1章第1話 痛み
目を覚ますとそこは木々に囲まれた森、ではなかった。背中にあるものは土の感触ではなくちゃんとした布の感触だった。
ならば、ここは何処だ。まさかさっきのは全て夢だったとでもいうのか? あのサイトには何か強烈な催眠作用が施されていて、急に眠くなったが近くにある自分のベッドに倒れこんで眠った。そしてさっき感じた草木の匂いや微かに見えた木々の様な緑色、空の様な水色は全て夢の中で見たものだったのだろうか……。
と、そこまで考えたところで朦朧としていた意識が完全に覚醒した。瞑っていた目を開ける。目に入ってきたのは茶色い天井だった。
知らない。
身体を起こして、あれが全て夢であったならば本来俺の部屋でなければならない場所を見渡してみた。壁は一面茶色で埋め尽くされていた。木造。現代でも見るには見るが、貼られた壁紙によって色の変えられていること多いそれは、木目やらが目立つ木本来が持つ素材そのままだった。現代で見るにはそれこそ、それらを売りにするペンションなどの特殊な物件や山間の集落にあるような築100年近い家などでしか見る事の出来ない、少なくとも俺の町では見たことのない代物だった。
そして更に、壁に取り付けられた燭台(ロウソクは立っていたが、火は灯っていなかった)。木製のテーブルに置いてある、火の灯ったランプなど日常生活ではまず見ない物があった。窓(形状は自分の知っているそれらと同じ様な物だった)の外に目をやる。今日は曇っているのか、薄暗くて外の様子はよくわからなかった。夜であるようで、ランプの明かりしかないこの部屋も薄暗く、歩いて回るには心許ない明るさだった。
部屋の外から、誰かが階段を上がって来る様な音が聞こえてきた。
この部屋の扉が押し開けられる。そこから現れたのは、何かが入っているであろう食器を持った、自分とは面識の無いおばさんだった。
「あら? 目が覚めたみたいだねぇ。夕飯、ここに置いておくよ」
そう言っておばさんはテーブルの上にあったランプを端に寄せて、持っていた食器を俺の前に乗せた。
「あっ、ありがとうございます」
お礼を言うとともに食器の中身を確認した。湯気の漂う温かくて美味しそうなスープだった。
おばさんは食器を置いた後、壁の燭台に立っているロウソクに火を灯していた。俺が寝ていたからあえて薄暗くしてくれていたのだとわかった。
「夕飯は食べられるかどうかわからなかったからスープにしておいたよ。それで、あんた名前は?」
「は、はぁ……えっと名前は、虎居 蓮都といいます」
我ながら、ぎこちない名乗りだった。
「この場合、レントって呼べばいいのかい? たまにいるのさ。普通と名前と苗字が逆の人がね」
「あ、はい。レントで大丈夫です」
今更ではあるが、日本語で会話ができている。何かそういうモノがあるのか?
「じゃあレント、あんた森で倒れてたけど何処から来たんだい? ああ、先に夕飯食べてからでいいよ、冷めちまう」
「ああっはい、いただきます」
出してもらったスープを啜った。心まで温かくなるような、そんな美味しいスープだった。
「それで……何処から来たのか、ということなんですが……実は自分の名前以外ほとんど覚えていないんです」
まさか異世界から来たとは言えまい。そこで俺は、自分は記憶喪失であるということにした。
「記憶喪失かい……、そりゃあまた大変だねぇ……」
森で倒れていた俺をここまで連れてきてくれて温かい夕飯まで出してくれたこのおばさんを騙しているということに良心が痛んだ。
「まあ、無いものはしょうがない。とりあえず今日はしっかり休んでおきなさい。」
そう言っておばさんは扉を開けて出て行こうとしたが、俺が呼び止めた。
「あっ、あの!」
「ん? なんだい?」
おばさんが立ち止まって振り向く。
「その……色々とありがとうございました……」
これだけは言っておかないといけないといけない気がした。たどたどしくなってしまったが、どうにか言うことが出来た。
「うんっ、どういたしまして」
おばさんは微笑んだ後、扉を開けて出て行った。
そして俺も何故か疲れが溜まっていたようで、おばさんが部屋から出て行った後、ベッドに倒れ込むようにして再び深い眠りについた。
翌朝、俺はおばさんの声で目が覚めた。
「おーい、レント〜朝だ、さぁ起きとくれ。」
「んぁ……? ああ、おはよう……ござい……ます……」
「寝ぼけてないで起きとくれ、寝かせてやりたいのは山々なんだが村に若いもんが少なくてね、人手不足なんだよ」
人手不足? 何のことだ? まだ頭がハッキリしない。
「農家の朝は早いんだ。手伝っておくれよ」
ああ、そういうことか。向こうの世界で何度か農家の手伝いをしたことがあるから、俺にも手伝えそうだった。昨日助けてくれた恩を返しておかなければ。
そう思い、頷いた後ベッドから立っておばさんについて外に出た。
日はまだ昇っていないようで、薄明かりの中での作業だった。
「あんた、畑仕事はした事あるかい? ああそういえば記憶喪失だったね」
「いっいえ、畑仕事はした事あるような気がするのでたぶん大丈夫です」
記憶喪失であると貫く。
「そうかい。じゃあ、このクワ持ってそっち耕してくれないかい? 最近腰が悪くてなかなか捗らなくてね〜」
「大丈夫ですか? 俺に出来ることなら何でもするので、言ってくださいね」
このおばさんに嘘をつき続けているせめてもの罪滅ぼしだと思い、小さな誓いを立てた。何故俺がここまで嘘を嫌うのかというと、別に誰かにつかれた嘘がトラウマになっているとかじゃない。ただ、嘘をついた時のあの罪悪感が嫌いなだけだ。俺自身、何故罪悪感をここまで嫌っているのかはわからないが、とにかく大嫌いなのだ。
まあいい、とりあえず今は頼まれた事をこなそう。頼まれた畑をどんどん耕してゆく。そうこうしているうちに日が昇り始めた。日の出前のうっすらとした明かりしかなくてあまりわからなかった景色が、朝日によって照らし出される。
昨日の夜、部屋の窓から見た外は暗くてよく見えなかった。そしてさっき家から出た時にも見たは見たのだが、特に何も思うことのない、ただのだだっ広い平原としてしか認識していなかった。が、今はそれが朝日を浴びて草についた朝露がキラキラと輝いていた。更に風が吹く事によって草が波のようになびいて、より一層神秘さを増していた。
ここの土地は少し高台にあるようで、それがよく見える。
「綺麗だ……」
思わず感嘆の声が漏れる。
風でなびく草の中に、動く影が6つあった。よく目を凝らして見るとそれはウサギの様な動物だった。
「あれはなんですか?」
興味本位で聞いてみた。
「ん? なんだい?」
おばさんが振り向く。
「……なっ!? あれは魔物だよ!! ヤツらは畑を食い荒らすんだ!」
魔物!? そんなものまでいるのか。しかも害獣の類いだそうだ。その内の一体がこちらに近づいて来ているのがわかった。
「早く村の駐屯所に知らせて兵士さんに来てもらわないとっ! あっでもたしか今は別の場所で発生した魔物の退治で忙しそうだったし、いつもは村にいるあの強い姉ちゃんも今は街に行ってていないし、ああっ! もう! どうしたらいいんだい」
「あのっ! おばさん落ち着いて聞いてください。あの魔物ってどれくらい強いんですか?」
「えっ? えっと、たしか兵士さんだと1人でも十分相手の出来る魔物だったはずだけど……でも私らみたいな普通の人間には手に負えないよ……」
兵士一人でも十分……なら、もしかしたら俺にもいけるかもしれない。誰も動けないなら俺がおばさんの畑を守らないと。そんな責任感から生まれた、謎の自信に突き動かされる。
「おばさん、家に護身用の剣とかってありますか?」
「あっああ、あるにあるけどどうする気だい? まさか…」
そのまさかだ。
「ええ、俺がやります。だから武器を貸してください」
「そんなっ危ないよ!」
心配してくれているのはわかっている。でも今動けるのは俺しかいない。
「危ないのは重々承知です」
「わかった。でも気をつけておくれよ……。私は念のため駐屯所に行ってみるから……」
そう言っておばさんは剣を取り出してきた。
片手剣。ゲームなんかの序盤に出てきそうな、簡単な装飾のみ施された普通サイズの剣だった。勿論、本物を見るのは初めてだ。
置かれた剣を手に取ってみる。重い。金属の塊そのものであるのだからそれは重くて当たり前なのだろうが、剣の雰囲気そのものが、重いと表現出来そうなものだった。単に俺が一般人で、慣れていないせいだろう。人すら簡単に殺す事の出来るこの刃物は、俺にとっては重かった。それでも事は一刻を争う。
「行ってきます」
俺はそれだけ言って、剣を持って外に出た。
ウサギの様な魔物はもうすぐそこまで来ていた。俺は剣を振りかざして、その魔物に突進する。その魔物もスピードを上げてこちらへ突っ込んできた。
「うわっ! あっぶねぇ……」
魔物の突進に恐れをなして早々に避けたのが正解だった。まともに食らえばひとたまりもない。魔物はUターンしてこちらへ向かってくる。突っ込んでくるタイミングに合わせてどうにか剣を振ってみたが、今度は避けられる。剣を扱い慣れてないせいで振りが遅い。がむしゃらに剣を振るも、全て避けられた。
「クッソ! これじゃ埒があかない!」
剣を振る速度も徐々に落ちてくる。さっきまで使っていたクワとは比べ物にならないくらい疲労が激しい。コツさえつかめばただ真っ直ぐ振り下ろしていればいいクワとは違い、剣は、言い方は悪いが振り回さなければならない。これ以上長く続くとこちらがやられそうだった。
なら、一か八かやるしかない。次の魔物の突進でキメるしか、俺に勝ち目はなさそうだった。
「さぁっ! 来いっ!!」
魔物が速度を上げて突進してくる。魔物は俺の目の前で跳躍して腹目掛けて飛んできた。
「うらぁぁ!!!」
俺は魔物にどうにか剣を突き立てる事に成功する。自分の腹に突進してくるのを見越して、剣を両手で持ち、タイミングに合わせて地面に縫い付ける様に突き立てたのだった。俺の腹に鈍い痛みが走り、身体は宙を舞う。二メートルほど飛ばされたところで地面に転がった。一か八かは俺の勝ちの様だった。
「キュゥ……」
そんな鳴き声を最後に魔物は絶命した。
「ははっ、やったぜ……魔物一匹にここまで苦戦するとは思わなかったが……元帰宅部でも案外動こうと思えばいけるもんだな……」
少し落ち着いてきた頃に腹に強烈な痛みを感じた。
「うっ……!」
どうやら、先程もろに受けた突進で骨や内臓をやられたかもしれない。口の中が血で溢れる。痛みに慣れていない俺はこの痛みだけで意識が飛びそうだった。ましてやまともに動けるはずもない。
「キュイ!」
その鳴き声を聞いて、今更思い出した。
“魔物は一匹ではない”
魔物との戦闘中に何度か聞いた、突進してくる足音が聞こえた。こんな状態であれをもう一度食らえば、おそらく俺は
《死ぬ》
「ああ……俺はここで死ぬのか……あれだけ意気込んできたのにこのザマか……」
自分が調子に乗って魔物退治だの言い出さなければ、こうはならなかったかもしれない。
だが、あそこで言い出さなければ今度は、あの優しいおばさんに被害が及んでいるところだった。だから、後悔はしていない。
でもやっぱり、死ぬのは怖かった。
その思考の合間にも、死の恐怖の根源はドンドン近づいて来ていた。
そして走る痛みの中で、記憶が走馬灯のように駆け巡った。