『第三章~APEXグレイハウンド』
「旅いうたら、やっぱ船やろ。お船でのんびりで、ぴょこぴょこ跳ねるイルカやら見て、上等なコーヒーと煙草な? それやのに、ウチ、今、空飛んどるやん。しかもめっちゃでっかい、えらい重そうなんで。ヘリコプターやろ? 見たことはあるんやで? なんで飛ぶんかも何となく知っとる。空飛ぶお医者さんいうんもおるからな」
タンデムローターの大型輸送ヘリ、APEXグレイハウンドのキャビンで、白衣のドクター・アオイが煙草とコーヒーカップを持って、ぶつぶつと呟いていた。高度と速度が固定されているので揺れは少ないが、ターボシャフトエンジンの唸りでかなりうるさい。喫煙はブラックバードで、と言われていたがドクター・アオイはお構いなしでぷかぷかと紫煙を吹かしていた。ヘリのキャビンが禁煙なのは燃料に引火する恐れがあるからだが、旧式とはいえAPEXグレイハウンドは喫煙程度で引火するような作りでもないので、キャビンの様子をモニターしているイザナミは沈黙していた。
「空飛ぶお医者さんって?」
V8ブラックバードのフロントタイヤに背中をあずけて座っているマリーが訪ねた。マリーは、コルトがケイジで用意したカーキ色の空軍仕様フライトスーツを着ていて、足元は黒い編上げブーツ。ホルスターの左脇にはハンドガン、テンオート・バサラMF、右脇には十五発マガジンが二本ぶら下がっていて、胸ポケットに更に二本の予備マガジンが刺さっている。こちらもコルトが用意したシューティングゴーグルとハーフグローブを付けていて、マリーはまるで空軍兵士のように見える。艶のある黒いストレートヘアで愛嬌のある子犬のようでいて、いざインドラ・ファイブを握れば軍人であるリッパーも呆れるほどの超精度スナイピングをする、コルト曰く強烈なアサシンでもある。
半日前、視界の利かない深夜のゴーストタウンでマリーは、射程三キロでスリーバースト狙撃という、とんでもない真似を当たり前のようにやって見せた。その神業に傭兵コルトはひたすら笑い続け、リッパーは驚きを越えて呆れていた。リッパーらが持ち歩く武器で一番強力なインドラ・ファイブ。五十五口径アウトレンジスナイパーライフルはダイゾウがリッパーに渡したもので、ずっとリッパーが使っていたのだが、こちらもダイゾウからの伝言でマリーに渡して、マリーはAFCSイザナギのサポートもなしで超長距離狙撃をやって見せた。そのインドラ・ファイブはケースに入って今はブラックバードに積んである。
キャビンのシートに座ったドクター・アオイはIZAのロゴが入った白衣で、細い、マリーよりも色気のある足が黒いピンヒールまで伸びている。白衣の下のシルクシャツはボタン四つが外されていて、こちらも随分と色っぽい。シルバーのメタルフレームと紺色のストレートヘアが知的な印象を与えて、医者だと言われればそう見えるし、学者だと言われてもそう見えそうだった。年齢はマリーやリッパーより少し上らしい。自分を名医だと言い、実際、カサブランカ・シティで発作を起こしたリッパーに的確な処置を行い、ラバトでそのケアも行った。凄腕のスナイパーと名医が、グレイハウンドのキャビンで他愛ない雑談をしているその光景は、若干奇妙でもあった。
「なんやったっけ。ドクターヘリ、やったかな? ヘリコプターでな? こないに大きいんやのうて、もうちょい小さい奴な? それで怪我とかしとる人んところに行くんやって。病院に運んどったら間に合わんとかそういう場合のお医者さんでな? ウチの街の隣のそのまた隣におったわ。お医者さんが飛んできたら便利やろ?」
離陸直後からずっと煙草を継ぎ足しているドクター・アオイのお陰でキャビンは白く曇っていた。APEXのキャビンには簡単な空調があるが、ドクター・アオイのヘビースモークは空調能力を上回っているらしい。
「でもなー。ドクターヘリはまあええとして、やっぱしウチはお船のほうが好きやな。乗ったことないけど」
「そういえばアオイさん。ケイジでも旅が好きって言ってたわね?」
膝を抱えたマリーが、胸元のネックレス、ガーネット原石をあしらったお気に入りをいじりつつ言った。
「ウチな、街から殆ど出たことないねん。だからや、テレビの旅番組やらそういう本やら観てて、ええなー、て。マリーちゃんはジプシーやったっけ? いっぱい旅しとるんやったな。ええなー」
「そう。私、ジプシーだからずっと旅よ? でも、空はこれが初めてよ? 自分で運転しないっていうのも久しぶりで、何だか変な感じ。荷物にでもなった気分ね」
マリーは旅を続けるジプシーで、移動手段は車がメインだった。海峡を越えるのに船を利用したことは何度かあったが、航空機を利用するのは初めてだった。リッパーの目的地が海の向こうで、ラバト以降のルートは海路か空路となり、どちらにしろブラックバードは文字通り荷物だった。最初マリーは、ラバトでブラックバードを置いていくのかと心配していたのだが、それを知ってか知らずか、リッパーは大型輸送ヘリを利用して、キャビンにブラックバードを載せるようにとコルトに指示していた。今回の旅で、マリーはブラックバードの運転手役で、カスタムバレットライフル、インドラ・ファイブの狙撃手でもあったが、設計図を自分で引いてフレームから組み上げた愛車ブラックバードは、例え役に立たなくても傍に置いておきたいと思っていた。
「アオイさん、イルカって?」
砂漠大陸のハイウェイを主に利用して旅を続けていたマリーはあれこれと詳しかったが、残念ながら海方面の知識は少なかった。十五年前のオービタルショットで地上の情報網は寸断されて、今でこそ幾らか復旧しているが、テレビやラジオ、そして地上ネットワークを利用出来るのはケイジか再建した都市か、軍事基地くらいだった。旅を繰り返すマリーはケイジに定住しないので、必要な情報以外はモバイルか口伝だけである。
「ん? イルカはイルカや。お魚みたいに海で泳いどるけど、ほれ、あそこにおるやん」
ドクター・アオイがキャビンにある窓の一つを指差して言った。見ると、ドクター・アオイのストレートヘアのような紺色の海の上を何かが飛び跳ねていた。高度五百メートルなので小さい。
「あれがイルカ? 大きな魚なのねー」
「あれな、実はお魚やのうて哺乳類なんやって。マリーちゃん、知ってるか?」
「ホニュウルイって、えっと、人間とか猿と同じってこと? でもあれって魚なんでしょ?」
「そうやねん。見た目はお魚なんやけど、イルカて実は哺乳類やねん。クジラもやけど、めっちゃ頭ええんやって。何やったかな? 人間て最初はお魚やったんやけど、地上に出てきて、何やかんやで猿になったんやて。イルカってな、地上に上がらんかったお魚の親戚みたいなもんなんやって」
ドクター・アオイは職業柄か色々と詳しいらしく、進化論の一部を抜粋してみせた。マリーは地上を歩く魚を想像してみたが、手足のある魚というのは随分と不恰好に見えた。
「つまり、私って実は魚ってこと? 私、泳ぐのは苦手なんだけど?」
「ウチも泳ぐの苦手やわ。ウチとかマリーちゃんの祖先がお魚やったって、そういう話なんやけど、えらい昔の話やから泳ぐのんが苦手でもええんちゃう? 猿かて全部が泳ぐの得意でもないしな。イルカてや、音波やったか電波やったかで会話するんやって。クジラもやったかな? でな? イルカて、狼みたく群れで狩りとかするし、実は人間の言葉も解るらしいで。クジラはもっと賢いんやって」
「クジラって確か、凄く大きな魚よね? 本で見たことあるわよ。そっちもホニュウルイって、つまり私ってクジラってこと?」
どこかのケイジの図書室で海洋生物図鑑を開いたことのあるマリーは、そこに掲載されていたクジラを思い出してそれに手足を付けてみたが、やはり不格好に思えた。クジラとイルカがお喋りする様子もどこか奇妙だった。
「クジラもな、地上に上がらんかったお魚の親戚でな、まあ、マリーちゃんの遠い親戚みたいなもんやな。五千メートルくらいまで潜れるとか、イルカみたく音で会話するとかで、海版の哺乳類でな、地球で一番でっかい生き物なんやって。多分、このヘリコプターよりでっかいで?」
「五千メートル? そんなに潜ったら潰れちゃうんじゃないかしら? 海って潜った分だけ水圧がかかるんでしょう? リッパーがね、海軍だかに大きな潜水艦があるって言ってたけど、潜水艦ってそんなに深く潜れるのかしら?」
マリーは軍隊事情には疎く、陸軍兵士は何度か見たしガンシップなども見たが、空軍や海軍、リッパーが在籍する海兵隊がどういったものなのかは詳しくない。歩兵が使うアサルトライフルや携行ロケットランチャー・RPG、ケイジにあった機銃やハイブの使う大型バレットライフル、装甲車などは見たことはあるが、今乗っている大型輸送ヘリ、APEXグレイハウンドなどは始めてで、潜水艦はリッパーがケイジの酒場で話題にした程度で、実物がどういうものなのかは知らない。
「潜水艦はウチは知らんけど、クジラくらい潜るのは無理なんちゃう? んでな、イルカとかクジラてお魚とちゃうから海ん中では息できひんのやって。せやから海から頭出してな、息吸って、何時間も泳ぐんやって。海て陸地より広いやろ? 広いねん。確か地表の八割が海やったかな? そこをな、イルカやらクジラは自由に泳いで回るねんて。優雅やなー」
「アオイさんって、イルカとかクジラが好きなの?」
ええなー、と繰り返してコーヒーを飲んでいるドクター・アオイにマリーは訪ねた。ドクター・アオイの勧めでマリーもコーヒーカップを持っていた。
「好きやな。てか、嫌いいう人はおらんのちゃう? イルカもクジラもええ奴みたいやから。奴いうんのは変やけど、まあ、ええお魚って意味な? ウチもクジラとかイルカみたく、のんびり海で泳いでみたいわ。泳ぐの苦手やけど」
「私、海ってあんまりかも。何だかベタベタするし、塩っぽいし砂っぽいし。何度か泳いだことはあるんだけど、やっぱりお散歩してるほうが好きかも。イルカとかクジラは、良く解らないかな? お話出来るならしてみたいけど、どんなこと話すのかしら?」
「あそこの海は居心地ええとか、今日はサンマが旨いでとか、そんなんちゃう? 知らんけど」
「イルカとかクジラが私の遠い親戚って、変な感じ。だって、人間って海で泳げてもクジラみたいに深くは潜れないし、海の中で会話なんて出来ないし、見た目も全然違うし、やっぱり魚みたい」
ケイジで見た海洋生物図鑑のクジラは、マリーとは全く違う姿だった。ドクター・アオイが哺乳類だと言っているが、そういった生物学的な分類はともかくとして、共通点は殆どないように思えた。少なくともマリーは五千メートルも潜れないし、サンマはあまり好きではない。
「お魚がな? 陸に上がってきて、環境適応して手足が生えて、エラ呼吸から肺呼吸になって、背骨とかが固くなってや、脊椎動物いうんやけど、それが哺乳類になるねん。お魚がトカゲみたくなってや、それが犬みたくなって、そんで猿になるて。でもな、猿から人間になるて言われてるんやけど、そこにミッシングリンクがあるねん」
「ミッシングリンク?」
聞き慣れない単語に、マリーは首をかしげた。
「えっとな、ウチもそないに詳しうないんやけど、猿から人間に進化したていうことになっとるんやけど、人間っぽい猿とか猿っぽい人間の化石なんかがないんやて。つまりな、猿から人間に繋がる部分がごっそり抜けてるて、そういうんをミッシングリンクて呼ぶんやって。人間が猿の親戚やったらや、人間っぽい猿とか猿っぽい人間の化石やらがないと変やろ? でもな、そういうのんが全然ないんやて。せやからな、人間て猿が進化したてことになっとるんやけど、そこを説明出来るもんがないんやて。それをミッシングリンクていうんやって」
「つまり、私って最初は魚で、トカゲとか猿になって人間になったんだけど、どうして人間になったのか解らないって、そういうお話?」
「まあ、そないなところやな。宇宙船とか飛ばしててもや、何でもかんでも解るほど人間は賢くないて、そういうことや。ひょっとしたらクジラのほうが賢いかもしれんしな」
ドクター・アオイの言う進化論は現代科学の中では古典に位置するもので、最新科学では少し解釈が違っているのだが、月面都市を築いて宇宙戦艦を飛ばすほどの技術文明に至っても、ミッシングリンクの謎は手付かずだった。現代ではミッシングリンク部分はウイルスによる突然変異説と、地球外生命体によるものという説が有力だったが、どちらも検証不能であくまで一説に過ぎない。ウイルス進化説が比較的解りやすいのに対して、地球外生命体説は半分オカルト扱いだったが、外宇宙にまで生活圏を広げていた科学文明は、ミッシングリンクはともかくとして地球外生命体の存在に対して肯定的だったし、知的・人間的ではないにしろ、何種類かの生物を確認してもいた。二つの説を併せて、地球外ウイルス飛来により猿が人間に突然変異した、という説もあり、微生物科学の分野は地球外生命体の発見もあって急速に発展した。
その研究は生物学から脳科学、技術工学にまでフィードバックされて、知覚神経系を一時的に三倍に強制加速させるデバイス、アクセルを始めとした脳補助デバイス理論の基礎となり、後のハイブの頭脳、カーネルの誕生とも繋がっている。脳補助デバイスが技術工学系の結晶なのに対して、カーネルは有機回路の塊で生物学と脳科学に分類される技術でもある。
つまり、リッパーの両腕、Nデバイスのイザナミやイザナギが小型量子演算ユニットで技術工学の塊であるのに対して、ハイブの頭脳であるカーネルは機械でもコンピュータでもない。構造こそ既存の集積回路と人間脳を基本にしたものだが、根本的に異なる装置である。暴走を続けるハイブの行動原理を詳細に研究出来ない理由もここにある。イザナミ、イザナギクラスの量子演算ユニットでもカーネルにアクセスすることは出来ない。構造が根本的に異なるからだ。ラジオが映像情報を受信出来ないのと同じ理屈である。故にカーネル内部で何が起こっているのかを知る術はなかった。ハイブが誕生した直後のカーネルには幾つかの命令とそれを実行するだけの指示があり、他に肉体を制御する信号回路もあったが、スタンドアローンでの運用を想定して自律運動も組み込まれていて、これらは全て外部からの命令で制御されていた。ハイブ及びカーネルの技術は軍が保有しており、サイバーテクノロジー大手企業のH&H(ヒューマン・アンド・ハイブリットヒューマン)社がイニシアチブを取っていたとされているが、全て機密扱いなので詳細を知る者はごく一部だった。
ドクター・アオイ・ツユクサ、そしてNデバイス設計チームのドクター・エラルド・ワトソンは軍需企業大手のIZA社に所属しているが、ドクター・エラルドはH&H社のことを「生命倫理の欠片もない、クズどもの集まり」と評していた。ベッセル・ストライクガンを扱えるのならH&H社に殴り込む、とまで言ってもいた。
マリーはH&H社のことは知らないが、ドクター・アオイやリッパーは職業柄、名前と噂は聞いていた。脳デバイスやサイボーグ技術に特化した軍お抱えの企業で、臓器売買などを当たり前のように行い、遂に合成人間・ハイブを作り出したという、あまりよろしくない噂話だった。ドクター・エラルドはハイブ製造工場がH&H社と裏で繋がっている噂もある、とも言っていたが、真偽はともかく無くはない話ではある。オービタルショットやハイブの暴走で混乱しようが、企業は常に利益を求めて行動するもので、いつの時代でも人間は金で動く。ドクター・アオイがクジラのほうが賢いかもしれないと言うのは、そういったことを含んでいるのかもしれない。
「おお、また跳ねたで。イルカが群れとるからイワシやらサンマの群れがおるんやろな。マリーちゃん、サンマ苦手て、刺身なんかも駄目なんかいな?」
「サシミ? そんな魚、知らないけど?」
糖分ゼロ、ブラックのコーヒーをちびちびと飲みつつ、マリーは返した。ドクター・アオイはどうやらブラック派らしい。リッパーやコルト共々ヘビースモークでついでにブラックコーヒーで、とても医者だとは思えない。
「お魚をな、さばいて食べるんが刺身や。都会の人は生は苦手てエラルド博士が言うてたけど、マリーちゃんもかいな?」
「サバくって、火も通さずに食べるの? 食べたことないから解らないけど、美味しいの? それって」
「旨いでー。食べ物はやっぱ新鮮なのがええで? 刺身とか寿司とかな」
「スシ? アオイさんの街って何だか私の知らないものばっかりみたいね?」
各地を渡り歩いてあれこれと知っているマリーだったが、ドクター・アオイは随分と遠くから来たらしく、名前も言葉も好みも変わっていた。医者だからかマリーの知らないことを沢山知っているようでもあった。
「ウチの街て海に近かったからや、寿司は贅沢とかやないからしょっちゅう食べてたで? 刺身もな。ウチもお魚さばくくらいは出来るし、て、メスちゃうで? 包丁や。ウチな、白身魚が好きやねん。赤身も嫌いやないんやけど、あっさり系やねん」
「そういえば、スシとかじゃないけど、魚の缶詰があった筈。アオイさん、食べる? 私は少し食べるけど?」
言いつつマリーはブラックバードのリアトランクを開いて、荷物を漁った。
「せやな。朝ご飯食べてへんから貰うわ」
はい、とマリーがドクター・アオイの渡したのはニシンの缶詰とフォークだった。
「煮物もまあ、ウチは好きやわ。お魚はだいたい好きやねん。て、これ、旨いやん。コーヒーやのうてお茶のほうが合うやろうけど」
「保存食ってあんまり美味しくないイメージあるでしょ? でもね、実際はなかなかなのよ。リッパーがね? 軍人さんはレーションっていう保存食を食べるって言ってて、それって昔は凄く不味かったって。でも今時のレーションってとっても美味しいし栄養バランスとかもきっちりしてるんだって」
「軍人さんかて、食べなお仕事できひんやろうしな。旨いもん食べてたらやる気も出るやろし、て、軍人さんがやる気とか出すんはあんまり良くないんかな? これ、ほんまに旨いやん。ニシンてもっと雑な味やったと思うてたけど、いけるやん」
食事中も煙草を止めないドクター・アオイはのんびりとニシンを口に運び、ゆっくりと味わってから、コーヒーで流し込んでいた。
「クジラもな、食べたら旨いらしいで? イルカは知らんけど」
「クジラを食べるの? でっかい哺乳類で親戚みたいなんでしょう?」
マリーは少し驚いて尋ねた。
「どっかの国でな、クジラ食べる習慣があるんやって。ウチの街は違うんやけど、そういう国があるんやって。でもや、さっきも言うたけどクジラて賢いやん? せやからな、反対して保護しようて連中もおったらしいわ。どっちが正しいかとかは知らんけど、まあ、そんな国とかもあるて、そんだけの話やけど」
「私、本でしかクジラって見たことないんだけど、あれを食べるって、何だか抵抗あるかも」
「まあ、何食べるかとかは国で違うからな。宗教やら風習やらが違えば食べるもんも違うし、違う同士で話が合わんこともあるやろし、人間ていうても色々おるて、そういうことやろ。サシミ食べるんに抵抗ある言う人もおるやろし、イルカやらクジラを親戚みたく思う人もおるやろし、どれが正解かとかそんな話でもないからな」
「私は肉も食べるし野菜もフルーツも食べるけど、ベジタリアンだっけ? 野菜しか食べない人とお話したこともあるの。豚とか牛を殺すのは残酷でやっちゃ駄目だって、そう言ってたわ」
「そんなんもあるな。ウチの街は海に近かったからお魚メインで野菜とかも食べててな、肉はあんまりやねん。せやけど菜食主義者とかやないで? 都会に出たときはたまにお肉も食べるし、まあ、あんま好きちゃうんやけど、食べるんは食べるわ。菜食主義言うんも、まあ解らんでもないわ。豚とか牛を神様の使いみたく言う国もあるし、犬が人間より賢いて言う国もあったらしいし、まあ、色々やわ」
ニシンの缶詰をたいらげたドクター・アオイはハンカチで口を拭ってから、何杯目かのブラックコーヒーを口に含んだ。キャビンはターボシャフトの唸りでずっとうるさいが、ドクター・アオイもマリーもすっかり慣れたらしく、左耳の通信機越しで普段通り会話を続けていた。
「私ね? ずっと旅してるから色々と詳しいつもりだったんだけど、アオイさんて凄く色んなこと知ってるのね?」
「まあ、ウチはほら、お医者さんやから、勉強するんがクセみたいなもんやねん。たまーにやけど、街の外に呼ばれることもあってな? 習慣とか言葉違うとこでお医者さんやるときにや、そういうんを知っとると何かと便利やねん。患者さんもや、何も知らんお医者さんは信用できひんやろ? せやから本読んだりテレビ観たりラジオ聞いたりはするねん。何やったっけ? ネット? それはリッパーちゃんから教えて貰うまで知らんかったけど、この、モバイルやったっけ? これ使うたらもっと色々解るて、リッパーちゃん言うてたし、まだ使い方解らんけど、テレビとかにもなるみたいやから、ぼちぼち使うわ」
ドクター・アオイが持つモバイルはIZA社から支給されたもので、マリーの持つものより幾らか性能が上らしかった。旅を続けるマリーにモバイルは必需品で、主にルートマップとして使っていたが、マリーはどちらかというとアナログ嗜好なので印刷物のロードマップがメインでモバイルはあくまで補助的だった。ブラックバードはツインカムV8エンジンで千馬力を叩き出すユニットで、走行中はその爆音で音楽などは聴けず、また、マリーはV8サウンドが好きだったのでのんびり音楽を聴くということも少なかった。
「アオイさんて機械なんかが苦手って言ってたわよね? お医者さんって機械なんかなくても平気なの?」
「ウチな、機械はめっちゃ苦手やねん。いちおうレーザーメスとか顕微鏡は使えるんやけど、パソコンとかはサッパリやねん。ネット言うんもようわからんし、このモバイルかて、リッパーちゃんに使い方教えて貰うまでは電話やったしな。でもな、今は少しは解るで? これが地図やろ? んで、これが現在地、かな? 海のど真ん中やん。何やったけ。近くにでっかいパソコンあったら情報が出てくるとか、そんなこと言うてたかな?」
煙草片手にドクター・アオイは自分のモバイルをいじっている。マリーはそんなドクター・アオイと口から出てくる紫煙を眺めていた。そして少し考える。マリーは今、リッパーの旅に同行して空を飛んでいる。リッパーは海兵隊の軍人で、向かう先は軍事基地とのこと。そこからリッパーは宇宙に上がる、そう言っていた。ダイゾウも宇宙にいるらしい。砂漠を中心に各地を旅して数年のマリーは、海もだが宇宙とは無縁だった。そこがどういう場所なのかという知識は多少あったし、ルナ・リング、月衛星軌道に建造された軍事基地は昼間でも見えるし、巨大な宇宙戦艦のシルエットも天気が良ければ見える。宇宙が身近な場所であったのは十五年前までで、オービタルショットとハイブの暴走以後、地上と宇宙は事実上寸断されていた。ロケットだかで飛ぶどころか通信すら遮断されていて、肉眼で見える月やルナ・リングに人間が住んでいるという実感は薄かった。地上は凶暴なハイブとバンデットだらけで、都市の幾つかは再建したらしいが、軍事的価値のある場所が優先らしく、都市というより戦略拠点であった。マリーに解るのは、地上はひたすらに混乱していて収まる気配すらない、それくらいだった。
リッパーが宇宙に上がる理由は詳しくは聞いていない。ただ、彼女がそもそも海兵隊の宇宙艦隊の艦長で、地上ではなく宇宙にいるのが本来の姿だということは漠然と理解していた。砂漠のど真ん中で出会って以降、随分と親しくなったつもりだったが、リッパーには宇宙に沢山の仲間や友達がいるらしいことも理解していた。ブラックバードは車で、空は飛べないし宇宙に上がれもしない。つまり、このまま飛び続けて軍事基地なりに到着すれば、そこでリッパーとお別れだと、そういう意味だ。また最初に戻るだけ、そう考えても、マリーは何かがすっぽり抜けるような感覚だった。ハイブがうようよする危険だらけの地上にマリーは残され、リッパーは宇宙へ。ドクター・アオイがケイジで、ブラックバードは空を飛んで宇宙に行けるのだろう、とトンチンカンなことを言っていたが、今は、そんな装置がブラックバードにあれば良かったのに、そう思っていた。
リッパーが宇宙で何をするにしろ、ブラックバードとインドラ・ファイブ、そして自分は何か役に立たないか、そう考えてマリーは、どうして自分が宇宙に行きたがっているのかとも考えて、きっとリッパーが行くからだろう、そう思った。
一人旅でブラックバードを走らせて数年。コンボイを編成して西に東にを数年。コルトを雇って一年と少し。そして今は目の前にドクター・アオイという風変わりな医者がいて、パイロットシートにはリッパーとコルトが座っている。前回の旅はリッパーの恋人のオズを、サイキッカーという連中から救い出す作戦で、沢山のハイブとも戦った。今回も途中のゴーストタウンでハイブを狙撃したりもした。愉快でのんびりした旅とはとても言えないが、リッパーやコルトと一緒にいることが当たり前に感じていたので、そこからリッパーが抜けるというのは違和感があった。リッパーが抜けるというより、自分だけ取り残される、そんな気分だった。
自分が宇宙に行ったところで何の役にも立たないことは解っているが、宇宙がどういう場所であってもインドラ・ファイブの火力は少しくらい役に立つのでは、とも考えたが、旅するジプシーであるマリーは傭兵のコルトとは違い、進んで戦場に立つようなタイプではないし、いくらインドラ・ファイブが強力とはいえ、扱う自分は兵士でも何でもない、とも。
「マリーちゃん? 具合悪いんか?」
ドクター・アオイが柔らかい声で尋ねた。
「え? いいえ、大丈夫だけど?」
「そか、せやったらええねん。何や難しい顔しとったから乗り物酔いでもしたんかと思うてな」
「これくらいは平気よ? ブラックバードよりは揺れないし、音はうるさいけど、まあ大丈夫、かな? ……ねえ、アオイさん?」
「ん? もう満腹やで?」
「じゃなくて、このヘリコプターって基地に向かってるのよね? ナントカって言う海兵隊の基地に」
言われたドクター・アオイはモバイル画面を操作して返した。
「えーとな、クワ……クワンティコやって。マリーンコープス・エアフィールドて、海兵隊の基地言う意味かいな? リッパーちゃん、海兵隊の人なんやろ? お仲間んところに行くて、そういうことやろ」
「その後、リッパーって宇宙に行くんでしょ?」
「そないなこと言うてたな。あのお月さんのわっかに行くんかどこに行くんかは知らんけど、宇宙やって。ええなー」
「ダイゾウさんもいるんでしょ?」
「ん? ああ、あの手紙な? ダイゾウいう人がどないな人か知らんけど、そん人も宇宙やって手紙にあったな。何しに行くんかは知らん。エラルド博士と何や難しいこと話してたけど、特殊な力を持った人がどうとか、火星がどうとか、そないな話やったかな?」
ドクター・アオイという人物は、肝が据わっているというのか無関心というのか、ずっと冷静で感情の起伏が少ないようにマリーには見えた。それがいかにも医者らしくもあったが、ハイブと銃撃戦をしていようがV8ブラックバードで揺られようが、グレイハウンドで空を飛ぼうがずっと同じ調子だった。ケイジでは、歩兵に自分を撃たせるというとんでもない真似までして、その時でさえ同じ調子だった。不平不満を言うでもなく、あれこれ意見するでもなく、煙草を吹かしてコーヒーを飲んで少し変わった世間話をする、やたらと色っぽい医者だった。リッパーとドクター・エラルド、コルトらとの会話を全て聞いているはずなのに、そちらにも余り興味を示さず、しかしリッパーが体調を崩した際は的確な処置を行い、それ以外は何というのか、オマケのような存在だった。
「もし、もしもね? もしも、私がリッパーと一緒に行けるとしたら、私って役に立つと思う?」
マリーは、ケイジでリッパーに尋ねたことを繰り返した。仮にドクター・アオイがリッパーに同行するのなら、充分に役立つだろう。彼女は医者で腕前はかなりのものらしく、そこが宇宙であれ戦場であれ、医者がいて困ることなどない。
「ん? 役に立つかどうかは知らんけど、あのインドラナンチャラ言うでっかい鉄砲撃つ係のマリーちゃんやったら、怖いんが出てきても平気なんちゃうかな? ブラックナンチャラ言うこの車でお月さん走るとかも出来るやろうし、ルナ・リングやったっけ? あれってめっちゃでっかいんやろ? せやったら中も広いんやろうから車あったら便利やろうし、宇宙船もでっかいんやろうから車あったら便利なんちゃう?」
「でもね、リッパーって軍人でしょ? つまり、宇宙に行くのってサイキッカーとかと戦争するとか、そういうことじゃないかしら?」
「そないなことも言うとったかな? でもや、確かリッパーちゃん、戦争はせんて、そう言うてたで? サイキッカーやったっけ? その人らと話し合いするとか、そんな事情らしいわ。んで、話し合いするんにナンチャラ言う武器とかないとあかんて、そないなことエラルド博士に言うとったけど? Nナントカや。ほれ、リッパーちゃんの機械の手、あれ、武器なんやって。電話みたく喋るおもろい人らでな、イザナミちゃんとイザナギちゃんやったかな? 機械やのにめっちゃ喋るねん」
「リッパーの左腕さんと右腕さんね? Nデバイス、って呼ぶらしいわ。確か、衛星とリンクしてどうこうっていう凄い装置で、リッパーの首にね、大きなエメラルドがくっついてるんだけど、そこから衛星に命令したりするんだって。そういうのを持ってるからリッパーはサイキッカーなんかに狙われて、今度はそのサイキッカーと話し合い? そのために宇宙に上がるのよね」
「衛星がどうこうは知らんけど、Nデバイスやったっけ? あれがあるから話し合いできる、みたいなことも言うてたかな? イザナミちゃんとイザナギちゃんが話し合いするんかいな。まあええけど。んで、マリーちゃん、一緒に行くん?」
事情を知っているのか知らないのか今一つなドクター・アオイが当然のように尋ねて、マリーは戸惑った。
「一緒に……行けない。多分一緒だと迷惑だろうし、サイキッカーってとっても怖い相手なの。ライフルの弾をね、全部跳ね返すの。多分、インドラ・ファイブも跳ね返すと思う。前に出てきたサイキッカーはインドラ・ファイブを跳ね返してたもの」
「あのでっかい鉄砲、跳ね返すて、器用な人やな? そないな相手と話し合いなんか出来るんかいな。合成人間のほうがまだマシやん。マリーちゃんの射的で合成人間やっつけられたしな。あの赤いのんもサイキッカー言う人なんかいな」
「赤い? 何それ?」
ドクター・アオイの科白に、マリーは首をかしげた。
「ん? マリーちゃん、知らんのかいな。ほれ、このヘリコプターがあった基地に来たやん。赤い髪で赤い服の、マリーちゃんくらいの女の人が。あん人、自分はエンタクのナンチャラでサイキッカーやって、そないなこと言うてたで?」
「赤い……ミス・サンタクロース! あの人、サイキッカーだったの!」
文字通り飛び跳ねて、マリーは驚いた。夢半分の記憶にある笑顔の女。全身真っ赤な痩躯のミス・サンタクロース。リッパーに用事があると言っていた女の笑顔が浮かんだ。
「サンタクロース? いや、何やったけ? トリスタン、とかそんな名前やったかな? エンタクのセイハイキシとか言う肩書きでや、死神兄ちゃんみたく渾名{あだな}みたいなのんがあって、えと、悲しみのトリスタン、やったかな? チャンバラ兄ちゃんとあれこれ話してたわ」
「チャンバラ?」
次々と知らない単語が出てくるので、マリーは戸惑った。あのミス・サンタクロースがサイキッカーだというのは全く信じられなかった。三週間前の、ランスロウと名乗った金髪のサイキッカーはいかにも悪党といった雰囲気だったのに対して、ミス・サンタクロースは友達か姉妹がといった雰囲気だったからだ。
「ほれ、ブラックナンチャラの中でへばっとるやん。チャンバラ兄ちゃん。ヘリコプターが飛んでからずーっと気持ち悪い言うてたから酔い止め渡したんやけど、寝てるんちゃう? 酔い止めに眠気の副作用あるからや」
「チャンバラ……ひょっとして、イットウサイさんのこと?」
「おお、そないな名前やったかな? 太刀{たち}持って侍{さむらい}やから、チャンバラやん。ウチ、人の名前覚えるの苦手やねん。せやからチャンバラ兄ちゃんな? 死神兄ちゃんとお揃いや。ちょいと具合観て来るわ。こないでもいちおうお医者さんやからな」
残ったコーヒーを飲み干して、ドクター・アオイはキャビンシートから立ち上がり、ブラックバードに向かった。
「チャンバラ? 食べ物の名前かしら? 魚の名前とか?」
キャビンの床に座っていたマリーは、空{から}になったニシンの缶詰の隣にコーヒーカップを置いて、ドクター・アオイが座っていた位置にある窓を見た。太陽が昇って空は明るかった。大きな積乱雲があったがほぼ晴天で、海は少し荒れているようだった。イルカの群れはもう見えない。
グレイハウンドがラバト・エアベースを離陸して五時間と少し。大陸と大陸の間、見渡す範囲は全て海で、時折魚の群れが飛び跳ねる以外は大した変化もない。遠くに積乱雲が見えるが天候は安定しており、順調なフライトだった。
「アテンション、機長のリッパーよ。こちらは今のところトラブルなし。キャビンのほうは?」
「マリーよ。こっちはお喋りしたり食事したり。イットウサイさんが具合悪いらしいけど、アオイさんが診てくれてるから平気みたい。ねえ、リッパー? このヘリコプター、グレイハウンドだっけ? これが基地に到着したら、その後どうするの?」
マリーの声色に疲労はないようだった。
「モバイルにルートとスケジュールは送ったけど? もう五時間くらい飛んだら西大陸で、海岸線沿いに大きな基地があるの。海兵隊の地上拠点、クワンティコよ。そこでシャトルを手配して一気に宇宙に上がるつもりだけど? ああ、上の目的地を伝えてなかったわね。今送るわ。イザナミ?」
「了解。各モバイルにルート転送、完了。クワンティコ・マリーンコープス・エアフィールドからルナ・リングへ直行し、そこから海兵隊戦艦ドック、マリーンコープス・スターシップドックへ向かい、巡洋艦バランタインと合流します。バランタインの状況が整い次第、第三次防衛網を経由して第七艦隊に合流。そのまま単独で火星圏へ向かいます。尚、今回の作戦は現時点では未承認です」
「とまあ、そんな感じ。バランタインを動かすのに海兵隊艦隊司令部の承認が必要だから、ドックに到着したらまずはその辺の手続きね。バランタインには独自の指揮権があって艦隊司令部とは独立した命令系統で、つまり、あたしの独断で動けるんだけど、いちおう手続きは必要なの。前回のサテライトリンクの時に修理状況が十八パーセントだったから、今は良くて五十パーってところでしょうね。七十オーバーじゃないと動かせないから戦艦ドックで数日過ごすか、ルナ・リングで暇潰しってところね。クルーの選抜も必要だし」
「バランタインって、確かリッパーが艦長をしていた艦よね? 故障してて修理中の。別の、故障してない艦じゃあ駄目なの?」
「あら、なかなか鋭い質問ね? さすがマリーってところかしら。バランタインってね、海兵隊の最新鋭戦艦なのよ。基本フレームは他と同じで全長二千五百で総重量六十万トンの統一規格なんだけど、通常一基のCドライヴを四基搭載してて武装も他とはかなり違うの。Cドライヴ直結型の可変速ビーム砲は従来の荷電ビーム砲の三十倍以上の威力でそれが八門。ディフェンスはこちらもCドライヴ直結のプラズマリフレクターの広域展開型で、光学兵器は全て無効に出来るの。艦の中枢にはイザナミなんかと同じタイプの量子演算ユニットがあって、これを搭載してるのはバランタインだけなの。スペックとシミュレーション上では、同時に一万隻の機甲艦隊と撃ち合える性能で、一隻で艦隊戦がやれる唯一の艦、それが巡洋艦バランタインなの。それでね、バランタインってあたし以外じゃ動かせないのよ」
「リッパーだけ? それってリッパーが艦長だからってこと?」
「うーん、ちょっと違うの。バランタインの量子演算ユニットってイザナミみたいに自律思考するユニットでね、簡単に言うと人間みたいに性格なんかがあるのよ。まあ、イザナミやイザナギを戦艦にしたとか、そんなイメージね。それで、バランタインには階級が設定されてあって、スカイマーシャル、つまり軍トップと同じ権限を持ってるの。そんなバランタインがあたしを艦長に任命して、あたし以外の命令は受け付けないの。どうしてそんな作りになってるのかは知らないんだけど、つまり、あたしはバランタインを唯一動かせる人間で、バランタインは自己判断では動かないとか、そういう事情なの」
通信機の向こうからマリーの溜息が聞こえた。
「複雑なのね? でも、そんなに凄い戦艦だったら誰も乗らなくても動きそうよね?」
軍事事情に疎いマリーだが、メカセンスがずば抜けているので、何気ない言葉も的確だった。
「そうよね、あたしもそう思う。まあ、無人機は暴走なんかの危険があるし、ハッキングでもされたら、なんて話でしょうよ。地上でハイブが暴走したっていう事例があるから特にね。バランタインの量子演算ユニットはイザナミなんかと同じでハッキングなんて安っぽいことは受け付けないんだけど、やっぱりマシンが勝手に動き出すってのを恐れてるんでしょうね。だからバランタインって特別と言うより例外なのよ。いちおうバランタインは勝手に動けないようにはなってるんだけど、バランタインの量子演算ユニットなら戦艦ドックのセキュリティとかルナ・リングからのコマンドは全部キャンセルできるから、実は自律航行できるのよ。これはバランタインが言ってたから本当でしょうね。マシンにスカイマーシャルと同じ権限を与えたのは、これはあたしの想像なんだけど、そういう肩書きを与えればバランタインは暴走しないとか、そういう事情じゃないかしら? スカイマーシャルがただの海兵隊大佐の指揮下に入るってのも変な話だけど、実際、バランタインはあたし以外の命令は聞かないんだから仕方ないわね」
「戦艦のことは何となく解った。それで、リッパーはバランタインっていう戦艦で何を?」
マリーに問われて、リッパーは言葉に詰まった。
地上には暴走する無数のハイブと、それを裏で操っているらしいサイキッカー、特殊能力者集団。十五年前のオービタルショット以降沈黙を続ける火星と、そこに展開しているであろう火星艦隊。空軍と海兵隊はルナ・リングを拠点に防衛網を展開しており、何度か送った偵察艦は全て消息不明。直接コンタクトしたサイキッカーは地球と火星の制空権を取るようなことを言っており、切り札になる宇宙戦艦だか機動要塞だかを持ち、サイキッカーは複数。通信などを遮断された地上は暴走するハイブと残存軍隊が戦いを続けていて、地上拠点の幾つかは陥落した。目先の問題はハイブの暴走だが、殲滅するにしても三十億は多すぎるし、再びオービタルショットのような真似も出来ない。サイキッカーが一連の事件を裏で操っているかもしれないというのはあくまで憶測で、そこにシノビファイターなる存在が絡んでくることを知るのはリッパーたちのみ。
仮にサイキッカーが敵であるにしても、真正面から戦うというのは得策ではなく、相手が人間であるのなら話し合いで全てを決着させることも出来るだろう、そうリッパーは考えていた。
「あたしは、バランタインで火星圏に向かって、そこにサイキッカーの拠点があると睨んでるんだけど、そこで連中と話し合いをする、そう考えてるの」
「話し合いって、あのランスロウみたいな人達と?」
「マリーの言いたいことは解るわ。あの連中が話し合いに応じるなんて思えない、あたしだってそう。でも、ハイブじゃあるまいし、可能性があるなら平和的な道を選びたいの。少なくともやってみる価値はあると思ってる。駄目なら、その時は撃ち合うしかないけど、最初から敵視するってのは賢くないんじゃないかって、そう思ってるの。意見は対立したけど、ランスロウとは会話は出来たんだし、別のサイキッカーもどうやら同じみたいだから」
「別のって、ひょっとしてミス・サンタクロースのこと?」
「そう、その人。コルトの話だと、ランスロウよりは話の解る相手らしいし、他にも何人かいるらしいけど、敵対するならするなりの理由がある筈。だったらその理由をきっちり理解して、譲れるところは譲って最悪を回避しようって……ねえ、マリー? あたしの考えって甘いと思う?」
海兵隊大佐で艦隊指揮をするリッパーは、誰かに何かを尋ねることはあっても、自分の考えがどうこうと聞くことなど皆無だった。プライベートでも同じで、リッパーはワンマンで自己完結しているタイプでその自覚もあった。別にクールを気取っているでもないのだが、そんな自分がマリーに尋ねるというのは以外だった。思わず口から出たその科白に、マリーはしばらく沈黙してから答えた。
「ダイゾウさんがね? 完全な悪はいないって、そんなこと言ってたの。それって、リッパーみたいな軍人が敵だって思ってる人も実は良い人かもしれないって、そういう意味なんじゃないかな? 戦争は嫌いだし、それが話し合いでなくなるんだったらそれが一番素敵だって私は思う。コルトなんかが聞いたら甘いって言うと思うけど」
「そうよね? 軍人だからって銃を撃ちまくるだけが仕事じゃあないし、調停だ和平だってのもアリでしょう? これはドクター・エラルドにも言ったんだけど、そういうことをするにしても自分を守って発言するだけの武装なりが必要で、だからバランタインが必要なの。バランタイン級は量産してないし、大勢で向かえば相手は警戒するでしょうから、最低源でね? バランタインとあたしとNデバイス。今の地球圏でサイキッカーと真正面から話し合いが出来るのはあたしくらいなのよ、残念ながら」
「ねえ、リッパー? そういうややこしい事情なんかを全部誰かに任せて、どこかでのんびりしよう、なんてこと、考えたことある?」
抑揚のないマリーのその科白に、リッパーは思わずのけぞった。心中を言い当てられた、そんな気分だった。
「ソーリー、その答えは保留ってことで」
「……解った。もう一つ、いい?」
「どうぞ?」
「リッパー、一人で宇宙に行くの? 宇宙に行ったら仲間とかお友達とかいるの?」
「うん? とりあえず一人で上がるつもりだけど? ルナ・リングにも戦艦ドックにも知り合いだの仲間だのは大勢だし、友達ってほど上等でもないけど、親しい人は何人かいるけど?」
リッパーの指揮する第七艦隊は戦艦ドックを母港にしているが、空軍の拠点、月の環状防衛網、ルナ・リングに立ち寄ることもあり、宇宙方面の司令部はルナ・リングにあったので知り合いも上官も大勢だった。第一から第七までの艦隊とのコミュニケーションはしっかり取ってあって連携した作戦もあり、第七艦隊だけでも三十隻以上の宇宙戦艦から編成されていて、宇宙戦艦一隻には二百程度のクルーがいる。顔見知りもいれば名前さえ知らない相手もいる。
「リッパー……あのね?」
「マリー? あれこれ片付いたら、その時はヴァカンスでバランタインに招待するわ。戦艦ドックもルナ・リングも案内してあげる。オーライ?」
「うん……解ったわ。そっちは食事は?」
「コルトは食べてたみたい。あたしは食欲がないから水と煙草。グレイハウンドのコントロールはイザナミに任せてるから、のんびりしてるわ。そっちもリラックスしてて。もうしばらくかかるから、オーバー」