SLジョニー
自分でもにわかに信じがたいこの体験談を人前で話すなんて、ふだんだったら絶対にごめんこうむりたいところなんです。
でも話さなければ問答無用の有罪になってしまうとあらば仕方ありません。法廷のこの場で、皆さんの前であらいざらいお話ししましょう。
ただし、です。いいですか、陪審員の皆さん。初めにはっきりと申し上げておきますが、あの列車消失事件の首謀者が私だなんてデタラメもいいところですよ。消えたと言われるあの列車が今どこにあるのかを私は知っているし、私はあの列車の最後の乗客ですらなかったんですからね。
なのに、どうしてあなたがたはその場所へ行って列車の存在を確認なさらないのでしょうか、私にはそれがまったく理解できませんね。
え? もう一度ことの成り行きを初めから終わりまでごまかしなく話せと? もちろんそうするつもりで来たのです。ですが、これは出来ればですが、なるべく話の腰を折らないでいただけますか? あれからだいぶ時間が過ぎていますし、私ときたら気持ちが入らないとどうも話がとんでしまいやすい性格ときているんで。だから集中したいんです。あの人に会ったあの空気のにおい、あの光の具合い、あの周囲の音にまで思いをめぐらさないといけないので……
……そうそう、あの日は晴れていたっけ。そう気持ちよく晴れ渡った五月晴れってやつでした。青葉のかおる風もいくらかあったし、そうだ、綿雲も出ていましたっけ。広い公園だけあって小鳥たちもしきりにさえずっていました。
そうなんです、私はでかい公園にいました。
都心なのに緑豊かなその公園が好きで、その頃はそこでよく時間をつぶしていたんです。
正午をまわったころでした。私はベンチに座って遠くに見える皇居のあたりをながめていたと思います。
「ここ、よろしいですか?」
あの人の声が急に頭の上から聞こえてきました。
それは赤いワンピースの女でしたよ。緑の公園の中に咲くチューリップみたいじゃないか。そう私が感じたのを今日のことのように覚えていますよ。
「あの、座ってもよろしいかしら?」
私の胸はドキドキ高鳴っちまって、まあこれは不意に美人に話しかけられた男の条件反射ってやつだとご理解いただければ幸いですが。ええ、なにしろ美人でしたから!
「すみません、ご無理いって」
その口調はどこまでもていねいで育ちの良さというんでしょうか、とにかくいい印象を持ちましたね。
「なにしろ急いでいるものですから」
女の話し方は急に余裕がなくなったようでした。
「急いで汽車の車掌さんをさがさなくてはならないものですから」
私はベンチでとびあがったと思いますよ。だって私が失職中の車掌だってことを、なぜこの女が知っているんですか? そりゃ誰だって不審に思うでしょう?
その女ときたらいつの間にかベンチに座る私の前に立ちはだかって私のことをまっすぐに見おろしているんです。絶対に私の素性を知っているにちがいない、私はそう確信しました。
「どうかなさいまして? ごめんなさい、わたくしあなたのことをてっきり鉄道関係の方だと思い込んでしまって。思い違いでしたらどうかお許しください。ああ、どうしたことでしょう、わたくしがそんな見誤りなどするわけがないのに」
私はすっかり警戒モードでした。何をいまさら言い訳がましく言っているのか、誰に頼まれたいやがらせなんだ、よおしそれならこっちもひと言言いかえしてやる。私はそう決心しました。
「いいや大当たりですよ、お嬢さん。いや、奥様とお呼びしたほうがいいのかな? ふん、誰に言われてきたんだ」
「え?」
「だからおれはね鉄道関係の人間だと認めているんだ。もっとも元、関係者だがね。さあ、あんたも正直に言ったらどうだね」
「まあ! わたくしも正直に? ええ、とっても嬉しいです! だってあなたの体中から機関車の煙がポクポクと気持ちよさそうに上がっていましたもの!」
「なめなさんなよ! これでも去年の秋までは超高速度新幹線の車掌長だったんだぞ。どこかでやってるSLお楽しみ試乗会なんぞにまわされたことなんて一度だってないんだからな!」
ちっ、どうしても依頼主のことは話さないつもりなんだな。それとも、まさか頭がちょっとおかしいのか、この女? どっちにしろおれだってそんなヒマじゃないんだ、あばよ。
そう私は心の中で毒づくと黙って席を立ちました。
「あっ、待って! 待ってください!」
女は真っ赤なワンピースの袖を私の腕にからませてきました。女性の体に触れるのはどれくらいぶりだったでしょう、女房が出ていって以来なもので、つい私がその場に立ち止まってしまったことをどうかご理解いただきたいのです。
「な、なんですか?」
「さっきのお話しですけれど」
女はもう腕を離していました。
「お忙しいでしょうけどお願いです。どうかその話をしていただけないでしょうか」
「え? どの話ですって?」
「その、お楽しみ試乗会って」
「試乗会だって!」
ふざけるな、という気持ちでしたね、実際。
車掌に関する専門話ならともかく、試乗会なんてばかにするなっていう気持ちになってしまって。だいいちまだ名前だって知らない相手なんですから。
「そうだ、名前。あんた、ひとに話を聞こうというなら名前くらい言ったらどうなんだ」
「なまえ……」
女はだいぶ困った顔を見せました。どぎまぎというよりも、まるで立ち往生したみたいに生気のぬけた感じになってしまいまして。
「おい、あんた? 大丈夫かね、あんた!」
女の目に生気が戻りました。
「なまえ、名前は真理子です。大宮真理子」
マリ? いかにもウソっぽい名前に思えて私もがっくりと気がぬけました。そこへ女がこうたずねてきたんです。
「あなたは? あなたのお名前は?」
「ジョニー」
もちろん私の名前は城島淳一です。ですがこの時はなんだか少しばからしくなってきていてからかってやろうと思ったんです。
「ジョニー! すてきだわ、ジョニー!」
ところが女はのりのりなんです。真に受けたのか、しゃれのつもりで切り返したのかわかりませんが、そうか、よおし、そっちがその気ならこってだって、という気になりました。
「そうだよ、マリー。おれの名はジョニーさ」
「ジョニー! そしてわたくしはマリー!
ねえねえジョニー、立ち話もなんでしょう?ゆっくりと腰かけて話さないこと?」
もうこうなるとしゃれをとぎらせたほうが負けという感じでした。
「いいね、マリー。でもおれはおごってやれないぜ?」
「もちろんよ、マリーからのお願いですもの」
でも夕食にはまだ早いわ。カフェでね」
喫茶店でなくカフェときたけど、あいにくカフェはどこも満員でした。次また次と店をさがすうちに駅に出てしまいました。
「あら。そうだわジョニー、いっそのこと駅に入らない? お聞きしたいのも鉄道試乗会のことなんだし。ちょっと待ってて、切符かってくるから」
だからおれはそんな試乗会みたいなクソイベントなぞ一度だってやらされたことはないと言おうと思った時は女はもう切符を買いに走っていってしまいました。
「はいジョニー、切符よ。行きましょう!」
なんだかあれよあれよという間に女は私をプラットホームまで連れて行ってしまいました。
「あれがちょうど出るわ、乗りましょうジョニー!」
女に腕を引っ張られながらも私はその電車をチェックしていました。
「ちょっとちょっと、これは違う! 特急だぞ、この切符じゃだめだ」
勢いで乗り込んだと同時に電車は出てしまいました。
「おい、どうするんだ。すぐに改札が来るぞ」
「カイサツ?」
「車掌が来るんだよ、熱海行の特急電車だ」
「アタミ? わあ見てジョニー! こんなにゆったりした席よ? いっぱい空いてるわ。ここよ、ここにすわりましょう!」
「待てったら! 全席指定なんだぞ」
「さあ座って! そして早くお話しして!」
たしかに平日の熱海行きはガラガラでした。これならまあいいかと思いいったん座る気になったのです。
「ねえ、SL試乗会って何? SLって、もしかして蒸気機関車のことではなくて?」
久しぶりに座る特急の座席はふかふかの心地よさで、不覚にも私はちょっとした旅行気分になりました。
「そのとおり、ご名答」
皮肉のつもりで拍手をするとマリーは顔を真っ赤にして照れたんです。それがあまりにも可愛かったので、つい見とれてしまいました。
「やっぱり……やっぱりそうなのね! ああ、良かった、間に合ったんだわ。ありがとう、ジョニー!」
「ええ? 何が間に合ったって? なんでお礼なんて言うんだ?」
「だって、SLは蒸気機関車で、ジョニー、あなたは車掌さんだもの」
「何がどうしたってんだマリー? SL試乗会なんて毎日やってるものじゃないぜ? SLファンのための特別企画なんだ。年に数回あるかないか。やってたとしてもこの近くじゃない。今なら、そうだな、山陰とか東北とか、まあそんな広い場所だよ」
「でも試乗会って誰でも乗れるという意味なんでしょう? ちがうの、ジョニー?」
「いや、そりゃそうだけど。いや違う。事前申し込み制か何かだよ、たいていは。それなりに面倒なはずだよ。ファンはけっこう集まるみたいだし。まあ私も詳しくはないけど、詳しくないってさっき言っただろう? 試乗会のことでおれにわかるのは……こんな、こと、くらい……あれ? なんか、やけに眠いぞ? おかしい、な……ともかくこれでもう、おれは、用済み、だろ? もう……降りなくちゃあ……」
そうなんです。不意に強烈な眠気が私をおそいました。でも、私が眠りに落ちてしまう前に女がこう言って私におおいかぶさり、そして何かを私にかぶせるような仕草をしていたのだけははっきりと覚えていますよ。
女はこう言っていました。
「風邪ひくわジョニー、これを着てね」
そのあとどのくらいの時間がたったのか私には全くわかりません。この点が陪審員の皆さんにとってはとても重要なことは私もよく了解しているのですが、やはり思い出せないのです。思い出せるのは女の大きな声で私が目をさましたということだけです。
「ジョニー、起きて起きて! 降りるのよジョニー、ジョニーったら!」
私の眠気は強烈な寒さのためにいっぺんにふっとびました。
「うう、寒い!」
最初は効きすぎた冷房のせいかと思いましたよ、東海道線にはよくあることですからね。でも少し目が覚めてくると、冷房どころの寒さではないと気づきました。なにしろ体がブルブルと震えてくるくらいなんですから。
「あら、ジョニー、どうしたの、そんなにふるえて? 寒いの? じゃあ仕上げにこれを着てねジョニー」
「おお、ありがとう。だいぶ厚手の生地だね。準備がいいじゃないかマリー。こんなジャケットいつから持ってたんだい? うん、こりゃいい、サイズがぴったりだ。ん? このボタン……これは何かの制服みたいじゃないか……って、おい! これは何の冗談だ! こんなの笑えないぞ、ちくしょう!」
それは紛れもなく車掌長の制服で、しかもすごく時代遅れの制服だったんですよ。
「いつの間に……まさか、マリー、あんたがやったのか? えと、このズボンも?」
女は顔を服の色と同じくらい真っ赤にして何度もコクコクうなづきました。
「なんのために?」
「さあジョニー、帽子もきちんとかぶってね。みなさんお待ちかねなのよ。ほら」
見るとそこには長い行列ができていました。その列の脇にはにわか仕立ての看板があって、JR北海道 第3回SL試乗会乗り場と書いてありました。
「北海道!」
寒いはずです。いや待てよ、同じ季節か?と私は疑いました。そこで私は列を見渡して新聞を持っている参加者の一人に近づきました。そして帽子をとって丁寧にききました。
「すみません、お客さま。恐れ入りますがその新聞ちょっと見せていただいてよろしいですか? 今日の広告を確認いたしたいので。あ、どうも」
新聞の日付は確かにその日の日付でした。だとしたらほんとうにおかしいです。だってそうでしょう? まだ日も高い。だったらどうやってそんな短い時間で東京から北海道までこられたんです? それこそ現実離れしているでしょう?
「ほらジョニー、あの人たちきっとあなたをさがしているんだわ」
女にうながされた方向へ目を向けるとSLの運転席では機関手らしき男が何かどなっていて、どなられている相手らしい係員らしき男がこちらにむかっていらいらしながら小走りに近寄ってきていました。私は礼もそこそこに新聞を客に返し彼を待ちました。
「ねえ、わたくし思うのだけれど、乗車するはずだった車掌さんが急病になって代わりの人が来るのを待っているよ、きっと」
どうしてそんなことがわかるんだ、妄想もいい加減にしろよ、と言う前に係員は私の方をつかんでこう言っていました。
「よかったあ、間に合いましたねえ。もう来ないのかとはらはらしてましたよ。現場で急病になられて会社とも連絡がうまくいかないもんだから気をもみました。用意も出来ているみたいだし、ささ、こちらへ早く。遅れそうなんで機関手も怒り出しちゃって」
「ええ? 私が? 乗り込むって?」
係員は一度ふりむいた眉をひそめるや、私の言葉など聞かなかったふりをしてずんずんと私を汽車にひっぱっていきました。
「冗談言うような余裕もけっこうですがね、お客さまの我慢も限界なんです。なにしろとっくに列車の席についているはずの時間からもう三十分も過ぎてるからね。では、よろしく。頼みましたよ」
私を列車に押し込むと係員はすぐさま客の誘導にかかりきりになってしまいました。事情を聞く相手は女だけになってしまいました。ところがなんと女の姿は消えていました。
「マリー? どこだマリー! おおい、どうして君は乗務員の急病のことを知っていたんだ。マリー、どこだ!」
そこへ駅員のアナウンスが響きました。
「みなさま、ながらくお待たせしました。では第一回運行の整理券をお持ちの方、ご乗車ください。発車は十分後の予定です。なお第二回目の運行は」
アナウンスが続くなか、私は反射的に腕時計を見ようとしました。永年つちかわれた車掌のサガってやつですかね。腕時計何てとっくに売ったことを忘れてたんですね。すると隣から声がしました。
「これでよかったら使ってね、ジョニー」
「マリー、どこへ行ってたんだ!」
「はい、整理券。わたくしもちゃんと持っているわ。ねえ、時計は気に入ってくれた?」
かたわらのアルバイト学生がずかずかと乗り込んでくる乗客たちから整理券をあずかるのに四苦八苦しているのを尻目に私はその腕時計をよく見てみました。
それは宝石をあしらった、かなり凝った造りの時計でした。その青っぽい宝石がダイヤだかサファイアだかはまるで見当もつきませんでしたが、ガラス細工などではなく本物の高価な宝石であろうことは疑いようもなかったです。おまけにサイズときたら私の手首にぴったりでした。
「さあ、始めてください」
さっき私をここまで引っ張ってきたあの係員がこうせかしました。客まで入っているので私も観念して大きな声で久しぶりにこう叫びましたよ。
「前方よおし!」
ひとしきり確認を終えると言いました。
「出発進行!」
SLは動きだし、不慣れな乗客の顔へ遠慮なく煙突の煙を吹きかけていました。その滑稽な風景で私はなぜか気分がよくなりました。だって正直なところ、さっきまでは超高速鉄道のベテラン車掌がこんな試乗会のおもりなんてやってられるか、とご機嫌ななめでしたからね。
「さあてマリー、こういう形式なら改札の必要もない。ゆっくりと説明してもらおうじゃないか。君の魂胆は何だ? だいたい君は何者なんだ?」
「ええ、いいわジョニー。前の車両でお話しするわ」
ところがです、その前の車両へ行ってみて私はびっくり仰天したんです。何がって、その車両があまりにも豪華だったからです。
重厚なツイードをしきつめた床、華麗なレースのカーテンで飾られた車窓、ソファのようなフカフカで分厚い客席。おまけに壁にかかる名画の数々、マホガニー板に色ガラスを嵌め込んで半仕切りにして車内を個室のような雰囲気にしている半扉と客席の前のしゃれたテーブル。その上には真っ白なテーブルクロスと赤ワインに紅茶セット。追い打ちをかけるように準備されたスコーンの周りにはジャムやクリームのビン。まるでオリエント急行です。
天井からのシャンデリアの光とロココ調の内装にそぐわないのはリュック姿の乗客たちだけでしたね。ともかく試乗会ではあり得ない規模と格式の車両だったんです。
あまりの意外な光景に質問も忘れて突っ立っている私の耳にはやがて心地よいメロディが聞こえてきました。
「あ。これはおれの知っている曲だ」
恋のダウンタウン! ご存知ですか、ぺトラ・クラークのあの名曲? すると次に車内放送から流れてきたのはボビー・ソロの「ほおにかかる涙」お次は「シェリー」そして「グッド・タイミング」「おお、キャロル」「ロリポップ」「ダイアナ」「ヘイ・ポーラ」
そうして次から次へ懐かしの名曲が続くのです。コニー・フランシスが「VACATION」と歌えば、渋い声が「シックス・トーン」と歌います。えと、あの曲は誰が歌っていましたっけ……
「テネシー・エミー・ファード、じゃないかしら、たしか?」
「それだ! そうだよマリー、彼だ! へえやるじゃないかマリー、君がオールディーズに詳しいとはね、ずいぶん若いのにさ」
「わたしから見たらあなたのほうがずっとずっと若いわ、ジョニー」
「え?」
「あなたはずいぶん熱心に聞き惚れていたわね、何分も何分も。わたしのことなど、まるで忘れてしまったみたいに」
女はすねたような上目使いをしてみせました。彼女がそんなようすを私に見せるのは初めてなので私は少しどきまぎしたかもしれません。
「でもお気に召したのなら、いいわ」
私の様子をみて彼女も機嫌を直したようでした。
「ねえジョニー、まだまだもっと凝った趣向があるのよ。もちろんこの試乗会でね」
大好きなオールディーズの名曲をたて続けに聞いたせいで何年ぶりかに温かい切なさを胸に抱き始めていた私は彼女の言葉に素直に興味をそそられました。
「だから、ねえジョニー、その準備を手伝ってくださる?」
「いいよ、マリー。ただしだ、今のこの雰囲気を壊さないって条件ならね」
「もちろんよ! これからもっともっと盛り上げるのですもの!」
「で、何をすればいい?」
「あのね、その準備のためにお客さんたちには少しの間だけ後ろの車両に移ってほしいの」
「え? なんでそんなことを?」
「ね、お願い。きっとジョニーだってもっと喜んでくださるわ」
久しぶりのいい気分を壊されたいという気持ちが勝って、私はあまり詮索することもなく乗客にアナウンスしました。
「みなさま、お楽しみいただけてますでしょうか?」
客たちは笑みを浮かべながら満足そうにうなづいていた。これならそう文句も出ないだろうと判断して私は言いました。
「次なる趣向はさらにご満足いただけると存じます。つきましてはその準備のため、少しお時間をいただきたく、誠におそれいりますが、お客様におかれましては後部車両にほんの数分だけお移りいただけますようご案内申しあげます。
客たちは意外なほど素直に席を立ってぞろぞろと後ろの車両へと移動を開始しました。不満どころか、乗客たちの顔にはさらなる贅沢への期待が読み取れました。
これがスムーズにいったので、私はマリーにさっき耳打ちされたとおりに機関手のところに行きました。
「ごくろうさん。大好評だよ」
「そりゃそうさ。景色を堪能するのに最適なスピードでやってるからねえ」
「うん、そこでだ、次の企画に移るから、ちょっとこの辺で停めてくれ」
「ええ? 停車って、そんなこと聞いてねえよ!」
「聞いてなくてもおれはそう言われてるんだ。それとも何か? 会社命令が聞けないと?」
機関手はぶつぶつ言いながらも停車の動作にはいりました。
やがて汽車は停車しました。私と彼女はもとの車両に戻りました。
するとそこにはいつの間にかワイングラスやらワインのボトルやらが各テーブルに配置されていたのです。
「え? いつこんなの用意したの?」
「いいから、あなたはこのソファに座っていてジョニー。そうだわ、さあ筆頭車掌さま、どうぞ召し上がれ」
彼女は私の目の前のグラスに赤ワインを、それはもう上品につぎました。
「いや、さすがに勤務中だろ」
「あら、すっかり車掌さんね。ジョニーったら。うれしいわ」
からかうようにそう言うと、彼女は軽快な足取りで後部車両のほうへ行きました。
「待っててね。すぐ戻るから」
たしかにいつの間にか正式な車掌になったつもりでいた自分が滑稽に思えて、こんなのおれの仕事じゃないぞ、と言い聞かせるためにもワインを飲んでやれと私はそのとき思ったのです。
「ほお、こりゃ上物だ。どれ、もっといただくとするか」
それは私が考えていた以上に極上のワインだったらしく、自分でそれと気づかぬうちに私はかなりいい気分になっていました。
「あら、だいぶ空けたのね、ボトル」
戻ってきた彼女は少し心配そうな顔つきでした。
「なあに、どうせ正規の乗務じゃないんだ。かまうもんか」
「これくらいのお酒はなんともない、というわけね。頼もしいわジョニー」
「そのとおり」
「ではさっそく次のお仕事よ? まず発車させていただける、車掌長さま?」
「了解!」
私は機関室に行き、機関手とその助手に発車を指示しました。予定の遅れに気をもんでいた彼らはすぐさま発車しました。
「じゃあ、わたくしもいただくわね、いいかしら?」
私は給仕長よろしく彼女に赤ワインをつぎました。おそらくもうだいぶ酔いがまわっていたのでしょう、ワイングラスをカチンと軽く触れ合わせたときに、それはもう彼女がこのうえなく美しく見えてしまっていましたから。
ワインの赤が彼女の真っ赤なドレスにほどよくマッチしていましたが、見てくれよ、自分だってこの豪勢な制服だ、どうだまるでオリエント急行の車掌長みたいだろう? と頭の中で自慢していました。彼女を取り巻くその車両のゴージャスさ、そして私のゴージャスな制服、私たち二人はお似合いのカップルじゃないかと本気でそんなことを思っていたのですからかなり酔いがまわっていたのでしょう。
そこへあの機関手の無粋な怒鳴り声が響きわたりました。
「おい、車掌はいるか!」
気分がぶちこわしです。私も怒鳴り返しましたよ。
「用があればこっちから行く。おとなしく石炭釜の面倒をみていろ!」
「あっ、こいつ! 仕事中に女性客と酒なんか飲みやがって、ちくしょう! おや? おいおい何だ、この内装は? こんな派手な車両をいつの間に連結したんだ?」
「寝言はいいから快適なスピードを維持していろ、いいな?」
「そ、それだよ、それ、スピードだ! 絶対におかしいんだ、スピードが出すぎてる、脚が軽すぎるんだ!」
「え? 何を言いたいんだ」
「だから! まさか勝手に車両編成を変えたんじゃないだろうな! だいたいここのお客はどこへ行っちまったんだ?」
そのとき私は何かハッと感ずるものがありました。いっぺんに酔いが醒めた気分で車両の最後部へとすっとんでいってドアをあけてみたのです。悪い予感どおり後続の車両は消えていました。
「ない! 他の車両がないぞ!」
「くそっ、たいがいにしろよ、てめえ! 緊急停止だ、文句は言わせねえぞ! おまえは会社へすぐに連絡しておけよ!」
顔を真っ赤にしながら機関手は持ち場へと帰っていきました。
後続車両が消えた! もちろん彼女がやったに決まっている。だが待てよ、それが彼女の意図だったとしても車両切り離しの作業を彼女ひとりで出来るのか? しかも油圧式設備もない旧式車両なんだぞ? そう困惑して私は彼女を問い詰めるのに少し手間取っていました。
するとそのすきに彼女はダッと駆けだしたのです。
「あ、待て! どこへ行く気だ、マリー!」
思わずこう言ったものの、彼女がどこへ行くかは明らかでした。だって、彼女は機関手の後を追いかけて駆けていったのですから。
彼女が機関室のドアを閉める姿を目視してから私がそこへたどり着くまで一分はかかっていませんでした。しかし機関室のドアはなかなか開きませんでした。鍵がかけてあるというよりも何か重いものがドアを押し付けてある、そんな感じだったので私はドアに体をあずけて全力で押しました。なんとかドアがゆっくりと開くと、そこの光景に私は呆気にとられたのです。
まず彼女は腕組みをしてそこに立っていて機関手を監督するかのような様子で機関手とその助手を見ていました。そして機関手たちはというと、まるで狂ったような速さで一心不乱に機関の釜に石炭をくべているのです。
「何してるんだ! 列車を停めるんじゃないのか! おい、聞こえないのか!」
私の言葉はまるで無視されました。それどころじゃないんだといった調子で機関手たちはわき目もふらずむちゃくちゃな速さでただただ石炭をくべ続けるのです。
その結果、汽車のスピードはぐんぐん上がり、ゆるいカーブにさしかかっただけでも機関手のひとりはバランスをくずして転んでしまったほどです。かくいう私もよろけて上半身の半分ほどが機関室から外へはみ出てしまい制帽が勢いよく後ろへ吹っ飛んでいきました。
そしてそのとき私は見てしまったのです。それは何十メートルか先にある切り替えポイントでした。
ポイントの所は二股に分かれていて、右に引き込み線があるのですがポイントはその方向へとセットされていたのです。いいですか、引き込み線ですよ? それはかなり短い線で頑丈な車止めで終わっているのです。そんなところへこのスピードで突っ込んだら一巻の終わりです。
「マリー、やめろ! 脱線するぞ! お前ら、脱線しちまうんだぞ!」
ところが彼らは誰一人として私の言うことなど聞かず、相変わらず何かに取り憑かれたように必死の形相で石炭をくべ続けるばかりです。
とくに彼女ときたら腕組みをしたまま涼しい顔で優雅に髪を風になびかせながら平然として立っているのです。こんなに風が吹き付けて私だって手すりにつかまってやっと立っていられるのに、彼女ときたらバランスひとつ崩さずに、まるで交差点で信号待ちでもしているときのように自然に立っているのです。
しかしそんなことに感心しているときではありませんでした。なんとか早く停めなくてはなりません。せめてスピードを少しでも落とさなくては。そう思い私は私は機関手につかみかかりました。
と、その時です。彼女は言いました。
「ありがとう。だいたいわかったわ、ごくろうさま」
彼女がそう言うと機関手たちは急に動作を止めて、なんだか腑抜けたようになってしまいふらふら歩きだしたのです。そしてあろうことか私の腕の中にがっくりと倒れこんでしまいました。
私は男の体をふりほどこうとしたが、男はぐったりと私に抱きついていて容易にふりほどけそうもありませんでした。その機関手はうつろな目を半開きにして、あらぬ方向をぼんやりとながめている様子なのです。
「こら、はなせ! ふざけてる時じゃないぞ、脱線しちまうんだぞ! 離せ!」
すると彼女が言いました。
「おちついてジョニー。わたしにまかせておいて。わたしを信じて」
でも時すでに遅しでした。もうポイント地点です。たとえうまい具合いに引き込み線に入れたとしても車止めに激突です。
「しっかりつかまって、ジョニー!」
「もうだめだ!」
汽車は引き込み線に入り、すぐに車止めにぶつかりました。
ところが強固なはずに車止めは、まるで乾いた泥人形みたいに粉々に砕け散り、その破片は私の頭上を紙ふぶきのように通り過ぎていきました。妙だったのは激突音もせず何の衝撃もなかったことでした。おまけに汽車は今まで通りの速度で走り続けているのです。そこにはもう線路がないというのに、ですよ。
「ジョニー、ジョニー、聞いて! 列車はだいじょうぶだから、わたしの言うことをよく聞いて」
「だいじょうぶだって? どこがだいじょうぶなんだよ! こいつ、地面を走ってるんだぞ? もうだめだ、転覆するぞ!」
「だいじょうぶなのよ、ジョニー」
彼女の話しぶりがあまりにも静かで、それにこの吹きすさぶ風の中でも手をドレスの前できれいにそろえて静かに立っている彼女の姿があまりにも平然としているので私は騒いでる自分が一瞬恥ずかしくなる感覚におおわれました。そして語りかけてくる彼女の言葉に耳を貸す気になれたのです。
「ジョニー、もうすぐ大きな刈り草の山が見えてくるはずよ。大きくてかなりの距離それは続いているの」
「草の山? え?」
「そこでね、この運転手さんたちを落としてくださいね」
「落とすぅ?」
「ええ、これが最後のチャンスなの。これを逃すともう降りられる所はないの。だから用意して。すぐに刈り草の山を通るわ」
私は運転台から頭を出して前方を確認してみました。確かに緑の何かが高く積もった景色が見えました。
「さあ今よ。運転手さんたちをおろして! だいじょうぶ、ケガはしないわ」
「勝手なことを言うな! あれが草の山で、こいつがケガしないなんてどうしてわかるんだよ!」
「ケガはしないわ。ケガなんて絶対にさせはしないから!」
「はあ?」
「そういう予定なの、予定どおりなのよジョニー、わかって。わたしを信じて! でないと取り返しのつかないことになるわ」
「もうそういう事態だろ! よし、どうしても降ろすって言うならスピードを落としやがれ!」
「できない。それだけはできないのよ。わかってジョニー」
気づいてみると、いつしか彼女は機関手のかわりにすごい勢いで石炭をくべていました。顏のほうもだいぶすすをかぶっていました。たとえ頭が狂っていたとしても、その表情は懸命そのものだったのです。ああ、なんてけな気なんだと私はつい思ってしまいました。一所懸命な女性の姿を見てしまうと、わけもなく手助けしたくなるのが私の悪い癖なんです。スケベ野郎と思われて仕方ないと思います。でもその時もそうなってしまいました。
「降ろすと言ったって、この男たち、しらふじゃないぞ? このまま落としたらまちがいなくアウトだぞ?」
「ジョニー、わたしはいまから一から五まで数えます。三つまで数えた時に運転手さんたちの目が覚めるようにするから」
ことのき私はこう考えていました。この女はどうせ魔女か化け物だ、三つまで数えた時にきっとこいつらは目を覚ますに違いない、こいつらを草の山とやらに放り出してもきっと無事に違いない、だったらおれが飛び出してもきっと無事着地できるだろう、よし一緒に逃げてやろう、と。
「よし、いいぞ。数えてくれマリー。あ……」
不運にも私は彼女の目をまともに見てしまいました。彼女の目は悲しげで寂しげで、私にこう告げているのでした。
(あなたも行ってしまうの? わたしだけをひとり残して? ねえ、残って、ジョニー……)
すすで黒く汚れた彼女の頬に幾筋かの銀色の線が走りました。涙でしょう。彼女は石炭をくべる手を止めて、しゃがみこんだまま私を見あげていました。
「わ、わかったマリー。さあ、数えてくれ」
ところが今度はマリーが、彼女が数えるのを躊躇しているようでした。
「どうしたんだ! 最後のチャンスなんだろう? おれを信じろ! さあ数えるんだマリー!」
パッと顔を明るくすると彼女は数え始めました。
「一、二、三」
きっかり三つ目で機関手どもはパッチリ目を覚ましました。
「四、五!」
キョロキョロあたりを見回して暴れ出そうとした男どもを私は派手に突き飛ばしてやりました。男たちはみるみる緑色の玉になって転がってゆき、やがて見えなくなりました。彼らが主張するように殺そうとしたのではなくて、私は彼らを助けてあげたんです。お礼を言ってもらいたいくらいなんですよ。
ともかく機関手たちは降車し、私はそこに残ったままでした。
「ジョニー!」
私はてっきり彼女に抱き着かれると思い心も体も準備していたのですが、彼女は明るい声で私の名を呼びつつも石炭を勢いよく釜に放りこんでいました。
汽車はあいかわらず線路の無い地面の上を走っていましたが、そうこうするうちに石炭も底をつきました。彼女は黒い顔をハンカチでぬぐいながらその場に立ち、行く手をきっとした厳しい顔つきで見ていました。
汽車は猛スピードで信じがたい軌道を爆走し、前方には高い山が迫ってきました。
その山の切り立った斜面に向かって破滅の突進をしているというのに、その頃の私の心は妙に落ち着いていたのです。おそらくそれは隣に寄り添って立っている彼女のおだやかな微笑みのせいだったかもしれません。マリーが横に立つと不思議なことに私もバランスよく静かに立つことが出来ました。猛スピードが巻き起こす暴風さえもそよ風くらいにしか感じないのです。
「いよいよね」
マリーはそう言いました。
前方にはかなりの高い山。その急斜面がもう目前に迫っていました。そこはぎっしりと木々で覆われた森です。でも近づくにつれてその森の間にかすかな道筋が見えてきました。汽車は明らかにその細い道に狙いを定めて突進していました。
「少し揺れるかも、ジョニー」
そう言うマリーに返事をする間もなく軽い抵抗を感じました。それは私が覚悟していた激突の衝撃ではなく、体がグイッとのけぞる程度のものでした。
それでも私は衝撃に備えて目をつむっていたのですが、おそるおそる目をあけてみると汽車が坂道を登っているのがわかりました。それもかなりの急勾配なのですが、私とマリーは運転台の床に対してきっちり九十度の垂直姿勢を保ったまま微動だにせず立っているのです。もうむちゃくちゃです。
「これでもう安心だわ」
マリーは安心した顔つきでしたが、すぐにそれはどこか困ったような不安なような表情へと変わりました。
「あとはジョニー、あなたのことだけね…」
汽車は木々をかすめながら、かといって一本の木も倒すことなく飛ぶようなスピードで走行していきます。山頂へ着くまでは速度をゆるめないつもりのようでした。燃料の石炭はとうに底をついたというのに。
「わたしは家へ帰るの。わたしの話はとても理解できないでしょうけれど、あなたの心はわたしを信じてくれるでしょ? ジョニー」
白状しますが、こういうセリフに私は弱い。 そのときもついつい苦笑いしてしまったのだと思います。
「ああ、やっとほほえんでくれたわねジョニー!」
いきなりマリーが私の胸に飛び込んできました。思わず私はマリーを力いっぱい抱きしめてしまいました。私たちは何も言わずにただただきつく抱き合っていました。
無言の抱擁がどれほど続いたのでしょうか。やがてマリーは身体を起こしました。マリーの顔が涙で濡れていたので私は感極まってしまいました。
「マリー……」
マリーはもう一度私の胸に顔を沈め、そのままの姿勢で話しだしました。
「この山の頂上は湖になっているの。そこの中へこの列車は入ってゆくわ」
「湖の中に君のお屋敷があるんだ。そうだろ、マリー」
私がマリーの顔をのぞきこむとマリーはにこりとほほえんでいました。私が質問攻めにするかわりに話にのっていったことが嬉しかったのでしょう。
「いいえ、湖はただの入り口よ。湖の底よりもっともっと深く冷たい所に、そこはあまりにも冷たくて時計の針までもが止まってしまう、そんな所にわたしたちの国があるの。わたしたちの永遠の思い出が……」
私の心臓はその言葉を聞いてふるえ、思わずマリーの腕をさすってみました。だってマリーの言葉はいかにも死というものを連想させましたからね。
でもマリーの腕はとてもあたたかく、間違いなく血の通った生者のそれでした。
「ジョニー、あなたが何を心配しているのか、わかるわ。でもね、わたしは死人じゃない。ただ道に迷ってしまった迷子なのよ。時計が進めば進むほどに、わたしは迷路に入り込んでしまうの。だからわたしには必要だった。時をさかのぼるこのSLが。そして、あなたが」
マリーは顔をあげて私を見つめました。驚くほどの真剣な顔つきで私ときたら大いに心を打たれてしまいました。
「あなたなら来られる、あなたなら! だから一緒に来て、ジョニー!」
躊躇するどころか、なんと私は首を縦にふっていました。
その返事を聞いてマリーはそれ以上何も言わなくなりました。ただ私の腕にぎゅっと力を入れて抱きつくのです。そのあたたかさ。私の心の燃料釜に何年ぶりかに火か入った瞬間です。
いくらのぼせあがった私でもちゃんとわかっていました。この汽車が山頂へたどりつけたとしても、そのまま湖とやらへ落下したとしたら車体はいったいどうなってしまうのか。
でもそれでもいいかなという気持ちに私はなっていたのです。これほどの美女とこれほど豪華な汽車と道連れならその最後も悪くはないなってね。だいたい家へ帰ったといったところで私に何が待ってるというんです?
私は自分の車掌服に目をやりました。今の時代にはすっかり姿を消してしまったその堂々たる意匠が私をこのうえなく誇らしい気分にさせてくれました。
山頂がすでに視界に入っていました。その向こうは奈落の底でしょう。でもそれも秒単位でケリがつくはずです。
安心しきって腕にすがりつくマリーを感じて、私はほんとうに穏やかな気持ちでいられました。
ところがです。この場に及んで汽車のやつが徐々に速度を落とし始めたのです。ノロノロ運転がしばらく続きましたが、やがてすっかり停車してしまいました。炉はあいかわらず燃え盛り、煙突からはすばらしい煙がモクモクと出ているというのに停まったのです。
「ああ! だめなんだわ! やっぱりだめなんだわ!」
マリーは私の腕から離れると両手で顔をおおった。
「やはり、あなたは行けないのだわ。あなたは、あなたは……」
マリーは聞こえないくらいの小さな声で言いました。
「現在に生きている人だもの」
彼女が言っていることが私の頭で理解できなくても、それでも私の心は冷たい氷の刃でえぐられました。
「そんなことはない。マリー、おれは君と」
マリーのやさしい指が私の唇に触れました。私はそれ以上の言葉を封じられたのです。
「ごめんなさい、わがまま言ってしまって。いっしょに来てくれると言われてわたし本当に嬉しかったの、いっしょに行けると信じてしまったの。でも停まってしまった……」
汽車は停まってはいるものの釜は盛んに燃え上がり、機関全体が今にも爆走したがっているのが私にも手に取るように感じられました。それはまるでマリーの決断の一言を今か今かと待っている、そんな感じなんです。
そしてマリーはついにそのひと言を言いました。
「……降りて……」
そう言うとマリーは顔を手でかくしたまま肩をふるわせました。私は思わずその肩を抱こうと近寄りましたが、マリーはそれを嫌い背を向けてしまいました。
私は汽車を降りました。
ピピピー、ポピー!と妙に嬉しそうな汽笛が響いたかと思うと、機関車ははじけたように勢いよく走りだしました。いきなり全力疾走です。
「ちくしょうめ!」
ついそう口走ってしまった私は無意識のうちに汽車を追いかけて走り出していました。もちろん追いつけるはずがありませんでしたが、私は思いっきりこう叫んだのです。
「マリー! マリー! せめて、せめて君の」
私はあらん限りの力で続けました。
「君のほんとうの名前を教えてくれ!」
ありがたいことにマリーは運転台の脇から顔を突き出してくれました。声は届いたのです!
マリーの唇は動いていました。何を言ったのか、その音声は汽車の轟音にかき消されて聞こえませんでした。でも私の心にはマリーの本当の名前がしっかり届いていました。ほんとうなんです。だって私がその名を心の中でもう一度繰り返すと、彼女はしっかりとうなづいてくれたのですから。私は熱い熱い想いに包まれて足をとめました。
汽車はそのまま爆走し、狂ったように汽笛を鳴らし始め、ついに山の頂上つまり崖のふちまで行きつき、そのまま突っ込んでいきました。
不意にすべての音が消えました。
そう、汽車が落下したのです。
息詰まる数刻の後に、すさまじい水音がこだまするのを私は耳にしました。
どれくらいかかったか、とにかく私はその崖っぷちにたどり着きました。下をのぞくとそこには湖があって、その湖面には幾重にも水輪が広がり続けていました。水輪の中心の下にはあの汽車がいるはずなんです。
そう思いながら茫然と眺めていると、その水輪の中心そのものから何やらポッ、ポッ、ポッと白い煙みたなものが上がり始めたんです。よく見ると湖の下の方からでしょうか、大きな泡あいくつもいくつも湧き上がってきて、その大きな泡がはぜると中からその白い煙が出てきているのでした。
それらは次から次へと湧いてきて、間隔もだんだん短くなってきていました。
「ピピーッ!」
そんな音が突然響きました。元車掌の私の耳にははっきりと汽笛だとわかりました。しかも音はそれだけじゃないんです。なんと言えばいいのか、シュポポポ、シュポポポとでもいえば皆さんにはわかっていただけるかな、そんな規則正しい音、つまり汽車が順調に進行している音が聞こえてきたのです。
やがて湖面が大きな波に揺れると、水面のわずか下の方に見えたんですよ。
「ああ、動いている、進んでいる!」
あの汽車でした。何の上を走っているのかまるで見当もつきませんでしたが汽車は確かに前進していました。それが水面のすぐ下を進んでいるの、それとも底の方を走っているのかは上からだと見当がつきませんでしたが、それはとにかく走っていました。それはそれは気持ちよさそうにね。
これはまったく私の勘というか推測ですが、あの軌道は螺旋状になっていて汽車はぐるぐると旋回しながら底へ底へと進んでいったのではないかと思うのです。汽車の姿はやがて見えなくなりましたが、煙の泡はそのあともずっと出ていて、その白い煙が夕陽に染まってオレンジ色になって、それから夜のとばりが下りて煙の柱がかすれていくまで私はずっとずっと見惚れていました……。そのあと、大爆発なんて起きないし、ただ静かにその日は暮れていったんです。
……ね? わかったでしょう皆さん。これが事実です。
皆さんがおっしゃったような殺人も暴力もなかったんです。私はどこの女も殺してなどいないし、機関手にだって暴力なぞふるっていません。かれらが足や手を骨折したのは私の責任ですか? とんでもない! むしろ助けてあげたことを感謝されてしかるべきなんです。
さあ、いいかげんに湖を捜索してください。そうすりゃわかるんだ、すべて。
そんなことは無理だ、あの湖は深すぎると皆さんはおっしゃいますが、まずは手をつけてみたらどうなんです? わだちだって残っているはずなんです。
私を殺人犯だと決めつける前にうかがいますが、私が殺したとおっしゃる女性はどこの誰なんです? それらしい捜索願いでも出ているんですか? 機関手たちは確かにその女性と話したと言っていますよね?
だいたい私があのひとにもらったあの腕時計は、あれについている宝石の鑑定はどう出ましたか? 今までに知られていない種類の宝石でそれは値段のつけられないほどの価値があるだろうし、それが生成されたのは地下深く、そう、ここが肝心ですよ。生成されたのは信じられないほどの地下深くだという結果が出ているのでしょう? あのひとはそこへ帰っていったのだとどうして考えないのですか?
私がその宝石を一目みて欲しくなり彼女を殺した、それが動機だなんてばかげてますよ。鉄道ひとすじの私に宝石の知識なんてあるわけがないでしょう? それにそれほどの価値ある宝石ならばそれはもともと誰が持っていたというのです? もし盗難品ならば大騒ぎになっているはずじゃないですか。どこかの持ち主から盗難届でも出ているんですか?
え? それを知るためにもあのひとの本名を教えろですって?
ですから何度も申し上げたようにそれは言えないんです。これはけっして言いたくないという意味ではないのです。それどころかあんなに綺麗で素敵な名前は私だって皆さんにご披露したいくらいですよ。でもね、うまく言えないのです、この世の言葉に出来ないのです。どんなに頑張ってみても口では発音出来ないのです。私の心はこんなにもはっきりとあのひとのこの名前を聞くことが出来るのに、どうしてもうまく言葉に出来ないんですよ。私の見たこの出来事はあるがまま一言一句そのままに皆さんにお話ししてきましたが、私の心が感じたことは、全部が全部そのすべてを言葉にできるってわけじゃないんです。
私が心で聞いたあのひとの名前、暖かくて、それでいてさびしくて、泣きたくなるかと思えばついほほえんでしまうような……しいて言えばそれは「なつかしさ」の感覚に近いでしょうか……。
そんなに騒がないでください。そんな名前なぞあるものかっておっしゃられても私だってまじめにお話ししているのですから。
しかし皆さんが私のことを何がなんでも刑務所に送りたいとおっしゃるなら、お願いですからなるべく短い刑期で頼みますよ。春にはまた北海道の湖水地方へ旅したいと思っているのですから、ね。
(終わり)