48. 惑星C66、日常②
◆
中層居住区への境界は巨大な隔壁にぽっかりと開いた通路だった。
検問所のようなものはない。
ただ、境界を越えた瞬間から監視カメラの数が急激に増え、警備ドローンが定期的に巡回している。
下層とは法の運用が段違いに厳しいのだ。
君は境界の手前で立ち止まり、周囲を見回した。
約束の時間より少し早く着いたつもりだったが──
「遅いですよ、ケージ」
振り返ると、そこにザッパーが立っていた。
メタノイドの彼女が着ているのは、淡い青のワンピース。
金属質の肌とは対照的に、柔らかな布地が風に揺れている。
「悪い悪い。でも似合ってるな、そのワンピース」
君の言葉にザッパーは小さく首を傾げた。
「おかしくないですか? 私のような者がこんな格好をしても」
「何言ってんだよ。綺麗だぜ」
君は本心からそう言った。
確かに金属の体にワンピースという組み合わせは異質かもしれない。
だが、それがザッパーの美しさを損なうことはなかった。
むしろ無機質な美貌に、有機的な柔らかさが加わって魅力的に見える。
「ありがとうございます」
ザッパーの頬が微かに青く発光した。
メタノイド特有の感情表現だ。
「さて、行くか」
君は軽く息を吸い込んでから、境界を越えた。
◆
中層居住区は下層とは別世界だった。
まず空気が違う。
下層特有の油と錆の匂いが薄れ、代わりに消毒液のような清潔な香りが漂っている。
空を見上げれば、人工照明が太陽光を模して柔らかく街を照らしていた。
道幅も広く、歩道には街路樹──もちろん人工のものだが──が等間隔で植えられている。
「随分と違うものですね」
ザッパーが呟いた。
「ああ。金があるかないかの差ってやつだ」
君は皮肉っぽく笑う。
実際、下層の住民が中層に来ないのは、単純に金がないからだ。
ここでは水一杯でさえ、下層の食事一回分の値段がする。
そして何より、ちょっとした違反でも即座に罰金を科される。
下層なら見逃される程度の行為でも、ここでは容赦なく取り締まられるのだ。
「で、どこ行く? 特に考えてなかったんだけど」
君の言葉にザッパーは苦笑した。
「相変わらずですね。デートに誘っておいて無計画とは」
「いやあ、君と一緒ならどこでもいいかなって」
軽口を叩きながら、君は通りを歩く人々を観察した。
下層では見かけない小綺麗な服装の男女が行き交っている。
彼らの表情には、下層民特有の諦観が見られない。
中層居住区は、下層から這い上がった者たちと、上層から転落しかけた者たちが混在する場所だ。
企業の中間管理職、熟練技術者、小規模な商店主。
彼らは下層の絶望からは逃れたが、上層の特権には手が届かない。
そんな宙ぶらりんな立場の人間たちが作り上げた街だった。
「飯でも食うか。腹減ったし」
「そうですね。私も少しエネルギー補給が必要です」
メタノイドも食事を取る。
ただし有機物ではなく、特殊な金属化合物を摂取するのだが。
◆
通りを歩いていると、様々な店が目に入った。
ホログラム看板が競うように客を呼び込んでいる。
「本日の合成肉、新鮮です!」
「惑星直送の希少鉱物、入荷しました!」
電子音声の呼び込みが重なり合い、騒がしい。
だが下層の喧騒とは質が違った。
そこには余裕が感じられる。
「あの店はどうですか?」
ザッパーが指差したのは、こぢんまりとしたレストランだった。
「多種族対応」の文字が看板に光っている。
「いいね。入ろう」
店内は思ったより広く、様々な体型の客に対応できるよう、テーブルや椅子の高さがまちまちだった。
触手を持つ客用の吸盤付きテーブル。
ガス状生命体用の密閉ブース。
そして普通の人間用の席。
「いらっしゃいませ。お二人様ですね」
店員は緑色の肌をした外星人だった。
君たちは窓際の席に案内される。
◆
メニューを開くと、地球料理から外星系料理まで幅広く載っていた。
「メタノイド用のメニューもありますね」
ザッパーが嬉しそうに言う。
「鉄分補給セット……マンガン添加オプション付き」
君は自分用のページを眺めた。
合成肉のステーキ、培養野菜のサラダ、発酵穀物のパン。
下層では高級品扱いのものばかりだ。
値段を見て、君は内心で顔をしかめる。
──こりゃあ、今月の食費が吹っ飛ぶな
だが、ザッパーの前でケチな真似はできない。
「注文はお決まりですか?」
「俺は合成肉のステーキ。ミディアムで」
「私は鉄分補給セットのAをお願いします」
店員が端末に注文を入力していく。
◆
料理が来るまでの間、君はザッパーに尋ねた。
「そういえば、仕事は見つかったのか?」
「はい。護衛の依頼をいくつか」
ザッパーは頷く。
「ただし今度は、依頼主の身元をしっかり調べてから受けるようにしています」
「そりゃ賢明だ」
君は水──もちろん濾過済みの清潔なものだ──を一口飲んだ。
この水だけで、下層なら三日分の飲料水が買える値段だ。
「開拓事業団からも声がかかりました」
その言葉に君は眉を上げる。
「マジか?」
「はい。どうやらメタノイドの戦闘能力を評価されたようで」
確かにザッパーの実力なら、事業団も欲しがるだろう。
だが同時に心配でもあった。
「気をつけろよ。あそこは使い捨てが基本だから」
「分かっています。でも、あなたと同じ組織で働けるなら」
ザッパーの言葉に君は複雑な気持ちになった。
嬉しい反面、彼女を危険に巻き込みたくない。
◆
料理が運ばれてきた。
君の前には、見た目は本物そっくりのステーキ。
ザッパーの前には、金属片が芸術的に盛り付けられたプレート。
「いただきます」
二人同時に食事を始める。
君は肉を切り分けながら、その味に驚いた。
「うまい。下層の合成肉とは全然違う」
「品質が違うのでしょうね」
ザッパーは金属片を口に運びながら答えた。
彼女が咀嚼すると、微かに火花が散る。
その光景は、知らない者が見れば奇異に映るだろう。
だが君には、それも彼女の魅力の一部だった。
◆
「ところで、君の体はどうなんだ?」
ザッパーが突然尋ねてきた。
「何か違和感とかないですか?」
「今のところは大丈夫だよ」
君は腕を軽く曲げ伸ばししてみせる。
「むしろ前より調子いいくらいだ。反応速度も上がってるし」
「でも、やはり心配です」
ザッパーの青い瞳が君を見つめる。
「無理はしないでくださいね」
「ああ、分かってる」
そう答えながらも、君は時々感じる違和感については黙っていた。
自分の体なのに自分でないような、奇妙な感覚。
だがそれをザッパーに言っても、心配させるだけだ。
◆
食事を終えると、二人は店を出た。
会計の額を見て、君は内心で泣いていたが、表面上は平静を装った。
「映画でも観るか?」
君の提案にザッパーは頷く。
「いいですね。何か観たいものはありますか?」
「特にないな。君は?」
「私も特には。一緒に観られれば何でも」
そんな他愛ない会話を交わしながら、中層居住区の繁華街を歩く。
ここでは歩きタバコ一本でも即座に罰金だ。
ゴミのポイ捨てなど論外。
下層の自由さとは真逆の、管理された清潔さがある。
建物も整然と並び、壁面には企業広告のホログラムが流れている。
「快適な暮らしをあなたに──ネオ・ライフ社」
「最新型サイバネティクス、好評発売中」
どれも下層では手の届かない商品ばかりだった。
◆
映画館は繁華街の中心部にあった。
巨大なドーム状の建物で、最新のホログラム投影システムを備えている。
「本日の上映作品」と書かれたボードには、様々なジャンルの作品が並んでいた。
「『銀河の彼方で』……恋愛ものか」
「『第七次火星戦争』……戦争アクション」
「『メタノイドの涙』……」
最後のタイトルでザッパーの動きが止まった。
「これは……」
「どうした?」
「いえ、なんでもありません」
ザッパーは首を振る。
だが君には分かった。
メタノイドを題材にした作品は、大抵が偏見に満ちている。
彼らを感情のない機械として描くか、人間に憧れる哀れな存在として描くか。
どちらにせよ、当事者には不快だろう。
「じゃあ『宇宙怪獣グルゴン』にしようぜ。馬鹿馬鹿しくて楽しそうだ」
君の提案にザッパーは微笑んだ。
「そうですね。たまには頭を空っぽにするのもいいかもしれません」
◆
シアター内は快適だった。
座席は体型に合わせて自動調整され、空調も個別に設定できる。
下層の娯楽施設とは雲泥の差だ。
もっとも、入場料も雲泥の差だが。
映画が始まると、ホログラムが観客を包み込んだ。
巨大な怪獣が暴れ回り、レーザー光線が飛び交う。
ストーリーは単純極まりないが、それが逆に心地よかった。
隣でザッパーも楽しんでいるようだ。
時折、君の手を握ってくる。
金属の手は冷たいが、不思議と温もりを感じた。
◆
映画が終わり、シアターを出ると、人工の夕日が街を赤く染めていた。
中層居住区の一日のサイクルは、地球の時間に合わせて設定されている。
「楽しかったです」
ザッパーが言う。
「ああ、俺も」
二人は帰路につきながら、映画の感想を語り合った。
「あの怪獣の造形は面白かったですね」
「触手が多すぎだろ。数えたら200本以上あったぞ」
「でも動きは意外とリアルでした」
「そうか? 俺には適当に見えたけど」
他愛もない会話。
だがそれが心地よかった。
◆
下層との境界まで戻ってくると、警備ドローンが増えていた。
赤い警告灯を点滅させながら、低空を旋回している。
「何かあったのかな」
君が呟くと、近くにいた中層の住民が答えた。
「下層で小規模な暴動があったらしいよ。だから警戒を強めてるんだとさ」
暴動。
下層では珍しくない。
貧困と絶望が限界に達すれば、人は簡単に暴発する。
「面倒なことにならなきゃいいけど」
住民はそう言って足早に去っていった。
◆
下層へ続く通路を歩きながら、ザッパーが口を開いた。
「ケージ、今日はありがとうございました」
「何言ってんだ。また行こうぜ」
今日の出費を思い出して内心では震えていたが、口には出さない。
「はい、ぜひ」
通路を進むにつれ、空気が澱んでいく。
清潔な中層の空気から、油と錆の匂いがする下層の空気へ。
まるで現実に引き戻されていくようだった。
境界を越えると、見慣れた薄汚い通路が広がっている。
だがそれも、君たちにとっては日常だった。
「送っていきますよ」
ザッパーの申し出に君は首を振る。
「大丈夫だ。君こそ気をつけて帰れよ」
「分かりました」
ザッパーは名残惜しそうに君を見つめ、それから踵を返した。




