2.供給過多
昇降口前の自販機で水を買ったのはほんの気まぐれからだった。
普段はそんなものわざわざ買わない。どうせお金を出して買うなら炭酸か甘いの。でもその日はそんな気分だった。
テストの結果が思ったより悪くなかったから機嫌が良かったのだ。だから何か意識高い気持ちになっていて太らない水を買った。たぶんその程度のこと。
ゴトンと落ちてきたペットボトルの水を取り出し口から拾い上げ、鞄の中に入れて校舎を出る。それから校舎の壁が橙に染まっているのを見て、なんとなくまっすぐ帰らず校門とは別の方向に足を伸ばした。
学校の校舎が、わたしは割と好きだった。
誰も住んではいないけれど、誰かの痕跡がいくつもあるその空間。窓から見える理科室も、音楽室の窓から聴こえるピアノも。校庭から聞こえる部活動の練習の音や廊下で誰かが笑う声も。みんな好きだった。だからその日も無意味にぐるりと回って帰るつもりだった。
校舎の裏まで来て苦しそうな呻き声で足を止める。それが藤倉君だということは後ろ姿でもすぐに分かった。というか、ヴォェーという吐瀉の声で胸のあたりがきゅんと反応した。
藤倉君。
藤倉君だ。ひとりで、いる。
周りを見回しても、ひと気はない。こんな状況は本当に滅多に出くわさない。胸がドキドキした。
壁のあたりに軽く片手をついている。その手のかたちからして素敵だ。骨のかたちなんだろうか、手からしてモテる感じ。髪の毛も綺麗。それから整った顔立ち。足も長い。ここまでスタイルと顔が良いと、集合写真とかでもたぶんパッと目がいくだろう。藤倉君は全身からモテる人のオーラが漂っていた。
しかし、今はモテそうな息の音を吐きながらも苦しげにしているし、足元付近にあるのはゲロ。幾らイケメンでもゲロはゲロだった。トイレに走る余裕すらなかったのかと思うと心配になる。
勇気を出して一歩、二歩と近付く。
「大丈夫?」
声をかけると彼はびくっと肩を揺らし、恐ろしげに振り返ってわたしを見た。それから眉根を寄せ嫌そうな顔をされて、わたしはショックを受けて、軽く後ずさった。
「あの……保健の先生呼ぶ?」
「いや、やめて。誰も呼ばないで」
即座に答えた彼はそのまま再びしゃがみこんでしまった。ゲホゲホと咳き込んでいる。たとえ藤倉君じゃなかったとしても、一度目が合ってしまった以上この状態を放っては帰りにくい。鞄からさっき買った水を出した。
「これ、飲んで」
身体を最大限に離して手を伸ばし、まだ開けてないペットボトルを差し出すと、苦しそうにしながらもまたこちらを見た。
「まだ、口つけてないから」
純粋な善意だ。こんなのまで断られたら、ちょっと傷付く。
真剣にじっと見ていると彼は人間に怯えた野生動物のような動きで受け取ってくれた。
あまり刺激しちゃいけない。
少し離れた壁を背に座り込んで様子を見た。彼は水を飲んで、少し落ち着いたようだった。
「ありがとう」
こちらを見もせずに、どこかぶっきらぼうに言われる。どうも、そう面識も無いのに嫌われているような感じがする。
それでもわたしはさっきから静かに考えを巡らせていた。これはチャンス以外の何物でもない。頭の中に選択肢がいくつもまわる。
「藤倉君て、女の子嫌いなの……?」
彼は嫌そうな顔でわたしを見た。あ、これは不正解。間違った選択肢。彼はヨロヨロと立ち上がって、どこかへ行こうとしている。まずい。逃げられる。このまま終わってしまう。
恋愛シミュレーションゲームだと難易度の高いキャラには思い切った選択肢だ。とんでもない選択肢が正解だったりすることがあった。どうせもうこんな機会は二度と無いから、思い切ってやれそうなことはやっておきたい。
「わたし、藤倉君のこと好きじゃないよ!」
呼び止めるように大声でそう言うと藤倉君は動きを止めた。
「ほ、ほんとに?」
振り返った彼にものすごく嬉しげに言われて力強く頷く。
「うん。全然、これっぽっちも好きじゃないよ」
堂々と大嘘をつくと藤倉君がとても嬉しそうに口元を綻ばせる。それから息をはーと吐きだして、壁を背にズルズルと座り込んだ。やっと藤倉君の警戒が少し解けた。どうやら正解の選択肢だったようだ。野生の勘だったけど良かった。
「え、と、ごめん、名前知らないんだけど」
言われてことさら無表情で頷いた。
「一年A組。有村尚」
「隣か、俺はB組の……」
「知ってる。藤倉君有名だから」
藤倉君は「はは……」と渇いた笑いで返した。
「なんで吐いてたの?」
「ストレス……かな」
なんのストレスかは聞かないでおいた。
「さっきの質問だけど……」
「え、」
なんだっけ。さっきの質問というと、藤倉君が女嫌いなのかって聞いたやつだろうか。それ以外に質問はしていないからそうなんだろう。
「有村はさ、ショートケーキ、好き?」
「うん」
「ある日目の前に百個持ってこられて、全部食えって言われても好きでいられる?」
「それは……」
「俺も、女子、ふつーに、人並みに好きだったよ。でもなんかもういらねー。みんな同じに見えるし、そういうの、気持ち悪い」
ショートケーキの例えが的確なのかは分からないし、あまり想像できないけれど、言わんとしていることはなんとなく分かる。
「俺ね、中二くらいまでは身長低かったし、そんなにモテなかったんだよ……」
「そうなんだ」
「ぼけっとしてるうちに、自分より先に周りの反応が急に変わって、この、よくわかんねー状態になった……」
藤倉君は頭を抱えて言う。確かに、わたしが聞いた話でも中学時代の彼は今よりもうちょっと可愛い系で、そこそこ普通にモテはしていたけれど、今ほどではなかったらしい。
春休みに身長がぐんと伸びたり、高校の入学式前に髪型を変えたのとか、あるいは中学に比べてこの高校がだいぶ生徒数が多かったのとか、色んな要素が重なってぽんとブレイクしてしまった。今聞いた感じだと、そのことについてどうやら本人は困惑気味のようだ。せっかくモテてるのに楽しめていないのは少し気の毒ではある。
「供給過多?」
「そうだな。なんか恋愛とかしたくねーもん。ほんとうんざりする」
「もうしばらくすれば、今よりは落ち着くんじゃないかな……」
割と素直な感想でもあった。入学以来藤倉君のモテかたはヒートアップの一途でちょっと異常だったけれど、それでも学校の一部の人種が盛り上がっているだけだ。そしてその人種はとてもミーハーで、きっと移り気だ。今は藤倉君が流行っているから騒いでいるけれど、ずっと飽きず同じ人を追い回すとも思えない。でも、確証は無い。
「野球部が甲子園行けば、変わるかも」
しかし、その可能性は薄いだろう。
あるいは誰かが芸能活動をしていることが発覚、とか。他に騒ぐ対象がいれば少し分散するだろうとは思う。これはわたしが常々願望混じりにシミュレーションしていたことでもある。68番目の分際であれだけれど、もう少し静かになってもらえないと、片想いもしづらいのだ。
「高校、楽しくない」
藤倉君がぽつりともらした。
入学式で目立っていた彼はそこから女の子にジロジロ見られ、写真を撮られ、やがて囲まれて追い回されるのが普通になり、誰と付き合うのかとかばかり注目されて、高校生活をあまり楽しめていなかったようだ。
芸能人になるような人、そういうのが好きだったり得意な人はその状況を楽しめたり受け流せるのだろうれど、意外にも藤倉君の内面はそういうタイプじゃなかった。
すごいなぁとしか思ってなかったので、実情に少しだけショックを受けた。わたしはモテるなんて、良いことだとしか思っていなかった。
「うちの学校クラス多いし、女子の全員が男子にキャーキャー言ってるばかりの人なわけでもないよ。彼氏持ちの子もいるし、冷静な人もたくさんいると思うんだ。ただ、その人たちは今ちょっと藤倉君に話しかけにくいだけで……」
そんなことをつらつら話すと藤倉君はなるほどと頷いた。それから落ち着いたのか、もう一度お水を飲んで息を吐く。
「なんか俺、久しぶりに人と普通の会話した気がする。ありがとな、有村」
これがはたして普通の会話なのかは置いておいて、今藤倉君に近寄って来るのは彼を好きな女の子ばかりだ。そうじゃない人がむやみに近寄れる状況じゃなかった。
「普通の会話してないって、男子は?」
「最近なんだかおかしな雰囲気になっているから、ちょっと遠巻きにされてる」
「そうなんだ……」
やっかみもあるだろうし、そうでなくても異常なモテかたをしている彼とは距離を置いてしまうだろう。近付いて来るのは同性でも、利用しようとする人間が多くなりそうだ。
「男の上級生にも目えつけられるし、本当いいことないよ」
「え……それは」
「いや、去年卒業したうちの兄ちゃんが柔道で全国大会行ってて、だからシメられたりとかは無いんだけど」
「あぁ、良かったね」
藤倉君のお兄さんも、藤倉君とは方向性が少しちがうけれどなかなかのイケメンらしいと、一時期話題になっていた。でも話題をそちらに振るのはよした。なんだかそれとは関係ない話をしてあげたい。
「……うちにもお兄ちゃんいるんだけど」
「どんな?」
「双子。二卵性だけど、見た目は似てるよ。でも性格は正反対」
「へえ」
「けど、どっちも優しくて、色々教えてくれるんだ」
「色々?」
「うん、困ったことがあったときとか……お母さんより先に相談したりする」
「有村、ブラコン?」
「そ、んなことないけど……」
ちょっと意地悪そうに笑いながら、からかって言った藤倉君に、妙な普通さを感じてどきりとしてしまう。そうだ、この人は普通の人なんだ。周りがあまりに騒ぐから、よく知らないのに頭の中で、何か変なふうにイメージを固めてしまっていたかもしれない。
「あー……なんだかんだ、中学までは平和だったから、まさか高校入ってこんなことになるとは思わなかった……」
藤倉君はうなだれて、また大きな溜め息を吐いた。溜め息だけじゃなくゲロまで吐くくらいだから相当なんだろう。
「俺もっとふつーに、男子とバカやって騒ぎたい……」
「そうなんだ」
「ごめんな。こんな話して……聞いてくれてありがとう」
力なく言った藤倉君は見るからに疲れていた。