雪降る朝
ウメは足早に宮殿に向かっていた。
宮殿に続く小道は降り積もったばかりの雪で一面真っ白だ。
耳鳴りのするような早朝の凍てつく空気が肌を刺す。
しんしんと降る雪が目深に被ったずきんに当たってはカサカサと音を立てた。
厚い雲に覆われた空はまるで夜のように暗い。
手に持った行灯の明かりが揺れるたびに、小さな影が長く伸びる。
ウメは時折、凍てついた涙を流す空を見上げては強く唇を噛んだ。
「ツバキ様が泣いておられる」
すぐさま小道を引き返して廻りの塔へと駆け戻りたかったが、今はそれが出来ない。
後ろ髪を引かれる思いで、宮殿へと急いだ。
宮殿を囲む本郭の北門はすでに開いていた。ウメの気配を察したのか、詰め所から国王の使いが顔をのぞかせる。
「早かったな、ウメ。こんな時間に済まない」
「ご用件は承知しております。トーヤ様こそ、朝早くからご足労させてしまい申し訳ありません。すべて、わたしの力不足のせいにございます」
ウメが深々と頭を下げると、トーヤと呼ばれた青年は悲しげに息を吐き出して首を振った。
「お前のせいじゃない」
とは言われても、ウメにとってその言葉は気休めにもならなかった。
「主を見送ることは、辛いことです」
その言葉の意味するところを察して、トーヤは息をのんだ。
その事実は、いつかは訪れることだとわかっていても受け入れがたいものだ。
思い詰めたようにうつむくウメを見て、トーヤは励ますようにその背中を小さく叩いた。
「今はまだそんなことを考えるな。ツバキは元気なんだろう?」
その言葉にウメは小さく首を振った。
「気丈に振る舞っておられます。ですが、この雪を見ればご無理をなさっていることは一目瞭然です」
「沈んでいる……か」
「ご自身を責めております。民衆はみな、ツバキ様を憎んでおられます。春が来ないのは、ツバキ様のせいではございませんのに」
ウメの持った行灯の炎がゆらゆらと揺れる。その火影を眺めながらトーヤは呟いた。
「一目でも会えればな。元気づけてやれるのに」
「廻りの塔は男子禁制。実の兄君といえど、冬の間はツバキ様にお目通りすることは出来ません」
「わかってる」
「きっと、ふるさとの夢を見ているのでしょう」
「ああ。もうずっと帰っていないからな。いつか、ツバキを連れて帰りたいな」
だがそれは、叶わない願いだということを、二人は知っていた。
「ミロク様の啓示はまだ現れないのか?」
ウメの姿を認めると、国王は玉座から腰を浮かせた。
「はい。樹下に続く地下の回廊は固く扉を閉ざしております。塔の芯柱も御花をつける気配がございません」
御前に頭を垂れたウメが淡々と述べると、国王は落胆したように玉座に身を沈める。
「竜華樹でさえも、なにも語ってはくれぬのか」
「春の司様へ繋がるような手がかりはなにひとつ」
「布令を出してひと月になるが、有効な手立てはいまだ見つかっていない。そうだな、トーヤ」
控えていたトーヤが面を上げる。
「褒美欲しさに集まっていた民衆も、今ではまばらに」
その言葉を聞いて、国王は深いため息をついた。
「すでにないがしろにされているか。このままでは廻る季節を失いかねない。慎重にいきたいところだが猶予があるわけでもない。各地の穀倉は空になりかけている。早急に手を打たねば民が飢えるだろう。現状を打開できなければ、我らはいずれ民に刃を向けることになるだろう。民の王であるはずの王家が……。廻りの司を守護する役目を負った者の定めか……」
重苦しい空気の中、ふと国王が顔を上げた。
「ウメ、冬の司に仕えてどれくらいになる?」
「十二年になります」
「ソウビがそなたを連れてきてきたのは五つの頃だったな。もう十七になるのか」
懐かしい名前に、ウメは目を細めた。
「冬の司には、いつの代もいらぬ心労をかけてしまっていたな。さぞかし我のことを恨んでいたことだろう」
「それはございません」
ウメは強く言い放った。
「ソウビ様は陛下に感謝しておりました。貧しかった家族を救ってくださったのだと」
その言葉に、国王は力なく首を振る。
「救ったわけではない。ただ支払っただけだ。大切な娘子の命を竜華樹下に捧げるための、せめてもの対価だ」
「たとえそれが真実だとしても、ソウビ様は陛下を恨んでなどおりませんでした」
そうだ。ソウビ様は誰も恨んでいなかった。ただ、あるがままを受け入れていた。あの塔に命を削られながら、それでも世界を守れることに感謝していた。なんて慈悲深きお方だったのだろう。
ウメは固く拳を握った。ソウビのそばで、ソウビを苦しめる世界を憎んでいた自分が醜く思えた。
「ソウビだけではない。ツバキとて同じだ。あの者も、長くはないだろう」
このまま、春が来なければ……。
国王が飲み込んだ言葉を察して、ウメは唇を噛んだ。
生きる権利を平等に与えられない世界は、なぜこんなにも残酷なのだろう。
ウメが宮殿を出ると、雪を降らせていた暗い空は見事に晴れ渡っていた。
澄んだ空の向こうで太陽が鋭く輝いている。ピンと張り詰めた冷たい空気と相まって、積もったばかりの柔らかな雪をキラキラと輝かせていた。
どうやらツバキが目覚めたようだ。
郷愁の夢から醒めだのだ。
「わたしはこれで塔に戻ります」
駆け出そうとするウメをトーヤが呼び止める。
「これを、ツバキに渡してくれ」
その手には小さな箱が握られていた。
「手習いを始めたんだ。少し不格好だが、あいつにやってくれ」
トーヤの言葉にウメは微笑んだ。
「きっとお喜びになられます」
「それから、これはお前に」
小箱を受け取ったウメに、トーヤは油紙を差し出す。
「これは?」
ウメが不思議そうに油紙を眺めていると、トーヤはぎこちない手つきでそれを彼女の手に押しつけた。
「ついでに作ってみたんだ。習作だが、うまく出来たと思う。もらってやってくれ」
油紙の中身は櫛だった。梅の花の細工が愛らしい小ぶりの櫛だ。
檜の香りが漂うその櫛を見て、ウメはトーヤを見上げた。
「わたしに、ですか?」
「ああ。良かったら使ってやってくれ。次はもっとうまく作るから」
そう言い残すと、トーヤはくるりと背を向けて宮殿に戻っていった。
「トーヤ兄様はウメ姉様のことが好きなのよ」
そう言うと、ツバキは嬉しそうに笑った。
「そんなことはありません」
ウメが必死に否定しても、ツバキは聞く耳を持たない。雪を降らせていた夢のことなどすっかりと忘れて、今はウメが手にする檜の櫛にすっかり夢中だった。
「絶対にそうよ。だって、その櫛の方がずっと想いが籠もっていそうだもの」
「そんなことはありません」
繰り返し否定したが、ツバキに送られた箱の中身を見て動揺した。
そこに入っていたのは、漆で仕上げられた紅玉の玉簪だった。簡素な品だったが、赤と黒の色の対比が美しい一品だ。それに比べて、椿油をつけただけの檜の櫛は随分見劣りする。だが、そこに施された細工を見ればどちらの方が手が込んでいるかは一目瞭然だった。
梅の細工が施された櫛を懐に隠しながら首を振っているが、ウメの顔は真っ赤に染まっていた。
「きっと、ウメ姉様に贈り物をするための口実よ」
クスクスと笑うツバキを見て、ウメは小さくため息をついた。
「その呼び方は、おやめくださいと申したはずです」
「イヤです。ツバキにとってウメ姉様は姉のような存在です。トーヤ兄様と夫婦になれば本当に姉様になるのだし、今から練習をしないと」
「なにを言っているのですか!」
ツバキの言葉にウメは耳まで真っ赤になった。
「そんなことは絶対にありません!」
叫ぶように言うと、はしゃいでいたツバキは一転して肩を落とした。
「そうよね。ウメ姉様はお役目だから仕方無くそばにいてくれるだけなのに」
落胆した声に、ウメはハッとしてツバキを顧みた。
「わかっているの。叶わないということは。でも、これはツバキの夢なの」
ツバキは知っているのだ。もう長くは生きられないということを。
わかっているのだ。もう廻りの塔から出ることが出来ないということを。
諦めているのだ。だからこそ、叶わぬ夢に浸る。
ツバキの言葉に、ウメの心は痛んだ。
ウメは、ツバキとトーヤと三人で暮らすことを考えたことがないわけではなかった。
けれどそれはただの想像であり、夢だ。
廻りの司であるツバキと一介の侍女でしかないウメが、家族になることなど到底無理な話だった。
「お役目でなくとも、わたしはずっとツバキ様のおそばにおりますよ」
ウメは今にも泣き出しそうなツバキの肩にそっと触れた。
そっと視線を上げるツバキの顔は疲れ切っていた。
長く続く冬のせいだろう。
目は落ちくぼみ、頬は痩せこけている。生気のない青白い肌は、先が長くないことを知らせている。
廻りの塔に命を削られる者の定めだ。
ウメは整えたばかりの寝台にツバキを伴った。
ツバキは体を横たえると、ほっとしたように表情を和らげた。
本当は体を起こしていることさえ辛いのだ。
「さあ、おそばにおりますから、少しおやすみください」
うなずくツバキの寝顔を眺める。
せめて穏やかな夢をみて欲しいと願った。
冬はもう一年近く続いている。
* * *
天が季節の廻りを失ってから長い年月が経っていた。
廻りの力を失った世界を、灼熱の太陽が焼き尽くした。
人々が力尽きようとしたとき、地上に一本の樹が生えた。
その樹は青々とした葉をつけ、焼かれた大地に潤いをもたらした。
世界を覆う樹の根元に彼の者がいた。
人々が待ち続けていた者。
それは疲弊した世界を救う救世主だった。
その者は、太陽に焼かれる運命にあった人々に一つの廻りの結界を与えた。
それは、かつて天の恵みであったはずの四つの季節。
四つの季節は四人の少女がその命を削ることで、廻っていく。
樹の幹を芯柱として建てられた塔に閉じ込められて。
そして四人の少女の慈愛の心が世界に均衡をもたらした。
人々は消えていった少女たちを忘れぬようにと、天に輝く星々にその名前をつけて敬った。
しかし、長く続く安寧の時はいつしか人々から慈しみの心を薄れさせていく。
星の名も、今では知る者はわずかだった。