27.蝉とバケツ、結論
どこかで蝉が鳴いているんだ。
土から早めに出た蝉がどこかで鳴いているのを朝からずっと、脳の端で認識していたけれど、耳障りなノイズにしか感じられなくて、お昼を過ぎたあたりでやっと、それが蝉だと気付いた。
学校はいつも通り、どこか賑やかだった。
みんなひとりひとり、自分の生活を追っている。わたしが彼等の生活の蚊帳の外でどこか他人事なのと同じように、彼等にとってもわたしの生活は、遠い。
だから周りが楽しそうに笑う顔が、今日は特別遠くて、なんだか霞んで見える。
授業は淡々と進んで、教室の空気は少し蒸していた。夏が近付いている。ぼんやりしていると何種類かの先生の声が通り過ぎていく。
気付けばお昼休みで、わたしは友達に断って校舎の周りをひとりで歩いていた。蝉はどのあたりにいるんだろう。そんなことを考えながら。
「あれ、なおちゃん? なーおちゃん」
正面から何故かバケツを持った冴木君が歩いて来た。中身はカラらしく、取っ手を持ってぶんぶんと振り回している。
わたしの姿を見て小さく駆け寄ったのでバケツがカタカタと揺れて、音を立てる。
「……冴木君」
「どしたの?」
「うん……振られた」
「えぇっ? 嘘でしょ? だってあいつ……」
「……ほんとに」
そう言うと冴木君はぽかんとして黙った。
「まじかー」
やがて冴木君がややオーバーリアクションで頭を抱えて見せる。
「でも頑張ったね、なおちゃん」
冴木君がよしよしと頭を撫でてくる。振り払う元気も無い。
「ていうか、さ」
「うん?」
「もしかしてオレの言ったこと、気にした……?」
「……それもあるけど。たぶん限界だったんだと思う」
冴木君の言ったこと。それから瑛太の幼馴染の子のことももちろんある。けれど、それは引き金にしか過ぎない。
瑛太がしているのは周りを騙すフリだけだけれど、わたしは彼のことも騙していた。瑛太の偽彼女をするのは楽しくて、嬉しいことが沢山あって、だから見ないようにしていたけれど、彼はわたしが恋愛感情を持っていないから仲良くしてくれているだけだ。
期待が何度も膨れ上がり、だけどそれは嘘をついているからだと思い出すことをまた繰り返す。知らず限界まで膨らんだそれが破れた、たぶんきっと、それだけのことだ。
わたしはもしかしたら、もう、振られたかったのかもしれない。嘘をつくのに、期待するのに疲れていた。どんなかたちにしろ楽になりたかった。
でも実際に失うとやっぱり辛かった。こんな結果にならないかもと最後までどこかで期待していたんだろう。
「そっかそっかー。オレ、責任とる?」
「責任て?」
「なおちゃんひとりになっちゃったし、オレと付き合う?」
「冴木君彼女いなかったっけ……」
「いるけど、責任取って別れるよ」
「話にならない」
「べーつに彼女いなくても付き合う気ないくせにぃー」
「なんだ。分かってて聞いたんだ」
「うん。なおちゃんとオレの恋愛観は重力がちがうからね。そんなに早く切り替えられないっしょ?」
「うん」
切り替えるも何も、わたしは昨日の午後からまだ時間が止まっていた。あったこと、言ってしまったこと、瑛太の気持ち、自分の気持ち、そんなものを何度も何度もなぞって、本当に言ってよかったのだろうか、考えている。結局あれ以外どうすることも出来なかった気もするけれど。
「それでかー、藤倉今日、すっごい機嫌悪かったもんなー……あ、あれ」
冴木君が唐突に校舎の中を指差す。
廊下の窓のすぐ近くに、瑛太の後ろ頭があった。思わず二人で眺める。
「ね、微動だにしないっしょ」
「……うん」
すぐそばで蝉が鳴く音がして、冴木君が近くの樹を見上げた。
校舎に戻ると廊下の窓際に瑛太がいて、不機嫌な顔でぼんやり立っていた。さっき見た時の姿勢のまま。
女の子が近付いて行って、彼に何ごとか話しかけて、瑛太がそれに何か一言返して離れて行く。想像だけど「ひとりにしてくれ」とか、そんなようなことを言ったのだろう。わたしは少し離れた廊下の端からそのさまを見た。
教室に戻る為に前を通ると、瑛太がわたしを視界に入れて、何故だかびっくりしたように目を見開いた。
わたしも、一瞬だけ彼を見て、どちらも何も言わないまま、目の前を通り過ぎた。
これはきっとあの校舎裏で、彼に話しかけなかった場合の未来。
彼と笑った沢山の記憶がなければ、ずっとこうだったと錯覚してしまいそうなくらいに、本当に当たり前に感じられた。
少しちがった道を辿ったけれど、結局ここに戻って来たのかもしれない。
*
放課後に自分の席に座っているとクラスの男子が声をかけて来た。加藤君は一年の時も一緒だった。彼はよく休み時間に外に出ているうちに瑛太に椅子を占領されて文句を言っていた。
「あれ、もしかして今日藤倉一回も来なかった? 珍しい」
「うん」
もう、来ないかもしれない。でもそれをわざわざ言う気にはなれなかった。
「いやいやお疲れ。あいつと付き合うの大変でしょう」
「そうでもないよ」
「まぁ、藤倉頑張って有村見張ってるもんなー。いつもやたらナオナオ言って有村探してるし」
「……自分の身の安全の為だよ」
「なにそれ」
「瑛太は女の子に必要以上に声かけられたくないんだって」
「そうなの? 俺てっきり……」
「ん?」
「あいつの周り変な女いっぱいいるし……藤倉がベッタリついてるとそういうのが有村の方に寄って来れねえからかと思ってたよ」
考えてもみなかった。
確かに最初の幼馴染以降過激なことをされることはほとんど無かった。
女の子達はふたり一緒にいるところを呼び出したりはしにくい。それは彼だけじゃなくてわたしも同じことで。
「てゆーか普通に考えてそっちでしょ。あいつ確かにモテるけど、最近の量だと普通に自分でかわしてんの見たし」
「……」
「ヒトごとだと、もうちょいたくましそうな女と付き合えばいいのに……あっちもご苦労だなと思ってたけど」
「わたし、そんなに弱そう?」
「話すとそうでもねえけど、華奢だから狙いやすそう」
「そんな骨折りやすそうみたいに言わないでよ……」
加藤君が笑いながら、「そーそー、そんな感じ」と頷いて自分の指の骨をポキポキ鳴らしてみせる。
「まぁ、あんだけ仲良くしてればそろそろ骨折ろうとしてくる奴もいないだろ。そろそろ諦めるよ」
加藤君の笑顔が、ちょっと遠く感じられる。
「あ、ほら」
彼が笑いながら扉の方を顎で指す。
「藤倉来てる」
「えっ、」
入り口のところを見るとムスっとした顔の瑛太が立っていた。
なんだかぼうっとしていると、加藤君と入れ替わりでそのまま中に入って来てわたしの目の前に立った。
瑛太の顔が見れない。どんな顔をしていいのか分からない。まっすぐ見れないまま、しかられた後のようにうなだれたまま彼と対峙した。
やがて、怒ったような低い声だけが目の前から飛んでくる。
「あれからずっと考えていたんだけど……やっぱムカつくんだよ……」
「……うん」
「でも……」
そこで彼は言い淀んだ。小さな沈黙の間に、顔を上げて彼の顔を見る。眉根は歪めていたけれど、そこに怒りはもう無くて、どこか困ったような決まりの悪さが浮かんでいた。
「騙されてたし、ムカつくのに……嬉しい気持ちもあったんだよ……。それで余計にムカついた……」
「……」
「尚、俺のこと好きなんだろ」
「……うん」
「ちがった。ずっと、好きだったんだろ」
「……そうだよ」
「じゃあ、付き合って」
瑛太の声は大きく、堂々としたもので、教室にまだ残っている周りの生徒達も事情は分からず喧嘩なのか逆なのか分からない様子でこちらを見ている。
「なんだよ。黙ってたら分かんねえよ。どっち?」
「……」
「だから、なんで泣くんだよ」
「……」
「尚みたいな奴に泣かれると、どうしていいかわかんないだろ。笑えよ」
「なんで……だってあんな怒ってたのに」
彼は怒ると長引く性質だと聞いている。
少なくとも、こんな早くに怒りを鎮めるとは思えない。
「……本当は一ヶ月くらいムカついてシカトしてたかったんだけど……その間に取られたらシャクだったから……」
「……だれに?」
「俺以外の誰かにだよ!」
「そんなの、引っかかるわけないのに……」
「あぁ、そうか。尚は自分で好きになった相手以外は見向きもしないんだっけ。ちょっとムカついてたけど……こうなると最高だな」
どこか自嘲気味な声をぼんやり聞く。
「……俺だって、尚のこと好きだったよ……。尚だけは俺に……汚れた感情を向けないで、人として付き合ってくれるって……そんな奴、好きにならないわけないだろ」
恋愛感情を汚れたものと感じてしまう彼は、本当はどこまで傷付いていたのだろう。
「でも、わたしは……」
「うん。だから本当にムカついた……裏切られたと思ったよ」
「……」
「でも……俺もそんなに変わんねえなって……思ったんだよ……勝手に理想化して……人には渡したくないと思って……それを隠したまま押し付けて……それに」
瑛太はそこまで言って、短く息を吐いた。
「いつからなのかはわかんねえけど、尚の存在が自分の中で少しずつ大きくなってて……だからすっげえムカつくのに……気が付いた時は無いとやってらんなくなってて……あー腹立つ……でも……」
瑛太の、でも、に続くまとまりきらない言葉は口の中に消えていって、結局出てこなかった。
「……なぁ」
瑛太が静かな声で言う。
「尚が好きだ。……俺と付き合って」
顔を上げて彼と視線が合った。
遠くのざわざわとした放課後の喧騒が耳に入り出す。
彼の顔を見た。もう見慣れた顔。だけど、やっぱり大好きな顔がそこにあった。
口を開く。
だけど、そう長い返答にはならなかった。
「うん」と言ってほんの少しだけ笑う。
瑛太は「よし」と言って笑った。
「大事にする」と付け加えて。