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”やりこんだ”の言葉の尺度

作者: 薄氷

『やりこんだ』と一つの言葉を言ったとしてもそれぞれの尺度の違いがあります。


 100パーセントを“やりこんだ”としてる人もいれば、自分が決めたラインを“やりこんだ”としてる人もいますよね。そういった尺度の違いから争いに発展することも珍しい事ではありません。


 やはり言葉の意味の統一というものは永遠の課題となってしまいますね。言葉の意味を統一すれば間違いが起こることなく、平和が訪れるのかと思いきや、文字上では統一しても意味の統一までは本当に難しいです。


 例えば「おこっている」という言葉だけではどういう状況か、はたまたどんな意味なのかというのがまるで伝わってきませんよね。


 「文明がおこっている」

 「母がおこっている」

 「事件がおこっている」


 それぞれ意味がバラバラなのがお分かりいただけると思います。それぞれ、“興っている”、“怒っている”、“起こっている”というように、漢字で表すことができればしっかりと伝わるかもしれません。ですが逆に会話の途中では漢字をそのまま言葉として人間は表すことはできません。「コエカタマリン」のような秘密道具はありませんからね。


 言葉の意味が伝わらない話もそうですが、今日の主題である言葉の尺度に関してはどうしようもないものであると思います。漢字で表しても、言葉で面と向かって伝えても、その人間がとらえる尺度によって意味が変わってしまうのは仕方ありません。


 初心者がやったという尺度でも経験者、上級者にとっては当たり前のように過ぎ去っていく通過点に過ぎなかったり、“やりこんだ”がすべての人間にとって果てしないもののやりこみならばそんな問題には発展しませんがね。


 言葉一つでも特に日本語という一つの言語において、意味のすれ違いというのは些細な問題がほとんどではあるのですが、時に大問題に発展する取り違えが起きてしまう場合がありますので、そこは注意しなければいけませんね。


ですが普段のお話でもなるべく取り違えが起きないようにお話ししたいなぁと思う私でした。


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