損得で言えば損
定時が過ぎ、今日の業務を終え、オフィスを出ようかという時に同僚からメールが入る。一度持ち上げたカバンをデスクの上に再度置き直して息を吐いた。嫌な予感を胸に抱きつつ呼び出された個室にノックをしてから入室すると、既に中に居た男女の視線がこちらを向いた。
それぞれの表情は対照的で、男は眩しいほどの笑顔だが、女の方はというと今にも泣きそうな顔をしている。嗚呼、この部屋に踏み込まずに帰ってしまいたい。
「……マジで無理」
「見るだけでいいから、頼む!浅葱さん、夜も眠れないくらい困ってんだよ!これで最後だから、な?」
一体何度目の「これで最後」だよ。わざとらしく両手を合わせ頭を下げた男を睨みつける。言葉は喉まで出かかっていたが、その奥で縮こまった女性。おそらく浅葱さんと呼ばれた彼女の不安そうに揺らぐ眼差しに何も言えなくなって、言葉はただの深い吐息に変わった。
その男、蘇芳のことは正直癪に障るが仕方ない。本当にこれで最後だと自分に言い聞かせてから浅葱さんを視ることにした。
俺には、所謂霊感がある。
といっても、視ようとすれば黒いモヤのようなものが視える程度のものだし、場合によっては軽く手で払えばそれを引き剥せる程度だ。テレビで見る霊能者のような具体的な霊視も出来ないし、大掛かりな除霊もできない。俺はこの中途半端な力を誇るつもりもないし、寧ろ隠していた筈なんだが……。
数ヶ月前にこの男、蘇芳 香が謎の体調不良を訴えたので、なんの気なしに視てみたところ、黒いモヤが首に絡みついていた。蘇芳とは高校時代からの付き合いなうえ、モヤがある部分が首というのも不安だったし放っておけず、それをはらってやったのが俺の運命の分かれ目だった。
キラキラした目で「え、急に楽になったんだけど!なにやったん!?」とすごい勢いで質問攻めされ、誤魔化す努力はしたものの。コミュ障陰キャの俺とコミュ力おばけ陽キャの蘇芳では勝負にもならなかった。
遂に誤魔化しきれず全て説明すると気持ち悪がられることはなかったものの「いいこと思いついた!」と眩しい笑顔で言われ、嫌な予感に寒気がしたのは今でも鮮明に覚えている。
そして残念ながら予感は的中する。蘇芳は次から次へと会社内の除霊希望者を連れてくるようになった。怪しいにも程がある。いつ人事に呼び出されるかと思うと胃が痛い。
さて、それはさておき浅葱さんだが。肩のあたりに黒いモヤがぴったりと張り付いている。軽く片手で肩のあたりをしっしと払う。例えるなら、埃を落とすように。
するとそのモヤは実際の埃と同じように抵抗なく霧散して消える。一応浅葱さんの全身をもう一度確認してから息を吐いた。
「……どう、ですかね」
「えっと……」
「あーその、すぐには感じないかも知れないんですけど…とりあえず、大丈夫だと思います。またしんどかったら病院とか――」
言い淀む浅葱さんに、失礼がないよう言葉を探しながら話しているとあっけらかんとした声が俺の言葉を遮る。
「アフターケアも充実してるから、まだやばかったらいつでも言ってくれていいからさ!困ったら経理の織部 玄にどうぞ!」
「おい、勝手に売り込むな」
ぺこぺこと頭を下げてから去っていく彼女に息を吐く。あの人は多分、寄せやすい人だ。今ついていた分は外したが、今後もつかなくなった訳じゃない。人によってつきやすい、つきにくいがあるのはなんとなく視れば分かる。それが一体何故なのか、何が原因なのかという点についてはさっぱり分からない。
結局のところ、俺が出来るのはあくまでその場しのぎの対処療法でしかない。
「……ほんといい加減にしろよ」
「えー?浅葱さんも喜んでたしさ。織部も別にデメリットないんだろ?」
「まぁそうだけど……」
蘇芳の言う通り、別に疲れやすくなるとかそういうのは確かにない。でもそれは現状の話であって。後々デカい代償がある可能性もある。それは俺が支払うものかもしれないし、俺がはらった相手が支払うものかもしれない。
とにかく、得体が知れないのだ。
そもそも霊感だの除霊だの。そうじゃなくても人付き合いが苦手だってのに、そんな胡散臭い噂が立ったらたとえ人事に呼び出されずとも今以上に会社で浮くのは間違いない。
この危惧について何回も何回も説明しているのに、蘇芳はまるで理解してくれそうにない。
学生の頃からそうだ、こいつは。
強引でポジティブ、後先考えず周囲の人間を巻き込む。良い意味でも、悪い意味でも。そんな暴君みたいなやつの癖に周りから人が絶えないのはその根底に抜きんでた優しさがあるからだろう。
「また今度も頼むわ!」
「はぁ!?今日が最後って言ったろ!」
「まぁまぁ、今度コーヒー奢るからさ。じゃ、ありがとなー!」
悪びれた様子もない背中に言ってやりたいことは山のようにあったが、それを言葉にできるような人間ならもうとっくにこんなことはやめているだろう。この短時間で何度目かの溜息を吐き出した。
*
「っ、は、ぁ゛……ッ、ひ……クソッ、!」
俺に人々からの視線が集まる。
そりゃそうだ。スーツ姿で商店街を、それも全速力で走る男がいたら目立つだろう。だが今の俺にはそれを気にする余裕は無い。
会社を出たその直後。文字通り背筋が凍った。じっとりと絡み付くような視線と、明白な害意。
正しく、蛇に睨まれた蛙のように動けずにいると、項に鋭い痛みが走った。咄嗟に腕で払い除ける。それが一体なんなのか。理解するより早く、俺の脚は弾かれたように走り出した。
振り向かずとも分かる。それは周囲の人間に目もくれず、俺に真っ直ぐ向かってきている。安心すべきか、否か。
目的地などなくただ逃げる。商店街を抜けて、気が付けば人気の少ない路地に出た。夕方とはいえ焼けたアスファルトに反射する日差しに目が眩む。運動不足の脚は膝から震えていて限界が近いようだが、脚を止めたらどんな恐ろしいことが起こるのか。まったく想像できない。
吹き出る汗が流れて目の前が滲み、目を擦る。そして再び目を開けると周囲の雰囲気が明らかに変わったのを感じた。
先程まで身近に感じていた害意が遠のいた。それだけじゃない。
さっきまであったはずの住宅街も、曲がり角も。全て大きな生垣に覆われていて一本道になっている。生垣には季節外れの寒椿が咲き誇っていて、美しいことは間違いないが、それ以上に妖しい雰囲気を醸す。
「今、7月だよな……」
じくじくと疼く項を押さえながら、ゆっくりと前へ進む。寒椿の赤い花弁が地面まで彩っている。それらに目を奪われながら進むと、目の前に大きな鳥居が現れた。
これは超えてはいけない、そんな気がする。
とはいえ、今戻ったところで。元の場所に戻れるのか分からない。進むべきか悩んでいると、再びぞくりとしたものが背筋を駆け抜けた。これは俺の直感だが、さっきの害意の持ち主が近付いてきている。つまり――戻る訳にはいかなくなった訳だ。
深呼吸をしてから、ゆっくりと鳥居の奥へと踏み込んだ。