御柱くんのクリスマスイブ
電車に揺られて30分。
僕たちは水族館の中にいた。
「あっ! いたいた! 御柱くん、あそこあそこ!」
「あ、ほんとだ」
興奮する彼女の指が示す方向に目をこらせば、三つ葉模様のミズクラゲが漂っている。
珍しいそれを見つける遊びはデートでの定番だということだった。
「んふふ♪」
伊勢崎さんはゲームに勝って上機嫌だ。それはとっても喜ばしくて、僕も嬉しい。
負けた悔しさは少しだけだ。なのだけど。
「ね、知ってる? 御柱くんってほんとに負けたときって少しそっけないから分かりやすいよ?」
……表に出ていたらしい。
何とも恥ずかしい話だ。感情を制御しなければならないというのに、伊勢崎さんといると感情を乱されっぱなしだ。
少し反撃してみる。
「きみと一緒だからね。本音がでちゃうのさ」
「ゔっ、ダメダメ。今日は簡単に照れないからね! ほ、ほら先行こーっ!」
手を引かれて。その柔らかさにどきりとする。君のいうとおり、照れてる場合ではないのだけれど。
-◇-
それから。
きらきらと輝く魚を見た。
群れをなして渦を巻くそれはどこか荘厳で、ダイナミックで。見惚れていると、その横顔を伊勢崎さんに見られていた。
アザラシやアシカを見た。
アザラシとアシカは意外と顔つきが違っていて、アシカが前足で走る様子を見て大笑いする伊勢崎さんはとても可愛かった。
ペンギンを見た。
天空を泳ぐという触れ込みのそれは屋上に設置された水槽を自由に泳いでいて、僕と伊勢崎さんとペンギン、全てが写るように自撮りするのは少しだけ大変だった。
それらは全部楽しくて。楽しんでくれたと、そう思う。
冬の夕暮れは足が早くて。すやすやと眠るカワウソを見る伊勢崎さんの横顔を、夕焼けが赤く色づかせていた。
もう帰る時間だ。
それでも僕にあの、誰かと心を繋いだときのちからが湧き出るような感覚は浮かんでこない。
何か。何かきっかけとなる一言を言わなければならない。今日のデートが何か楔になるような、強烈な印象を刻む一言を。
声をかけようとして。
その前に彼女が振り向く。
そして。
「今日はすっごく楽しかったね!」
それは満面の笑みで。
夕陽の輝きよりもなおきらめいた美しさで。
飾らない彼女は、しっかりと隠しておいたはずの僕の心臓を撃ち抜いたのだ。
「そうだね。僕も楽しかった」
好きだ。口をつく衝動を必死に押さえて笑ってみせる。
ああ、そうだ。
僕は彼女が好きだ。
感情に素直で、努力家で、笑顔が素敵な彼女が大好きだ。
でも、だからこそ今は演じてみせよう。
今は。やつを、青白い炎を滅ぼすそのときまでは。
そしてしがらみなくただ素直な心でいられるときが来たなら。
そのときはきっと、きみに好きと言おう。
力などとは関係なく、ただきみを求めるままに。
-◇-
そして、帰りの電車から街へ戻ったとき。
僕は思い知らされた。
朝よりもずっと慌ただしくなった駅前。
サイレンをあげながら走り去っていく消防車。
遠くからでもはっきりと分かる、火事の黒煙。
たくさんの火事。
それは神社が燃えたときとそっくりで。
時間なんてなかったことを僕に突きつけていた。
「御柱くん……?」
心配そうにこちらを見上げる彼女に何を言えば良いだろう。
電車の中。ほんのちょっと前に今から行く夕食の話をしたばかりだというのに。
伊勢崎さんの柔らかな手。
もし、この手を取って二人で夕食を食べたならどんなに幸せだろう。
今日楽しかったこと、明日楽しみなこと。そんなことを話しながら二人で食べるのだ。
そして最後にはクリスマスプレゼントを渡そう。キーホルダー。深く青い色をした僕の心の部屋の色にそっくりな。
そして。そして。そして。
二人でずっといられたら、どんなに幸せだろう。
なのに。
「御柱くん。あのね。わたし、待ってるから」
手に取るはずだった、その柔らかい手は僕のほほにそっと沿えられて。
街の外気で冷やされたはずのそれは、暖かな熱を持っていた。
それで。それだけで僕は。
「うん、待ってて。すぐに帰るから」
何度だって心を奮い立たせることができる。
クリスマスツリーのそばに立つ彼女に手を振って、駆けて。
見慣れた路地を抜け、青い扉を開いて中に滑り込む。
後ろ手に扉を閉めれば、部屋の中は耳が痛くなるほどの静寂に満ちている。
僕の部屋。現実と集団意識の狭間にある、僕の心そのものの場所。
ここだけはどちらの世界の炎が届くことはない。
それでも、ここに留まることはない。時間はないのだ。
伊勢崎さんにもらったフクロウの置物に声をかける。
「あとを頼む、アメノヒワシ!」
「お任せください」
置物が人のかたちを取る。
顔がフクロウの執事服を着た見慣れた姿。
僕はそれを確認したあと、さらに扉の奥の世界へ飛び込んだ。
-◇-
氷の刃で炎のかけらどもを切り裂きながら道を駆ける。
炎はいたるところに溢れていて、そのいくつかは一際大きく膨れ上がっている。
これらが街で火事を引き起こしているのだ。捨て置くことはできない。たとえ、この後に親玉が哄笑って待っているとしても。
「かけまくもかしこきしらゆきよ。ながれつたうみなかみよ……!」
祝詞。それは氷のイメージをかたちにするもの。神様に力を借りるためのものでは最早ないけれど、父さんから教えてもらった所作は僕の体に染み付いている。
だから。
「あっつ、く、ない!」
体を炙られようとも氷を放ち、膨れ上がった炎を消してゆく。
そうやって駆けて。
被害の中心に向かっていく最中、ひどく嫌な予感に襲われる。
向かう方向、それは駅の方向で。
現実では伊勢崎さんの待つクリスマスツリー。
それを燃え盛る青白い炎が包んでいる。
『待ち侘びたぞ。愛しき妾の雛鳥よ』
炎がかたちを変える。それはまるで貌のない女のような。
妬み嫉みの塊であるからこそ、あれはまるで女神のような姿を好んでとる。
けれどもそれに今更付き合うつもりもない。
「逆むく氷よ! 鋭き牙よ! 土を穿ちて敵を討て!」
叫び、炎の足元から逆さ氷柱を現出させる。それらは瞬きする間もなく伸びて炎を貫いた。
『ほほ、情熱的なこと』
だというのに、それは気にした様子もない。
氷は溶かされ、穿たれた穴も炎の揺らめきで消えていく。
今までにない、その存在の確からしさに内心息を呑みつつも、心を折ることは決してしない。
「氷雨、湿雪、雹霰、集いて絡み氷瀑を為せ!」
一月ががりで力を練り込んだ虎の子の木札を放つ。
それらは砕けて破片となって、雪や氷へと変じていく。互いの作用によって生じた氷の滝が青白い炎に降りかかる。
炎がわずか。動きを止める。
駆けて。
「剣よ!」
叫び、手に持つ氷の刃を研ぎ澄ます。
そして勢いのまま、袈裟懸けに刃を振り下ろした。
ごそり、と。
ただの炎を切ったのではありえない手応え。『存在する何か』を切り伏せた感覚。
それが確かにこの手にあった。
しかし。
「ッ!」
背中を焦がすような怖気に突き動かされ、無我夢中に横に転ける。
瞬間、熱気が耳を掠めた。
振り向けば炎の渦。青白い炎がまるで抱きしめるかの如く、先ほどいた場所に立ち上っている。
『つれない男だこと』
言葉とともに炎が女の形に変化する。
一歩ぶん、クリスマスツリーから離れるようにして。
心の裡だけで軽く息を吐く。
伊勢崎さんがそばにいるクリスマスツリー。偶然とはいえ、それが燃えてしまう危険性だけはせめて少しだけ下げられたからだ。
僕は氷の刃を杖にもう一度立ち上がり……。
『貴様。妾との逢瀬のあいだに別の女のことを考えたな?』
底冷えのする声に、自らの迂闊さを呪った。これに知られてはならないから、僕は彼女に惹かれるべきでなかったというのに。
『口惜しや口惜しや口惜しや! 如何なる穢れが雛鳥を誑かしたり!』
ごお、と唸りをあげて炎が勢いを増す。
動揺を落ち着かせて闘志を再び心に灯すために必要だった僅かなの時間。それだけで。
それは駅前にあるどの建物より高く高く。
見上げることも苦労するほどに膨れ上がっていた。
炎が撒き散らされていく。
それは怒りのままに自らの欠片を街中に撒き散らし、いたるところで燃え盛っていく。
そしてそれは青白い炎、その中心でも。
クリスマスツリーが炎の影響を受け、焦げて崩れ落ちていく。音もなく、それは煌びやかな飾り付けとともに炭と化した。
現実でも、おそらく同じことが。
時間はない。
初めから、それは分かっていたことで。
どうすべきか、それも分かっていたことで。
「かけまくもうるわしき火須勢理よ。我を愛でたる焔の神よ」
炎に声をかける。心を殺しながら、心にもない麗句を添えて。
『如何なる申し開きを聞かせ賜うか。妾は其方の所業に深く傷つきたる……』
まるで拗ねた普通の女子みたいに、それは振る舞ってみせた。
その醜さをなんと形容するのか。それを知るほどに僕は博識ではない。
けれど。
けれどそれでも。
「我が不徳に申し開きもなく。なればこそ我が永遠を貴女に捧げよう」
それがすべきことならば。
「この身全てをもて、あなたの激情を鎮めよう。卑小なる我が身なれど、貴女を満たし奉らん」
それしかないなら。全てを捨ててでもなすべきことだ。
『ほ、ほほほほほ! ついに我が寵愛を受け入れたるか! 善き善き! 目移りを許すが善き妻である!』
炎が開いていく。その中心を僕に晒すように。
クリスマスツリー。今はその焦げ跡。それが今回の炎の核だった。煌びやかな幸せの象徴。それに妬み嫉みが集うには明らかで。
クリスマスイブ。今日というこの日は丸一日、備えるべき日だったのだ。
だからこれは因果応報。
すべきことをせずに幸せだった己への罰。
(帰るって言ったのに。約束を破ってごめん)
けれど願わくば。
『雪、今からでも降らないかな……』
そう呟いた彼女の願いがせめて叶うよう。
僕は自らの魂を砕いた。
-◇-
弾き出される。
御柱くんと一つだったわたしは彼の体から引き離されて、御柱くんの最後を見た。
魂を砕く。
その『何か』をした瞬間、彼の体は雪の嵐に包まれた。
雪の嵐。
それはまるで、立ち上る龍みたいで。
同時に、それは青白い炎を打ち貫く氷の矢の群れだった。刺し貫いて、縫い止めて。
ぱきぱきと音を立てて氷が広がっていく。
御柱くんも青白い炎も、何もかもが氷に包まれていく。
それでも。
『ほほ。善き哉。身を捧げたる雛鳥が愛。受け入れようとも』
青白い炎は満足した声を残して凍りついた。
彼の、御柱くんの決死の想いをまるで嘲笑うかのようにして。
それから。空を貫くまで伸びた嵐は街の全てに雪を降らして散らばった青白い炎を凍りつかせて。
それでも止まない雪は街の全てに降り積もり、全てを白く染め上げて。
人の意識と現実に影響を及ぼすこの街は、優しく、穏やかに雪に包まれていった。