そのIDで俺の屍を乗り換えろ!
「騙されているのよ。間違いないわ」
ある夜、隣でタブレット端末を眺めていた妻が顔をあげて私を睨んだ。
私は慌てて手を振りながらソファの上に正座する。
「とんでもない。騙してなんかいないよ」
「誰があなたのこと言ってるのよ。これよこれ!」
妻がタブレットの画面を指さす。そこにはスマホ会社乗り換えキャンペーンの記事が出ている。
私も妻もこういう話に疎いため、昔から大手の代理店で勧められたプランをずっと使い続けている。
「今私たちが使ってる料金はすっごく、すっっっっっっごく高いの!」
妻はタブレットを私の顔に押しつけようとする。
「大丈夫だ。そんなに近づけなくても」
見えるよ、と言う前に私の額に画面の角がぶつかる。
「うっ」
「うっじゃないわよ。こうしてはいられないわ」
妻が椅子から立ち上がった。
「どうするつもりだい」
私はおでこをさすりながら、妻の袖を引っ張った。
「もちろん、乗り換えるのよ。安いプランに」
妻は宙空に何かが見えているのか、斜め45度ほど上を向いて口をへの字にした。
「もう夜の11時だ。どこもやっていないよ」
「どこもじゃないのよ。格安プランなのよ」
妻の拳がプルプル震えている。
私は呆れて妻の顎の下をさすりながら宥める。
「どうどうどう」
妻は荒かった鼻息をようやく収めて椅子に座り直した。
「ハアハアハアハア…そう言えばもう深夜だったわ」
「そうだよ。明日、中畑くんに相談してみよう」
私はさらに妻の額から脳天までを5本の指で撫ぜながら言った。
「あの家電量販店に勤める中畑くんね。それはいい考えだわ」
「うんうん。落ち着いたようだな。明日一緒に行こう」
中畑くんは近所のNodamaに勤める若い店員だ。2年ほど前に我が家のリフォームで知り合ってから何かと相談に乗ってもらっている。
「それで、あなた」
「うん?」
「さっきから顎の下や額やら私を野生動物かペットのように扱っていたけれど」
私はまた別の意味で彼女を落ち着かせねばならなくなった。
翌日私と妻は揃って家電量販店Nodamaを訪ねる。あいにく中畑くんはサービスカウンターで接客中だったので、近くの来客用テーブルで少し待つこととなった。
テーブルの横には大きなパネルがあり、それはまさにスマホ乗り換えプランの比較表であった。
私たちが契約している最大手の標準プランと様々な聞いたことがない会社のプランが並べられていた。
「あなた!見て!ほら!」
妻がまたもコーフン気味にパネルを指さした。
なるほど現在の携帯料金が半分以下になるプランばかりだ。
「でも、こういう時は慌ててはいけない。安いものには何か落とし穴があるものだ」
私は妻の顎の下をなぜようとして手を出す。
妻がその私の手をはねのけて、キッと私とパネルを交互に睨んだ。
「あなたスマホなんてほとんど使ってないじゃない。半額になるのよ。半額。知ってる?半額というのは半分くらいの値段になるということよ」
「それくらいは判るよ。だけど君だってミニゲームで遊んでるだけじゃないか」
「何ですって」
妻が眉間にしわを寄せた。これはいけない。
「と、とにかく中畑くんに話をちゃんと聞いてメリットとデメリットを並べた上で判断しよう。ね」
「当たり前よ。その為に来たんじゃない」
妻が自分のスマホをテーブルの上に置いた。ガチャリと音がしたストラップの先にはものすごく大きな赤いプラスチックの文字がついている。文字は『優勝』だ。結婚して30年経つが、妻の様々なことが理解できない。
「ところであなた今、私がスマホで遊んでるだけって言わなかった?」
「すみませんでした」
人は如何に事実であろうが口に出してはいけないことがあるものなのだ。
中畑くんが私たちの待つテーブルにやってくる。
「お久しぶりです。どうされました」
相変わらずにこやかでいい青年だ。
「携帯のいろんなプランがあるだろう」
私の言葉に中畑くんは大きく頷く。
「そうなんです。大手には大手の良さがありますが、今は本当に様々な会社が様々なプランを安く出していますからね」
「そうなのか」
「そうなんです」
「ね、そうでしょう」
最後に妻が鼻息を強めてムハーッと締めてみせたが、なぜ彼女がまとめるのかよくわからない。
「じゃあ私たちはいろいろ説明されても判らないから、オススメをいくつかあげてくれると嬉しいんだが」
「わかりました。でもまずお二人がスマホに何を求めるか、安くするにしても必要なものは何か、きかせてください」
中畑くんの言葉はもっともだが、すると私はLIMEだけ、妻はそれにミニゲームが加わればいいということになって、何だかちょっと残念だな。
「この人はLIMEだけ、いいえ、もしかしたらそれさえも要らないかもしれないわ」
先手を取って妻が乱暴なことを言い出す。馬鹿言っちゃいけない。それじゃ携帯そのものが要らない。
私も負けずに言い返した。
「中畑くん、妻はミニゲームしか使わないんだ。だからゲームウォッチでもいいくらいだ」
「何ですか、ゲームウォッチって」
ポカンとして中畑くんが聞き返す。知らないか。
妻は3秒ほど「…」と上を向いて考えてから、スマホで私の額を叩いた。ストラップの『優勝』が私の鼻に当たった。
「痛っ」
「私はちゃんと仕事で使ってるでしょうが。あなたみたいに娘とスタンプ自作して遊んでる暇人と一緒にしないでよ」
妻が睨むが、中畑くんは面白がって私の方を見た。
「へえ、スタンプをご自分で」
私は赤くなった鼻の頭をさする。
「見るかい?」
「ええ、ぜひ」
私はスマホのLIMEにあるスタンプをひとつ見せた。私が合掌して正面を向き『ジョーブツせい』と文字が入っている。
「こういうのが16種類ある。あとは『おととい来やがれ』と『このすっとこどっこい』と…」
「あ、結構です。じゃあプランの検討に入りましょう」
「フン、だから言ったじゃないの」
彼女がどうして勝ち誇った顔をしているのか。
はっ、…そうだった。私たちは携帯会社の乗り換えに来たのだった。
それから2時間、中畑くんは実に辛抱強く我々につきあってくれた。だがその努力はあんまり私たち相手には実を結ばないのであった。なにしろひとつ説明をされると三つの質問で返す夫婦だ。
「ですから何ギガ必要かということなんです」
「ギガというのは何のことだい」
「何の単位なの」
「情報量の単位じゃないのか」
「レプカがギガントに乗ってたけど」
「余分なことを言うな。話が進まない」
「あ、あの…ギガというのは…」
妻が説明の一部分のみを聞いて力強く宣言する。
「多ければ多いほど高くなるなら要らないわよね。要りません。ひとつも要らないわ」
「いや、無くても困ると思うのですが」
「今までだと、どのくらい使ってるのかな」
「差し支えなければ以前の会社のアプリを見せていただければ」
「これかい」
「いやそれはどのスマホにもついてる『設定』というやつです」
「こっちかしら」
「それは『イヨン』のお得情報ですね。そっちは多分『お掃除ロボット』です。もういいです。いいからスマホを見せてください」
結果的に私たちの今の使い方は今の料金ではまったくの無駄であるということが判明し、もっと容量や出来ることの少ない低額の会社のプランを紹介され、いくつかの手続きや操作を行った。
中畑くんが少しだけ虚ろな目をしている。
「…ハアハア。ちょっとだけ目眩がします。では通知が来ましたら、ご自宅でこれとこの手続きをすれば乗り換えが完了ですよ」
「中畑くん。自分でそんなことが出来る気はまったく全然しないのだが」
「…でもこれはお店では出来ないのです。お宅にあるネットの設定変更ですので。こちらにサポートセンターのフリーダイアルがありますから、わからない時はこちらに」
「中畑くん。これでも私は長く生きてきて、いくつか賢くなったこともある」
「何の話ですか」
「サポートセンターとかカスタマーセンターとかお客様情報サービスとか、そういう類いの電話は絶対に通じない。散々この用件の人は何番、こいつは何番とか、あっちこっち番号を押させてその挙げ句『混雑してるんで後でかけ直せ』などと言い始める非人道的な奴らなのだ」
「まあ確かに通じにくいですけど」
とは言っても中畑くんに文句を言うのは筋違いだし、ここで教わりながらやることが不可能なら妻か私がやる他はない。そしてその場合、選択肢は私一択であることも疑いのない事実だ。
ここまでして携帯電話代を抑える必要があるのか。今のままでいいじゃないかという気もしてきたが、すでに以前の契約は解除してしまった。戻すにはまた同じくらいの手間がかかるだろうと思うと、暗くて足下の悪い洞窟に足を踏み入れ、うっかり半分ほど進んでしまったような気持ちになってくる。
私たちは中畑くんに礼を言って、店から出た。
隣を見ると妻は手続きの煩雑さに疲れながらも携帯代の節約ができたことに満足気な笑みを浮かべ、さらにこの乗り換えでもらったNodamaポイントを何に使おうかなどと能天気なことを言い出したので、ちょっと意地悪を言う。
「だいたいなぜ僕たちが携帯の会社を乗り換えると電気屋でこんなに何万円も買い物が出来るんだい。何か裏があるような気がしないかい?」
私の言葉に妻はハッとした表情を浮かべ、心配そうに私を見た。
「本当だわ。あなたにしてはいいこと言った。絶対に何か裏があるわね」
「冗談で言ったのだが」
「馬鹿じゃないの。今回のことで誰が得したのよ。通信会社に入る電話代は減るし、今回Nodamaでは買い物していないし、中畑くんなんて私たちにつきあって午後の2時間を無駄にしたのよ」
中畑くんに迷惑な客であったという自覚はあるようだ。
「通信会社のシェア拡大の為なんだろうな。このちょっと過剰に思えるサービスぶりは」
「それにしたって私たちは迷惑かけただけなのに、電話代が安くなってNodamaで何万円も買い物が出来て、おまけに帰りにお疲れ様でしたってペットボトルの水も貰ったわ。これで何もしなくていいなんて、怪しすぎる。そうだわ。きっと3ヶ月後にはスマホが使えなくなって、今後も使用したい場合は月に10万円払い込んでくださいって連絡が来るのよ。どうしましょう」
ホントに私の妻をどうしましょう。そんな詐欺みたいな通信会社が認可を得ているものか。
「落ち着きなって。そんな会社があったらニュースになっている。僕はこの後いろいろ回線の設定もしなくちゃいけないから、何もしなくていいってわけでもない」
私の言葉に妻はフンと鼻を鳴らした。
「ちゃんと出来たらおかずを一品増やしてあげるわ」
自分がやるとか私も手伝うとか、そういう気持ちは一切無いということらしい。
中畑くんの言う回線の工事日となった。何をしなくてもすぐに電話やスマホが使用不能になるわけではないそうなので、慌てる必要はない。落ち着いて届いたマニュアルを確認する。
「ええと、まずここに来たメールの指定されたところへアクセスと…ポチッとな」
私はその後2時間ほどパソコンの前でアクセスとあくせくをしたのだが、上手くいかない。うーむ、書いてある通りやっているのだが。
仕方なく不本意だがサポートセンターに電話してみる。
思った通り、録音された女性の声が案内を始めた。
「新しい回線の設定を希望される方は1を、Mofty得々サービスの内容について質問の方は2を、また使用される回線の状況が知りたい方は…その他…」
私が何を知りたいのかわからない場合は何番を押せばいいのか。
しばらく待たされた後、男性のオペレーターが出る。
「はい、Moftyサービスセンターです。どんなご用件でしょう」
「えーと、何をどうしたらいいのかわからないので、いきさつを最初からお話ししますね」
「…はあ」
「2週間ほど前のある夜、妻がいきなり立ち上がり『私は気がついた。騙されている』などと口走り」
オペレーターの苦笑いが漏れてくる。
「すみません。何のお話でしょう」
「さすがに序盤から話し過ぎました。つまり…これこれしかじか」
「ふむふむ。ではまずパソコンのネットを立ち上げ、アドレスバーにこの数字を…」
ここから30分、私はヒーヒー言いながら指示通り操作する。
「結論ですが」
数十分後、私が微熱を出し始めた頃オペレーターが言った。
「ついに結論ですか。やはり詐欺でしたか」
「そんな訳ないでしょう。どうやら以前の設定で解除し忘れているものがありますね」
「私たちの中畑くんにそんな落ち度が」
「どなたか知りませんが中畑さんを悪く言うつもりはないです。今から酢ネットのサポートセンターへ電話をしてみてください」
「さ、さ、サポートセンター。あのですね、私はこれまで長く生きてきてわかったことがあります。それはですね、サポートセンターやカスタマーセンター、あるいはお客様情報サービスなどというものはね…(以下省略)」
「…よくわかりました。でもここもサービスセンターですので申し訳ありません」
「はっ、助けて貰っているのにすみません。電話口で私を『ハゲ親父!』とか罵ってもいいです」
「そんなことはしません。お客様の容姿もわかりませんし」
「とにかくやってみます。真っ暗な洞窟は予想よりもずっと深くて険しかったということですね」
「…何を仰っているのか判りませんが、頑張ってください」
再び私は以前契約していたプロバイダーである酢ネットに連絡し、同じように番号を操作し、電話口で待たされることとなった。ため息をついて天井を見上げた後、ソファーの方を見ると妻がタブレットで新しい電子レンジを調べている。
ホントにもうやめたくなってきた。真っ暗な洞窟でも一本道ならいいのだ。先ほどから道が分かれたり、道ではなくなったり、時々落とし穴があったりする。これでモンスターが出現したらホントにダンジョンだ。妻の顔を見ながら、ああすでにモンスターは出現していたのだな…などと思っていたら、妻がタブレットから顔をあげる。
「よくはわからないけれど、あなたは今とても失礼なことを考えたような気がするわ」
そしてタブレットの画面を私に押しつける。
「ほら、このレンジ。すごい機能がついているのよ」
「知っているよ。料理が温められるんだろ」
「そうなのよ…ってそうじゃないの」
「冷やせるのか」
「温かい料理もこの中に入れて2時間くらいすれば常温よ…って当たり前でしょ。馬鹿じゃないの」
といような馬鹿な会話をしている間にサポートセンターから声が聞こえる。
「はい。酢ネットサポートセンターです」
「助けてください」
私はもはや最初からホールドアップだ。
「お助けするのが役割ですからお気にせず。何かお困りですか」
なかなか親切な担当者だと見た。私は例によって何が判らないかもわからないという話をし、それからここまでのいきさつを話そうとする。
「2週間ほど前のある夜、妻がいきなり立ち上がり『私は気がついた。騙されている』などと口走り」
「申し訳ありません。少しだけ簡潔にお話いただけますか」
「かくかくしかじか…で、Moftyの担当者からたらい回しされました」
「言い方が良くない気もしますが、大変でした。ちょっと調べてみます。お客様のIDとご氏名…」
またか。またIDなのか。そう言えば酢ネットIDというのもあった気がする。どこだったか。
「資料を捜して電話をかけ直します。家中に各種IDと、どれがどれなのか不明のパスワードが散乱しています。泣けてきました」
私は一旦電話を切って、少し涙ぐみながら昔届いた酢ネットの資料をガサガサ捜し始める。
1時間後、私はPCの前でグッタリしている。IDが判明してもう一度酢ネットに問い合わせると、何らかのサービスが解除されてないため、新しい設定が完了しないらしい。酢ネット側に頼むと時間がかかるが『自分でHPから操作もできるのでその方が簡単です』などと励まされた。なぜ家電量販店の中畑くんといい、サポートセンターの担当者といい、私が自分でそんなことをやれると思うのだろう。
これはもしかしたら、みんなで私を育てようと課題を与えているのだろうか。そういえば今日一日でずいぶん新しい言葉を覚え、何らかのスキルもアップしたような気がしないでもない。気のせいかもしれない。
「ねえ、あなた。夕飯は茄子を味噌で焼くわ。いいと思わない?」
ソファに寝転がった妻が横から声を掛けてきた。電脳世界から一気に私の実家の広い畑に引き戻される。
「あのね、今俺はね、鍛えられて、とてもハイテクな脳になっているんだ。そしてまだもう少しこのハイテク俺を持続して作業せねばならない。君と茄子だ味噌だとそんな話をしたら一気に旧石器人になるような気がする」
私が言うと妻は「ほう」と言ってソファからゆっくり立ち上がった。いかん、これは完全に失言だった。妻がゆらりと揺れながらPCデスクの方に歩いてくる。
「ああん?何だって?」
ほとんど街のチンピラだ。
「冗談だよ。何しろ夏は茄子が美味しい。昔は食べられなかった茄子を食べられるようにしてくれた、いや大好物にしてくれた君の料理スキルは天才的だな。いや神だ。大魔神だ」
妻は手に持ったタブレットを私の顔の前に突き出す。画面は茄子の味噌炒めがアップで映し出されている。確かに美味そうだ。頑張ろう。夕飯までに作業を終わろう。
「美味そうだね。夕飯までに、ぐっ」
妻がタブレットの角を私の額にぶつけたため、私の弁解も途中となった。
散々迷ったり、エラーの表示に憤ったりしつつ、どうにか私は設定をし終わった。
茄子の味噌炒めをハフハフと頬張りながら妻に言う。ごま油の香りがたまらない。
「何とかこれでいいような気がする。ちゃんと設定できたのか、いまひとつ自信はないのだが」
「あなたが自信がないと言っているときは、たいがい失敗しているわ。もう一度中畑くんのところで確認して貰いましょう」
失礼な妻の言葉だが、まあ間違ってはいないな。
「明日あたりNodamaに行くかな」
「でね、Nodamaのポイントでね、この電子レンジはスチームも出来るという」
ポイントの使い途について私と相談する気はないらしい。わかってはいたが。
翌日、中畑くんのお墨付きも貰って、私たちはホッとしながら夕飯のソーメンを食べていた。
「夏はこれだな。年々ソーメンがご馳走に思えてくる」
サバ缶をごっそり入れためんつゆに私は舌鼓を打つ。
「大人は喉越しを楽しむものなのよ。恐れ入ったでしょう」
何を恐れ入らせたいのかは不明だが、妻も頷きながらオリーブオイルとトマトを加えためんつゆでソーメンを一気にズズズズーーーッと啜った。大量の麺が一瞬で消える。バキュームカーを連想したが絶対に言ってはいけない形容である。
「安く済んでよかったわね。ケータイもソーメンも格安に限るわ」
全然うまいことは言えてないと思うが、妻の機嫌がいいのはいいことだ。
夕飯後ソファに二人転がりながら、妻はタブレットで何やら調べ物をしている。多分ポイントで買うものを悩んでいるのだろう。私も新しいコーヒーメーカーが欲しいのだが。…いや大丈夫だ。言わんとこう。
テレビのバラエティを眺めながらウトウトし始めると、妻のうなり声が聞こえた。
「ウググ…あなた、大変よ。騙されたわ」
寝惚けて動転した私はソファで正座した。
「とんでもない。騙してなんかいないよ」
「何言ってんのよ。これよ!これ!」
妻のタブレットを覗き込むと『各社さらにお得な格安プランをこの秋発表か?!スマホの乗り換え、秋の陣!』とある。妻が私の太ももをバシバシと叩いた。
「何と」
まあ、いいじゃないか。私たちは損をしたわけではないし、現実に以前の料金より安くなってポイントも貰ったのだから。ね。だろう、妻よ。私はそれが通じないことがわかっていても、妻に目で訴える。
隣に座り直した私の太ももに左手を置いたまま、妻はその記事をじっくり読み始めた。
『何と!今の料金が三分の一以下に!』という見出しを見て妻の視線がピタリと止まった。
妻の左手に力がギュギュギュッと入り、私の太ももに爪が食い込んだ。
「痛ててて」
目の前に新しい漆黒の洞窟が。
読んでいただきありがとうございます。半分くらいが実話です。横浜に住む娘に聞いたら「全然簡単に乗り換えたよ」と言ってましたので、この難度は人と状況によるようです。