れた。だけど、・・・カイネさんのやってる努力が、これで一気にスピードアップする。いずれ神経が伸びて、傷跡は消えなくても、また、動くようになる・・・の)


 優理はそこで力尽きてしまった。


「おい、寝るか? ここで寝るか? そのまま売り飛ばされても知らねえぞ、おい」


 呆れながら、カイネはぼやいた。


「先日の礼のつもりなら、もっと色気のあることしてくれても良かったんだぜ?」


 優理が何やら自分の左腕を触っている間、血色がよくなっていったのは事実だ。動きの鈍かった指が、自分の意思に関係なくピンとまっすぐに伸びたり、ぎゅっと握られたりしたのも。


(やれやれ。本当に不思議な子供だよ。このまま持ち帰りたくなるね。だが、もうすぐしたら坊や達が来る時間か)


 カイネは簡単に店を片付け、裏の倉庫に置いてあった鍵で店の戸締りをした。倉庫に置かれていたハム卵入りパンは自分の為に用意されていたものだろうと思い、有り難く頂いたが、さて両手が塞がるのはまずい。

 優理ぐらいは運べるが、歩くか馬車を呼ぶかと考えたカイネに、後ろから声を掛けられた。


「寝入ってしまう程、激しかったのか?」

「はは。良かったら手伝ってくれ、レイス。この子を家まで送りたい」


 フード付きのマントをかぶったレイスが、カイネから受け取った優理を抱きかかえる。そうして二人は歩き始めた。


「ずっと二人で向き合ってたな」

「うーん。よく分からんが、摩擦法(まさつほう)か何かか? ずっと俺の左腕に何かしてくれていたんだが、まあ、何も変わらないと言えば変わらないんだが、血の巡りは良くなった感じだ」

「どれ」


 優理を横抱きにして歩くレイスに、カイネが自分の左手を見せる。


「指先まで血がよく巡っている。肩から指先まで揉んだか?」

「そういうのとも違ったな。久しぶりにまっすぐ伸びた左手を見た」

「まあ、いい。・・・本当に子供だな」


 化粧で顔立ちを大人びたようにごまかしても、寝顔は年齢相応だ。レイスは、自分の胸に顔を寄せて眠る優理を見下ろしながら呟いた。


「そう言ったろ。女の年齢を当てられん人間がこの仕事にはつけねえってな」

「16にしても幼すぎる。胸は偽物だ」


 マジか? と目で尋ねるカイネに、レイスが頷く。カイネは優理の胸を握って確かめた。


「よく気づいたな。いつの間に胸なんて揉んでたんだ」

「抱きかかえた時にずれた。16なら本物もある頃だろうに」

「可哀想な子なんだ。そこは気づかなかったフリしてくれよ」


 何となく自分が庇ってやらねばならないような気がしてしまうカイネだ。


「脱いだら分かることだ」

「いやいや、女の価値は胸じゃねえ。作り物を使っても張りたい見栄だってあるさ」


 やがて優理の家に着くと、勝手に優理の布袋から鍵を出してカイネが扉を開ける。

 一階にある団欒室のソファに優理を寝かせたレイスは、黒いヴェールを外して顔を眺めた。

 カイネは水を飲ませるか、それとも茶を飲ませるかと悩み、湯を沸かし始めた。そうしてソファを振り返ると・・・。


「ってっ、レイスッ! あんた何してんだよっ!?」

「ん、・・・んんーっ」


 深い眠りに入っていた優理だが、何かが唇に触れているような気がして、そして息苦しいような気がしてならず、まさに水に溺れたような気分で目を覚ます。

 寝ている自分の目の前にいたのは、見知らぬ顔だった。


「いや。誘っているのかと」

「誘ってねえだろっ。どう見ても寝てただけだろっ。何やらかしてんだよっ!」

「何を純情ぶったことを」


 訳が分からぬまま、そんな会話をしている男達を優理は呆然と見る。


「えっと? カイネさん? どうして私の家に・・・」

「あ、気づいたか。ユーリちゃん。いや、寝入ってしまったからこいつに手伝わせて送ってきたんだ。いや、気づいたんなら帰るよ。ほら、レイス。帰るぞ。あ、お湯、沸かしてる途中だから沸いたら茶でも淹れるといい」

「あ、・・・うん」


 ぐいっと右手でレイスの首根っこを引っ張るようにして、カイネは立ち上がらせた。


「あ、そうだ。ほら、ユーリちゃん。戸締りしておかないと危ねえだろ。戸口まで一緒に来てくれよ。俺達が出ていったらすぐ鍵かけろよ」

「え。あ、・・・はい」


 これまた優理の背中を左の腕で押すようにして扉まで連れて行く。


「じゃあな。おやすみ」


 そう言ってパタンと閉められた扉を、優理は反射的に施錠した。


(一体、何がどうして私はおうちにいるの。というか、今のは一体・・・)


 そこで指先を唇へと持っていき、ゆっくりと撫でる。

 思い出すのはさっきの感触だ。この唇に触れていたのは、こんな指先ではない。


「ひ、ひどい・・・」


 へにゃっと優理はそこに(うずくま)ってしまった。

 薄い金髪に赤茶けた瞳の男。初めて見た顔だ。それはきっと間違いない。

 そして口中に残る、清水の感触。


(私の、唇・・・。唇、勝手に食べたぁっ)


 あまりのショックに、優理はしばらく立ち上がれなかった。



 

 レイスとカイネに送ってきてもらった後、優理は二週間ほど店を休んだ。

 生ものを扱うわけではない、そして仕入れの必要もない商売はこういう時に便利だ。腐りもしないし、どこかに迷惑だってかからない。


(疲れた。もうやらない。絶対やらない)


 目に見えない小さな世界を感知して、そうして作業を行うというのはとても神経を使う。

 ただでさえ目の前にいない相手だ。

 毎晩、カイネの腕の中にある、切れて縮んだ筋を少しずつ伸ばし、神経が修復されるように刺激する。


(ごっ、ごめんなさいっ、カイネさんっ。今の、火傷したようなもんだし、麻酔無しで痛かったわよねっ)


 夜明けまでそういう作業をしていると、次の日中はずっと眠り続けてしまった。

 それでも十日間、夜毎それを続けてきた甲斐があったというものか。

 あとは本人の努力でかなり動くようになるだろうと思えるところまできて、やっと優理はカイネの腕には単純な刺激だけでいけると判断した。


(なんて努力家な私。毎晩、二時間ぐらいしてあげるつもりが、朝までやり続けてあげたたなんて。どうしてこんなにも私ってば責任感が強いのかしら。私に欠点があるとしたら、完璧すぎるところよ)


 十一日目からは、単純な腕の刺激と指先や掌を動かす作業だけ、カイネの寝室に漂う空気に命じておく。


(毎晩、カイネさんがおうちに帰ってくる人で良かった。外泊が多い人なら困っちゃうところだったわよ)


 そうして優理はほとんど十日間、明け方と夜しかまともに食べていなかった日々を取り戻すように食べて眠り、二週間目近くになってから店へと出るようになった。

 

「太陽が眩しすぎる。ああ、世間はすっかり太陽と共に起きる生活をしていたのね」


 家から出なかった二週間で、まさに足が萎えてしまったような気もする優理だ。善行とは時に自分の体に試練を与えるものなのか。

 市場にある小さな店へと辿り着き、扉を開けて中に放り込まれていた手紙の束を見た優理は、即行で帰りたくなった。

 扉にある小さな小窓から放り込まれていたメッセージカードなどは、全て少年達からのものだったからだ。

 いきなり優理が姿を消したようにも思えたのだろう。

 心配する言葉が並べられていた。


『ユーリの姐御。何かあったのか。病気か、それとも怪我か? 連絡を待つ』

『秘密の依頼を受けたのか? 一人で大丈夫なのか? せめて手紙がほしい』

『まさかと思うが、口封じで襲われていないか? 頼むから出てきてくれ。きっと守ってみせる』

『頼むから家を教えてほしい。他言はしない。心配しているんだ』


 ざざーっと、優理はそれらを流し読みして、倉庫兼休憩室のテーブルにばさばさっと積み上げる。


「人気者すぎる自分の魅力が憎いわ。私、これからは帰宅時の尾行にも怯えなきゃいけないのね」


 プライドを捨て、高位貴族の庶子だから住まいは明かせないのだということにすべきか。

 二週間も店を閉めていた理由は、内密にしてほしい仕事を請け負っていたことにすべきか。

 

(どうして女難の相っていうのはあるのに、男難の相ってのはないの)

 

 あれば今すぐ、優理は百発百中の占いをする自信がある。


(扶養家族の男の子達なんて、私の家を知ったらずっと入り浸るわ。冗談じゃないわよ)


 爽やかな朝の太陽光を背に受けて、優理の心は思いっきり黄昏(たそがれ)ていた。




 萎縮しているだけだった左手が、伸縮する動きを取り戻してきている。

 カイネはそこにあったナイフを左手で握った。

 まだくるくると回す程には動かせない。しかし左腕の筋肉の動きを手に伝えることはできる。

 ガッ。

 そんな鈍い音がして、ナイフはカイネの左手から離れていた。


「的には当たるか。いい感じだ」


 深夜から明け方まで自分の意思に関係なく動く左手。時々、焼けた針で刺されたかというような痛みが走ったし、変なむずがゆさにのた打ち回ったこともある。

 そんな夜も十日程で終わりを告げた。


(その後はなんだか腕が見えない手で揉まれているかのような感じだったな)


 おかげでこの二週間程、女と寝ることができなかった。

 それは諦めて自分でどうにかするからいいのだが、周囲から、

「もう現役引退かよ」

などと言われているのが切ない。

 しかし、そんな外野の声すら遠く霞んでいく。

 すっかり忘れていた、指先にまで自分の意思が伝わる快感。

 カイネは自信を取り戻し始めていた。


(ここんとこずーっと休みだな、あのお嬢ちゃんは。まさかレイスに無理矢理キスされたのがショックで寝込んでんのか?)


 ファーストキス経験すら怪しい優理を、カイネは思い浮かべる。


(あんなぺったんこな子供に何やってんだよ、レイス。そーゆー阿漕(あこぎ)さとは線引いてただろ)


 限度をわきまえていないやり方は、いずれ討伐対象になる。

 ボーダーを引き、共存の狭間にある必要悪として、自分達は素人に手を出さないやり方を貫いてきた。

 

(幼女趣味でもあったのか? あっぶねぇ奴。いつか娘ができてもレイスにだきゃあ近づけねえぞ)


 仲間に変態のレッテルを貼ったカイネは、見下ろした左手の指先に力を入れてみる。


(元々、俺ぁ左利きだ。もしも左手が復活するなら両手でこなせる)


 牙を抜かれた狼のように忘れていた、生きている実感。戦う中で沸き立つ血の昂揚。

 自分は再び取り戻せるのだろうか。

 気のいい農夫にしか見えないカイネの顔に浮かんだのは、凄みを孕んだ冷たくも熱い眼差しだった。



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