010 契約
声が聞こえて来た途端、骸骨兵士達の動きが止まった。何故骸骨兵士が動きを止めたのか理解出来ない。瀕死の重傷を負った千咲を殺す程でも無いと思った、というのは理屈に合わない。
骸骨兵士に自我は無く、あるのは生者を殺そうとする機械的な反応のみ。骸骨兵士よりも高ランクのモンスターであれば、ある程度の自我を持って判断するだろうけれど、目の前の骸骨兵士は息の根を止めるまで攻撃の手を緩めないはずだ。
攻撃を止める理由が骸骨兵士には無い。
だが、チャンスだ。骸骨兵士が動かないのであれば、這いずってでも逃げる。満身創痍ではあるけれど、運が良ければ巻き込まれた冒険者と遭遇して治療をしてくれるはずだ。
慌てて、千咲はその場を離れようとする。
『――っ!?』
しかし、思考とは裏腹に身体が一切動かせない。
逃げる意思があるのに身体が動かせないという事態に、千咲の頭は混乱する。
手足は動かない。声も出せない。思えば、視線も固定されている。明らかな異常事態に脳内ではみっともなく取り乱しているけれど、身体は一切反応を示さない。
『少し落ちつけ、其方よ』
取り乱す千咲とは対照的な、酷く落ち着き払った声。
そうだ。取り乱していて忘れていたが、声が聞こえて来たのだった。
声の正体を探そうにも千咲は視線を巡らせる事すら出来ない。
『あぁ、そうか。そのままでは分からぬな。ほれ、これでどうだ?』
ぱちんっと指を鳴らす音が聞こえて来た。その直後、千咲の首から上は動けるようになった。
『すまぬが、逃げられても困るでな。動かせるのは頭だけだ。さて、これで妾の姿が見えるかの?』
いつの間にか、本当にいつの間にか、千咲の隣に誰かがしゃがんでいた。
声の正体を知りたい。反射的に声の方を向きそうになったけれど、塵程に残っていた自制心がそれを押し留めた。
隣から感じる圧倒的な威圧感。身の毛のよだつ程の不快感。背筋が凍る程の忌避感。臓腑を掻きまわされるような嫌悪感。
凡そあらゆる負の気配を凝縮したような存在。目の前の骸骨兵士が道端の蟻のように思える程の存在感。
見たら、きっと、自分は正気を保てない。
『ほう。塵程の自制心でよう耐える。正気を無くした後に傀儡にでも、と思ったが……ふむ……』
何か考えるような仕草をする隣の存在。
『妾は失敗から学ぶゆえ、同じ轍は踏みとう無いが……しかして、妾が直接介入して気取られるのもまた面倒か……? のう、どう思う?』
言って、その存在は千咲の喉に触れた。
軽く触れて傷口を撫でるだけ。それだけで、まるで傷など元から無かったかのように消え失せた。まぁ、千咲からは確認出来ないのだけれど。
『喉は治した。口は利けるだろう?』
そう問いかけるも、千咲は怯えた様子で問いかけに気付いていない。
『……この程度で駄目なのか。はぁ、人間とはかくも脆い。高々指先程度と言うのに……』
一つ溜息を吐いて、その存在はふんっと小さく力を込めた。
すると、隣から感じていた負の気配が一瞬にして消え去った。跡形も無く、まるで元からそんな気配など存在しなかったかのように。
『ほれ、これで大丈夫だろう。のう、其方。どう思う?』
『――っ』
とんとんっと肩を叩けば、千咲は驚き、怯えながらも、ゆっくりと隣を見た。
そこには黒が居た。
黒の服。黒の髪。黒の肌。光の一切を反射しない圧倒的な闇。あまりにも黒いから、身体のパーツの輪郭が分からない。そもそも、実態がそこに存在しているのかすら怪しい。プロポーションすら分からないけれど、大きさから人型である事と、女性らしい高い声をしているので、性別は恐らく女性であると判断できた。
圧倒的な闇。その中で唯一黒では無い黄金の双眸が千咲の目を真っ直ぐに見つめている。
『のう。どう思う?』
喋っているはずなのに、口があるべき部分は一切動いていない。布で隠しているのか、あるいは口が無いのか。
『ど、どう、って……?』
『今此処で、其方の正気を奪って其方の身体の主導権を妾が得る。それはそれで楽なのだが、妾が介入していると分かると厄介な存在に気取られる可能性がある。最早妾は切り離された個となったが、気配は同じ故な。彼奴には勝てんだろうて、それは避けたい』
身体の主導権を握るというとんでも無い事を言い出す目の前の存在。しかし、千咲の動揺や驚愕を知ってか知らずか、目の前の存在は続ける。
『妾の意識が表層に残っているのが問題なのだな。となると、妾は表には出とうない。そこで、其方に提案がある』
『てい、あん……?』
『うむ。其方、妾と契約せぬか?』
明らかに妖しい存在からの契約の提案。二つ返事で契約するには、あまりにも後が怖すぎる。
『妾は其方の中で身を潜める。その間、妾の力の一端を其方に与える。見たところ、其方は脆弱な存在のようだからのう。其方に力を与えんと、其方はいつ死ぬやも分からぬ。其方が死ねば妾の潜伏先が無くなる。そうなると、妾は次の潜伏先を見付けなければならなくなる。それは妾にとってもとても危険な行為だからの』
要は、妖しい存在を体内で保護し、その見返りに力を与えるという事。
『奇跡的な事に、妾と其方は相性が良い。妾と相性の良い相手を探すのは、砂漠にて身一つでオアシスを探し求めるようなもの。妾とてそれ億劫だ。それはそれとして、妾の封印を解いてくれた恩もある。それが偶然にしろなんにしろ、恩は恩。妾は失敗から学ぶ。恩を仇で返すなどもっての他だ』
そう言って、一人でうんうん頷く。
『で、どうだ? 妾と契約するか?』
『……』
千咲が答えに窮していると、黄金の双眸が邪悪に弧を描く。
『まぁ、其方に拒否権は無い。何せ、妾が止めた時間を動かせば其方は死ぬ。妾は助けんからな』
『恩を仇で返すなんて、もっての他じゃ無かったのかよ……』
『おお、ようやっと口を開いたと思ったら威勢の良い事だ。だが、この提案自体が恩を返しているという事に他ならん。何せ、死ぬべき運命を救ったのは他ならぬ妾なのだからな。この差し伸べた手を取らぬと言うのであれば、まことに遺憾だが、其方を見殺しにする他あるまい。何、其方の代わりなど幾らでもおる。ああは言ったが、砂漠にて身一つでオアシスを探すなど、妾にとっては児戯に等しい。だがまぁ、面倒は面倒だ。かける必要の無い面倒をわざわざ選ぶ事もあるまい』
拒否権も無ければ、他に選択肢も無い。これは、既に決定事項とも言えるだろう。
『加えて、先程言うたように、其方の身体を操るのもまた危険を伴う。さて、どうする? 其方は妾の手を取るか? それとも、このまま今世を諦めるか?』
『…………拒否権なんて、無いんだろ?』
『無くは無い、が、あまりにナンセンスだ。何せ、其方は生きたいのだろう?』
果たして邪悪な手を取って生きたいか、否か。千咲は少しだけ考えて、口を開く。
『一つ、約束してくれ』
『なんだ?』
『その力は人を傷付ける力じゃなくて、誰かを護れる力にして欲しい』
力を得られると考えて、真っ先に思い出したのは自分を助けてくれた両親の事。どんなに邪悪な力でも、どうせ振るうなら誰も傷付けない力が欲しい。
『ふむ、ふむふむ。良かろう良かろう。与える力の性質は変えられんが、力の振るい方は其方の好きにせい。其方が戦うだけで、妾は干渉しないからな。好きに生きたら良かろう』
断られるかと思ったけれど、簡単に頷いた事に拍子抜けする千咲。
『では、契約成立、という事で良いな?』
『ああ』
確かに、千咲に選択肢は無かった。だって、どうあっても、千咲は生きたいと思ってしまったのだから。その生に意味が無くとも、まだ生きていたいと思ったのだから。
『では、よろしく頼むぞ、其方』
それが千咲の頭に触れる。
『千咲』
『うぬ?』
『桃花千咲だ。アンタは?』
『名前……名前か。ふーむ……』
千咲の問いに少しだけ考え、それは静かに答える。
『妾の事はディギトゥスと呼べ』
『……分かった。よろしく頼む、ディギトゥス』
『ああ、よろしく頼むぞ。共犯者』
そう言って、ディギトゥスの黄金の双眸は弧を描いた。