4話。
しばらく続いた静けさを、先に崩したのは悪魔だった。
「…自分の名前、嫌いなんだよね」
「ふぅん」
えへへ、と困ったように笑う悪魔。
リティシアは特に深く追及しなかった。どうせ、今だけの関係だと思っていたから。
目の前の茶菓子に手を伸ばす。
白く艶のある陶器の皿に並べられた、不格好な焼き菓子。
慣れない手作りであることは一目で分かる。それでもリティシアは、ためらいなく一つ摘まみ、口に放り込んだ。
「あっ……だ、大丈夫そう?」
狼狽えた声。
あれほど警戒していたリティシアが、形も整っていない菓子を口にしたのだから無理もない。
そんなことを考えているのだろう、とリティシアは察した。
「別に。……不味くはないし」
「ほんと!? よかった〜」
素直な言葉に、悪魔はぱっと頬を染め、嬉しそうに笑った。
「……誰かに食べてもらえるなんて、ないと思ってた」
リティシアが菓子を頬張る様子を眺め、悪魔は目を細める。
やがて視線を庭園の花々へ移し、吹き抜ける風に溶かすように独り言を零した。
空腹だったリティシアは、菓子に夢中で、その呟きには気づかない。
「……そういえば、お前は何でここに?」
頬張った菓子を茶で流し込みながら、途中だった話を思い出す。
ここは天界でも魔界でもないーーそう言ったのは悪魔だ。
リティシアはまだ半信半疑だった。自分も、そして目の前の悪魔も、どうやってこの場所に辿り着いたのか。
考え込んでいると、悪魔があっさり言った。
「忘れちゃった」
「は?」
あれほど知っているような口ぶりだったのに。
呆けるリティシアに、悪魔は困ったように笑う。
「ここには、ずっと昔からいるんだぁ……色々あって辿り着いた時から。
……だから、忘れちゃった」
途中、一瞬だけ影が差したのをリティシアは見逃さなかった。けれど、悪魔がそれ以上語らないのなら、追及はしない。
「忘れた」という言葉に、嘘はないように思えた。
そしてふと、自分も思い出せないことに気づく。
ーーここに辿り着いた最初の記憶が、ない。
それよりも引っかかったのは、別の言葉。
「ずっと……?」
リティシアは顔を上げる。
「ここに、住んでる?」
「うん」
きょとん、と首を傾げる悪魔に、リティシアは目を見開いた。
自分だけの秘密の場所だと、どこかで思っていた。
少しだけ優越感すら抱いていたことが、急に恥ずかしくなる。
だが、すぐに別の疑問が浮かぶ。
自分は何度も、決まった時間にここへ来ていた。
それなのに、誰かの気配を感じたことなど一度もない。
「ーー私のこと、知っていた?」
考えがそのまま口から零れ落ちる。
悪魔は目を見開き、ぶんぶんと首を振った。
「な、何かがいるのは分かってたよ! でも……敵かもしれないって思って。だから、影から出ないようにしてて……
ほぼ毎日、同じ時間に来てたのがリティシア……?」
「……うん。確認とか、しなかったの?」
悪魔は、取れそうなほど何度も頷く。
「で、できないよ! ……僕、攻撃は下手くそだし……こ、怖かったし」
語尾が小さくなる。
その様子に、リティシアは小さく息を吐いた。
ーー怖かった?
その理由が恐怖だったのだと知って、胸の奥で何かが揺れる。
思っていたよりも、ずっと臆病で、ずっと不器用な存在なのかもしれない。
硬くしていた頬の力が、知らぬ間にわずかに抜けていた。




