43 名前の呼び方
帰り道。
夕方の空はやわらかく色づいていて、街灯がぽつぽつと灯り始める時間。
人通りはまばらで、二人の足音だけが静かに響く。
いつもの距離。
でも、どこか少しだけ落ち着かない空気。
「ねえユウタ」
凛が、少しだけ楽しそうに言う。
「なに」
「私のこと、下の名前で呼んでよ」
「は?」
一瞬、理解が追いつかない。
「凛って」
さらっと言う。
簡単なことみたいに。
「……無理」
反射的に拒否する。
「なんで」
「なんか恥ずい」
正直に言う。
自分でも分かるくらい、妙に意識してる。
「じゃあ練習」
「いらん」
即答。
でも凛は引かない。
むしろ少しだけ距離を詰める。
「ほら」
視線がこっちに向く。
逃げられない。
心臓が、少しだけうるさくなる。
「……」
名前を呼ぶだけ。
それだけなのに、
やけにハードルが高い。
今までずっと「お前」とか「相沢」で済ませてきた距離。
それを一歩越える感じがして。
「……り、凛」
やっと出す。
少しだけ噛みながら。
声も、少しだけ小さい。
言った瞬間、顔が熱くなるのが分かる。
凛が一瞬だけ止まる。
それから――
「うん」
小さく頷く。
嬉しそうに。
本当に、少しだけ。
でもはっきり分かるくらい。
その反応に、余計に意識する。
「もう一回」
すぐに続けてくる。
「やだ」
即拒否。
「なんで」
「もういいだろ」
「よくない」
食い下がる。
楽しんでる顔。
完全に。
「……呼ばせたいだけだろ」
「そうだよ?」
悪びれもなく言う。
思わずため息が出る。
でも――
嫌じゃない。
むしろ、少しだけ心地いい。
風が吹いて、凛の髪が揺れる。
その横顔が、さっき呼んだ名前と結びつく。
“凛”。
たったそれだけで、
今までと少しだけ違って見える。
距離が、一歩近づいたみたいに。
「……」
言葉は続かない。
でも沈黙は重くない。
凛が、さっきより少しだけ近くを歩く。
さっき呼ばれた名前を、大事にするみたいに。
その距離と、
その呼び方が――
これから少しずつ、効いてくることを
まだちゃんと分かっていなかった。




