御柱くんと過ごす一日
「伊勢崎さん、伊勢崎さん」
とんとん、と柔らかく肩に触れる感触。わたしの名前を呼ぶ人の声。
「んぅ……」
まどろみから浮かび上がる。
ゆっくりと目を開く。
ぼんやりとした視界がかたちを結ぶと、そこにはわたしを見下ろす御柱くんの顔があった。
「御柱くん……?」
なんで?
何故かそんな言葉が急に浮かんで。
そして何故か、きゅうっと強く胸が締め付けられた。
嬉しいような。それよりも激しく泣きたいような。
「おはよう。 よく眠れた? いい天気だからね」
眠っていた……。
そう言われると、色々と納得する。
だってわたしはいま目を覚ましたのだから。
感情が昂っている理由は、何か怖い夢でも見ていたからに違いない。
そう。
今日は暖かい春の日なのだから。
「さくら……」
御柱くん越しに見えたものを思わず呟く。
桜。そう、お花見。
進級して無事おなじクラスになったわたしたちは、そのお祝いも兼ねて花見に来たのだった。
「そうだね。綺麗に咲いてるよ」
御柱くんが桜を見ながら顔を上げる。
それは本当にその通りで、薄ピンク色に色づいた花が満開になっているのはとても綺麗だった。
風が吹いて葉擦れの音がざあっと鳴るのも、なんだかとっても『いとをかし(古文で習った)』だと思う。
だと言うのに、私の意識はまったく別のところに集中してしまっていた。
上を向いた御柱くん。それで露わになった彼の喉仏。
中性的な顔立ちの御柱くんの体にあって、ごつっとした形の、ギャップを感じるところ。
そこに目が吸い込まれる。
--
「どうかしたのかい?」
「う、ううん! あのね、サンドイッチ作ってきた!」
じっと見つめていたのを誤魔化すため、ぴょん、と体をあげて起き上がる。
2人用サイズのレジャーシート。その端っこに置いた籐のバスケットには早起きして作ったサンドイッチが入っているのだ。
「へえ! ありがとう! いい時間だし、今から昼ごはんにしよう!」
御柱くんは少しだけびっくりしたあと、まるで太陽みたいな笑顔で喜んでくれた。
それが。
それがほんとうに嬉しくて。
「うん! 食べよ!」
わたしも彼に負けないくらいの笑顔で返すのだ。
春の日の昼下がり。
わたしは御柱くんといれて、とても幸せだった。
--ほんとうに
-◇-
ぼすん、と前からベッドに倒れ込む。
お花見をして、サンドイッチを一緒に食べて、とりとめのないことを話したりして。
家に帰って、晩ご飯を食べてお風呂に入って、夜11時。
いつもはもう寝る時間。
なんだけど。
「うー」
御柱くんとおしゃべりしたい。
お昼にたくさん話したのにまだ足りないのだ。
ちょっと前に流行った動画のことも、リカちに最近できた恋人のことも、新発売のお菓子のことも。
そんな他愛ないようなことを、話したくってたまらない。
スマホの画面をじーっと見つめる。
ほんのちょっと操作をすれば、御柱くんに電話をかけることができる。
けど、それはできない。
御柱くんは夜忙しいみたいで、今まで一度もこの時間の電話に出てくれたことはないから。
電話をかけても寂しい気持ちになるだけなのだ。
ということで、写真アプリを開いて御柱くんの写真のポートレートを見てみることにする。
関連性のありそうな写真をなんかいい感じのBGMとともに流してくれる素敵機能だ。
写真の御柱くんはどれもかっこいい。
んふふ--。
ぷるるる!
「んひゃあっ!」
突然の着信に思わず飛び上がる。
だって画面に表示された名前が御柱くんだったから。
慌てて電話をとる。
か、カメラはオンになってないよね。
「み、御柱くん? こんばんは」
『こんばんは伊勢崎さん。今大丈夫かな? 少し話したくってさ』
電話の先は間違いなく御柱くんの声だった。
驚きと困惑が少し。けどそれより圧倒的に嬉しさが大きかった。
「うん! もちろん大丈夫! 何かな?」
『用はないんだ。ただ声が聞きたくなって』
囁くような甘い言葉。とろけるような、わたしの欲しいことば。
「わ、わたしも御柱くんのこえ、ききたかった」
『そっか。じゃあ一緒だね』
ふふ。ふへへへへへ。
--っは!
いけない。いけない。
多幸感でバカになるところだった。
話題話題。
話したいこと。話したいこと。
「あのね、冬にチョコレートの新作が出たんだよ。くちどけなめらか! って感じだった!」
『へぇ! 良いね。どこのやつ?』
「えっとね。駅前の……」
嬉しいな。
「……でね。リカちがね、きゅんきゅんってなってね……」
『あはは! 凄いねそれは!』
楽しいな。
「流行ってるダンスの動画があって……」
『あ、見たことあるある!』
他愛もない会話。
それがどうしようもなく幸せで。
それはまるで、ふわふわとした雪に体を包まれているような心地良さがあって、いつまでもこうしていたいと思ってしまう。
--ほんとうに?
「あつっ!」
『大丈夫っ!?』
「う、うん! スマホが熱持っちゃったみたい」
言いながらびっくりする。
スマホを持っている左手の指先。そこがまるで火傷しそうなくらいに熱かった。
……びっくりしたけど。
御柱くんに大きな声で心配してもらったのは、ちょっとだけ嬉しいかもしれない。
そんなことを思いながら、わたしは御柱くんとの何でもない話に戻ろうとして。
--ほんとうにそれでいいの?
頭の中から響いてくるような、わたしと同じ声をした何かの言葉をはっきりと認識した。
認識したなら、もう止まらない。
--訊きたいことがあったよね。
--喉仏のところにある火傷跡の理由とか。
--夜に電話が繋がらない理由とか。
うるさい、と頭の中に鳴り響く声に頭の中で叫び返しても効果がない。
溢れてくる。言葉を止める術がない。
だってそれは自分の中から出てくるのだから。
--どうしてわたしは冬の間に起きたことを話したいの。御柱くんはいつだってわたしの話を聞いてくれたはずなのに。
「それ、は……」
声が漏れる。
すると世界は真っ白に塗りつぶされた。
スマホもない。ベッドもない。
御柱くんの声も聞こえない世界。
けれどそれはきっとほんとうの--。
「や、やだ……っ!」
目を閉じる。たったそれだけで。
『伊勢崎さん?』
御柱くんの声が聞こえた。
世界がかたちを取り戻す。体を受け止めるベッドの柔らかさも、握りしめたスマホの硬さもしっかりと感じることができる。
それは泣きたくなるくらいに幸せな世界だった。
--ほんとうにそれでいい?
問いかけてくる声。
それはわたし自身の声。
それに「うん」と答えたなら、世界はもう二度と真っ白になってしまうことはないだろう。
そんな予感がした。
「ね、御柱くん……」
問いかけに答えず、御柱くんに言葉をかける。言ってもらいたいことがあったから。
「御柱くんは、わたしのこと好き?」
『もちろん。好きだよ、伊勢崎さん』
間髪入れずに返ってくる言葉。
どうしても聞きたかったその言葉。
--ああ。
それだけで。それだけでわたしは。
「ありがと。御柱くん。夢か何かでも、嬉しかった」
これが現実じゃないと確信できる。
だって御柱くんはわたしのことを好きだと言ってくれたことはなかったから。
わたしをお姫様みたいに扱ってくれるのに、けしてわたしを中に踏み込ませてくれない人だったから。
けど好きで。
時折のぞかせる決意を秘めた瞳とか。どこかが痛そうなのに、心配させないよう柔らかく微笑む表情とか。
『好きって言わなくて良いよ』とわたしが言ったときの、ひどく狼狽えたようなくちびるの震えとか。
そんな、王子さまの御柱くんが見せるほんものの御柱くんの断片が。
そんなものがどうしようもなく気になっていていたんだよ。
だから。
だからわたしは御柱くんのことが好きで好きでたまらないと言い続けられる。
「ぜったい会いに行くから」
呟いて、わたしの王子さまに別れを告げる。
幸せな景色を振り払うように、けしてそこに捉われたりしないように。
ごおっと風が周りで渦を巻く。
渦巻く風、それは炎の渦。
わたしの体の真ん中からあふれ出た熱が、炎になってわたし自身を包んでいるのだと理解する。
熱くはない。逆巻く炎は何もかもを燃やしてしまうような激しさを感じるのに、自分が燃えてしまうような怖さは欠片もない。
それどころか暖かさがあった。
まるで体の芯まで凍てつかせた雪を溶かしてしまうような。
そしてわたしは目を開く。
そこは扉を開けた先。
『御柱くんの部屋』からほんの一歩だけ踏み出した場所だった。
目の前には視界を埋め尽くすほどに降り積もった雪。
それが、わたしのまわりだけ抉られたように無くなっている。
……この雪がきっと、わたしに幻を見せたんだろう。
ここはもうわたしの常識が通じる場所じゃない。これくらいのことは平気で起こるんだ。
注意、しなくちゃいけない。
けれど足を止めてはいけない。
前を向けば荒れ狂う吹雪。
雪はまっすぐ前の方から吹きつけてくる。
ただ、もう届かない。
心を穏やかに凍らせる雪は、わたしの近くまでくると溶けて消えていく。
……先に進もう。
御柱くんに、早く会いたい。