お母さんに会う?
「お兄ちゃん、お母さんが挨拶したいって」
ユイがそう言った瞬間、俺は本日の朝ごはんの木の実を盛大に吹き出した。
「ゲホッ! ゲホゲホッ……お母さんって、今なんて?」
「だから、お母さんに会ってって言ったの。あ、でも今日はちょっと機嫌悪いかも……うーん、でもお兄ちゃんのこと話したら、喜ぶと思う!」
――やめてくれ、そのテンションの高さが逆に怖い。
俺は今、ユイの家(と称されるボロ小屋)に一時的に身を寄せているが、正直、居心地は悪くない。むしろ、ユイが食事を用意してくれるので、俺の生活水準は異世界に来てから明らかに上がっている。
(用意された食料の出所はどこなんだろう…)
いないと思っていた母親に会わせてくれるということに驚きと期待を込めてユイの言葉を待つ。
「お母さんね、すごく優しいの。……私が間違ったことしたら、ちゃんと叱ってくれるし。褒めてもくれるし。でも、ちょっと臆病で……だから、お兄ちゃんのこと、驚かせたらごめんね?」
「……あ、ああ、そうか。いや、別に会うのが嫌とかじゃないけどさ?」
――違う。問題はそこじゃない。
俺はこれまで、ユイが誰かと話してるところを一度も見たことがない。そもそもこの辺り、人の気配なんて微塵もない。
しかも、食事も寝床も、どう見ても常に“二人分”しか用意されていない。
「……なあ、ユイ。お母さんって、普段はどこに?」
「うーん、森の奥のほう。恥ずかしがり屋さんだから……ずっと隠れてるの」
(森の中?それは人か?ここもだいぶ、森の奥だとと思うが…)
「でも、いつか会わせてって言ったでしょ? お兄ちゃんが“家族”に会いたいって言ったから……だから……」
ユイの表情が一瞬、翳った。
「……嫌?」
「い、いやいやいや、嫌とかじゃなくてな?」
その目が、少し潤んでいるように見えた。蜘蛛のように鋭く、網を張るように絡みついてくる視線。うっかり嘘をついたら、丸ごと捕食されそうな気配。
(怖ぇ……! でも、強く出たらヤバい気がする……)
「うーん、でもさ、ママも俺のことまだよく知らないだろ? 先に、ちゃんと自己紹介してから……会った方がいいよな?」
「……じゃあ、お兄ちゃんの名前、教えて?」
(しまった!)
俺は今までユイに名前を伝えてない。
ここで本名「マサヒト」を教えるのはまだ早い。俺の名前を知られたら、もっと深く絡め取られそうな直感がある。
偽名を使うことも考えたが、理由はわからないがユイに嘘をつくのが怖い…
「えーっと……まだ名乗ってなかったっけ?」
「うん。ねえ、お兄ちゃんはさ、何を隠してるの?」
ドクン、と心臓が跳ねた。
その瞬間、彼女の指から、ふわりと糸のようなものが伸びてきた―――!
「ふふ……やっぱり、ちょっと何か隠そうとしたでしょ?」
「お、おいおい、何の話だ?」
「でも、大丈夫。お兄ちゃんが隠したいことは、私が全部、代わりに知ってあげるから」
ヤバい。完全に心が読まれてる気がする。
俺は人妻が好きだ。
だが、目の前の少女には性的な興味は一切ない。恋愛対象外だから、俺のドス黒い心内を読まれても構わないと思ってるが、何かまずい。
この糸は、嘘発見器みたいな役目をするのか?
「ねぇ、お母さんに会って? お兄ちゃん、家族が欲しいって言ってたでしょ?」
ユイが、手を差し出してきた。
小さな掌。その向こうにあるのは、見えない地雷原か、あるいは、深い深い蜘蛛の巣か。
「……わかった。会いに行こう」
俺は、覚悟を決めた。
(……母親がいるかいないかだけでも確認したい。もし、本当に人間で美人なら口説いてそれから…)
だがその時の俺は、知らなかった。
それが、ユイの“罠”であることに――。