66.忍者
(船って、速いんだね)
海面が月明りで暗く煌いていて、きれいだ。
つま先立ちとなって、手摺の上から顔を出すようにして海面をのぞき込んでいると、護衛にさっと手を顔の前に出されてしまった。
(危ないね)
小さく頷き、海面を見るのをやめて振り返ると、甲板を吹き抜けていく風で飛んでいくのではないかと思えてしまう青年も護衛として立っている。
「私はフユーです。あなたのことを何て呼びましょうか?」
青年は何も答えてくれない。
「私、こっちの言葉だけ話せることにしたいので、人目のあるところでお連れさまが何か言ったら、私に耳打ちするふりをしてくれませんか?」
私がノートを取り出すと、青年は微かに反応したような気もしたのだが、風でそう見えただけかもしれない。
耳を隠すようにノートを持って青年に寄って行くと、青年はそっとノートへと顔を近付けてくれた。
「練習しましょう。あなたのことを何て呼びましょうか?」
私がノートをかざすと、青年は顔を近付けてはくれるのだが、何も言ってくれない。
「シノブって呼んでもいいですか?」
私がノートをかざすと、青年は頷きたそうにしつつ、顔を近付け、やはり何も言ってくれない。
「では、ヨハンはどうですか?」
(特に反応なし、に見える)
青年は、ノートに顔を近付けるだけだ。
「あなたのごはんは美味しいです。これからも私にごはんを作ってくれるのなら、シノブ。作ってあげたい誰かを見つけたら、ヨハン。どちらがいいのか、もし決まったら、あなたをどう呼ぶのか、教えてください」
私がノートを開き、はい、と、いいえ、と書かれている部分を指さしながら、頷くことと、首を横に振ることをやってみせると、青年は、私の指さす方に合わせて、動作を変えてくれた。
(これは?)
首を傾げる動作をしながら、どうなんでしょうね、と書かれている部分を指さすと、青年は何か言いたそうにしつつ首を傾げてくれた。
(難しいよね)
どちらでもない、わからない、など、肯定でも否定でもない回答を当てはめたいのだが、簡潔に表現するとなると、どんな言葉が便利なのか。
(あと、これね)
これ美味しい、をびしっと指さして小さく頷くと、青年は眉間に皺を寄せたそうにしつつも、これ美味しいと書かれた部分を指さして、小さく頷いてくれた。
「材料とか、調味料とか、道具とか、お菓子とか、お酒とか、売ってるもので、これ美味しい、なものがあったら教えてください」
じっと青年の方を見ると、青年は躊躇いつつも、はい、を指さしてくれた。
私が金平糖の小瓶を差し出すと、青年は他の護衛を気にしつつも小瓶を受け取り、じっと見ている。
(毒でも入ってると思わせてるかな‥‥‥?)
「撒菱と似てるでしょ?金平糖っていうお菓子だよ。一緒に食べることができると、仲が深まる、っていうおまじない知ってる?」
青年は、すっと、いいえ、を指さして首を横に振った。
「あなたがごはんを作ってあげたい誰かを見つけたら、金平糖を一緒に食べようとしてくれると、私は、そうなんだー、と思うことができます。こっちは、香水。あなたが思わず抱きしめたくなるような誰かを見つけたら、指先にちょっとだけ出して、耳の付け根って言うのかな?」
私が耳たぶの後ろの辺りを指で示すと、青年は私の渡した香水の小瓶と、私の示す部分を交互に見ている。
「こういうところにつけてあげて、腰でも抱くようにして香りを確かめるといいよ?」
私が下世話な笑みを浮かべると、青年は私の頭の働きを心配していそうな顔をしている。
「苦手な香りかどうか、部屋に戻ってからでも確かめておいてください」
私が歩き出すと、青年も護衛としてついてきてくれる。
(ヨアンナにとっては恐怖体験、とはならないといいな‥‥‥)
ヨアンナは今もまだ、あの宿舎にいるのだろうか。




