ユイの糸
……現実は甘くない。
(……契約。名前。蜘蛛の糸。昨日の発言。何一つ、見過ごせる要素がなかった)
何より、「名前を言えば運命が繋がる」なんて、ろくな展開にならないことだけは確かだ。
この世界がどんな理屈で動いてるのかはまだ分からないが、少なくとも“魔法的な契約”が存在する可能性は高い。俺が名前を明かした瞬間、何か取り返しのつかないものが発動してしまうかもしれない。
(第一、名前ってのは身元に直結する)
俺の前世――いや、前の人生は、人妻好きが原因でめちゃくちゃだった。人妻といちゃついてたのがバレて、その旦那にブチギレられて、車で轢き殺された。
せめて名前さえ知られてなければ、身バレの心配なく逃げられたかもしれない。
(つまり、この世界でまでそんな失敗は繰り返せないってことだ)
ユイには悪いが、俺は絶対に名前を明かさない。
そう決意して、俺はゆっくりと立ち上がった。
(……今のうちに、逃げよう)
俺は音を立てないように、慎重に床から足を離す。きしっ、と木の軋む音がして、心臓が跳ねるが、ユイは反応しない。
(よしよしよし……そのまま外に出て、森を抜けて――)
「お兄ちゃん、どこ行くの?」
――声がした。
振り向くと、そこには満面の笑みのユイ。
「ま、まぁ……ちょっと外の空気吸おうかなーって」
「ふーん……でも、逃げようとしてたんでしょ?」
「いやいやいや、そんなわけ――」
「嘘だよね?」
その瞬間、俺の足に冷たい感触が巻きついた。
蜘蛛の糸が俺の足首を絡みついてくる。
「ちょ、ちょっと待て! これは誤解だって!」
「ううん。誤解じゃないよ。だって、お兄ちゃん、昨日もそうだった」
ユイはぺたんと座って、俺を見上げる。
「自分の名前を言えば、“家族”になれるって言ったら、すごく怖い顔になった」
「そりゃなるだろ、普通!」
「でもね、私はお兄ちゃんと繋がりたいの。名前を知れば、もっと近づけるから」
(距離感の感覚バグってるって……!)
「今日ね、お兄ちゃんと“本当の家族みたいな一日”を過ごしたいな」
「え、あの、それってどういう――」
「ご飯作って、一緒に食べて、お昼寝して、森を散歩して、夜になったら焚き火しながらお話して……最後に、もう一度だけ名前を聞くの」
(最終的に逃げ場なくなるパターンじゃねーか!!)
「そ、そういうのはさ、まず信頼関係とか積み重ねてだな――」
「うん、それを今日積み重ねるの」
俺は観念したように深いため息をついた。
(……あーもう、これは、何を言ってもダメだ)
蜘蛛の糸はほどける気配すらない。俺の足にしっかり絡みつきながら、体温まで感じるほどにぴったりとまとわりついている。
「ね、お兄ちゃん」
「なんだよ」
「本当は、昨日の夜……ちょっとだけ、嬉しかった?」
「……は?」
「だって、私と一緒にいるとき、お兄ちゃん、寝顔が優しかったから」
「な、寝顔見てたのかよ……!」
「うん。ずっと見てたよ」
「こっわ!!」
「安心して。変なことはしてないよ。……まだ」
「“まだ”って言うな!!」
ユイはくすくすと笑って、それからまた近づいてくる。顔の距離が近い。こんなに無防備な笑顔を向けられる。
(……こいつがロリでなければ、襲ってたな)
「名前、教えてくれない理由って、やっぱり“殺された”から?」
「……!」
図星だった。
「お兄ちゃんが、誰かに傷つけられたこと。誰かに、壊されたこと。そういうの、ちょっとだけわかるから」
「なんで……」
「糸で見えるの。お兄ちゃんの、奥のほう」
(やっぱこいつ、心読んでる……!)
「だからね。無理に言わせたりはしない。今日一日、家族として一緒に過ごして、最後にもう一度だけ聞くだけ」
ユイは、俺の腕をそっと握った。
その手は、思ったよりも、温かかった。
「私は、お兄ちゃんのこと、もっと知りたいだけだから」
俺は、苦笑いを浮かべ、諦めたように言った。
「…わかった」