49. 惑星C66、日常③
◆
デートの翌日。
君は襤褸ホテルの硬いベッドで目を覚ました。
窓の外は相変わらずスモッグに覆われ、薄暗い橙色の光が街を照らしている。
『おはようございます、ケージ』
ミラの声が部屋に響く。
充電ユニットから離れ、ふわりと浮遊し始めたミラがモノ・アイを青く光らせていた。
「ああ、おはよう」
君は欠伸をしながら起き上がる。
サイバネボディに疲労はないが、習慣というものは簡単には抜けない。
『昨日は楽しそうでしたね』
ミラが妙に人間くさい口調で言う。
「まあな。でも財布は軽くなったけど」
君は苦笑しながら、端末で口座残高を確認する。
数字を見て、ため息をついた。
中層居住区での食事と映画で、予想以上の出費だった。
──まあ、ザッパーが喜んでくれたならいいか
『新しい依頼を探しておきました』
ミラが端末に情報を転送してくる。
画面にいくつかの仕事がリストアップされていた。
「どれも似たり寄ったりだな」
君は興味なさそうに画面をスクロールする。
危険度の低い輸送護衛、データ収集、施設の警備。
どれも手堅いが、報酬もそれなりだ。
「今すぐ決めなくてもいいだろ。ちょっと散歩でもしてくるわ」
『お気をつけて』
ミラの声を背に、君は部屋を出た。
◆
襤褸ホテルの廊下は相変わらず薄暗い。
壁には謎のシミが広がり、床は歩くたびにギシギシと音を立てる。
階段を降りると、ロビーでは住人たちが思い思いに時間を潰していた。
片腕のない男が安酒を飲みながら独り言を呟いている。
隅では若い娼婦が客引きの準備をしていた。
──いつもの光景だな
君は誰とも目を合わせず、外へ出る。
◆
下層居住区の朝は騒がしい。
路地裏では早朝から違法な露店が開かれ、怪しげな商品が並んでいる。
「新鮮な合成肉! 賞味期限は聞くな!」
「痛み止め、安くしとくよ! 副作用? 知らねえな!」
売り子たちの声が飛び交う。
君は人混みを避けながら歩いた。
ポケットに手を突っ込み、足元の水たまりを跨ぐ。
──この水たまり、何の液体かわからねえな
そんなことを考えながら角を曲がると、小競り合いが起きていた。
「てめえ、俺の縄張りで何売ってんだ!」
「はあ? ここは公道だろうが!」
二人の男が掴み合いになっている。
周囲の人間は面白そうに見物していた。
下層居住区では日常茶飯事の光景だ。
君も特に気に留めず、迂回して先へ進む。
◆
しばらく歩くと、馴染みの風景が見えてきた。
錆びついた看板に「チェルシーの店」と辛うじて読める文字。
扉は相変わらず傾いており、押すとギィと嫌な音を立てた。
「いるかい、チェルシー」
君が声をかけると、店の奥からずるずると音がする。
やがて、透明なゼリー状の巨体が現れた。
『ケージ……マタ、キマシタカ』
溺れたような声が響く。
「暇だったからな。何か面白い話でもないかと思って」
君はカウンターに腰掛ける。
古びた木製の椅子が、体重でミシミシと鳴った。
『トクニ……アリマセン。イツモドオリ、デス』
チェルシーは体をゆらゆらと揺らしながら答える。
その動きに合わせて、体内の気泡がぷくぷくと浮かび上がった。
「そうかい。まあ、平和が一番だな」
『ヘイワ……ソウデスネ』
チェルシーは棚から酒瓶を取り出す。
例によって汚いラベルの安酒だ。
グラスを体内に沈めて洗浄し、そこに琥珀色の液体を注ぐ。
「悪いな、いつも」
君は礼を言いながらグラスを受け取る。
一口飲むと、すぐに体内で分解される。
味も素っ気もない。
『サイキン、トバクジョガ、ヘッタミタイデス』
チェルシーがゆっくりと話し始める。
「賭博場が?」
『ハイ……ケイサツガ、キビシクナッテ』
「ああ、確かに最近は取り締まりが多いな」
君は頷く。
下層居住区の警察なんて普段は見て見ぬふりが基本だが、上からの圧力があると急に仕事を始める。
『デモ、ベツノバショデ、アタラシイノガ』
「いたちごっこってやつだな」
『ソウデスネ……アト、ヤスリノチョウシガ、ワルイミタイ』
「薬売りのヤスリか?」
君も知っている男だ。
下層居住区では有名な薬の売人。
薬を売りもするが自分で愉しみもする。
『ナンデモ、ニセモノヲツカマサレタトカ』
「あいつはすぐに自分で使っちまうからなぁ」
『メ ガ、キイロニナッタ、ヨウデス』
君は苦笑する。
下層居住区の薬なんて、ロシアンルーレットの様なものだ。
目の色が変わるくらいならまあセーフだろう。
「それで、暫く商売を控えるってか?」
『ハイ、ソレデ、ジャンキーハ、ミンナコマッテマス』
「困るっつっても、他にも売人はいるだろ」
『デモ、ヤスリハヤスカッタカラ』
確かに、安さは正義だ。
特に下層居住区では。
◆
「他に変わったことは?」
君は話題を変える。
『アア、ソウイエバ……ゴミヤノオヤジガ、ケガシタ』
「ゴミ屋? セコハンローズの?」
『ハイ……ナンデモ、アシヲスベラセテ』
君の知るゴミ屋は、下層居住区のあちこちから廃品を集めて生計を立てている老人だ。
使えそうなものを修理して売ったり、金属類をまとめて業者に売ったり。
「大丈夫なのか?」
『タイシタコトハナイミタイデスガ……シゴトハデキナイ』
「そりゃ困るな。あの爺さん、家族もいないだろ」
『ダカラ、ミンナデスコシズツ、タスケテマス』
チェルシーの言葉に、君は少し驚いた。
下層居住区は確かに貧しく危険だが、時として妙な連帯感を見せることがある。
「へえ、見直したよ」
『ミンナ、イツカハジブンモ……ソウオモッテルカラ』
なるほど、と君は納得する。
明日は我が身。
それが下層居住区の合言葉だ。
◆
「ところで、西地区に新しい店ができたって?」
君が尋ねると、チェルシーは体を震わせた。
『アア……デモ、アレハミセジャナイ』
「店じゃない?」
『ギャングノアジト……ミタイナモノデス』
「なんだ、そういうことか」
新しい店というから期待したが、ギャングの隠れ家では近寄らない方がいい。
『サイキン、アタラシイグループガ、ナワバリアラソイヲ』
「またか。懲りない連中だな」
下層居住区のギャング抗争は終わることがない。
一つのグループが潰れても、すぐに新しいのが現れる。
まるでゴキブリのようだ、と君は思う。
◆
店を出ると、通りの様子が少し変わっていた。
人通りが増え、ざわついた雰囲気が漂っている。
「何かあったのかい?」
君は通行人の一人に声をかける。
痩せた中年の男だった。
「ああ、また取り締まりだとよ。警備ドローンが飛び回ってる」
男は空を指差す。
確かに、スモッグの向こうに赤い光が点滅している。
「今度は何の取り締まりだ?」
「さあな。違法改造とか、密売とか、理由なんていくらでもつけられる。まあ上で粛清があったらしいからな。それでポーズだけつけてるってとこだろう」
男は肩をすくめて去っていった。
君も足早にその場を離れる。
取り締まりに巻き込まれるのは御免だ。
◆
路地を曲がると、子供たちが遊んでいた。
ゴミを蹴って遊ぶ、下層居住区式のサッカーだ。
ボールの代わりは、丸めた新聞紙とテープ。
ゴールは壁に描かれた落書き。
それでも子供たちは楽しそうだった。
「おっちゃん、混ざる?」
一人の少年が君に声をかける。
歯が何本か欠けているが、笑顔は屈託ない。
「悪いな、今日はパスだ」
君はポケットから小銭を取り出し、少年に渡す。
「これでジュースでも買え」
少年の目が輝く。
「マジで!? サンキュー!」
子供たちが歓声を上げながら駆けていく。
──まあ、たまにはいいか
君は苦笑しながらその場を後にした。
◆
しばらく歩いていると、見覚えのある建物が目に入った。
「死体転がしの坂」の麓にある、古い教会だ。
もっとも、今では宗教施設としては機能していない。
ホームレスの溜まり場になっている。
扉の前には、ボロ布にくるまった人影がいくつか。
生きているのか死んでいるのかも定かでない。
君は素通りしようとしたが、ふと足を止めた。
教会の壁に、新しい落書きがあった。
「金持ちは宇宙へ、貧乏人は地獄へ」
黒いスプレーで書かれた文字。
──まあ、的を射てるな
君は皮肉な笑みを浮かべて歩き出した。
下層居住区の不満は、こうして壁に吐き出される。
◆
帰り道、君は別のルートを選んだ。
少し遠回りだが、市場を通る道だ。
下層居住区の市場は、カオスそのものだった。
合法と違法の境界が曖昧な商品が、所狭しと並んでいる。
「臓器、買い取ります! 相場より高く!」
「記憶消去サービス、嫌な思い出を忘れませんか?」
「幸運のお守り、効果は保証しません!」
商人たちの呼び声が飛び交う。
君は興味深そうに露店を眺めながら歩いた。
ある店では、正体不明の肉が串刺しになって焼かれている。
別の店では、期限切れの医薬品が堂々と売られていた。
──これが下層居住区の日常か
改めて見ると、なかなかに酷い光景だ。
だが、ここで生まれ育った君にとっては、これが普通だった。
◆
市場の中心部に差し掛かると、人だかりができていた。
何事かと近寄ってみると、賭け試合が行われている。
二匹の改造ネズミが、小さなリングで戦っていた。
「赤に100クレジット!」
「青に乗った! 200だ!」
観客たちが熱くなっている。
君も昔はこういう賭けに熱中したものだ。
──今思えば、馬鹿みたいな話だな
いや、今でも賭け事は嫌いじゃない。
ただ、懲りただけだ。
「兄ちゃん、一口乗らないか?」
胴元らしき男が声をかけてくる。
「遠慮しとくよ」
君は首を振って立ち去る。
男は舌打ちしたが、それ以上は追ってこなかった。
◆
市場を抜けると、静かな通りに出た。
この辺りは比較的マシな地区だ。
建物も多少はまともで、道も舗装されている部分がある。
もっとも、下層居住区の基準での話だが。
ふと、君は足を止めた。
路地の奥に、小さな店がある。
「サイバネ・リペア」という看板が見えた。
──へえ、こんな店あったっけ?
好奇心から近づいてみる。
店の窓には、様々な機械部品が並んでいた。
人工眼球、強化腕、神経接続ケーブル。
どれも中古品のようだが、手入れはされている。
「何か御用ですか?」
店から老人が顔を出した。
白髪に皺だらけの顔だが、目は鋭い。
「いや、ちょっと見てただけだ」
「ふむ、あんた……全身改造か」
老人は君をじろじろと眺める。
「ええまあ」
君は曖昧に答える。
「最近の若いもんは無茶をする。体は大事にしないと」
老人は首を振りながら店に戻っていった。
──大事にしたくても、できない時もあるんだよ
君は心の中で呟き、その場を離れた。
◆
襤褸ホテルへの帰り道、君は考えていた。
下層居住区の日常。
貧困、犯罪、絶望。
それでも人々は生きている。
子供たちは笑い、商人たちは商売をし、ギャンブラーたちは夢を見る。
──俺もその一人だったんだよな
今は少し違う立場にいるが、根っこは変わらない。
下層居住区の人間は、下層居住区の人間だ。
どんなに体を改造されても、それは変わらない。
◆
ホテルに戻ると、ミラが待っていた。
『お帰りなさい、ケージ』
「ただいま」
君はベッドに腰を下ろす。
『何か収穫はありましたか?』
「別に。ただの散歩だよ」
『そうですか。ところで、新しい依頼が追加されています』
ミラが端末を示す。
「後で見るよ」
君は煙草を取り出し、火をつける。
紫煙が立ち上り、すぐに分解される。
それでも、この儀式は捨てられない。
『ケージ、最近の下層居住区はどうでしたか?』
「いつも通りだよ。貧乏人が貧乏なりに生きてる」
『なるほど』
ミラの相槌に、君は苦笑する。
「ゴミ屋の爺さんが怪我したらしい。みんなで助け合ってるってさ」
『それは良いことですね』
「まあな。でも明日は我が身だ」
君は煙を吐き出しながら、天井を見上げる。
◆
窓の外を眺めると、相変わらずのスモッグ。
橙色の光が、薄汚れた街を照らしている。
これが君の日常だ。
金はある。
昨日の出費は痛かったが、まだ十分な蓄えはある。
だが、それを無駄遣いするわけにはいかない。
生身の体に戻るまで、我慢だ。
──まあ、いつになるかわからねえけどな
君は苦笑する。
必要な金額を考えると、気が遠くなる。
それでも、諦めるわけにはいかない。
◆
しばらくの沈黙の後、君は立ち上がった。
「よし、仕事でも探すか」
『先ほどの新しい依頼を見ますか?』
「ああ」
端末を開くと、いくつかの案件が表示される。
一つの依頼が目に飛び込んできた。
「なんだこれ……個人宇宙船清掃?」
『詳細を見てみましょう』
ミラが画面を拡大する。
「個人用宇宙船の清掃作業。危険度:極低。報酬:標準+成功報酬。特記事項:撤去したゴミ類は作業者が自由に処分可能。依頼主コメント:恥ずかしながら片付けができなくて……」
君は眉を上げた。
「ゴミは持ち帰り自由、か」
『いわゆる"汚船"の清掃のようですね』
「汚船?」
『個人用宇宙船には清掃員がいませんから、部屋を散らかす感覚で汚してしまう人もいるんです。そういう船は俗に"汚船"と呼ばれています』
君は鼻で笑った。
「宇宙船をゴミ屋敷にするなんて、どんだけだらしないんだよ」
『でも、お宝が眠っている可能性もありますよ』
「まあ、そうかもな」
君は詳細を読み進める。
依頼主は中層居住区の住人らしい。
船の型番から見て、そこそこの金持ちだ。
「金持ちのくせに掃除もできないのか」
『できる人とできない人がいるんです』
ミラの言葉に君は肩をすくめる。
危険はない、報酬もそこそこ、そして何か使えるものが見つかるかもしれない。
「よし、これにするか」
『了解しました。受注手続きを行います』
ミラが端末を操作する。
『出発は明後日、現地集合です。場所は第3宇宙港の係留ドックです』
「了解。じゃあ準備でもするか」
君は伸びをしながら立ち上がる。
他人の汚船を掃除か。
地味な仕事だが、たまにはこういうのもいいかもしれない。
──どんなゴミが出てくるか、ちょっと楽しみだな
そんな期待を胸に、君は準備を始めた。




