プロローグ
これは、春の司が生まれるまでの物語。
「ソウビ様に出会った日のことを今でも思い出すの」
その話をすると、必ずウメは悲しそうな微笑みを浮かべた。
* * *
それは木枯らしの吹く晩秋の出来事だった。
石畳を踏む裸の足が冷たさにピリピリと痛んで、ウメは思わず道ばたにうずくまった。
夕暮れの街を点消方が走り回り次々とガス灯を点していく。家路を急ぐ人々が忙しなく往来するのをじっと見つめて、ウメは泣き出しそうになっていた。父の姿を探してじっと目を凝らせば凝らせるほど、言いようもない虚しさに襲われて、胸の奥がジクジクと傷む。溢れそうになる涙を必死で堪えた。
もうすぐ冬がやってくるというのに、ウメには帰る家がなかったのだ。
たった一人の家族であった父親は、突然の病に倒れ亡くなってしまった。
帰る場所もなく、行くあてもなく、気がつけばウメは浮浪児になっていた。
五つになったばかりの幼子にとって、これから廻ってくる季節をたった一人で乗り越えるのは困難だ。
それを、ウメも幼心にわかっていた。わかっていたからこそ、ウメは在るはずの無い父親の姿を探していたのかもしれない。
「おとうさん」
たまらずに囁いた言葉とともに、ウメの瞳から涙がこぼれる。汚れた頬に筋をつけながら、それはぽたりと石畳に落ちた。
闇に沈んでいく街の片隅で、ウメは膝を抱えて泣いた。
誰にもかえりみられることなく、ここで一人死んでいくのだろうか。そうすれば、またお父さんと会えるかもしれない。
そんなことを考えながら、ふと空を見上げた。
吹きすさぶ木枯らしのおかげで、空には雲ひとつ無かった。真っ暗な空には無数の星がちりばめられている。
ウメは抱えていた膝を投げ出して石畳に寝そべった。手も足もかじかんでうまく動かすことは出来なかったが、不思議と寒くはなかった。
ざわめいていたはずの雑踏が次第に遠のいていく。
泣きはらした重いまぶたを閉じようとしたとき、柔らかな声が空から降ってきた。
「ねえ、あなた。冬は好きかしら?」
まるで歌っているかのようななめらかな声に、ウメはそっと目を開ける。
そこには白い毛皮の外套を羽織った少女がいた。
豊かな赤毛がガス灯の鈍い明かりの中で輝いている。
天使が降りてきたのだと、ウメは思った。
「てんしさま?」
消え入りそうな声で問いかけると、少女はクスリと笑って首を振った。
「いいえ。光栄ですが、違います」
そう言うと、少女は外套を脱いでウメの体に着せつけた。肌ざわりのよい上質な毛皮は、冷え切った体を優しく温めていく。
突然の出来事に驚いて、ウメは慌てて外套を押しやろうとした。だが、汚れた自分の手に気付いて萎縮するように呟く。
「よごれちゃうよ」
「良いのです。わたしよりも、あなたにこそ必要です」
少女は汚れてしまうのも構わずに、ウメの体を抱き上げると近くに停めていた馬車に連れて行った。
「あなたさえ良ければ、わたしのお友達になってはくれないかしら」
上品に整えられた車内で、少女は手を差し出した。ウメが遠慮がちにその手を取ると彼女は嬉しそうに微笑んだ。
その少女は「ソウビ」と名乗った。
冬の司となるべく、遠い街から王都へやって来たのだ。
国王から与えられた高額の支度金のほとんどを貧しい家族に残し、両親が誂えてくれた上等な着物だけを着て、身ひとつで召し上げられてきた。
「ひとりで大丈夫だと強がったけれど、本当は心細くて怖かったの」
後にソウビは語った。
だから、わたしを拾ってくれたのだろう。
どんな理由であれ、ウメにとってソウビは恩人だった。
死にゆく定めにあった自分に居場所を与えてくれた恩人だ。
だからこそ、ウメはその命を冬の司に捧げようと決意していた。
* * *
見事な薔薇が咲き誇る霊廟をウメはじっと見つめた。
穏やかで、けれどどこか悲しげなソウビの微笑みが頭から離れない。
彼女はいつも、なにかを諦めていたのだ。
廻る塔に命を削られながらも、いつも故郷を想っていた。二度と帰ることは叶わないというのに。
最後に会ったときも、ソウビは変わらずに微笑んでいた。
「次の主の良いお友達になってあげてね」
ウメは、その言葉に涙をのんでうなずくことしか出来なかった。
口を開いてしまえば、世界の守り主へ恨み言を吐いてしまいそうだったから。
送り出された旅先でソウビの訃報を受け取ったのは、冬が終わって間もなくのことだった。
ウメの心を映し出すように粉雪が舞う。
献花台に積もった雪を払いのけ、そっと椿の花束を置いた。
「ソウビ様。勝手な願いだと言うことはわかっております。ですが、どうかツバキ様をお守りください」
ウメの頬に一筋の涙が流れた。