コーヒー
深夜のドライブは静寂がBGMだった。
朋子は仮眠したこともあって眠気はなかった。
幹也は後席で寝てて良いと言ったが、さすがに運転してもらっている手前上、そうもいかない。かといって、何か会話をする訳でもなかった。
親しいようで、それでいて遠いような関係が、密閉されて北へ北へと運ばれていく。
車のスピードは速いようにも、遅々としているようにも感じられる。
好きな音楽をかけて良いと言われて、朋子は自分のスマホを車に繋いだが、それももったいない気がした。意外と、静寂に包まれることは日常に少ない。
貴重な時間と思えていた。
「そういえば、朋子は向こうで誰かに会う予定あるんだっけ?」
幹也がサイドミラーを見ながら、トラックを抜かすため車線変更をしたときだった。
ペーパードライバーの朋子にとってみれば、なぜそのタイミングで口を開くのかが全く分からず、車が元のレーンに戻るまで返答が遅れた。
「いや、特にないけど。連絡あるとしてもこれからじゃない?幹也は?」
「僕も仮に連絡来ても断るかなぁ、あるとしてもサッカー部か」
「サッカー部かぁ、戸田君って今なにしてるんだろ」
「戸田は、確か地銀に就職した気がするな」
「そうなんだ。それこそ、私は幹也の方が、地銀とかインフラ系行くのかと思ってたよ、あ、あと公務員ね」
「あー、でも、面白くなさそうだしね」
幹也は本当に面白くなさそうに、まっすぐ前を見ていた。
「あれ、意外にそうなんだ」
「人生1回しかないからね、それに結婚する気もなかったし。安定は捨てたよ」
「幹也にそんなロックな一面があるとは」
「はは、今ではちょっと後悔しているよ。真っ当に結婚して、家庭を持つ人生になるとは思わなかったから」
それは前の奥さんのことを言っていることは明白だった。
幹也が最初に就職したのは、大手の出版会社だった。帰宅するのもかなり遅く、出張も多かったと聞く。今は専門性の高い、手堅い出版をしている会社に転職した。
つまりは安定を取ったのだ。
「それって、成長なの?退化なの?」
朋子の質問に、幹也は助手席ではなく、ちらりとバックミラーを見た。そこには誰も映っていない。
「鋭いね。きっと退化だと思うよ」
「年とって丸くなった芸人みたいだね」
「言い得て妙、、、いや、そのままだね」
それ以降、また静寂が車内を占めた。
朋子は次々と車を照らしては後方に飛んで行く光を見ながら、記憶が過去に遡っていく。
サッカー部と聞いて、真っ先に思い出したのが戸田君だった。
背が小さくて、それでいてがっしりとした、クラスのムードメーカーだった。
頭も坊主で、どちらかというと野球部のようでもあった。
『三島は、みっきーのことが好きなんだろ?』
部活終わりの駐輪場でそう言われた。
キャラクターのことかと思ったが、彼の普段からは想像がつかない真剣な表情を見て違うと察した。
高校1年の終わりごろだったと思う。幹也が隣のクラスの春香ちゃんとちょうど付き合い始めたころだった気がする。
『そうだとしたら?』
『そんな喧嘩ごしになるなよ、こえーな』
『だって、本当に好きだとしても、勘違いだとしても、どっちにしてもムカつくもん。その質問』
『クラスメイト同士の普通の掛け合いだろうが。お前、最近ピリつきすぎてみんな怖がってるぞ。顔と性格を一致させろよ』
要するに、クラスの雰囲気を慮って私に声を掛けてきたらしい。
『お節介だね』
『そういう性分なんだよ。クラスで過ごす時間が一番長いんだから、気楽にいきてぇじゃん』
『幹也が言ってたの本当。実力的には先輩より上手いのに、思い切りが足りないって。遠慮してるって』
『アンカーはそういう役割なんだよ。アンカーって知ってる?』
『知らない』
自転車の鍵を差すと、がちゃんと大きな音が鳴った。
これで会話は終わり、そう告げるような音。
『なぁ、明日、試合見に来いよ。うちのグラウンドでやるから。どうせ部活で来るんだろ?』
『終わったら帰るよ、すぐ』
『多分、お前が知ってる幹也、まだ半分ぐらいだ。それに大丈夫だ。見学者はいっぱいいる。俺らモテるからな』
『俺ら、じゃなくて、先輩が、ね』
『間違いない』
そう戸田君は笑って、彼の方が先にさっそうと帰っていった。
そういうところも上手いなと思った。
こちらが先に帰れば、私が悪者になるし、それに行ってみようとも思わなかっただろう。これでは本当に、彼は私のことを気遣ってくれていることになる。
練習試合だった。
戸田君が言うように、ギャラリーは少ないながらいた。
先輩たちの彼女グループが多いように見えたが、そこから離れて春香ちゃんもいた。
彼女は1人だった。
帰宅部の彼女はわざわざ来たのだろう。それに私服だった。校則上は問題ないが、そこに彼女の傲慢さがあるような気がして、すぐにその考えを捨てた。それは偏見だった。それに意外だったのは、彼女が彼氏の部活の応援に来るようなタイプだとは思えなかったことであった。
試合が始まって少し経ったころ、ルールを知らない私でも、「ああ、あれは駄目だな」と思うようなプレーがあった。
相手が、幹也のユニフォームを思い切り引っ張ったのだ。
先ほどからずっと、その相手は幹也の脚の速さについていけていなかった。
『っざけんなっ!!!』
そう叫んで、相手の手を振り払った幹也に、朋子は驚きすぎて目を見開いた。
いつも穏やかで、相手に何か主張することもない彼が、大きな声をあげて相手に詰め寄った。
朋子の頭には、いつものハンバーグ屋で、注文を間違えられてもそのまま「ありがとうございます」と言って食べ始める幹也の柔和な笑顔が浮かんでいた。
朋子はなぜかそのとき、数メートル横にいる遥香ちゃんの顔を盗み見た。
彼女は携帯電話を弄っていて、試合などほとんど見ていなかった。
興味はないのに、応援には来る。そんな彼女の心理が、朋子には全く分からなかった。
それほど長く見ていたわけではなかったが、一瞬、遥香ちゃんと目が合った。
彼女は会釈をすることもなく、また携帯に目を落とす。
朋子は何を思ったのか、彼女に話しかけてみようと思った。
『あの、、、応援ですか?』
本当は幹也の彼女ですよね、と言おうとしたが、それも嫌な女な気がして控えた。
応援に来ているに決まっているだろうとは思ったが、それしか言葉に出なかった。
春香ちゃんは、その大きすぎる瞳をゆっくりと吊り上げて、
『はぁ、、、そうですけど』
と、それだけを言った。
噂には聞いていたが、迷惑そうなのを隠さない彼女の素直な感情に、朋子は慌てて、
『幹也、、、君、怒ってましたね、珍しい』
『あ、、、そうなの?見てなかった』
『クラスではいつも、静かで優しいから』
朋子の存在をそのときようやく認めたように、春香ちゃんは携帯を閉じて、
『ん、でも結構怒るよ、幹也。短気というか、こないだうちのママにもキレてたし』
パーマではなさそうな、猫っけの細くうねった髪が、ふわふわと風に浮く。
春香ちゃんは、そのことがさも何でもないかのように、ちらりと校庭を見やる。
あまりのあけすけさに驚きながら、
『それは、、、どうして?』
『うち、片親なんだけど、ネグレクト気味だから。参考書買いたいからお金ちょうだいって言ったら、女が勉強して何になるって、最初は笑ってたけど、しつこく言ったら叩かれた。それを幹也に言ったら、うちに乗り込んで来て、警察呼ばれそうになってた。ウケるよね』
朋子は愕然として、そうなんだ、としか言えなかった。
自分から話しかけた手前、離れることもできない。
それを察したのか、春香ちゃんは、
『やっぱサッカー、つまんないよね。私、あなたのこと知ってるよ。あなたは私の敵。もう話かけてこないでね』
と言って、校舎の方に歩いて行った。
彼女のアメリカンチェリーのようなあまりに小さすぎる顔と、それに反比例して大きすぎる瞳が、何か理解しがたい、自分とは別の生き物の顔のような気がして、怖くなった。
その数週間後、幹也と春香ちゃんは別れた。
戸田君が言うには、それ以降、幹也は試合中に声を荒げることはなくなったと聞く。
以前にもまして、幹也は穏やかに、冷静になって、それが良いように働いたのか、2年生の後半からは部長やら生徒会長もやるようになった。
幹也の試合を見たのは、あと1度、最後の総体だった。
進学校だったために、冬にも多きな大会があるらしいが、それには出場しないらしかった。
その頃、幹也と朋子は、付き合っているのかどうなのか、微妙な距離感であった。
天気は荒れていた。
土砂降りの中、スタンドから幹也を見ていた。
直近にラグビーの試合もあったらしく、芝生がぼろぼろで、幹也も遠目から分かるほど、泥に塗れていた。
試合に負けた幹也が、汚れた顔もそのままにトイレに行くタイミングで声を掛けた。
『悪くなかったよ、多分』
朋子はそんなことを言った。
『ありがとう』
『うちの高校が県の決勝まで来たの、60数年ぶりだってよ』
『らしいね。さっき取材受けたよ』
『私立にも勝ったし、すごいよ』
『みんなのおかげだよ、良い面子が揃ったからね』
幹也はそう言って、朋子の頭をぽんっと叩いてトイレに入っていった。
なんとなくその背中から目を離せないでいると、トイレの方からペットボトルを叩きつけるような大きな音がして、それから、からんからんと、軽い音が続いた。
トイレから戻って、監督の話を聞く幹也は、大泣きをしている戸田君に反して、もうすでにいつもの幹也だった。
雨と、どこか泥のような匂いが、記憶に強くこびりついている。
東北道を北上して、福島県の安達太良山サービスエリアで休憩をした。
「おお、ウルトラマンだ!!」
「あ、知らなかった?」
朋子は大きなウルトラマンの像を見上げて両手を広げた。
「もっと見たいけどまずはトイレだ」
「朋子、ウルトラマン好きなの?」
「うーん、ウルトラマンというか、とにかく大きいものが好きなんだよね」
「あー、確かにスカイツリー好きって言ってたね」
「そうそう」
それぞれトイレを済ませ、飲み物を買おうという話になった。
幹也はコーヒーを買うらしい。
「えぇ、なんか、その自動コーヒーマシン、中はゴキブリだらけって聞いた気がする」
「噂でしょ、噂。高速道路といったらこれだから」
幹也がボタンを押すと、特有の陽気で軽快な音楽が流れ始めた。
インド風なのか、アジア風なのか、南米なのか、よく分からない音楽だった。
「普段紅茶なのにね」
「なんか高速道路走ったら、このコーヒーを買わないといけないような気がするんだよね、粋だよ粋」
「変なこだわりだなぁ。粋がるなら、紅茶派にとってコーヒーは泥水だ、ぐらいに言ってくれないと」
「イギリス人じゃないからなぁ」
二人並んで、飲み物片手にウルトラマンを見上げる。
「私、いつも思っていることがあるんだけど」
「うん」
「ウルトラマンが富士山を滑り台みたいに滑ったら、お尻痛いのかな?」
「そんなことをいつも考えているの?」
「あー、馬鹿だと思ったでしょ」
「まぁ、少し。でも痛くないんじゃない?岩とか、僕らにとっての砂利みたいなもんでしょ」
「それって不思議じゃない?私たちだったら致命傷だよ」
「まぁ、、、うん、、、」
「うわ、興味なさそう。でもさ、例えばそのコーヒーだったら、ウルトラマンも苦いって感じるよね」
「それは、そうだね」
「その違いはなんだろうって」
朋子も自分が何を言っているかよく分からなかったが、その疑問は確かだった。
大きくなれば、成長すれば、痛くないもの。些末に感じるもの。
大きくなっても、成長しても、苦いもの。痛烈に感じるもの。
その違いは何だろう。
幹也はコーヒーをスポーツドリンクのように一気に飲んだ。
「あんまり、美味しくない」
「黙って缶コーヒーにすればよかったのに」
幹也はコーヒーのカップを静かにゴミ箱に捨てた。
車に戻りながら、朋子は思う。
幹也はもう、あの日のように泥に塗れながら、何かに対して真剣に、大きな感情を抱くことはなくなってしまったのかもしれない。
依然、それが成長なのか退化なのか峻別できない。
それでもやっぱり、幹也にとって、今でも変わらず苦いものもある。
何故か、悔しいと思ってしまう。
幹也の口の中に、ありとあらゆるこの世の苦いものを突っ込んでやりたくなる。
そしたら、幹也は悶えて暴れ出すかもしれない。
背後から、また国籍不明の軽快な音楽が聞こえた気がする。