5話。
「でも、リティシアだったなら、隠れなくても良かったかも」
ふふ、と楽しそうに目を細める悪魔に、リティシアは小さく息を吐いた。
ーーほんの少しだけ胸に引っかかるものがある。
けれど、それが何なのかまでは考えない。
気のせいだと切り捨てて、リティシアはお茶と菓子に意識を戻した。
視線を感じる。
顔を上げると、悪魔がこちらを見ていた。
ただそれだけなのに、妙に落ち着かない。
「……何」
「何もないよ?」
含みのない声。
けれど楽しそうで、余計に居心地が悪い。
リティシアは視線を逸らし、残っていたお茶を一気に飲み干した。
空になったカップをトレーに戻す。
「まだ飲む?」
立ち上がりかける悪魔。
ちゃんとこちらの様子を見ているらしい。
「要らない。お腹チャポチャポな、る……」
言った瞬間、しまったと顔を歪めた。
焦りと、ほんのわずかな油断。
昔の口調が零れてしまった。
語尾をごまかすように咳払いをする。
ーー今のは忘れて欲しい。
「と、というか! さっきからどこに行ってんの」
リティシアは恥ずかしさを誤魔化す様に、少し強めの声で話題を変える。
悪魔はくすりと笑った。
「家だよ。小屋の方が近いかもだけど……来る?」
一瞬だけ、考える。
誘われたこと自体には特別な意味は感じない。
ただ、純粋に。
悪魔の住処とはどんなものなのか。
それが気になった。
「…行ってもいいの」
「もちろん! あ、でもちょっと汚いかも」
片付け苦手で、と苦笑する悪魔。
ーーやっぱり。
目の前の悪魔の様子に、妙に納得した。
胸の奥に残っている小さな違和感は、
たぶんまだ名前のない感情だ。
けれど今は、それよりも。
「……見てみたい」
興味の方が、勝っていた。
◇◇◇
悪魔の言う家へ向かうことになった二人は、わずかに一歩ずれた距離のまま歩き出した。庭園のパーゴラドームの脇を抜け、丁寧に整えられた薔薇のアーチや低木の並ぶ小道を進んでいく。
手入れの行き届いた枝葉が陽を受けてやわらかく揺れ、踏みしめる砂利がかすかに音を立てた。
「ここやったの、お前?」
明らかに人の手が入っている木々を見上げながら、リティシアは前を歩く背中へ問いを投げる。
振り返った悪魔は、リティシアを視界に収めると緩く首を振った。
「お花はそうだけど、木は手付けてないよ」
そう言って視線を落とし、青々とした低木の葉先を指で撫でる。その仕草はどこか愛おしげで、触れられた葉がさらりと音を立てた。
「元は、神の所有物だったからなのかな……。最初からある、この木たちはずっとこのまま、ここに在る」
独り言のような声音だった。
問いを重ねるよりも早く、さあ行こ、と悪魔は前を向く。リティシアは一瞬だけ言葉を飲み込み、その背を追った。
小道を抜けた先に広がっていたのは、花畑というよりも芝生だった。ところどころに名も知らぬ草花が咲いてはいるが、視界の大半を占めるのは一面の緑。やわらかな草が風に波打ち、空の光を静かに照り返している。
だが、肝心の家や小屋らしきものはどこにも見当たらない。
「……」
問いただそうと口を開きかけた、そのとき。
悪魔が何もない空間へと手を伸ばす。指先が触れた瞬間、目の前の景色が水面のように揺らぎ、透明な波紋が幾重にも広がった。歪んだ空気が光を反射し、芝生も空も、その境界ごとゆらりと曲がる。
リティシアは無意識に喉を鳴らす。
――これは。
やがて、トプン、と液体に小石を落としたような音が響き、悪魔の指先が“そこ”へ沈んでいく。波紋は内側へと引き込まれ、見えない水面が確かに存在しているのだと示していた。
「ようこそ、リティシア」
いつの間にか手袋を着けた悪魔が振り返り、そのままリティシアの手を掴む。拒む間もなく引き寄せられ、揺れる景色の縁に足を踏み入れる瞬間、悪戯っぽく笑うその顔が視界いっぱいに映った。
そのとき、リティシアははっきりと理解する。
目の前にいるのは、少女の姿をしていても――
紛れもなく、悪魔なのだと。




