365本のバラを
玄関には、彼とお揃いのスニーカーが並んでいる。まだ、彼は一度も履いていない。私の靴は少し汚れが目立ってきた。そろそろ洗わないと。
私は靴を履き、鏡を見た。髪を整え、バッグから取り出した香水を手首にふり、首元につける。ウッドの香りが顔周りに漂う。
私は深呼吸をして鏡に向かい、「いってきます」と言って家を出た。
空は快晴で、飛行機雲が横切っていた。飛行機雲が消えなかったら、次の日は雨だと聞いたことがある。
雨、か。雨が降るのを想像すると、呼吸が浅くなる。青い空を見上げて、大丈夫、と言い聞かせる。
十分ほど歩き、フラワーショップの前についた。可愛い花たちがお店の前に飾られている。私はそれを少し眺め、お店の中に入った。色んな花の香りが私の鼻をくすぐった。さっきつけた香水の香りなんてどこかへ行ってしまったみたいだ。
「いらっしゃいませ」と女性の店主が店の奥から顔を出した。
「こんにちは」
「あら、また来てくれたんですね」
「はい。今日はバラを三本ほしいんですけど」
「三本? 珍しいですね。いつも小さな花束を買ってくださってましたよね?」
「あ、はい。今日は特別な日なんです」
「特別な日……バラ三本の花言葉って……」
私は人差し指を口に当てた。
「恥ずかしいので」
「あ、ごめんなさいね。彼氏さんにあげるんですか?」
そう言いながら、店主がバラを取り出す。
「旦那にです。付き合った記念日に……」
「わぁ素敵ですね」と言って、店主が茎をカットした。
「いえいえ、そんな」
「女性からバラを贈るって珍しいかも」
「ですよね。でも、ウチはいつも私からなんです。告白もプロポーズも」
「えー! そうなんですか。なんか良いですね」
店主が微笑みながら、包装紙でバラを包んでいる。
「旦那は、奥手なんです」
「奥手なんですか。じゃあ奥様が引っ張ってあげなきゃ。はい、できました」
包装紙に包まれた三本のバラを受け取った。
「ありがとうございます。本当は三六五本にしようか迷ったんですけどね……」
「えっ?」
「いえ。忘れてください。ありがとうございました」
私はお店を出て、バラの匂いを嗅いだ。思わず口元が緩む。
彼の喜ぶ顔は想像できるけれど、彼は喜ばない。
*
バスに乗り込み、彼の元へ向かう。
赤信号でバスが止まると、お腹に響くようなドコドコドコという音が聞こえ、隣の車線を見た。
ハーレーみたいなバイクが止まっていた。
彼もこんなバイクに乗っていた。デートの時は後ろに乗せてもらって、振動と音が体に響いて、走り出したら怖くて彼に必死にしがみついた。内心、車のほうが絶対にいい、と思っていた。今この瞬間も思っている。
信号が青になり、横のバイクはドコドコドコと音を鳴らして走り去っていく。私はそれを見えなくなるまで目で追った。
目的地のバス停についた。
バスを降り、白い建物の中に入る。奥にあるエレベーターに乗り、5のボタンを押した。
五階で降り、508号室へ向かった。部屋の前につき、ドアをノックする。
「先週来れなくてごめんね〜」
彼がベッドの上で寝ている。
「先週熱出ちゃって、お義母さんに連絡したら家でゆっくり休んでって言われたの。お義母さんが来たでしょ? ていうか久しぶりだから私のこと忘れてないよね?」
彼の顔の横にバラを置く。
「忘れるわけないか。ねぇ、バラの香りする? 今日はねバラを三本買ってきたんだぁ。花言葉は起きてから教えてあげる。あ、それとあと今日好きな香水つけてきたよ」
彼の鼻に手首を近づける。
「ウッドの香りが好きって言ってたからさぁ。新しいの買ってみた。良い匂いでしょ?」
穏やかな顔で寝ている彼の頬を撫でる。骨ばってきた頬をしばらく見つめた。
*
入籍した日にお揃いのスニーカーを買った。
「僕は何でも良いよ」と言う彼に私は、「君が選んだ靴を買う」と言った。
彼が選んだスニーカーは、赤いラインが入った靴だった。いつもは黒や青系統の靴を選ぶのに。
「何でこれ選んだの?」と私が訊くと、彼は鼻を触りながら、「教えない」と言った。
次の日彼は、「買い物ついでに、バイクでちょっと走ってくる」と言った。
「靴履かないの?」と訊くと、「今日雨降るかもしれないし、まだ汚したくないから」と言って履かなかった。
「雨降る前に帰ってきてね」と言ったけれど、帰って来なかった。
「事故に遭いました」と警察から連絡があった。——
「ねぇ、私の靴少し汚れてきたのに、君の靴はピッカピカだよ。早く履こうよ。まぁいいけどね。私ピッカピカに洗うから」
窓を開けた。心地良い風がカーテンを揺らしながら入ってくる。
「気持ちいいね。マッサージと手足動かそうか」
彼の手足のマッサージと、手足の曲げ伸ばしをする。力のない手足は、かなり重い。額に汗が滲む。
「起きた時に動けるようにしなきゃね」
ふとため息をつく。目の奥からじわじわと込み上げてきそうになり、天井を見上げた。
目が乾くのを待って、彼に視線を戻す。彼は眠っている。
「そろそろ終わろうか」
私は椅子に座り、彼の手を握った。
「私ね、同僚の男性に二人で飲みに行かないか誘われるの」
本当は同僚の女性だけれど。
「旦那がいるからって断ってるんだけどね、もうすぐしたら告白されるかも」
こんな嘘を言っても起きるわけないのに。
彼の掌に私の頬をつけた。
「ねぇ、三六五本のバラの花言葉知ってる? 知りたい? 教えないけどね。起きないと三六五本のバラ送りつけてやるからね。君の体の周りを全部バラにしてやるんだから」
彼の手が私の頬をぎゅっと掴んだ気がした。
彼の手を両手で包んだ。
「え? ねぇ。聞こえてるの? 三六五本のバラ送りつけていいの?」
彼が私の手を握った。




