30.惑星調査⑧
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翌日──この惑星に「翌日」という概念があればの話だが、まあともかく君たちは再び調査に出発した。
ロス154は相変わらず地平線に貼り付いており、薄紫色の空は微動だにしない。永遠の夕暮れ。時間の流れを感じさせない風景の中で君の内部時計だけが律儀に秒を刻んでいた。
今度の目的地は昨日崩落した岩塔から約三キロ離れた、別の岩塔群だった。
「同じ構造なら、同じ結果になるんじゃねえのか」
君は率直な疑問を口にした。
「可能性はある」
博士は歩きながら答えた。
「だが昨日の崩落には一つのパターンがあった。発光が青から黄、黄からオレンジへと変化した。つまり段階的な警告シーケンスが存在する」
「だから?」
「警告が来る前に退けばいい」
その言い方はあまりにも簡潔で君は思わず足を止めた。
「おい、それは理屈としては分かるが──」
「実践あるのみだ」
博士は振り返りもせずに歩き続けた。その背中には一切の躊躇がない。
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学術調査における「許容リスク」の概念は一般人の感覚とは大きく乖離している。
通常、人間は生命に関わる危険を回避しようとする。これは生物として当然の本能である。だが一部の研究者においてはこの本能が著しく鈍化──あるいは意図的に抑制されている場合がある。
彼らにとって「知ること」は「生きること」と同等か、時にはそれ以上の価値を持つ。
未知の現象を目の前にして、危険だからという理由で引き下がることは彼らの存在意義そのものを否定することに等しい。
これを「学術的狂気」と呼ぶ者もいる。
だが当の本人たちは自分が狂っているとは微塵も思っていない。むしろ、未知を恐れて立ち止まる者こそが臆病者だと考えている。
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君は博士の後を追いながら、内心で溜息をついた。
この女、中々イイ性格をしている。
良い、ではない。イイ、だ。厄介という意味での。
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新しい岩塔群は昨日のものよりも古く見えた。
表面の風化が進んでおり、穴の輪郭も曖昧になっている。発光も弱い。かすかな青緑色がまるで消えかけた蛍のように明滅していた。
「この個体群は衰退期にある」
博士が分析器を構えながら言った。
「生きている組織の割合が昨日の岩塔よりも遥かに低い。おそらく数百年以内に完全に石灰化するだろう」
「死にかけってことか」
「そうだ。だからこそ防御反応も弱いはずだ」
博士は穴の一つに近づいた。今度は慎重だった。いきなり中に入るのではなく、まず入り口付近で発光パターンを観察している。
君はその横で見張りを続けた。
風が唸っている。砂塵が舞っている。オーロラは相変わらず緑色で約四・七秒の周期を刻んでいる。
変化なし。
今のところは。
「なあ、博士」
君は何となく口を開いた。
「この惑星の生き物はなんで光でやり取りしてるんだ? 音とか匂いじゃ駄目なのか」
「良い質問だ」
博士は振り返らずに答えた。
「この惑星の大気は常に強風に晒されている。音は風にかき消され、化学物質は拡散してしまう。安定した情報伝達手段として、光が最も効率的だったのだろう」
「へえ」
「それに」
博士は穴の縁に触れながら続けた。
「光は瞬時に伝わる。音速は秒速約三四〇メートルだが光速は秒速約三十万キロメートルだ。惑星規模のネットワークを維持するには光以外に選択肢がない」
なるほど、と君は思った。
考えてみれば当たり前のことだ。だが当たり前のことを当たり前に説明できるのが学者という生き物なのだろう。
「じゃあ、あのオーロラも情報伝達の一部なのか」
「おそらくは。大気中に漂う微生物か、あるいは帯電した有機粒子が発光しているのだと思う。それが惑星全体を覆うネットワークの『神経』として機能している」
博士の声には熱が籠もっていた。
この女は本当に研究が好きなのだ、と君は改めて思った。
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穴の中に入ると、昨日とは異なる光景が広がっていた。
発光は弱く、内部は薄暗い。壁面の脈動も微かでまるで老人の心臓が力なく鼓動しているような印象を受けた。
だがその奥には昨日と同じような空洞があった。
そして液体も。黒く、粘性のある液体。
ただし、円盤状の生物は見当たらなかった。
「移動したのか、それとも死滅したのか」
博士が呟いた。
液体の表面は静かだった。昨日のように蠢いてはいない。
君は周囲を警戒しながら、博士が液体のサンプルを採取するのを見守った。
「これは興味深い」
博士が分析器の画面を見つめながら言った。
「この液体には高濃度の有機酸が含まれている。おそらく消化液の一種だ」
「消化液?」
「ああ。クモが獲物に消化液を注入して、体外消化を行うのと同じだ。この液体の中に有機物を入れれば、分解されて栄養素になる」
君は液体を見下ろした。
なるほど。これは胃袋のようなものか。
だとすれば、昨日の円盤状生物は──
「あいつらはこの液体の中で餌を消化してたってことか」
「そう考えるのが自然だ。そして餌がなくなれば、別の場所へ移動する。この空洞が空になっているのはここの『食料庫』が枯渇したからだろう」
博士はさらにサンプルを採取した。
その手つきは手慣れていて、迷いがない。
ふと、君は疑問を口にした。
「なあ、博士。あんた、こういう調査を何回やってきたんだ?」
「数えたことはない。だが少なくとも二十回は超えている」
「二十回か。その間、怪我とかしなかったのか」
博士の手が一瞬止まった。
そしてすぐに作業を再開した。
「何度かある。骨折は三回。内臓損傷が一回。凍傷で指を一本失いかけたこともある」
淡々とした口調だった。まるで買い物リストを読み上げているような。
「それでも続けてるのか」
「当然だ」
博士は立ち上がり、君の方を向いた。
「知りたいことがある限り、私は調査を続ける。それが私の存在理由だからだ」
その目には一片の迷いもなかった。
狂っている、と言えばそうかもしれない。だが同時に、どこか清々しいものがある。
自分が何者で何のために生きているのかを完全に理解している人間の目だった。
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調査は順調に進んだ。
博士は液体のサンプルだけでなく、壁面の組織片、床面の堆積物、そして空気中の微粒子まであらゆるものを採取していった。
君はその間、見張りと雑用に徹していた。
といっても、やることは大してない。危険がないか周囲を監視し、博士が必要とする機材を手渡す。それだけだ。
暇だった。
暇になると、余計なことを考える。
「なあ、博士」
君はまた口を開いた。
「この惑星の生き物って、知性があるのか?」
「定義による」
博士は作業の手を止めずに答えた。
「知性とは何か。道具を使うことか? 言語を持つことか? それとも自己認識を持つことか?」
「さあな。俺は学者じゃねえから、そういう難しいことは分からん」
「ならば簡単に言おう。この惑星の生物は情報を処理し、環境に適応し、互いにコミュニケーションを取っている。それを知性と呼ぶなら、彼らには知性がある」
博士は壁面を見上げた。
「だが彼らの知性はおそらく人間とは全く異なる形態だ。中枢神経を持たない分散型の知性。個体としてではなく、ネットワーク全体として思考する存在」
「惑星全体が一つの脳みそってことか」
「比喩としては正しい」
その言葉を聞いて、君は妙な感覚を覚えた。
今、君たちは巨大な脳みその内部を歩き回っている。神経細胞の隙間を這い回るバクテリアのように。
そう考えると、昨日の崩落も納得がいく。
免疫反応だ。
異物を排除しようとする、当然の生体反応。
「だとすると、俺たちはかなり嫌われてるな」
「嫌われているというより、認識されていないのだと思う」
博士が言った。
「私たちはこの惑星にとって『異物』ではあるがまだ『脅威』とは認識されていない。だから局所的な排除反応に留まっている」
「脅威だと認識されたらどうなる」
「分からない。だが惑星規模の免疫反応が起きる可能性はある」
君は黙った。
惑星規模の免疫反応。
想像するだけで背筋が冷える。
オーロラが真っ赤に燃え上がり、大地が震え、全ての岩塔が一斉に崩壊する──そんな光景が脳裏をよぎった。
「まあ、そうならないように気をつけるさ」
君は軽く言った。
軽く言うしかなかった。
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調査を終えてベースキャンプに戻る途中、君はふと足を止めた。
風の音に混じって、何か別の音が聞こえた気がしたのだ。
低く、長く、うねるような音。
風の音とは明らかに異なる。
「どうした」
博士が尋ねた。
「いや、何か聞こえた気がしたんだが──」
君は耳を澄ませた。
だが風の唸りしか聞こえない。
気のせいだったのか。
『音波を検出しました』
ミラが報告した。
『周波数は約十八ヘルツ。人間の可聴域の下限に近い超低周波音です』
「超低周波?」
『はい。発生源は特定できませんが地下から伝わってきていると推測されます』
博士の目が光った。
「地下活動だ。マントル対流か、あるいは──」
「あるいは?」
「生物由来の可能性もある。クジラは超低周波音で何千キロも離れた仲間と交信する。この惑星の生物も同様の手段を持っているかもしれない」
光だけではなく、音も使っている。
君はオーロラを見上げた。緑色の光が変わらず明滅している。
この惑星は想像以上に複雑な存在なのかもしれない。
そしてその複雑さの全貌を人間が理解することなど永遠にできないのかもしれない。
だが博士はそれでも理解しようとするのだろう。
それが学者という生き物だ。
君は肩をすくめ、再び歩き出した。
永遠の夕暮れの中を二つの影が進んでいく。
オーロラは相変わらず明滅していた。約四・七秒の周期で。
だがその周期がほんの僅かだけ長くなっていることに、君も博士もまだ気づいていなかった。




