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短編

人類と森 概論

作者: われさら

以下は『人類と森 概論』の講義に使われたテキストからの抜粋である。

 森が人類史の文献に初めて現れたのはセシビア暦1246年のこと。探検家アラム・バーゲルに同行したヘンリク・ウェルマンによる、彼が見聞きしたものを記した『辺境と秘境』その最終巻である。この書はヘンリクが個人的に書き記したもののため、その内容を知るのはヘンリクの身近なごく僅かな人たちに限られた(※1)。


「この驚異の森は、一本の神樹──私はついぞそれを遠目にも見ることは叶わなかったが──を中心に、おおよそ同心円状にをわずかに少しずつ広がっていると言われている。──神秘なる力で」


「驚異の森は、侵入者を恐ろしく嫌う。ここへと入る時、近辺に暮らす者たちは必ず複数人で、かつ、驚異の森の外からも見える範囲でしか活動しない。驚異の森の奥へと入っていって戻ってきた者はこれまで一人もいないと言う。誰も見たことがないはずの神樹が確実にあるとされているのも不思議な話だが、村人たちの真剣な言葉にはただの迷信と断ずることはできないものを感じる」


「数日の滞在のうち私とアラムは何度も協議した。驚異の森へと入るべきか入らざるべきかを。アラムは驚異の森の魅力に囚われ、一方の私は今までにない不気味なものを感じていた。そしてある日のこと、アラムは一人で驚異の森へと入っていってしまった。……それ以来、私は村でアラムの帰りを待ちながらこの書を書き続けてきた。もう五年近くになる。これを書き上げた暁には、故郷へと帰るつもりだ」


 このときはまだ、コモレウス暦1475年の今現在のようにただの「森」とは呼ばず、「驚異の森」とか「神秘な森」とか「入らずの森」とか、その土地々々で好きなように呼ばれていた。当初、人類は同族同士の争いにかまけていたせいで遅々として進行して侵攻する森に脅威を抱くことはなかった。ただ、「そういうものか」と思っていた者が大半であった。森のある地に住まう人々が森からは少し距離を置いたところに居を構えていたことも、早い時期から問題とされなかったことの原因であろう。


 セシビア暦1338年。森の周辺にあったポルエニカという村で事件が起こる。


それに最初に気が付いたのは、村の長老とも相談役とも呼べる村一番の年配者だった。彼はある朝の早い時間、幼き頃より眺めてきた川の向こう側の森が、前日までは確かに川の向こう側にあった森が、この時、岸のこちら側にあるのを見た。川を境界として森がこちら側までは広がってこないと勝手に思いこんでいた彼は、驚愕のあまりその場に腰を抜かして一、二時間ほどただ呆然と森の木々が風に揺れるのを眺めていた。

やがて他の村人たちが起き出し事態を把握すると村は恐慌状態へと陥った。たった一晩で森が川を渡るほど広がるなど聞いたことがない。彼らはすぐさま、広がってきた森を伐採、掘り起こし、焼却、その他ありとあらゆる手段で川の向こうへと押し戻そうとした。しかし、何をやっても数日、数ヶ月もすると元通りで、森の侵攻を止めることはできなかった(※2)。


 現在でも森の急成長の原因は不明のままである。森が拡大する速度は一定ではなく日によってバラツキがあることが知られているが、明らかにこの時代を境にして森の成長速度は急激に早まっている。そして、この恐怖の事象は森の周辺のあちこちで起こり始めていた(※3)。


 セシビア暦1346年。森の周辺から離れ、別の村や町へと逃げ延びた者たちの口から口へと森の話は伝わり、森に接した領土を持っていたキロベニカ王国が国としての調査・対策へと乗り出した。セシビア暦1347年。キロベニカ王国第一調査隊の出立と完全行方不明の報告。更に同年、第二調査隊を送るも1/3が道中で逃走。残った者たちも半数が森へと入ることを拒み、残りの者たちが森へと入ったものの第一調査隊同様行方知れずとなった。以後、第三調査隊が組まれることはなかった。


 セシビア暦1350年。森に深入りせず試行錯誤をして侵攻を食い止めようとしてきたキロベニカの優秀な学者たちが報告を王に奏上。


「全てが無駄に終わった。今後も阻止の手段を追究するが望みは薄い。侵攻速度は日によって大きく異なるため断言はできないが、十年以内には国民の多くが実感するほどに森の影響を受けはじめ、王都が直接影響を受け始めるのはそこから更に五年。森から一番離れている都市ブコレが完全に飲み込まれるまでは更に五、六年程度だろう。──つまり、キロベニカ王国はもって二十年程度である可能性が極めて高い」


瞬く間にこの実質白旗宣言は国内外に広まり、キロベニカ王国のみならず森に接している他の国民たちにも動揺が走った。


 キロベニカ王国とは森を挟んで西側にあるオーネ皇国が、森の侵攻の第一の犠牲国となった。セシビア暦1367年。オーネは、侵攻する森に飲まれ終焉を迎えた。国民は予め近隣諸国へ避難した者と森の中で生活すると息巻く無謀な者たちとに分かれた。無論、森に残った者たちがその後どうなったのか記録には残っていない。この時、事態を見極めようと森が目と鼻の先に迫ってくるまでオーネに留まり生活を続けた作家のツィラーは後にこう語っている。


「意思有るものがこの世界を作り給うた……ならば、終わりを告げるは意思無きものだ」(※4)


 森から少し距離があり北側に位置する国フォルサムは、この事態を甘く見ていた国の一つであった。かの国は国境を囲うように天然の要塞ともいえる厳しい山々があり、この山々が壁として機能し森の侵攻を防ぐだろうとフォルサムは大々的に宣言。キロベニカをはじめとする他国民の中には、この山を越えフォルサムへと向かう者たちもいた。

しかし先述した通り、道中は厳しい山々である。山越えは苦難を伴うものであった。特にオーネ皇国が消滅する前年のセシビア暦1360年冬は、オーネからの移民で人が溢れかえり食料を奪い合い殺し合う者、寒さにやられ動けなくなる者など、無事山を越えたわずかな者たちが「地獄を見た」と口々に言うほど凄惨な季節となった(※5)。


その上、その苦難の道を乗り越えた者たちにも救いはなかった。森は、山を越え谷を越えフォルサムを侵食した。だが、気休め程度ではあったが、山々が壁として機能し森の侵攻がわずかに停滞したのも事実だ。セシビア暦1371年。フォルサムは消滅した。


 時は少し遡りセシビア暦1369年。学者たちの予言通りキロベニカ王国はいよいよ存亡の危機にあった。当時の国王レーガーはキロベニカ王国民のみならず大陸のすべての人民に、


「──海に出よ。最終的には、それしか道はない」


と呼びかけた。森は海辺まで押し寄せていたが、海の中にまでは侵攻しないことがこの頃明らかになっている。陸で食い止める術が無い以上、パナガ大陸に留まり端へ端へと逃げながらわずかな希望を探すよりも、新天地を見つけそこで新たに安定した社会を築くべきだとの指針を示したのだった。


これに賛意を示したのが、大陸の南東部沿岸に位置しその周辺を友好国で固め当時絶大な力を振るったアリアネルである。


 当時、まだハレナ大陸は見つかっておらず、いくつかの国は新天地を求め船を出していたが小島を発見した程度ですべて不振に終わっている。そのため、自殺行為に等しい航海に限られた資源を割くことの是非を問う声がアリアネル国内にはあった。それでもレーガーの呼びかけ以後、アリアネルは友好国とともに複数回船を出している。


そして、見事に大陸を発見したのが『辺境と秘境』の著者ヘンリク・ウェルマンの子孫にあたるマレス・ウェルマンであった。

彼は数ヶ月の航海の果てに未踏の大陸を発見。大陸にはアリアネルの首都シュナクにおいてきた妻の名前をつけハレナと呼び、乗員と喜びを分かち合った。幸いなことにハレナ大陸の先住民族と友好関係を結べた彼らはすぐさま帰路へとついた(※6)。


 森はその間も拡大を続けていた。森から多少離れていた国々も分断され、各国が陸の孤島と化しつつあった。

最早、神に祈るしかない──

人々が諦めかけていたその時期に偉大なる吉報がアリアネルに届けられた。マレスの奇跡的な新大陸の発見と帰還である。その知らせを聞いた人々は喜びに沸いた。当時の人々のマレスへの熱狂ぶりは凄まじく、マレスを称える歌がいくつも作られ街のあちこちで歌われたほどである。


 セシビア暦1372年。アリアネルからハレナ大陸への第一移民船団が出港。セシビア暦1373年到着。かねてより決めていた通り、彼らのハレナ大陸への上陸をもって紀年法をコモレウス暦に改め、臨時政府コモレウスを設立。この臨時政府は現在のコモレウス連邦の基礎となった。


 それから、パナガ大陸からハレナ大陸へと人類の大移動が始まった。森が人類共通の敵となったことで人類が団結した側面があるのかもしれない。この当時の人々の団結力は今の我々からしても目を見張るものがある。大移動は円滑に進んだ。

可能な限り人民の移動が済み臨時政府として機能が安定してきた頃のコモレウス暦67年、臨時政府改め連邦は、森の侵攻の確認と調査やパナガ大陸に残された人々がいないか確認と救出を定期的に行うことを決定。

コモレウス暦280年、パナガ大陸全土で森の侵攻を確認。コモレウス暦300年、連邦はパナガ大陸に人類はいないとして生き残りの捜索を打ち切った。


 現在の森について。先述の通り、未だ森の驚異の成長について決定的な説明は学者によってなされていない。入念な準備の末、森の先端部分からサンプルを持ち出し絶海の孤島で森の拡大を再現する試みもあるが、現状ただ木を植樹しただけの結果となっている(※7)。


森が海中深くへと侵攻しなかったのは人類にとって救いであった。しかし、森の謎が解かれない限り人類への脅威は残り続けるだろう。哲学者のトマ・ウリナスは、森という脅威が海の向こうに存在することで人類は安寧に堕落することも不安に絶望することもなくなったとして、少なくとも現代の人類は幸いであると説いた(※8)。


 コモレウス暦1200年。この頃になると、森に大量の予算をかけることへの疑義が生じていた(※9、10、11)。この年、連邦政府は「わたしたちとパナガ」と題して、たとえ何百年、何千年かかろうとも森の謎を解明しパナガ大陸を再び人類のものとする旨を宣言。改めて森に対する研究の重要性とパナガ大陸への帰還の意義を主張、市民へ理解を求めた。これ以後、第三者機関による監査の義務化や予算使用用途の明細化等と放漫財政ではなくなったものの、それでも多くの予算を割きながら森の研究は続き今に至っている。


 ──最後に、今後も長きにわたり人類は森と対峙していくことになるだろう。森の中央にあるとされている、一本の神樹を人類が発見するその時まで。

以下 注釈



※1:

全6巻。コモレウス暦元年(セシビア暦1373年)にシュナク出版が発行、これにより広く知られることとなる。



※2、3:

『わたしたちが見た森の侵攻』(シュナク出版)より。その他の被害事例にも詳しい。



※4:

ニカ・ツィラー著『絶望』(テテラント出版)より。



※5:

マイヤー・シュタイヤー著『1369 -脱フォルサム記-』(コモレ出版)より。



※6:

マレス・ウェルマン著『帆をあげよ、旅に出よう』(シュナク出版)より。



※7:

コモレウス暦1121年から行われている、俗に言うイーマス島の大実験である。現在でも研究は続けられているが、無害であると判断された区域はコモレウス暦1171年から一般人でも観光が可能となった。



※8:

トマ・ウリナス著『深き海』(コモレ出版)より。出版当時賛否両論を引き起こした。



※9:

コモレウス暦1180年代から「土いじりしているだけで何の成果も生み出さない金食い虫」と一部識者から森を研究する学者たちを非難する声があがりはじめる。研究への援助額の縮小を検討し、他の有益な研究や事業へ割り振るべきだと彼らは主張した。



※10:

コモレウス暦1196年2月。森調査に大きく関わってきていたポラヴィス港運と連邦政府との長年に渡る癒着が暴かれる。



※11:

新聞社ネモ・デイリーがコモレウス暦1198年10月に行った大規模なアンケート調査では、森に関係する事業・研究への予算を減らすべきが62%、増やすべきが11%、残りの27%はそのままで良いだった(未回答を除く)。


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