14.再点火
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あれから数日が経った。
時間が薬になるなどというのは、上層居住区の連中が信じている御伽噺だ。少なくとも、君の気分は一向に晴れなかった。
ベッドの上で、君は死体のように転がっていた。天井の染みがまるで抽象画のように見える。いや、抽象画というよりは誰かが吐き散らしたゲロの跡か。
どちらにせよ、君の心象風景にはお似合いだった。
ペイシェンスの死。そして、ジミー・ラットの始末。
一連の出来事は君の中に何か重たくて黒いものを残した。それはまるで、安物の合成肉を食べた後の胸焼けのようだ。不快で、しつこくて、そしてどうしようもなく虚しい。
──なんだかなあ
悲しいというより、残念という気持ちが勝る。
もしかしたら本心から友達だと思える相手になったかもしれない──そんな相手を亡くした事に、君はずっとくさくさした気分でいた。
『ケージ、仕事のリストを更新しました』
ミラが壁に投影されたホログラムには、惑星開拓事業団からの依頼がずらりと並んでいた。
「ああ……」
君は生返事を返した。リストに目を通すが、どれもこれも心が動かない。
『惑星D44の地質調査。危険度は低いですが、報酬はそれなりです』
「……パス」
『では、小惑星帯でのデブリ回収作業は? 単純作業ですが、確実に稼げます』
「……それもいい」
君は再びベッドに沈み込んだ。
ミラは何も言わなかった。このガイドボットは、君の精神状態を的確に把握しているようだった。無理強いはしない。ただ、君が立ち直るのを待っている。
あるいは、単に君のような怠け者に構っているのが面倒くさいだけかもしれないが。
◆
生身だった頃ならこんな時は決まっていた。
酒だ。ドラッグだ。そして女だ。
手っ取り早く脳味噌を溶かし、嫌なことを忘れ、束の間の快楽に溺れる。それが君なりの気分転換であり、ろくでなしなりのライフハックだった。
安酒場でくだを巻き、見知らぬ女とベッドを共にし、そして翌朝、二日酔いと自己嫌悪の中で目を覚ます。そんなクソみたいな日常が今の君にはひどく懐かしく、そして恋しかった。
だが今の君にはそれすらも許されない。
この高性能なサイバネボディは、君の意思とは関係なく、勝手に健康を維持しようとする。アルコールは瞬時に分解され、ドラッグも無効化される。
「……だめだろうなあ」
君は呟きながら、ベッドの下から小さなパケットを取り出した。
中には、毒々しい銀色の粉末が入っている。
違法ドラッグ、「コブラ・ソード」だ。
下層居住区ではスタンダードな代物だが、その効果は強烈だ。
君は慣れた手つきで粉末を少量取り出し、机の上に広げた。そしてそれを鼻から一気に吸い込んだ。
スニッフィング。鼻からの吸引だ。
──来いよ、来いよ……!
君は目を閉じ、あの懐かしい感覚が蘇るのを待った。
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コブラ・ソード。その主成分は、惑星V252における初期のテラフォーミング実験の副産物として生まれた、人工神経伝達物質「シナプス・ブレイカー」である。この物質は、アースタイプの脳内にある快楽中枢を直接刺激し、通常の数百倍にも及ぶドーパミンとアドレナリンの放出を誘発する。
元々は極限環境下での作業効率を向上させるために開発されたものだが、そのあまりにも強烈な効果と、それに伴う副作用のために、すぐに非合法化された。
吸引してから約15分以内に服用者は全身の感覚が異常に鋭敏になり、同時に強烈な全能感と攻撃性の昂進を経験する。それはまるで、自分が世界の支配者になったかのような錯覚だ。そして、その抑えきれない衝動を解放するために多くの服用者は思わず「しゃあッ」という奇声を発する。
この瞬間、彼らは恐怖も痛みも感じない無敵の存在となる。だが、その効果は長くは続かない。効果が切れた後には激しい虚脱感と、そして現実への回帰が待っている。その落差に耐えきれず、自ら命を絶つ者も少なくない。
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だが、君の体には、何の変化も起こらなかった。
15分経っても、30分経っても、あの熱い衝動はやってこない。「しゃあッ」と叫びたくなるような高揚感もない。
ただ、鼻の奥に僅かな刺激臭が残るだけだ。
君のサイバネボディに搭載された高度なデトックス機能が、シナプス・ブレイカーを瞬時に無害な物質へと分解してしまったのだ。
「……はっ」
君は乾いた笑いを漏らした。
わかっていたことだ。だが実際に体験すると、その現実は重い。
ドラッグすら効かない。快楽さえも奪われた。
この機械の体は、君から人間らしい「楽しみ」を、そして何より、自分の意思で自分を壊す自由を奪い去ってしまった。
健康的な鉄人形。それが今の君だ。
どんなに強烈なドラッグでも、君の胸に巣食う虚無感を拭い去ることはできない。
君の萎えた心を奮起させるには、コブラ・ソードでは足りなかったらしい。
君は残りの粉末をゴミ箱に捨てた。
そして再びベッドに倒れ込んだ。
天井の染みが、まるで君を嘲笑っているかのように見えた。
君は生身の頃の悪癖に縋りつくことで、辛うじて自分を保っている。それがどんなに無意味な行為だと分かっていても。
◆
どれくらいの時間が経っただろうか。
君がぼんやりと天井を見上げていると、再びミラの声が響いた。
『ケージ、こんな依頼はどうですか?』
ミラが投影したホログラムは、先ほどまでの殺風景な依頼リストとは、明らかに異質だった。
そこに映し出されていたのは、眩いばかりのネオンと、華やかな装飾が施された巨大な建造物。
そして、その中央には、大きく「CASINO」の文字が躍っている。
「カジノ……?」
君の目が、僅かに見開かれた。
『はい。惑星C66から約40万キロほど離れた場所にある、衛星NS66-5、通称「ハイ・クラス」にある巨大リゾートカジノ、「セレスティアル・ガーデン」の警備員の仕事です』
ハイ・クラス。その名の通り、そこは富裕層や権力者たちが集う享楽の都だ。下層居住区の掃き溜めとは、天と地ほどの差がある。
そんな場所での警備員の仕事。
真っ当といえば真っ当だが、退屈極まりない仕事だろう。
だが君の心を捉えたのは仕事内容ではなかった。
カジノ──その言葉が君の心の奥底にある何かを刺激した。
ギャンブル、ギャンブル、ギャンブル、ギャンブル!
心の奥深くからそんな声が聞こえる。ギャンキチ(ギャンブル中毒のキチガイ)なら皆聞こえるあの声だ。
君はもうギャンブルはやらないと決めたはずだった。あの地獄のような手術台の上で、君のギャンブルへの情熱は、血や肉片と共に処分されたはずだった。
だが、それでも。
もしかしたら、という思いがある。
「警備員ねぇ……」
君は呟きながら、ホログラムを眺めた。
華やかなカジノの光景が君の瞳に映る。
今この瞬間、君はギャンブルをしたいとは思わない。
思わないが──自分を狂わせた賭場の空気に浸る事で、あるいは原点に立ち返る事ができるのではないかという期待があった。
それは一種の懐郷心と言えるかもしれない。
バッチバチにアツい賭けの現場を目の当たりにすることで、心の炉に火を入れられるかもしれない──君はそう思った。
そしてゆっくりと体を起こし「ミラ、その仕事──受けるぜ」と言った。




