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御柱くんのいるところ

 扉の先。吹雪の只中のここは、どうやら現実の街ととても似ているようだった。

 吹雪の風上の方に進んでいくと、見覚えのある町並みが広がっていた。そして昔通っていた小学校に似た建物を見て、『似ている』という感覚は確信へと変わる。

 フクロウさんが言っていた『無意識の海へと至る場所』という言葉の意味は正確には分からない。けれどそれが『色んな人の意識が反映された場所』ということなら、ここが現実に似るのも当たり前ということなんだろう。


 吹雪いているとはいえ勝手知ったる街の風景。襲ってくるような何かの気配もなくて、ほんの少しだけ緊張の糸が緩む。

 そんなとき視界の端に見慣れないものが写った。


「……なにあれ」


 そこにあったものは凍りついた炎。

 人と同じくらいの大きさのそれは、ゆらめく瞬間を切り取られたみたいに凍りついて動く様子がない。

 そして長いあいだ吹雪に打たれているはずなのに、今にも燃え上がりそうな猛々しさは変わらず、どこか欠けたような様子もなかった。


 ありえないもの。

 そして、なんの変哲もないわたしでさえ、危険そうな雰囲気を感じ取れるもの。

 それこそ、触れてしまえば凍っているはずの炎が燃え移って死んでしまうかもしれないくらいに。


 腰が引けながらもじっと見つめて。

 いつ間にか止めていた息が限界になって息を吐く。


「何かしてはこない、みたい」


 そうやって意識的に緊張を緩める。


 雪に意識を奪われたみたいに、この場所ではちょっとしたことが命取りになる。

 きっとそれは間違いない。

 かと言って、ずっと緊張の糸を張り続けることも身がもたないと思う。

 わたし自身、それだけのことをできる自信はない。

 だから適度に。

 緩めすぎず締めすぎず。良い塩梅にチューニングしておかないと。


 凍った炎を視界に入れたまま、辺りを観察する。それで気付く。


「ここ、火事があった場所だ……」


 クリスマスイブの日に市内全域で同時多発的に起きた火事。

 その一つ。

 ニュースで何度か見た、燃えている家。


「あ……っ」


 ぎゅっ、と胸が痛くなる。火の手が上がった家の映像。それを思い出して。

 家の人は助かったのだろうか、とか。思い出の物は持ち出せたのだろうか、とか。

 今の今までろくに覚えてもいなかったくせに、そんなことが心配になって。

 大切な何かが失われたのかもしれないと思うと、それがどうしようもなく悲しくなった。


「あ、あれ……?」


 頬を滑り落ちる一筋の温かみ。触れてみるとそれは涙だった。御柱くんが居なくなってから一度も流れたことがなかった涙は、自分でもびっくりするほど自然に流れ落ちていた。


 ぽろぽろ、ぽろぽろと涙が流れていく。止めようとしてもぬぐっても、それはとめどなくあふれてくる。

 わたしはそんなに良い子じゃないないのに。誰かの悲しみを悼んでこんな風に涙を流すようなタイプじゃないのに。


 どうしてだろう。

 もしかして、またさっきの雪みたいに心への干渉を受けてるんだろうか。


 焦って辺りを見回す。それでも滲んだ世界で確認できた危険そうなものは凍った炎くらいだった。そしてそれは何かをしているような気配もない。


 だから、これは何者かによるものじゃなく、わたしの心から生じた涙に違いなかった。


 今更ながらに自分の感情を理解する。


 降る雪で凍りついていた最後の感情の歯車が回り出したんだと。

 悼む悲しみと自分自身の悲しみが混ざり合って、あふれてこぼれて涙になって。そうしてやっと心は悲しい気持ちをかたちにできたんだと。

 そう思った。


-◇ー


 どのくらいそうしていただろう。

 涙が流れるまま、その場にじっと留まっていて。顔を上げることができたのは、ついさっきのことだった。


 辺りを見回す。

 そこは相変わらずの吹雪の光景で、前に見える凍った炎にも変わった様子はない。


 ……いや、違う、かも。


 凍った炎。その先端は尖っていたはずなのに、今はずいぶんと滑らかになったような。


 わたしの周りには吹雪が届かない。

 それはつまり、凍てつかせる冷気が凍った炎に辿り着いていないということで--。


 ぴしり、と。

 ヒビ割れる音がやけに大きく響いた。

 

 凍った炎の右上、端の端。

 そこから炎がぼおっと音をあげて吹き上がる。


 なんて迂闊。注意しなきゃと決意したそばから無警戒に泣きくれてしまうなんて。


 吹き上がるのは青白い炎。

 それはほんの一欠片ほどしかないのに、感じる禍々しさは本能的な恐怖を引き起こすほど。


 だから理解する。

 きっとこれこそが火事の原因になったもので、誰かの大切な何かを奪ったかもしれないものなんだと。

 それを目にしてわたしは--。


 わたしは思いきり後ろに飛び退き、距離を取った。

 だけど逃げるつもりはない。この炎は今消さないといけないものだから。


 吹雪が前に吹き荒ぶ。狙い通り、凍った炎は吹雪に包まれて見えなくなる。


「これで……っ!」


 凍ってくれるはず。わたしが来る前には炎は凍りついていたんだから。吹雪に晒されればきっと氷の中に封じ込められるはずだから。


 けれど、そんなわたしの考えを嘲笑うかのように、どんどん、どんどんと頬にあたる風の温度が増していく。

 寒さは感じず、もはやじりじりと肌を焼く熱さを感じるほどに。

 吹雪で覆われた先。見ることも聞くこともできないそこで、炎はきっと、今まさに氷の枷から解き放たれようとしている。


 フラッシュバックするニュースの光景。燃え上がる火の手。死に(いざな)う黒い煙。

 それが。それがもう一度起きるなんてこと。


「御柱くん、勇気を貸して……!」


 強く彼を想う。

 きっとこの炎こそ食い止めようとした彼を想う。だってクリスマスイブのあの日、けたたましくサイレンを鳴らす消防車たちを見て、御柱くんはわたしのもとから走っていったのだから。それから炎を消す雪がずっと降り続いているのだから。


「うあぁぁーーっ!」


 叫ぶ。体中の弱気を焼き尽くすように。


 ごおっと風が周りで渦を巻く。

 渦巻く風、それは赤い炎の渦。

 わたしの体の真ん中からあふれ出た熱が、炎になってわたし自身を包んでいるのだと理解する。

 怖くはない。逆巻く炎はわたし自身の恋する想いなのだから。たとえそれがわたし自身を薪に燃えたぎる炎だとしても、わたしはそれを選ぶんだから。


 御柱くんがやったみたいに、わたしも御柱くんみたいに。


「やってやるんだからぁっ!」


 まっすぐに駆け出して、すぐにそれが目に映る。

 青白い炎。ぼろぼろにひび割れた氷を中から喰い破るように炎は噴き出していて、それは今にもまろびでそうなタチの悪いお化けみたいだった。


 それに炎をまとったまま体当たりする。


 炎が混ざり合う。喰らい合う。

 体が灼ける。身体中全部が熱くて痛い。


 けれどそれより苦しいのは意識が青白い炎(昏い思考)に侵されること。


 例えばそれは、好きな人と街を行く女を見たときに芽生える(ねた)みであって。

 例えばそれは、幸せそうに手を繋ぐ家族を見たときに芽生える(そね)みであって。


 それは己ごと全てを焼き尽くす焔神(ほむらがみ)の一欠けなれば、小娘の卑小な恋など呑み込んで喰らい尽くすのみ。

 赤い炎(わたし)は青い炎に呑み込まれて消えてゆく。


 だけど。

 だけどそのとき、降る雪が青い炎に触れた。

 すぐに溶けてしまう雪。炎を凍らせることもできない弱々しいもの。


 それでもそれは青い炎を揺るがせて、弱らせて。

 わたしはわたしを取り戻す。


「御柱くん御柱くん御柱くん……っ!」


 彼を想う。

 さらさらの黒髪。吸い込まれそうな深い瞳。

 わたしの手を引く優しい右手。


 好き。大好き。


 だから。


「負けてられるかぁっ!」


 燃えたぎる。逆に覆い尽くす。


 青白い炎がもういちど激しくなる。

 体が焼ける。喉の奥が焼けて息をするのも苦しい。意識があるのが不思議なくらい。


 熱くてたまらない。けれど。

 そんなもの。御柱くんに会えない痛みに比べたら。


「ぜんっぜんっ……足りないっ!」


 叫びとともに赤い炎は青白い炎を飲み込んで。

 ぼぼぼっと。最後は恨めしそうな音を立て、青白い炎はわたしの周りから消え去った。


 凍りついた炎は跡形もなくなって、火傷しそうに熱い体を吹雪がそっと包む。


「あっ」


 まずいと思った。取り込まれてまた夢を見させられると、そう思った。

 けれど吹雪はわたしをそっと抱きしめるだけでそれ以上何もしてこない。触れるぎりぎりのところで淡く弾けて消えてゆく。

 息が整って、わたしの炎がわたしをもう一度うっすらと囲うまで。そっと。じっとわたしのそばにいた。


 ……ほんと。優しくしてくるのに、それでも触れてこない。御柱くんにそっくりだ。


 それでも会いに行く。そう決めたのだから。

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