3話。
「はぁぁ……疲れた」
パーゴラドームの床に、深い溜息を零しながら、天使は伏せるように寝転んだ。
その身体のあちこちには、包帯が巻かれている。
あの後、悪魔は手袋を嵌め、恐る恐る手当てを始めた。
だが、傷を見るたびに泣き出したのだ。
とくに、指先。
何も知らなかった悪魔が負わせてしまった傷。
赤く爛れたそれを目にした瞬間、悪魔は堪えきれず泣きじゃくった。
その様子に、最後まで残っていた警戒は、音もなくほどけていった。
悪魔は手当てを終えると、「ちょっと待ってて」と言い残し、どこかへ行ってしまった。
手当ての最中――宥めて、説明して、また宥めて。
天使は振り回された時間を思い出し、盛大に溜息を吐く。
ひとりになった、いつも通りの庭園。
心地よい風に身を委ねる。
揺れた芝生が頬をくすぐっても、気に留めないまま目を閉じた。
◇◇◇
「……寝ちゃった?」
様子を窺うような、小さな声。
天使は顔を動かさず、目だけを開ける。
視線が合った瞬間、悪魔は嬉しそうに頬を緩めた。
「起きてる」
「良かった。お茶、飲まない?」
悪魔が掲げたトレーには、白い陶器のティーポットとカップ。それから、丁寧に盛りつけられた、不格好な焼き菓子。
「飲む」
そう言う代わりに、天使はゆっくりと起き上がり、その場に脚を崩して座った。
嬉しそうな悪魔がティーポットを手に取り、カップに中身を注ぐ。辺りには、お茶の芳ばしい香りが広がった。
「これはね、人間から昔教えてもらったんだぁ」
カップを手に持ち、揺れる水面を見つめながら、悪魔はぽつりと呟く。
天使もそれに倣うようにカップを手に取った。
熱いお茶を冷まそうと、天使は水面に口を寄せて息を吹きかける。
その横で、悪魔は慣れた様子で綺麗に一口飲んだ。
「……そういえば、君の名前は? 天使ってどんな名前がつくの?」
思い出したように問いかける悪魔。
まだお茶が熱くて飲めず、少し苛立っていた天使は、ぶっきらぼうに答える。
「名前はある。リティシア」
名を聞いた途端、悪魔は目を輝かせた。
「リティシア……」
噛み締めるように何度か呟く。
「すっごく綺麗な名前……! 天使みたい!」
「天使だからね」
悪魔はぱっと顔を上げ、両手を組み合わせて羨望するように喜んだ。
悪魔なのに、天使に憧れる素振りを隠さない彼女に、天使は違和感を覚え、怪訝な表情を浮かべる。
「……お前の名前は?」
聞かれたから聞き返した。ただ、それだけだ。
興味があったわけではない。礼儀として返しただけ。
しかし悪魔は、一瞬目を見開いたかと思うと、すぐに伏せ、唇を固く結んだ。
顔には焦燥と絶望が浮かんでいる。聞いてはいけないことを問うてしまったと思わせるには、十分な反応だった。
「言いたくないなら、いい」
ーー聞いたくせに答えないなんて。
少しむっとしながら、ようやく冷めてきたお茶を口に含む。
悪魔は気まずそうにトレーの上のカップの取っ手を弄び、「ごめんね」と消え入りそうな声で呟いた。
天使の耳にも届いていたが、あえて反応はしなかった。
二人の間に、言葉にならないものだけが静かに横たわった。




