焚き火の温もり
焚き火がはぜる音が、森の静寂に小さく鳴り響いていた。
夜。ユイの言う「家族みたいな一日」は、一応すべての工程を終えた――と、俺は思っていた。
得体の知れない葉っぱを浮かべたスープと木の実と虫のおかずを食べ。
散歩中に遭遇したトカゲに襲われ、ユイと一緒に逃げた。
逃げてる際中もユイが俺の顔だけをじっと見ていたのは……まあ、見なかったことにした。
そして今。
俺とユイは、焚き火を囲んで座っている。
「ね、お兄ちゃん」
「……なんだよ」
「今日は楽しかった?」
「まあ……退屈はしなかったな」
ユイはふにゃっと笑った。
その笑顔を見た瞬間、俺は自分の返答を少しだけ後悔した。調子に乗らせてはいけない。
「うれしい。私も、すごく楽しかった。ずっとこうしていたいな」
「いや、ずっとは無理だろ……」
「じゃあ、ここを出て村を探す旅に出る?二人で」
「いや、それは……」
「“家族”なら、どこへだって一緒に行けるよ」
(やっぱり出た、その単語)
「……なあユイ」
俺は少しだけ真面目な声を出した。
ずっと誤魔化してきたけど、焚き火の光がやけに揺れて、どうしようもなく現実味が増してきていた。
「仮にさ。仮に、俺が名前を言ったら」
ユイの目が一瞬だけきらりと光る。
「うん」
「それで、契約が成立して、お前の“何か”が発動する。そういう可能性、あるよな?」
ユイは笑ったまま、黙っていた。
まるで「その質問には答えません」と言うかのように、焚き火の火を棒でつつく。
「お兄ちゃんは、厨二病なんだね」
「は?」
「だって、名前を言っただけで“何かが発動する”って思ってるってことは、自分が何か特別だって思ってるってことでしょ?」
(……この言い方、ズルい)
「俺の名前を、お前が何に使おうとしてるのか。それが怖いだけだ」
「私は、お兄ちゃんを支配したいわけじゃないよ」
「じゃあ、なんなんだよ。名前を知るってのは、ここじゃそれだけで契約成立するってことなんだろ?」
「うん。契約は結ばれるよ」
「……やっぱりそうか」
「でもね。私が望んでる契約は、“家族になる契約”。それだけだよ」
ユイは、焚き火の光の中で、少しだけ照れたような顔を見せた。
「お兄ちゃんの過去も、欲望も、傷も、全部見えてる。でも、そんなの関係ない。私は、お兄ちゃんと一緒に生きたいだけだから」
言葉の端々が、優しさと狂気の紙一重を渡っている。
(こいつの“家族”って言葉には、何か違う意味がある気がする)
それでも――。
たった一日一緒に過ごしただけで、こんなにも執着されて、こんなにも心を寄せられるのは、悪い気分じゃなかった。むしろ、居場所がない俺にとっては、少しだけ心地良い。
「なあユイ。お前が“家族になりたい”って言うのは、どうしてなんだ?」
「……」
「俺がユイを助けたから?前も言ったけどそれはユイの勘違いだからな?」
「ううん、違う」
ユイは火の揺らめきを見つめながら言った。
「お兄ちゃんの中に、私と同じ“空っぽ”があったから」
「……空っぽ?」
「この世界で、何も持たずに、何も知らずに、一人ぼっちで。それでも笑おうとしてる。強がってる。でも、その奥にある“空っぽ”が、私と同じだった」
(……空っぽ。そうかもしれない)
「だから、埋め合いたいって思ったの。私の“空っぽ”と、お兄ちゃんの“空っぽ”で、ひとつになれたらって」
火の粉が、夜空に小さく舞った。
「だからね。お兄ちゃんの名前を、教えてほしい」
静かな声だった。押しつけでもなく、脅しでもなく。ただ――願いのような響きだった。
俺は、口を開きかけた。
喉の奥で、昔の名前がゆっくりと上がってくる。
けれど、それを言葉にする直前で、俺は止めた。
「……それでも、今はまだ言えない」
ユイは、ほんの少しだけ寂しそうに笑った。
「……そっか」
そして、自分の膝を抱えて、ポツリとつぶやいた。
「じゃあ、お兄ちゃんが名前をくれる日まで、私は毎晩聞くね」
「毎晩かよ……」
「うん。毎晩“今日は?”って聞く。だから、お兄ちゃんは“まだだ”って言っていい。でも、いつか“いいよ”って言ってくれるまで」
それは、まるで祈りのようだった。
火が、ぱちぱちと小さく爆ぜる音だけが、森に響いていた。
そして、俺は初めて――
この森の夜が、少しだけ暖かく感じられた。




