29.エピローグ 心臓だけがうるさい放課後
放課後の学校の音がする。
誰かの声が響く廊下。笑い声。足音。
誰かが忘れたスマホが夕陽のあたる机の上にぽつんとあって持ち主の帰りを待っている。それから汚れた運動靴が下駄箱の上に置いてある。
好きな人の足音は、もう分かる気がする。
普通よりほんの少し早い。近付いて、扉の開く音。
「おまたせ」
「うん。帰ろう」
「俺が来るまでに、変な男とか来なかった?」
「変な男?」
「冴木みたいな猥褻でいやらしい思考の男だよ!」
「く……来るわけないじゃない」
瑛太じゃあるまいし、そこまでモテない。ましてあそこまで軽くて猥褻でいやらしい思考の人はそういない。
「来るわけないって……いるだろ。大体、しつこい先輩なんて嘘だって言ってたけど……あの眼鏡割と本気で尚のこと気に入ってただろ」
「もう卒業したし……あの人割とグイグイ来るけど相手の気持ちを考えられる人だよ」
「……じゃあ、変な女は? 来なかった?」
「来なかったよ」
教室を出て、廊下を歩く。窓から四角い太陽の影。
「心配してくれるのは嬉しいんだけど……わたし、そこまで骨折りやすくも無いと思うんだよね」
「……なにそれ」
「偽彼女をやってる間に、鍛えられたんだよ……たぶん今、学校内で一番上手く瑛太の本物彼女をやれるのはわたしだよ……」
「……そりゃ、そうだろうけど……なんかおかしくない? それ」
瑛太と一緒に夕方の陽が射す昇降口を出る。
夏がもうすぐそこまで来ていた。
「瑛太はわたしのこと……一応、好きだったんだよね?」
「うん。一応でもなく」
「でも、わたしが瑛太のこと好きじゃないと思ってたんだよね。それは悲しくなかったの?」
「嬉しかったよ」
「じゃあ、瑛太は“自分のことが好きじゃないわたし”が好きだったの?」
「うん……まぁ、そうなるかな」
「失恋とは思わなかったの?」
「べつに……俺が独り占めしてたし……尚に他に好きな奴がいたわけじゃないしな」
「出来てたら?」
その質問に彼は眉根をぐっと歪めた。
「……結局……なんとかして渡さなかったと思うよ……」
「メンタルが歪み過ぎてていまいち掴み取れない」
「いーよ。あんま知られたくない……」
少し不貞腐れたように言う。
「駄目だって思っても……無理に気持ちぶつけたくなることも……あるんだって……そういうの、今は少し分かるから……だから俺も同類なんだって」
純粋さを失った彼は、以前よりはほんの少し大人に感じられる。わたしはそれに安心している。以前の彼は見ていてもまっすぐで、傷付きやすく感じられた。それは裏を返せば簡単に折れて、間違った方向にも止められずに進んでしまいそうな危うさでもあった。
「わたし、校舎って好きなんだ」
「校舎フェチ?」
「それで、たまに、暇な日とか、無意味にぐるっと回ってから帰ったりするんだけど」
「へぇ」
「瑛太がゲロ吐いてた日も、それで散歩してたの」
「そうかー……そしたら、俺も好きになりそう……」
ふたりで無意味に校舎を見上げる。
無機質で変哲ない学校の壁があった。
しばらく眺めて校舎裏に回る。ふたりの思い出のゲロの場所まで来た。当たり前だけど、跡形もない。
「このあたりだよね……瑛太、勢い良く吐いてたなぁ……」
「尚……なんか素敵な思い出みたいな言い方してるけど……」
「あれ、ちゃんと土とか、かけたっけ」
「どうだったかな……もう覚えてないよ……」
「瑛太、なんか素敵な思い出みたいに言ってるけど……」
ゲロだからな。
「なぁ、ずっと騙してたんだからちゃんと俺の言うこと聞けよ」
また子供みたいなことを……。
「尚! ……聞かないの? 聞くの?」
「……聞くよ。なんでも」
「うん……じゃあ、とりあえず……なんか愛情表現してみて。尚は分かりにくすぎ」
「え……なにも思いつかないな」
「これだから尚は……。そんなんじゃ前と変わらないだろ」
「うーん……あ、」
「何か思いついた?」
「うん……」
校舎の壁を背にした瑛太の前にそろそろと立った。
「瑛太、目、閉じて」
「え……うん……」
「なに薄目開けてんの。ちゃんと閉じて」
ちょっと背伸びをして、今回はきちんと目測をはかる。よし、いけそうだ。
「いくよ」
うわ。顔、近い。なんでこんな整ってんの。
一瞬の躊躇が生まれる。
でもこういうのは、一度ためらうともう無理。勢いが大事。目を瞑ってしまえば顔は見えない。勢いでそのまま行く。
「ぐがッ!」
わたしは勢いあまって瑛太の顎に頭突きした。
「なんとなく……こうなると思ったんだよ……」
「ご、ごめん……」
しばらくふたりで顎と頭を押さえて震えた。
「まぁ、何しようとしたかは分かった。もういい。俺がやる」
瑛太が身を屈めてわたしの肩に片手を置いた。
「え、もう一回わたしにやらせてよ」
「前科持ちが何言ってんだよ……」
瑛太は「でも……」と言いかけたわたしの唇に自分のそれを付けて塞いだ。
風が吹いて、どこかで空き缶が転がるような音が聞こえた。それが止まって、急に静かになる。心臓だけがうるさい放課後。
柔らかな感触が離れて、温度が遠ざかる。
「瑛太……」
「なに」
「わたし……く、口にしようとしたわけじゃ……ないんだけど……」
「え、じゃあやっぱ顎に頭突きキメようとしてたの……」
「そういうわけじゃ……ない、けど」
「尚がむちゃくちゃ赤い……」
「……」
「初めて見るレベルで耳まで赤い」
「うるさい。さすがに顔色までは調整できないし」
「ほっぺ触ってみていい? 熱そう」
「余計戻らないからやめて」
自分の手のひらを頬にあてるけれど、手のひらも熱くて、あまり効果はなかった。
「帰ろ」
「うん……」
微妙に無口になった瑛太と校門を出た。
「ねえ、話戻るけど……“自分のこと好きじゃないわたし”が好きだったなら、わたしは瑛太のこと好きじゃない方がいいの?」
「え、嫌だよ。俺もう今は……尚にちゃんと好かれてたいし……」
「そう……よかった」
「良くない! ていうか尚の好きは全然伝わってこないし足りないくらいだから!」
「……うん」
「もうちょっと頑張って」
「はい」
そうだ。もう自分の気持ちを隠さなくていいんだ。
それで、嘘ついたり、騙したりすることもなく、気持ちを返してもらえる。だから、大事にしたい。
「わかった……」
わたしは大きく息を吸う。
それから怒ったアメリカザリガニみたいな格好をして、少し前を歩く彼に抱きついた。
瑛太がちょっとびっくりして振り向いた。でも、背中に頭を埋めてなんとか顔は見せなかった。
瑛太がわたしに抱きつかれて前を向いたまま、焦ったように早口で言う。
「俺、かずくんじゃねえからな!」
「わ、わかってるよ……」
そしてわたしは勢いよく……もなく、小さな声で言った。
「エ、エイタガスキ」
「ちっさいクワガタ出て来てる!」
【藤倉君のニセ彼女・おしまい】