89 名前のない記憶
夜。
居酒屋の奥の席。
グラスのぶつかる音と、笑い声が重なる。
テーブルには料理が並んで、
どうでもいい話が途切れず続いている。
その流れの中で――
「昔さ」
友人がふと口にする。
「高校のとき、誰かとよく一緒にいたよな」
箸を持つ手が、ほんの一瞬だけ止まる。
「……ああ」
短く返す。
記憶は、すぐそこまで来ている。
放課後の道。
並んで歩く影。
何気ない会話。
「誰だっけ」
軽い調子で、友人が続ける。
「……」
出てこない。
名前が、喉の奥で引っかかる。
言おうとすれば、言える気がする。
少しだけ思い出せば、届く距離にある。
でも――
思い出す前に、
意識が、そっと逸れる。
グラスに触れる指先。
氷の溶ける音。
誰かの笑い声。
現実が、静かに割り込んでくる。
「忘れた」
口に出す。
自然に。
違和感のない声で。
「えー、マジかよ」
友人は笑って、すぐ別の話に移る。
そのまま、会話は流れていく。
何事もなかったみたいに。
(……)
グラスを傾ける。
冷たい液体が、喉を通る。
さっきまで確かにあったはずの“誰か”は、
もう、形を持っていない。
思い出せないんじゃない。
思い出さない。
名前を呼べば、
全部がはっきりしてしまう気がするから。
だから、
そこだけ、空白のままにしておく。
笑い声の中で、
その空白だけが、
静かに残り続けていた。




