6話。
「ふふ、びっくりしたでしょ」
呆然と立ち尽くすリティシアを見て、悪戯が成功した子どものように悪魔がくすくすと笑う。
繋がれていた手を振りほどくと、悪魔はほんの少し眉を下げ、それでも楽しげに笑みを浮かべたままだった。
「こうやって、隠れてたの」
その言葉につられるように視線を移す。
そこには、白く塗られた小さな家――いや、大きめの小屋と呼ぶ方が正しい建物が佇んでいた。先ほどまでの芝生の景色とは切り離されたように、ひっそりと存在している。
悪魔が扉に手をかけ、くるりと振り返ってリティシアへ手を差し出す。
「どうぞ?」
「……お邪魔します」
差し出された手は取らず、そのまま扉へ向かう。
扉をくぐると、室内は思ったよりもこぢんまりとしていた。壁際に置かれたベッド、小さなテーブルと椅子が一脚、そして簡易的なキッチン。火の落ちたコンロの上には、まだわずかに湯気を残すヤカンが乗っている。
生活の気配が、静かに満ちていた。
床には救急箱が開いたまま転がり、包帯や薬瓶が散らばっている。先ほどの手当てのときにひっくり返したのだろう。
そこへ向けたリティシアの視線に気づいたのか、悪魔が慌てた様子でそれらをかき集める。
「何も無いでしょ」
「うん」
質素なのは確かだ。
けれど、殺風景というわけでもない。
椅子を引き「どうぞ」と促され、リティシアは素直に腰を下ろす。座った位置から改めて部屋を見渡すと、あちこちに小さな手作りの装飾が飾られているのが分かった。棚の端や窓辺、壁際の小さな釘に掛けられた飾り――どれも繊細で、丁寧な作りだ。
テーブルの上には、花をリボンとレースで包んだような小さな小物が置かれていた。白を基調に、ナイルブルーを差し色にしたそれは、どこか目の前の悪魔を思わせる。
無意識のうちに、しげしげと眺めていたらしい。
悪魔は咎めるでもなく、ただ少し擽ったそうに笑っている。
その様子に、リティシアは思う。
――なるほど。
ここは、悪魔の住処だ。
隠れ家でありながら、確かに“生活”がある場所。
それを知ったことの方が、先ほどの異界の揺らぎよりも、妙に印象に残った。
◇◇◇
ふと、穏やかな空気の中で忘れていた時間を思い返す。
随分と長居してしまった。戻らないと――そう思う。
けれど次の瞬間、胸の奥から嫌悪が湧き上がった。
ころころと表情を変える悪魔の存在に、ほんの一時、意識を逸らされていただけだ。数刻前の出来事を思い出した途端、リティシアの顔は歪む。
痛みに呻いた自分を見下ろしていた天使たち。
どこか嬉しそうだった、あの目。
正しさを掲げ、リティシアを“悪”と断じ排除したのは天界だ。
それなのに、抵抗もできない者を痛ぶり、愉悦を滲ませる感情は悪ではないのか。
巡る思考に言葉はない。
気づけば、すっかり小さくなってしまった羽根を引き寄せていた。胸元で、ぎゅっと握り締める。
「こら」
低く、柔らかな声。
力のこもったその手を、手袋越しの温かな手が包み込んだ。
はっと顔を上げると、悪魔が困ったように笑っている。
「……リティシアのそれ、癖なんだね」
絡めるように指を差し入れ、羽根からそっと手を離させる。
「でも、今はやめといた方がいいかも……」
もう片方の手が、握り締めた圧で血の滲んだ羽根を撫でた。責めるでもなく、ただ確かめるように。
そして。
「……帰りたくない?」
覗き込む声は、どこまでも静かだった。怖がらせまいとするような調子で、絡めた指先が手の甲をゆっくりと撫でる。
その一言が、胸の奥に沈めていたものへ、迷いなく触れた。
手袋越しのごわついた感触に、リティシアは視線を落とす。
「……悪魔め」
吐き捨てる。
そうだ。悪魔なのだ。
隠していた“帰りたくない”という欲を、ためらいもなく見抜き、形にしようとする。
救うためでも、慰めるためでもない。
そこに在る欲を、ただ掬い上げる。
触れられたくなかった場所へ、何の躊躇もなく手を伸ばし、沈めた本音を引きずり出す。
目の前の悪魔が、あまりにも穏やかに笑っているせいで忘れかけていた。
けれど彼女は、確かに悪魔だった。
帰りたくない、などと。
口にするつもりのなかった言葉が、喉元までせり上がる。
泣きそうになるのを堪え、無理やり表情を動かして睨みつける。
悪魔はその視線を受け止め、ほんの少しだけ寂しそうに笑った。
「悪魔だからね」
そして呟く。軽く、冗談のように。
やがてベッドから毛布を取り、自らの肩に羽織ると、そのまま静かに距離を詰める。
優しく、包み込むように。
けれどその腕は、どこか確信めいていた。




