1. 惑星G112①
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ワープアウトした先に広がっていたのは、息を呑むほどに美しい緑の惑星だった。
船窓から見えるその星は、まるで上質なエメラルドのように深く鮮やかな輝きを放っている。
白い雲が優雅な模様を描き、巨大な大気の流れが惑星全体を穏やかに包み込んでいるようだった。
『惑星G-112の軌道に到達しました。大気成分、スキャン完了。地球の大気とほぼ同一の組成です。アースタイプであるケージならば問題ないでしょう』
ミラの報告に君は「そりゃ結構」と気の抜けた返事を返す。
『遮蔽シールドを展開し、大気圏に突入します』
船体が軽い振動と共に高度を下げ始めると、窓の外の景色はエメラルドの海から鬱蒼とした緑の森へと変わっていった。
どこまでも続く樹海、蛇行する巨大な河、そして所々に点在する湖が太陽光を反射してきらきらと輝く。
まるで手付かずの楽園という言葉がこれほど似合う場所も珍しいだろう。
『着陸ポイントを特定。比較的開けた平原へ降下します』
シルヴァー号はゆっくりと高度を落とし、やがて柔らかな草地の上へと静かに着陸した。
すぐそこには森が口を開いて待っている。
「さて、と。楽園探訪といくか」
エンジンが停止し船内が静かになると、君は大きく伸びをしながら立ち上がった。
◆
調査を開始して間もなく、それは唐突にやってきた。
君の脳内に直接、穏やかで優しい「声」が響き始めたのだ。
『ようこそ、旅人。我々はお前を歓迎する』
君は驚いて立ち止まり、周囲を見回す。
だがそこには風に揺れる植物があるだけだ。
『驚かせてしまったようだな』
再び声が響く。
「なんだぁ……こりゃ……。俺は何もキメてねぇぞ」
キメる、とは違法薬物を嗜む事を意味するスラングである。
下層居住区の住民は朝のコーヒー代りにドラッグを血管にぶち込む。
『我々はこの星。この星に根を張り、葉を広げる全ての植物の集合意識だ』
「植物が喋るのか」
『言葉という形ではない。我々はあなたの思考を読み取り、あなたの理解できる形で意思を伝えている』
君は顎に手をやりながら、この奇妙な状況を理解しようと努めた。
アルメンドラが言っていた精神感応能力とはこのことか。
『お前の目的も理解している。サンプルが必要なのだろう?』
「ああ、そうだ」
『ならば協力しよう。我々は争いを好まない。お前もまた、我々に危害を加える意思はないようだ』
植物たちは君の調査に極めて協力的だった。
必要なサンプルがどこにあるのか、危険な動物が近づいていないか、全てをテレパシーで教えてくれる。
あまりにもスムーズに進む調査に、君は次第に警戒心を解いていった。
◆
『ケージ、過度の接触は危険です』
ミラが警告を発する。
『精神感応は未知の領域です。彼らが本当に友好的なのか、まだ断定はできません』
「大丈夫だって。こいつら、良い奴らみたいだしな」
君はすっかりリラックスしていた。
調査は順調に進み、依頼されたサンプルのほとんどは既に回収済みだ。
ふと君の目に、ハンモックのように垂れ下がった巨大な葉が映った。
厚みがあって、弾力もありそうだ。
──あそこで一眠りしたら気持ちよさそうだな
君がそう考えた瞬間、植物たちの声が脳内に響く。
『疲れているのか、旅人よ。よければ横になってみるか?』
その言葉と共に巨大な葉がゆらりと揺れ、君を招き入れているように見えた。
君が葉に近づこうとした、その時。
『ケージ、罠の可能性があります。絶対に入ってはいけません』
『大丈夫だ、旅人よ。我々に騙す意図はない』
ミラの言葉を否定するように、植物たちは言う。
「騙すつもりはないって言ってるぜ」
君はミラの警告を意に介さず、葉に向かって歩き出す。
『ケージ!』
ミラはモノアイを赤く光らせながら再度強く警告した。
「俺は“騙すつもりはない”って言ってくる奴の事を一度は信じる事にしてるんだよ」
『それで騙されたらどうするのですか?』
ミラの問いに、君は足を止めて振り返りニヤリと笑った。
「その時はそいつに対して何をしてもいいのさ。ぶん殴ってもいいし、ぶっ殺してもいい。殺す以上の酷い事をしたっていい。それがスラムのルールで──俺はそんなルールの世界で育ったんだ」
下層居住区という掃き溜めでは、言葉は時として命よりも重い意味を持つ。
誰もが生きるために嘘をつき他人を陥れるのが日常の世界で、あえて「騙すつもりはない」と口にする行為は、一種の覚悟の表明に他ならないのだ。
それは“この一線を越えた時、お前がどうなっても文句は言わない”という、声なき契約書へのサインでもあった。
君が相手を「信じる」のは、性善説に基づいた人の良さからでは決してない。
それは相手に「裏切る自由」と、そして「裏切った結果に対する全責任」を与えるという、極めてフェアな駆け引きの一環なのである。
最初から騙すつもりで近づいてきた相手が案の定騙してきたならば、それは正直いって大した問題ではない。
しかし騙さないと口に出して騙してきたのなら話は別だ。
奪われたものが金であろうとプライドであろうと、その代償は相手の血で支払わせる。
その選択肢に上限はなく、ただ君の気が済むか済まないか、それだけが唯一の基準となる。
◆
植物たちの集合意識が揺らいだ。
彼らは君の言葉と同時に、その深層意識に眠る禍々しいイメージを読み取ってしまったのだ。
燃え盛る炎。
悲鳴を上げて炭化していく生命。
そしてその地獄絵図を前にして、腹を抱えて笑い転げている君の姿。
それは破壊と混沌を心から楽しむ、純粋な狂気のビジョンだった。
さらに植物たちは別の異常にも気づく。
君が触れている葉の様子がおかしい。
君の指先が触れた部分からまるで強力な酸に浸されたかのように組織が黒く変色し、崩れ始めているのだ。
そして君の足元からは微かな黒い粒子が霧のように滲み出て、周囲の土壌を汚染していた。
植物たちの集合意識は、瞬時に結論を下す。
彼らの方針は変わった。
この恐ろしい訪問者を刺激することなく、可及的速やかに、そして穏便にこの星から立ち去ってもらうこと。
君を騙して捕食しようなんていう愚かな考えは、もうどこにもなかった。




