御柱くんのいない一日
「伊勢崎さん、伊勢崎さん……」
とんとん、と柔らかく肩に触れる感触。わたしの名前を呼ぶ人の声。
「んぅ……」
まどろみから浮かび上がる。
声の方を向く。
ぼんやりとした視界がかたちを結ぶと、そこにはわたしを見つめる御柱くんの顔があった。
わたしが編んだ灰色のマフラーを首に巻いてくれている。
ほわん、と幸せな気分。
目覚めたとき隣に好きな人がいるなんてこと、きっと世界でいちばん幸せなことのひとつに違いない。
寝ぼけてむき出しになった心でそんなことを考えたり。
「御柱くーん」
ぐりぐり。
頭を彼の肩に押しつけてみたりする。
「まだ寝ぼけてるのかい?」
彼の手がわたしの髪をなぜる。
少しこそばゆいけれど、それ以上に落ち着いて気持ちよかった。
もう一度まぶたが重くなってくるくらい。
そんなとき。
がたん。
音と同時にちょっと大きな縦揺れ。
それでここが電車だったことを思い出した。
「お、おはよ!」
慌てて頭を縦に戻す。
それと同時に意識がはっきりとして。
(公共の場でなんてことを)
先ほどのなんとも恥ずかしい姿を思い出して悶えてしまう。
「おはよう、目が覚めたね」
そう言いながら御柱くんはわたしの目の下に浮いた涙をそっと拭った。
あわわわわわ。
ぼん! と火が出てもおかしくないくらいに顔が赤くなる。見なくても分かる。
それでも彼といえば涼しい顔だ。
サラサラの黒髪にすっと通った鼻筋。深みのある瞳は今でもたまに吸い込まれそうになる。
そんな整った顔立ちで王子様じみた態度を平気でとるものだから実にさまになっている。
「もう少しで駅に着くよ。ちょっと時間があるから少しぶらついてからお店に行こう」
お店。
駅ビルの中にあるちょっと高級なレストラン。高校生のわたしたちにはかなり敷居が高いそこが、今日の『ディナー(うひゃー!)』の場所である。
「雪、今からでも降らないかな……」
きっとすごいロマンチックだと思う。
窓際の席からは駅前のクリスマスツリーが見えるだろうから。
そんな何気ないわたしの一言を包み込むみたいに。
「そうだね」
御柱くんはわたしに向かって笑った。
-◇-
そして。
あの日。
市内全域で同時多発的に火事が起きた日。
目の前でクリスマスツリーのイルミネーションが火花を上げて燃え上がったあの日。
クリスマスイブ。
けたたましくサイレンを響かせる消防車を見て、御柱くんは姿を消した。
わたしに『待ってて』とだけ告げたまま、宙ぶらりんになったデートをほっとらかしにしたままで。
あの日からずっと。火事全てを消し止めた雪は今でも降り続いている。
-◇-
リビングの時計が7時45分を指す。
けれど家の外からわたしを呼ぶ声が響くことはない。
「ふう……」
スカートの下にジャージを履いてレインコートをかぶる。そして履き慣れたブーツに足を通す。今日もまた、一人で高校に行かないといけない。
玄関のドアを開けば、外ではたくさんの雪が飽きることもなく降り続けていた。
鍵を閉めて外に。
むぎゅ、と雪を押しつぶしながら足を前に進ませる。
少し疲れるけれど、滑って転ばないようするためには必要なこと。もうだいぶ慣れたことでもあるし。
それに雪が降り出した頃よりはだいぶマシだったりするのだ。
雪のほとんどは歩道の脇にどかされていて、踏み潰す雪は新しく降った数センチ程度。
視線を先に向ければ、わたしと同じように雪を踏みしめながら歩く様子の後ろ姿がちらほら。
道路の反対側に目を向ければ、その途中の車道で車間を開けた車がゆっくりと進んでいる様子が見えた。
雪が降り始めたあの夜からもう少しで三ヶ月。雪なんて滅多に降らなかったこの街で起きている異常事態。
それでも世間は穏やかで、日常は当たり前のように回っている。
-◇-
学校に行って、誰も座らない御柱くんの席を見て。教室の扉が開くたびに御柱くんの姿を期待して。御柱くんのいない教室で授業を受けた。
御柱くんは今日も学校にいなくて。
だからわたしは、学校が終わったあといつものように駅前にいた。
ここが御柱くんを見た最後の場所だったから。
真っ黒に燃えてしまったクリスマスツリーはとっくの昔に撤去されていて、おんなじような格好をした木が『何かありましたか?』とでも言いたげな姿をして佇んでいる。
なんなら雪が積もっているぶんホワイトクリスマス感があって、まるで自分のほうが相応しいと主張しているみたいだった。
それはおそらく大多数の人にとっては本当にそうで、例えばスーツ姿のお兄さんと合流したお姉さんだったり、一本の傘の中に入っていく高校生の男女だったり、なんだったら雪玉を投げて遊んでいる男の子たちにだって、きっと雪の積もったツリーの方が望ましいんだろう。
わたしだけが、そうじゃない。
そんなことを考えながら雪が降っているのをただ眺める。
鉛色の空。
雲を抜けてたどり着く光すら無い宵の入り、雪は街明かりに照らされることで見え始める。
じっと眺めていると、それはまるで何も無いところから雪が突然あらわれているような錯覚を引き起こすような光景だった。
そんなことがあるはずもないのに。
手袋を外し、手を伸ばして直接雪に触れる。
ひんやりとした感触。
そしてそれはわずかな間もないままに溶けて消えてしまう。
やっぱり普通の、なんの変哲もない雪だ。
降ってくる雪にどれだけ触れても、どれだけ眺めていても、変わっているところなんてわたしには何一つ見つけられない。
ぶぶ、と音を立てて携帯が震えた。
びっくりして思わず背を伸ばす。
ばさり、とレインコートから雪が落ちる音が響いた。
かじかんだ手で慌てて携帯を取り出す。
画面を見ると着信はお母さんからだった。
通話ボタンを押す。
「もう7時過ぎだから帰ってきなさいな。晩御飯できてるから」
「う、うん」
携帯を閉じる。ポケットに入れる。
踵を返す。
こうして呼ばれたら家に帰る。
そしてご飯を食べて、勉強して、お風呂に入って寝るのだ。
そうしていつもの日々が流れていく。
雪が降り続いていても、御柱くんがいなくても、どうしようもなくわたしの『いつも』は変わらずに続いていく。
-◇-
けれど。
けれど今日、わたしはまだ駅前にいた。
お母さんに謝りの電話を入れて、まだここにいさせてもらった。
別に何か変わったことがあったわけじゃない。ただ今日がたまたまこうしてしまう『いつか』だっただけ。
積もっている。
なぜか取り乱すほどには感じることのできない『御柱くんに会いたい』という思い。
でもそれは消せやしないもので。
だからこそ、それは降る雪のように毎日少しずつ降り積もっていって。
きっと今日溢れてしまったんだと、そう思う。
「さむ……」
吐いた息が白く浮かび上がっていく。
雪の始まりと交差して消えていく。
もう、ずいぶんと時間が経ったように思う。
周りにはもう誰もいない。
コート姿のおじさんたちも駅から出てこなくなってしばらく。
街灯だけが何も気にせずに光を放っている。
何がしたいのか。どうなってほしいのか。
それすら分からないまま、ただ意地を張っていた、そんな夜。
「御柱誉様をお探しですかな」
問いかけられた声。
その瞬間。まるで世界が塗り替えられたような感覚とともに。
彼の、手がかりに触れた。
-◇-
視線を空から正面に戻して思わずたじろぐ。
目の前にいた人の頭がフクロウだったから。
比喩でもなんでもない。
ぴっちりとした燕尾服の上に、フクロウの顔が乗っかっていた。
一瞬かぶりものかとも思ったけれど、それも違う。
白いシャツから覗く首元からも茶色いふわふわとした毛が生えていて、それはあまりにも生々しい質感をともなっていた。
あまりにも現実離れした姿。
けれど。
「はい、わたしは御柱くんを探しています」
きっと、そうなのだろうと思っていた。
御柱くんは、きっとそういう、普通とは違う世界にいる人だったのだと思っていた。
彼はずっと超然とした雰囲気を纏っていたし、あの日から御柱くんは消えてしまったのだから。
そして街には止むことのない不思議な雪が降り続いているのだから。
二つの出来事を結びつけないでいる方が不自然だった。
「それはそれは。ではお嬢様。あの路地裏にある青い扉は見えますかな? それが御柱様へと続く扉でございます」
視線を促されて右の奥へ。
そこは薬局とクリーニング屋さんに挟まれた隙間の道で、人ひとり通れるかどうかの細道。その奥に。
見たことのない、暗い青色に光る扉があった。
「はい、見えます」
言いながらわたしは足を踏み出していた。
目を離さずに歩く。
目を離せば消えてしまいそうな儚さがその扉にはあって。
レインコートが壁に擦れてしまう感触も、足が何かにぶつかる痛みも無視して、わたしはその扉の目の前に来ていた。
ドアノブに触れる。
少しひんやりとした感触。
回す。
ドアノブはあっけなく周り、扉は手前側に開いた。
鍵でもかかっていそうな雰囲気だったけれど、そういうわけではなかったらしい。
思わず振り返り、フクロウさんを見やる。
その表情を伺うことはできないけれど、人間でいう眉山のあたりが上がったような。
驚いたような表情をしているようにも見えた。
「入らせてもらいます」
何かの手違いでも構わない。
わたしは扉の中に足を踏み入れようとして--。
「どうぞお入りくださいませ。貴女様は『御柱誉様の部屋』に招かれていたお方でございますがゆえに」
いつの間にか部屋の中にいたフクロウさんが丁寧なお辞儀をしてわたしを待ち受けていた。
思わず後ずさる。
分かっていたことだけれど、このフクロウさんはわたしの常識の外にいる存在で。
扉の先はきっと、普通ではなくて。
ここはもしかしたら色々な意味での『戻れなくなるところ』かもしれなくて。
それでも、足を前に出す。
ー◇ー
部屋の中は全体的に扉と同じ暗い青色をしていた。
まるで深い海の底にいるような錯覚さえ覚えるほど。
とはいえ、目が暗さに慣れると中が明らかになってくる。
わたしとフクロウさん以外には誰もいないそこには、本棚やコート掛け、ベッド、それに学習机があって。
学習机の上には見慣れた教科書と、彼の。
御柱くんがいつも使っていたペンケースがあった。
「っつ、うぅ……!」
泣きたくなるほどの懐かしさ。
抱きしめて崩れ落ちてしまいたくなるくらいの無軌道な情動。
「うぅぅーーっ!」
それでも。
それでも強く声をあげて、泣き崩れるのを踏みとどまる。
まだ、肝心の御柱くんを見つけてはいないのだから。
少しくたびれた教科書も、見覚えのあるコートも、御柱くんがいないなら意味がないのだから。
「……御柱くんはどこですか」
入口の扉から少し離れた場所にいるフクロウさんに声をかける。
ここに御柱くんはいない。
さっきの扉が御柱くんに続くというのなら、次に進む道があるはずだった。
「こちらの扉の先にございます。ただ……」
フクロウさんが言い淀む。
また何か試されたりするのだろうかと思ったけれど、それは杞憂なようだった。
「この先は無意識の海へと至る場所。心のありようがかたちをなす場所でございます。少々危険ですが、お覚悟はよろしいですかな?」
危険、それは。
御柱くんが帰ってこられなくなるような。
--思考を切断する。
気にしない。そんなことは知らない。
御柱くんはわたしが迎えに行くのだから。
「心配ありがとうございます。けど、わたしは行きます」
今更の話だ。
ここで帰るなら、そもそもこの部屋に入っていない。
「それでは行ってらっしゃいませ。ゆめゆめ自らをお忘れなきように」
フクロウさんが扉を開く。
扉の先は灰色の嵐が吹き荒れている。
--行くよ。御柱くん。
扉を越える。
降り積もった雪の中、足を踏み入れる。
-◇-
そして意識は白に染まった。