過疎配信者とひきこもり富豪
帝光学園シリーズの短編です。
お金持ち学校という設定だけ似ているので、ほかは読まなくても大丈夫です。
帝光学園。
国内有数のお金持ちの学校で、学校にいる人間の総数は数万人規模になる。
幼稚舎から大学までの施設をもち、病院から製薬会社、商社、金融、観光、娯楽まで系列会社は多岐にわたる。
国内を支配するといってもいいこの学園は、一部の人間によって支配されていると言っても過言ではない。
学園を組織し、施設に莫大な費用を投資している人間には、特別に『プレジール』という組織に入ることが許される。
そのプレジールの中で、幼稚舎から在籍し大きな勢力のトップに君臨する者たちが数名いる。
男のトップは行く末、企業のトップや総理大臣候補。女のトップも同様であろう。
しかし、大学となれば違う。日本最大の大きな私立大学であり様々な人を受け入れ、様々な人の学び場になっている。
******
30歳になった今でも、彩華は朝が少し苦手だった。
眠れない夜が続いたわけでも、体調が悪いわけでもない。
ただ、起きて向かう先がないだけだ。
カーテン越しの光が、いつも同じ角度で部屋を照らす。
マンションの七階。駅から少し離れた静かな場所で、隣人の生活音もほとんど聞こえない。冷蔵庫のモーター音と、エアコンの送風音だけが、この部屋に人が住んでいる証拠だった。
(今日も、一日がはじまる、のか)
生活に困っているわけではない。
父がエンジニアだったため、彩華は小さいころから自然とプログラミングに触れて育った。学生時代には特許を取り、今では最低限の管理だけで収益を生み続けている。
さらに母は金融のプロで、稼いだお金をどう増やし、どう守るかを教えてくれた。
結果として、彩華は30歳にして、働かなくても生きていけるだけの資産を持っていた。
父も母も、帝光学園の出身だ。
子どもの頃から、帝光という名前は家の会話に当たり前のように出てきた。良い学校で、広い世界につながっている場所。そんなふうに語られていた。
それでも、彩華はそこには行かなかった。
眩しすぎる両親には、不釣り合いな自分。
溺愛され、大切にされてきた自覚はある。それでも、自分にそれほどの能力があるとは思えなかった。
両親は海外出張も多く、若いうちから一人で生活する力だけは身についた。
だから、高校を卒業するとすぐに一人暮らしを始めた。
今では、たまに連絡を取り合う程度だ。
深い関わりは、持たないままでいる。
窓の外を走るバスの行き先表示が、ふと目に入る。
帝光大学行き。
家から歩いて通える距離なのに、彩華にとっては、ずっと遠い行き先だった。
彩華は、帝光ではなく、別の女子校を選んだ。
理由は、はっきり覚えていない。ただ、その選択が、取り返しのつかない形で自分をつまずかせたことだけは、身体が覚えている。
学生時代のことは、思い出そうとしなければ思い出さない。
思い出した瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
自信のなさは、女子高では格好の標的になった。
名門校であることと、居心地の良さは、必ずしも一致しない。
彩華は逆らうことも、誰かに相談することもできず、ただ一人で耐えた。
どうにか高校を卒業することはできたが、それきり外の世界に出ることができなくなってしまった。
思い出せばつらくなる。
現実もつらい。
だから、考えないことに慣れてしまった。
買い物は基本的に宅配だ。
食材も日用品も、ボタンひとつで玄関まで届く。対面で誰かと話す必要はない。外に出なくても、生活は完結する。
ずっと、彩華はそういう暮らしを選び続けてきた。
日中はゲームをして過ごす。
育成系が好きだ。数字が積み上がり、努力が可視化される世界は裏切らない。ゲームの中では友人も多く、ボイスチャットで笑い合うこともある。
(誰も私の顔を知らない。
私も、誰の顔も知らない)
それで十分だと思っていた。
夜になると、部屋はさらに静かになる。
モニターの光だけが、彩華の存在を照らす。
今日一日、何をしたかと聞かれたら、答えに詰まるだろう。
何もしていない。でも、何も困っていない。
生きている。
ただ、それだけ。
このままでもいい。
このままなら、傷つかない。
そう思いながら、いつものようにゲームにログインし、フレンドリストを眺めていた。そのとき、チャット欄に流れてきた一文が、目に留まった。
「最近さ、ヤバい配信あるんだけど」
ゲーム友達の言葉だった。
彼女はネット事情に詳しく、ときどき面白そうな話を持ち込んでくる。
最近は、大人向けのASMRにハマっているらしい。
ヘッドフォン越しに甘い声で囁かれる、シチュエーションドラマのようなものだという。
彩華は、普段ならその話に乗ることはなかった。
それなのに、この日はなぜか気になってしまった。
何気ない一言だった。
そのときの彩華は、まだ知らなかった。
このあと、
笑ってしまうほど不器用な世界に、足を踏み入れることになるなんて。
****
「ヤバい」と言われて、彩華が想像したのは、だいたい察しのつくものだった。
案の定、甘いシチュエーションボイスが流れ、言葉にしづらいそれやこれやが囁かれている。コメント欄には女性たちの黄色い声が絶え間なく並び、画面には二次元のイケメンが映し出されていた。
AIで描かれたものもあれば、絵師が担当しているらしいものもある。声優が配信している枠も多く、全体的にクオリティは高い。
なるほど。
これにハマる人が多いのも、分からなくはなかった。
だから、そこまで興味はなかった。
ゲームの合間、気まぐれにリンクを踏んだ。
深夜の配信サイト。サムネイルはやけに簡素で、文字の配置も微妙にずれている。再生数は二桁にすら届いていなかった。
配信者名は「るいるい」。
軽すぎる名前だな、と思ったのが最初の感想だった。
それが、すぐに訂正されることになる。
あ、これは閉じよう。
そう思った瞬間、画面が切り替わり、ヘッドホン越しに妙に近い声が流れ込んできた。
吐息。
囁き。
いかにも、それらしい音。
——ASMR。しかも、かなり攻めたやつ。
反射的に閉じようとして、マウスを動かした。そのとき、配信者の声が一瞬、裏返った。
「……あ、ごめんなさい。今、ちょっと噛みました」
間。
気まずい沈黙。
画面の向こうで、るいるいが必死に立て直そうとしているのが、声だけで伝わってくる。台本をめくる音、小さな咳払い。
正直に言えば、上手ではなかった。
演出も、間の取り方も、全体の構成も、どれも拙い。コアなネタをやっている自覚はあるのに、どう見せればいいのかが、まるで分かっていない。
それなのに。
「……えっと、聞いてくれてる人、いる……よね?」
不安そうな声に、思わず吹き出しそうになった。
過疎、という言葉が、これほど似合う空間もない。
コメント欄は静まり返っていて、時折、同じ名前のアイコンが短い応援コメントを落とすだけだった。
るいるいは、泣きそうな声で、それでも企画を続けていた。
やめない。
逃げない。
明らかに向いていないのに、必死に「それっぽいこと」をやろうとしている。
気づいたときには、彩華は腹を抱えて笑っていた。
いやらしさよりも、必死さの方が勝ってしまったのだ。
頑張り方が不器用すぎて、どうしようもなく、おかしい。
こんな世界もあるんだな、と、どこか他人事のように思った。
その夜は、結局、最後まで配信を見た。
特別な感想を残すこともなく、静かにブラウザを閉じただけだった。
次の日も、また覗いた。
理由は特にない。ただ、なんとなく。
配信は相変わらず過疎で、相変わらず拙くて、相変わらず必死だった。
それでも、不思議と嫌じゃなかった。
数人の常連が顔を出すようになり、るいるいはそれだけで何度も頭を下げる。
「そんなのいいよ」
「るいるい、なんか放っておけんw」
「また泣いてるwww」
慰めとも茶化しともつかないコメントが並ぶ。
もっと攻めた内容に果敢にチャレンジするのだが、途中でハードルの高さに耐えきれず、泣いてしまうことも多かった。
「だから言ったのにwww」
「自分でハードル上げて自爆するるいるい、かわいそうw」
「いいんだよ、これが、るいるいなんだよ」
その空気が、彩華にとっても、少しだけ心地よかった。
気づけば彩華は、常連の一人になっていた。
コメントをするわけでも、目立つわけでもない。ただ、そこにいる。
安全な距離を保ったまま、誰かの不器用な挑戦を見守る。
そんな夜が、彩華の日常に、静かに組み込まれていった。
***
変化は、ある日、唐突にやってきた。
配信の終わり際、いつものように小さく息を吐いたあと、るいるいはぽつりと言った。
「……正直、もうちょっと、どうにかならないかなって」
弱音というより、疲労に近い声だった。
笑わせようとも、同情を引こうともしていない。行き詰まった人間の、正直な本音。
その日の配信後、ファン向けの限定枠が立った。
資金が足りないこと。
機材が買えないこと。
時間がないこと。
そして最後に、思いついたように告げられたのが、新しいファンプランだった。
月額一万円。
一番高いプラン。
数字を見て、彩華は少しだけ考えた。
生活に支障はない。
失って困る金額でもない。
だから、感情を挟まず、淡々と加入した。
ほどなくして、個別メッセージが届いた。
「ありがとうございます……!えっと、特典の件なんですけど……」
そこには、個別チャットや、個別ASMRの案内が並んでいた。
文字を追っているうちに、胸の奥がわずかにざわつく。
彩華は、短く返した。
「個別は、通話だけで大丈夫です。ASMRも、少し刺激が強すぎるので」
送信してから、少しだけ間が空いた。
返事は、思ったよりも早かった。
「通話だけで、いいんですか?……ありがとうございます」
その文面は、ほっとしているようにも見えた。
初めての通話は、拍子抜けするほど普通だった。
挨拶をして、最近の配信の反省を少し話す。
いつも配信に来てくれることへの感謝を、丁寧な言葉で伝えられた。
とても謙虚で、真面目な青年だった。
るいるいは、二十七歳。
家庭環境には恵まれず、子どもの頃から弟たちの世話をしていたという。経済的な理由もあって高校は途中で辞め、今は製造業で働いている。
生活は回っているが、それ以上の余裕はない。
変わりたくて、副業にもいくつも手を出したが、ことごとく失敗したらしい。
「向いてないことばっかり、選んじゃうんですよね」
自嘲気味の笑い声が、妙に引っかかった。
ASMRも、恋愛経験がないまま始めたものだった。
誰かに教わったわけでもなく、妄想と手探りだけで形にしている。
だから過激な内容へと、どんどんシフトしていった。
結果として、自分で自分を追い込み、それでも視聴者は思うように増えなかった。
彩華は、聞く側に徹した。
何と声をかければいいのか、まだ距離感を測りかねていた。
通話が終わる頃、彼が少し迷ったように言った。
「……あの、名前って、どう呼べばいいですか」
一瞬、言葉に詰まる。
ファンネームで呼ぶには近すぎて、何も呼ばないには不自然な距離。
彩華は、ほんの一拍だけ迷った。
フルネームを名乗るほど、踏み込む気はない。
でも、何も渡さないのも、違う気がした。
「……いろは、です」
そう言った自分の声が、少しだけ遠くに聞こえた。
「いろはさん、ですね」
るいるいは確認するように一度だけそう言って、それ以上、その名前を使わなかった。
その距離感が、ちょうどよかった。
月に一度の通話は、いつしか習慣になった。
特別な話はしない。進展もしない。ただ、声を交わすだけ。
やがて、るいるいは配信の数字を見て、落ち込むようになった。
伸びない理由が分からない。努力しているつもりなのに、結果が出ない。
彩華は、少しだけ口を挟んだ。
構成のこと。
見せ方のこと。
サムネイルのこと。
「誰に向けてやっているのか」を、言葉にすること。
専門家ぶったつもりはなかった。
ただ、聞かれたから答えただけだ。
それでも、配信は少しずつ変わっていった。
間が整い、言葉が整理され、視聴者が増え始める。
「最近、来てくれる人、増えたんです」
その報告を聞いたとき、彩華は、なぜか自分のことのように嬉しかった。
るいるいの声は、前よりも安定していた。
泣き言は減り、笑う回数が増えた。
それでも、月に一度の通話は変わらない。
彩華にとって、特定の誰かと時間を取るのは久しぶりだった。
空虚な気持ちが、その一瞬だけ満たされるような感覚。
この行動に意味はないと分かっているのに、止めることはできなかった。
るいるいの孤独の形が、少しだけ、自分に似ている。
彩華は、そう思っていた。
***
変化は、音を立てずに進んでいた。
配信の視聴者数は、いつの間にか安定して二桁を超え、三桁に届く日も出てきた。
コメント欄には、見覚えのない名前が増え、配信の終わりには必ず感謝の言葉が並ぶ。
声も、間も、以前とは別物だった。
あの頃の、必死に噛みしめるような話し方は影を潜め、落ち着いたテンポで言葉を選ぶようになっている。
それを見ながら、彩華は胸の奥で、静かに区切りをつけた。
——もう、大丈夫だ。
最上位プランは続けていたが、コメントは控えめにした。
通話でも、こちらから踏み込むことはない。
(単なる応援したい気持ちだったのだから。深入りしすぎたかもしれない)
けれど、月に一度の通話で、彼は少しだけ違う言葉を選んだ。
「……月に一回じゃなくて、もう少し話せたら、って思うんですけど」
冗談めかした言い方だったが、声はわずかに緊張していた。
「えっと、たくさんアドバイスばかりもらって。俺からは何もできてなくて。
それだから……月に一回じゃなくて、もう少し話せたら、って思うんですけど」
「いや、違う、えっと……もっと、いろはさんのこと知りたい、というか……」
彩華は、間を置いて答えた。
「いや、大丈夫だよ。これで十分だから」
理由は言わなかった。
言葉にした瞬間、境界線が曖昧になる気がした。
沈黙のあと、彼は続けた。
「じゃあ……顔、見せてもらうのは?」
彩華は、はっきりと首を振った。
「ごめんなさい」
見せない。
見られない。
それ以上、るいるいは何も言わなかった。
その沈黙は、以前の気まずさとは違っていた。
それから、配信の空気が変わった。
るいるいは、特定の誰かではなく、特定の「聞いてくれる人」に向けて囁くようになった。
——好きだよ。
——大丈夫だよ。
——君のこと、ちゃんと見てる。
その声は、切実で、少し危うくて。
かつての「可哀想さ」とは違う形で、人を惹きつけた。
配信は、一気に伸びた。
彩華は、その様子を、少し距離を置いた場所から見ていた。
安心と、ほんのわずかな痛みが、同時にあった。
そして、るいるいは過去最大の視聴者数を記録し、立派な配信者として成功した。
最後の通話は、彼が三十歳になった頃だった。
「配信、やめようと思ってます」
唐突だったが、声に迷いはなかった。
「高校中退しちゃったから、高認とって……大学に行こうと思ってて。
お金は、なんとかなります。今までのことと、教えてもらったやり方で」
るいるいの言葉は、未来を向いていた。
彩華は、ゆっくりと頷いた。
「それなら、いいと思う」
本心だった。
「……応援、してくれますか」
「もちろん」
短い沈黙のあと、彼は、少し息を吸って言った。
「ずっと好きでした。
ありがとうございました」
そして、通話は切れた。
るいるいはアカウントを消し、配信者として静かに消えていった。
通話が終わったあと、彩華の胸の奥が、静かに崩れた。
理由もなく、涙が溢れた。
初めて、自分の気持ちに気が付いた。
——わたしも、本当は好きだった。
でも、それだけだった。
顔を見せない私。
部屋から出ない私。
過去から動けなかった私。
るいるいの人生に、もう私は必要ない。
「頑張って」
気持ちを振り切るようにサイトから離れ、長く使っていたアカウントを削除した。
あれこれ三年、ほぼ毎日のように通った配信サイトだった。
ずっと、るいるいだけを見ていた。
画面が暗くなり、部屋に静けさが戻る。
彩華は、しばらくそのまま動けなかった。
それでも、不思議と後悔はなかった。
好きな気持ちは自覚した。
それで、失恋した。
それでも、るいるいとの境界線を踏み越えなかったことが、
この関係をきれいなままに保ったのだと、彩華はどこかで分かっていた。
***
るいるいとの通話が終わってから、しばらくの間、彩華は何もしなかった。
ゲームを起動しても、指が止まる。
動画を流しても、音が頭に入ってこない。
それでも、時間だけは淡々と進んでいった。
季節が変わり、窓の外の景色が、少しずつ違って見えるようになった。
ある日、ふと思った。
このまま、何も変えずに生きていくことも、できる。
るいるいは、この三年間、必死に努力をして、自分の道を進んでいった。
では、自分はどうだろう。
彼を応援しているだけで、
自分自身は、何か変わろうとしたのだろうか。
そんな思いが、頭の中を巡った。
ふと視線を上げると、窓の外にバス停が見えた。
行き先表示には、帝光大学の文字。
家から近い。
近すぎて、ずっと見ないふりをしてきた場所だった。
子どもの頃から知っている名前。
両親が当たり前のように口にしていた学園。
それでも、私自身が足を踏み入れることはなかった。
——今なら、行ける気がした。
彩華はパソコンを開き、帝光大学のホームページを眺めた。
そして、受験をしてみよう、と決めた。
帝光大学は、高等部までとは違い、幅広い人の入学を受け入れている。
海外からの留学生、経済的に恵まれない家庭への奨学金制度、年齢を問わない社会人入学。
さらに、卒業生の子どもが対象となる優遇制度もあった。
彩華は、これまで自分が積み重ねてきた実績を整理し、社会人入学の願書を提出した。
面接と書類審査を経て、合格通知が届いた。
入学式の日。
キャンパスは、思っていたよりも雑多だった。
年齢も、国籍も、服装もばらばら。
彩華も、その中の一人に自然と溶け込めた。
それが、ひどくありがたかった。
講義は、難しくて、面白かった。
生きるために必要な技術ではなく、ただ興味があるから深める学び。
その時間は、純粋に楽しかった。
社会人学生も多く、同じような職種の人と話す機会も増えた。
ある日の講義のあと、廊下ですれ違いざまに声をかけられた。
「レジュメ、落としましたよ」
低くて、落ち着いた声。
振り返ると、背の高い男性が立っていた。
地味な服装で、穏やかな表情。
年齢は、同じくらいか、少し年下に見えた。
「……ありがとうございます」
それだけのやり取りだった。
けれど、その声を聞いた瞬間、胸の奥で、かすかに何かが揺れた。
それから、自然と話すようになった。
彼の名前は、山嶋塁。
三歳年下で、今年三十一歳になるという。
同じ三十代の新入生同士というだけで、距離は縮まった。
研究分野は違ったが、塁は勉強熱心で、興味のあることをよく教えてくれた。
説明の仕方。
言葉を選ぶ間。
相手の反応を待つ姿勢。
どこか、覚えがあった。
彩華は、聞く側に回ることが多かった。
それでも、居心地は悪くなかった。
四年間は、思ったよりも早く過ぎた。
卒業後、彩華は、小さな会社を設立した。
これまで自分一人で回してきた仕事を、少しだけ広げようと思ったのだ。
そのきっかけを作ったのは、塁の存在だった。
表に出る仕事ではない。
外部との調整や対人のやり取りは、塁が引き受けてくれた。
社会人経験のある塁は、対人関係やビジネスの基本を自然に身につけていて、
それが得意ではない彩華にとって、心強い存在だった。
ある日、打ち合わせの途中で、彼が何気なく口にした一言が、耳に残った。
——通話していた頃と、同じ言い回し。
彩華は、何も言わなかった。
視線を感じたのか、塁がこちらを見る。
そして、穏やかに、幸せそうに笑った。
ずっと、分かっていた。
声だけで、ずっと前から。
恋愛として始まらなくてもいい。
今は、この感情に名前をつけなくてもいい。
今、同じ場所にいて、
声を聞き、顔を見て、同じ空気を吸っている。
同じ方向を見て、同じ速さで歩いている。
それだけで、十分だった。
****
その後――
あなたを、いつか振り向かせたい side るい
大学に入学してしばらく経った頃、不意に前を歩いていた女性が紙を落とした。
あまり見かけない顔だったし、自分の学部の人間でもなさそうだった。
声をかけると、彼女は振り返った。
とても、かわいらしい人だった。
派手なメイクをしているわけでもないのに、目を引く。
どこか純粋で、儚げで。
あとで知ったことだが、祖父母に海外の血が入っているらしい。
そして、塁が気づいたのは――声だった。
声を聞いた瞬間、もう間違えようがなかった。
何年も、月に一度、ヘッドホン越しに聞いていた声だ。
……でも、言わなかった。
言えなかった、というより、
言わない方がいいと、すぐに分かった。
時折感じる視線から、
もしかすると、彼女も分かっているのかもしれない。
たぶん、最初から。
それでも彼女は、知らないふりをしている。
そして、そのことを、俺が分かっているのも、きっと分かっている。
大学生活は、自然と一緒にいる時間が増えていった。
三十代の新入生同士というだけで、居場所が似ていた。
講義のあとに話す。
図書館で並んで座る。
特別な約束はしないのに、気づくと隣にいる。
俺は、いろいろな話をした。
学んだばかりの知識。
昔なら興味も持てなかった分野のこと。
彼女は、静かに聞いてくれた。
通話していた頃と、よく似ている。
質問の仕方。
相槌の間。
少し考えてから、「たしかに、そうだね」と言うところ。
決定的だったのは、名前だった。
「彩葉」
その名前を、彼女が誰かに呼ばれているのを聞いたとき、
胸の奥で、静かに何かが揃った。
ああ、やっぱり。
それでも、俺は言わない。
彼女も、言わない。
彼女は、人と距離を取る。
少し近づくと、無意識に一歩引く。
たぶん、人が怖いのだと思う。
深く踏み込まれることに、慣れていない。
会話の端々から、彼氏がいないことも、たぶん分かる。
言葉にしなくても、空気で伝わってくる。
だから、急がない。
名前も、過去も、答え合わせもしない。
近づくなら、ゆっくりだ。
一緒に講義を受ける。
分からないところを教える。
昼休みに並んで座る。
そうやって、少しずつ。
彼女の世界に、音を立てずに入っていきたい。
いつか、ちゃんと口説く。
それまでは、彼女のそばで自分を高めたい。
あの夜、過疎の配信枠で、
声だけを頼りに生きていた頃には、想像もしなかった未来だ。
あのときは、顔を見ることもできなかった。
一方的に助けられて、何も返せずに終わった関係だと思っていた。
でも、これからは違う。
彼女を大切にして、
できるなら、異性として向き合ってほしい。
だから――
今度は、あなたの側で、支えたい。
いつか、ちゃんと振り向かせるから。
それまで、そばにいさせてください。




