1章第3話 現実
走馬灯のように駆け巡った記憶は長いようで短い、そんなものだった。転移直前の記憶ぐらいしか出てこないなんて、俺の人生にどれだけ劇的が無かったのかと笑ってしまった。
死を運ぶ足音は着実に近づいてくる。だが、近づいて来ていたのは死を運ぶ足音だけではなかった。
人が走り込んで来るような足音も近づいて来ていた。というか、人であって欲しいと思う。そうでなければ俺は死ぬのだから。一縷の望みにかけることにした。
『誰かが助けてくれる』という可能性に。
腹の痛みと戦闘の疲労で、薄っすらとしか目を開けられない今の俺に見えるのは、こちらに向かってくる魔物だけだった。しかし、その魔物と俺のと間に何者かが入り込んで来るのが見えた。
来たのが人であったと安堵している間にその人は、突進してくる魔物を見据えて待ち構えていた。言葉そのままに待ち、そして構えていた。
足音から、魔物が跳んだのがわかった。その人は動き始める。否、既に動き終わっていた。跳んでぶつかった筈の魔物は二つに分かれて、その人と俺の横を跳んだ勢いそのままに飛んでいった。視界がはっきりしなくてよくはわからなかったが、恐らくその人が一瞬で斬り伏せたらしい。
だとしたら……速い……速すぎる!
いくら俺が目があまり見えていない状態とはいえ斬ったところ、いや、『斬る動作』が見えなかった。動いた、ということしかわからなかった。しかも動いたのは、ほんの一歩前に片足を動かしたのと魔物を斬ったであろう血の付いた剣が上に振り抜かれていたことだけ。
斬ったという出来事があった。という現象の終わりがわかるのが精一杯の速さだった。
「ふぅ……君、大丈夫? には……見えないね。『癒せ、ヒール』」
発せられた声からその人は男であることがわかった。そして男が唱えた呪文の様なもののせいか、その言葉が聞こえたと同時に俺の身体が、言いようのない心地良さに包まれる。あの魔物の突進をモロに食らって折れたはずの骨が治っていた。霞んでいた視界も見えるようになってきた。
「とりあえずはこれで大丈夫だと思うよ」
「ありがとう。助かったよ」
「ありがとう」と、金髪碧眼の彼に言う。
「それにしても無茶なことするな〜、下手したら死んでたよ? 君」
彼は笑いながらも重い口調でそう言った。
俺は苦笑いしか出来なかった。確かにそうだ。あれがもしウサギの様な魔物ではなく、例えばイノシシの様な魔物だったとしたら確実に死んでいた。ウサギの様なあの魔物が相手でも、彼が来なければ俺は死んでいたのだろう。
彼と俺は年齢が近そうなのに、彼は今までどれ程の修羅場をくぐり抜けてきたのだろう。そう思わせるほどの鋭い雰囲気が彼にはあった。
『兵士一人でも十分』それで俺は何故いけると思った? ただの一般人に何が出来る。一匹倒すのがやっとではないか。それも自己犠牲を伴って。自信過剰、これからは気をつけなくては命がいくつあっても足りない。それでも、今回は例外だ。今回は俺が動かなければ誰も動けなかったのだから。そう自分に言い聞かせて納得する事にした。
そして気づく。農作業をしている時点で何故気付かなかったのだろうか。俺の身体能力はこちらに来ても上がっていない事に。そして特殊な能力も持ち合わせていない事に。
俺は気づいた。
自分は『勇者』ではないのだと。
「あっそういえばまだ名乗ってなかったね。僕の名前はリオン。近くの村から王都に向かう途中だったんだ」
彼は名乗った。そして俺は本当に運が良かったようだ。もし彼がここを通っていなかったら……考えるだけでゾッとする。
「俺は虎居 蓮都だ。そこの村に居たんだけどさっきの魔物が出て来て、誰も応戦出来る状態じゃなかったから仕方なく……あっそういえば他の四体は?」
「えっ? ああ、僕が倒しておいたよ。そうか……君も災難だね」
やはりそうか、リオンの強さならあれくらい、物の数ではないだろう。
「それじゃあ、僕はそろそろ行くよ。今度は気をつけてね」
「ああ、すまない。次からは気をつけるよ」
その次がないことを願って。俺はリオンと別れた。
別れた後少しだけ、倒された魔物を見た。ゲームのように光になって消えるわけではないようで、普通の動物が無残にも斬られたようにしか見えなかった。そのグロテスクな光景に耐え切れず、俺は足早にその場を去った。
おばさんの家に着くと、ちょうどおばさんも村の駐屯所から帰って来ていたところだった。
「おおっ! 大丈夫だったかい? こっちは、やっぱりダメだったよ……どうしよう……」
「ああ、そのことならもう大丈夫ですよ。たまたま通り掛かった、リオンとかいう人が助けてくれました」
おばさんにはこれ以上心配を掛けまいと、自分がかなりの怪我をしたことは黙っておいた。治癒魔法の様なもので治療してもらったとはいえ、まだ少し痛みはあったが、隠せる程度のものなのでバレることはないだろう。
「今、リオンって言ったかい?」
ん? その名前に聞き覚えがあるのだろうか。
「ええ言いましたけど。近くの村から王都へ行く途中だったって言ってました」
「やっぱりそうかい。そのリオンって人はたぶん、今噂の勇者様だよ」
『勇者』と、おばさんは言った。どうりであれ程の強さを持っていた訳だ。いくら雑魚が相手だったとはいえ、速さが違う。下手をすれば、あの速さは人体に出せる動きの限界を超えている。そして俺があの一体と戦っている間に既に四体倒していたにもかかわらず、息切れひとつしていなかった。
そしてやはり、『勇者』は別に居たのだった。
「そういえばあんた、まだ村長に会ったことなかったね。もしかしたらここに住む事になるかもしれないんだから、あんな事があった後で慌ただしいようだけれど、一度挨拶しておくといいよ。私も一緒に行くから」
村があるのだからその長はいる。この村から出るにしても知識が足りなさ過ぎた。まあ別に、ここから出たいという訳でもないのだが、おばさんにずっと迷惑を掛ける訳にもいくまい。だが、どちらにしろもう少しは確実に居ることになるんだから挨拶くらいしておかなければ。
「わかりました。よろしくお願いします!」
村長の家は、おばさんの家から案外近い場所にあった為、着くのにそれほど時間はかからなかった。とはいえ、この村は隣の家に行くにも少し距離があり、徒歩で約三分ほど掛かるのである。カップラーメンが美味く出来上がるまでのあいだ歩き続けると隣の家に着く、と考えるのがわかりやすいだろうか。
おばさんが村長の家の扉を叩いた。
「そんちょ〜こんにちは、パレッタです!」
「おお〜パレッタさん。こんにちは」
扉が開いておじいさんが出てきた。少し白髪の目立つ、恐らく五十代後半くらいの歳ではないだろうか。どうやらこのおじいさんが、この村の村長のようだ。
「いらっしゃい。ん? そこの彼は?」
「あっ、俺は虎居蓮都といいます」
名前を名乗ったら一瞬、村長の顔が驚きの表情に変わった。何か気になることでもあったのだろうか……。だが、表情はすぐに戻った。
「まあ、立ち話もなんだ。ささっ中に入って」
そして俺とパレッタおばさん(そういえばおばさんの名前、初めて聞いたな)は村長の家にお邪魔した。
「あっそうだ、パレッタさんに頼みたい事があったんだった。明後日、街にいる彼女を馬車で迎えに行ってやってはくれんかね。ワシにはもう、馬車の操縦は難しくてね」
「ええ、構いませんよ」
たしか朝、街に行っている強い姉ちゃんがいる、とか言ってたな。その人の迎えが明後日ということか。
「それで、訪ねた理由なんですが、彼を紹介しておこうと思いまして。彼、記憶喪失だそうなんですよ。今はうちで預かっているんですが……」
「ほう……記憶喪失か……彼と少し、今後について話がしたい。話が長くなりそうなので、パレッタさんは先に帰っててもらえますかな?」
村長はキツめの口調でパレッタおばさんに、先に帰るよう促した。警戒されているのは明確だった。
「……わかりました。じゃあレント、私は先に帰ってるから。村長、よろしくお願いします」
そう言ってパレッタおばさんは帰っていった。
いくらか沈黙が続いた後、村長が口を開いた。
「唐突な話で悪いのだが、君はもしかして異世界から来た、とかではないだろうね」
「なっ!?」
「図星か……」
先ほどの、俺に対する警戒はパレッタおばさんを帰して、この話をする為だったのかもしれない。そりゃそうだ。いきなりこんな話をされてもパレッタおばさんからしてみれば訳のわからない話でしかない。無駄に混乱させるよりはいいだろう。それよりも何故、村長はその事を知っている?
「実はワシも昔、別の世界から来てね。最初は夢かとも思ったりしたよ。でも目は覚めなかった。夢じゃなかった。それに気づいた時は混乱したよ。それでも、こちらに来て何もわからないワシを助けてくれた人が居てね。そのお陰でどうにか今まで生きてこれたんだ。君と同じように」
なんということだ。自分以外にも転移者がいたというのか! それもずっと前に飛ばされた転移者が!
「それでもワシは元の世界に帰る方法を探していた。だが、見つかることはなかった」
「それって……」
「ああそうだ。元の世界に帰る術はない。」
自分は今まで、元の世界に帰るということを考えてはいなかった。自分が望んでこちらの世界に来たのだから。でも、よく考えてみろ。それはもう二度と自分の家族とは会えないということではないのか? もう二度といつも通っていたあの学校の友達には会えないということではないのか?
そして、村長からトドメの一言が言い渡される。
「こちらに来てしまった以上、もう二度とあちらの世界には戻れない」
こちらに来て、夢ではないと何度も強く体感したというのに、心のどこかでこれは夢で、すぐに目が醒めると思っていた自分がいた事に苛立ちを覚える。あれ程までに安易な考えでこちらに来てしまった自分が憎らしく思える。何故あんなにも簡単に俺は……考えたらキリがない。後悔が溢れ出す。軽く捨て去るには、全てが重過ぎた。
「今すぐに受け入れろとは言わない。でも、そのうち受け入れなくてはならなくなる。慰め、というわけでもないんだが、世界を見て回ってはどうだ? この世界は広い。ワシが見落としていたのかもしれん。もしかしたら戻る方法はあるのかもしれん」
今は何も考えられそうになかった。二度と元の世界には戻れない。その事実が受け止められずにいた。
「おっと、もうこんな時間か。そろそろパレッタさんのところへ帰った方がいいぞ。彼女が心配する」
そうだった……帰りたい場所には帰れなくても……帰れる場所ならある。これ以上、パレッタおばさんに心配はかけられない。あの人は待ってくれている。素性のわからない俺を迎え入れてくれた人だ。
帰ろう……あの家へ…………
その帰り際、『出来ることなら、もっと若い頃に会いたかった……』と言った村長のその言葉の真意はわからなかった。
外は既に、日が沈みかけていた。夕陽が綺麗だ、なんて言う余裕は、今の俺には無い。
重い足を引きずる様に、パレッタおばさんの家に帰った。
彼女は夕飯を作ってくれていたが、あまり喉を通らなかった。食事を早めに切り上げて、与えてもらっていた部屋に戻る。おばさんは何かを察したらしく、何も聞いてはこなかった。本当に有難いと思う。部屋に戻った俺はその日、枕を濡らす。次の日もまた。その間何をしたかは、あまり覚えていない。ただ感じたのはパレッタおばさんの優しさだけだった。
そして二日後の朝が来た。