表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

365本のバラを

作者: 七瀬乃
掲載日:2026/05/23

 玄関には、彼とお揃いのスニーカーが並んでいる。まだ、彼は一度も履いていない。私の靴は少し汚れが目立ってきた。そろそろ洗わないと。

 私は靴を履き、鏡を見た。髪を整え、バッグから取り出した香水を手首にふり、首元につける。ウッドの香りが顔周りに漂う。

 私は深呼吸をして鏡に向かい、「いってきます」と言って家を出た。


 空は快晴で、飛行機雲が横切っていた。飛行機雲が消えなかったら、次の日は雨だと聞いたことがある。

 雨、か。雨が降るのを想像すると、呼吸が浅くなる。青い空を見上げて、大丈夫、と言い聞かせる。


 十分ほど歩き、フラワーショップの前についた。可愛い花たちがお店の前に飾られている。私はそれを少し眺め、お店の中に入った。色んな花の香りが私の鼻をくすぐった。さっきつけた香水の香りなんてどこかへ行ってしまったみたいだ。


「いらっしゃいませ」と女性の店主が店の奥から顔を出した。


「こんにちは」


「あら、また来てくれたんですね」


「はい。今日はバラを三本ほしいんですけど」


「三本? 珍しいですね。いつも小さな花束を買ってくださってましたよね?」


「あ、はい。今日は特別な日なんです」


「特別な日……バラ三本の花言葉って……」


 私は人差し指を口に当てた。


「恥ずかしいので」


「あ、ごめんなさいね。彼氏さんにあげるんですか?」

 そう言いながら、店主がバラを取り出す。


「旦那にです。付き合った記念日に……」


「わぁ素敵ですね」と言って、店主が茎をカットした。


「いえいえ、そんな」


「女性からバラを贈るって珍しいかも」


「ですよね。でも、ウチはいつも私からなんです。告白もプロポーズも」


「えー! そうなんですか。なんか良いですね」

 店主が微笑みながら、包装紙でバラを包んでいる。


「旦那は、奥手なんです」


「奥手なんですか。じゃあ奥様が引っ張ってあげなきゃ。はい、できました」


 包装紙に包まれた三本のバラを受け取った。


「ありがとうございます。本当は三六五本にしようか迷ったんですけどね……」

 

「えっ?」


「いえ。忘れてください。ありがとうございました」


 私はお店を出て、バラの匂いを嗅いだ。思わず口元が緩む。

 

 彼の喜ぶ顔は想像できるけれど、彼は喜ばない。



 バスに乗り込み、彼の元へ向かう。

 赤信号でバスが止まると、お腹に響くようなドコドコドコという音が聞こえ、隣の車線を見た。

ハーレーみたいなバイクが止まっていた。

 彼もこんなバイクに乗っていた。デートの時は後ろに乗せてもらって、振動と音が体に響いて、走り出したら怖くて彼に必死にしがみついた。内心、車のほうが絶対にいい、と思っていた。今この瞬間も思っている。

 信号が青になり、横のバイクはドコドコドコと音を鳴らして走り去っていく。私はそれを見えなくなるまで目で追った。


 目的地のバス停についた。

 バスを降り、白い建物の中に入る。奥にあるエレベーターに乗り、5のボタンを押した。

 五階で降り、508号室へ向かった。部屋の前につき、ドアをノックする。


「先週来れなくてごめんね〜」


 彼がベッドの上で寝ている。


「先週熱出ちゃって、お義母さんに連絡したら家でゆっくり休んでって言われたの。お義母さんが来たでしょ? ていうか久しぶりだから私のこと忘れてないよね?」


 彼の顔の横にバラを置く。


「忘れるわけないか。ねぇ、バラの香りする? 今日はねバラを三本買ってきたんだぁ。花言葉は起きてから教えてあげる。あ、それとあと今日好きな香水つけてきたよ」

 

 彼の鼻に手首を近づける。


「ウッドの香りが好きって言ってたからさぁ。新しいの買ってみた。良い匂いでしょ?」


 穏やかな顔で寝ている彼の頬を撫でる。骨ばってきた頬をしばらく見つめた。



 入籍した日にお揃いのスニーカーを買った。

「僕は何でも良いよ」と言う彼に私は、「君が選んだ靴を買う」と言った。

 彼が選んだスニーカーは、赤いラインが入った靴だった。いつもは黒や青系統の靴を選ぶのに。

「何でこれ選んだの?」と私が訊くと、彼は鼻を触りながら、「教えない」と言った。

 

 次の日彼は、「買い物ついでに、バイクでちょっと走ってくる」と言った。

「靴履かないの?」と訊くと、「今日雨降るかもしれないし、まだ汚したくないから」と言って履かなかった。

「雨降る前に帰ってきてね」と言ったけれど、帰って来なかった。


「事故に遭いました」と警察から連絡があった。——



「ねぇ、私の靴少し汚れてきたのに、君の靴はピッカピカだよ。早く履こうよ。まぁいいけどね。私ピッカピカに洗うから」

 

 窓を開けた。心地良い風がカーテンを揺らしながら入ってくる。


「気持ちいいね。マッサージと手足動かそうか」


 彼の手足のマッサージと、手足の曲げ伸ばしをする。力のない手足は、かなり重い。額に汗が滲む。


「起きた時に動けるようにしなきゃね」

 

 ふとため息をつく。目の奥からじわじわと込み上げてきそうになり、天井を見上げた。

 目が乾くのを待って、彼に視線を戻す。彼は眠っている。


「そろそろ終わろうか」

 

 私は椅子に座り、彼の手を握った。


「私ね、同僚の男性に二人で飲みに行かないか誘われるの」

 

 本当は同僚の女性だけれど。


「旦那がいるからって断ってるんだけどね、もうすぐしたら告白されるかも」


 こんな嘘を言っても起きるわけないのに。

 

 彼の掌に私の頬をつけた。


「ねぇ、三六五本のバラの花言葉知ってる? 知りたい? 教えないけどね。起きないと三六五本のバラ送りつけてやるからね。君の体の周りを全部バラにしてやるんだから」


 彼の手が私の頬をぎゅっと掴んだ気がした。

 彼の手を両手で包んだ。


「え? ねぇ。聞こえてるの? 三六五本のバラ送りつけていいの?」


 彼が私の手を握った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ