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深窓の令息が「悪役令嬢にはさせないよ!」と申しまして。

作者: 黒のシロ

 私、レイナ・シベリウスには、『深窓の令息』と呼ばれる同じ年の親族がいる。

 名前はエミール……様。お兄様のお嫁さんの弟にあたる人だ。

 彼は男性とは思えない性別不明の見目麗しい姿と、この国では十二歳から出ることが常識とされているパーティに滅多に出てこない性格から、『恥ずかしがりやの天使』や『(会えたら)奇跡の妖精』などとも言われていて、最終的には『深窓の令息』なんて名誉にもならない二つ名が静かに付けられていた。


 実際のことろ親族である私も、兄夫婦が結婚した際にしか彼の姿を見ていない。その時も彼――エミール様は失礼なことに私のことをまともに見なかった。「興味がない」と全身で訴えていた。


 私だって黒髪と輝く赤い瞳が綺麗なそれなりの美人で通っているのに、失礼な人ね!――というのが当時14歳になったばかりの私の正直な感想だった。


 そんなエミール様の家・バーリエル侯爵家と繋がりができて二年。

 お義姉さまはとても社交的で私にも良くしてくれるから、頻繁に二家族で食事会など行うのだけれども、毎度エミール様は「体調が悪い」など理由を付けて参加しない。そういう人だった。


 『深窓の令息』って言うか、単なる人嫌いじゃない。あんな人が次期バーリエル侯爵家の当主だなんて……あの家大丈夫かしら?


 そんな風に私がエミール様のことを心配しても仕方ないだろう。

 また同時に自分を恥じた。

 お兄様が結婚することで、あの『深窓の令息』と顔見知りになれることに少しドキドキしていたからだ。当時は薄緑に輝く肩まで伸ばした髪と、まつ毛がばさばさで澄んだ藍色をした瞳は魅惑的で、乙女ごごろを僅かにときめかせてしまっていたのだ。


 ――でもそれも昔の話。今は全く興味がないわ。だって私はもう少しで学園に入学するから。


 この国の貴族は、16歳になると貴族の子どもたちが通う学校――通称“学園”に入ることが決められていた。そしてそこで初めて婚約者が決まるのだ。

 何故なら、貴族は学園に入る前に正式に婚約者を決めることが禁じられているからだ。

 なんでも昔それで争いがあって国が傾いたらしい。ともかく詳しくは知らないが、多少親同士の策略めいた個人的な顔合わせはあるとしても、全員が正式な婚約者を決めていないことになっている。この国の貴族は、12歳で顔見せパーティーに出るようになって、あの学園ではじめて契約を交わすのだ。つまりのところあの学園は、巨大なお見合い会場だというのは、貴族の子どもたちなら誰もが知っていた。


 学園に行けば第二王子のレオナルドさまがいらっしゃるわ! 頑張れ私!


 そう。特に好きな人もいない私が学園に期待していたのは、この第二王子の存在だった。第二王子は私と同じ年の少年で、立場上親しくしている少女はまだ存在していない。他の貴族同様、学園で初めて婚約者を見つけるのだ。つまり私も頑張れば彼の婚約者――妻になれる可能性がある。

 この国の結婚は家の格よりも、学園での出会いが優先される。私も王族になれるかもしれないのだ。燃えないわけがなかった。

 そんな風に私がひそかに燃え滾っている時――学園入学半年前のことだった。


「――君を悪役令嬢にはさせないよ!」


 ある日そんな風に言いながら“あの”『深窓の令息』――エミール様が、私がダンスの練習をしている最中の部屋に飛び込んできたのだ。


「え……エミール様……?」

「レイナ、だめだよ騙されたら、あの男は最悪なんだ! 君たちを無駄に争わせた挙句、争いには無関係な少女を選んで、争った君たちに罰を下すという劣悪な行いをするんだ! お、俺は君がそんな風に堕ちていくなんて耐えきれないよー!」

「え、ええええ、エミール様……?」


 この時私は、動揺し過ぎて、彼の名前を呼ぶことしかできなかった。ダンスの先生や側にいた使用人たちも同様だった。

 何故かというとこの時、『深窓の令息』と呼ばれた麗しきエミール様は、その場に座り込んで私の手を両手で鷲掴みしていただけではなく、――涙どころか鼻水まで垂らし、挙句の果てにはえづいて涎まで零していたからだ。

 『深窓の令息』はどこへ行った? と思わざるを得ないグッダグダで情けない姿に、私たちが硬直しても仕方ないだろう。正直彼が話している内容も全く頭の中に入ってこない。


「レイナ、お願いだよ、考えなおして! 君みたいな可愛い子が投獄とか、鞭打ちの刑なんて、可哀相すぎる!」

「投獄!? 鞭打ち!? え、なにを仰ってるの!? エミール様!?」

「だから、俺は――」


 そう言って深呼吸をした瞬間――エミール様は突然倒れた。白目をむいたまま。


「エミール様ぁあああ!?」


 私とダンスの先生、それに周囲にいた使用人たちから悲鳴が上がった。

 その後、急いでエミール様は客間に運ばれ、すぐさまお医者さまが呼ばれた。

 結果的に言うと大事には至らなかった。

 彼は極度の興奮状態に陥った挙句、激しい運動をしたため、脳や身体に負荷がかかって強勢停止――つまり気絶に至ったということらしい。しばらく待てば目を覚ますだろうと、医者は簡単な回復魔法をかけてから帰っていった。


「……エミール君は、一体どうしたんだろうな? バーリエルの方は何か言っていたか?」

「使用人の話によると、午前中に眩暈を起こして倒れたらしいのだけれど、目覚めたときから様子がおかしかったみたい……周囲に意味の分からないことをたくさん質問して、ひとりでブツブツ呟いたあと、「レイナが!」と叫んで、突然ベッドから起き上がって走り出したという話でしたわ」


 お義姉さまは困惑を顔に浮かべながら、実家から聞いた話を兄と私に話してくれた。バーリエル家の方では突然消えたエミール様を探して大騒ぎだったらしい。


「エミール君が走った……彼は、運動できたのかい? そっちのほうは全くだと聞いていたが……」

「馬に乗るのも嫌がった弟です。走るとか剣を振るとはそういうのは全く。お父様も悩んでいたくらいなので……走っただなんて。でも、家から馬車もでてないそうです……この子まさか向こうから徒歩できたのかしら?」


 エミール様は基本的に本邸から出なかったので、本来ならバーリエル家にいるはず。私のいるシベリウス家とバーリエル家はそれなりに離れている。馬車が出てないとのことだから、歩いたとしか考えられない。


「一体、エミール君に何が……」


 兄も義姉も当然私も信じられない気分だった。


「……本人が起きてから何があったのか尋ねてみるしかないですわね」

「そうだな、起きるまで待つか」

「レイナちゃん、大変かもしれないけど、もしよかったらそのままにしておいてくれる? 後からエミールにはきつく叱っておくから、ね?」

「わかりました」


 お義姉さまに申し訳なさそうに言われてしまえば、私は頷くしかできなかった。何しろお義姉さまは深窓の令息エミール様の姉、とっても美人で私も大好きなのだ。嫌なんて言えるわけがない。

 兄夫婦が出ていき、エミール様の寝る部屋に残されたのは、私と数人の使用人たち。本当は私も部屋に戻ってダンスのつづきをしたかったけれど、今はただ彼が寝ている側の椅子に座っているだけしかできなかった。何故なら――。


 どうして私の手を放してくれないのかしら?


 エミール様は最初に私の手を掴んでから、倒れても離そうとしなかった。ベッドに眠っている現在も私の左手を掴んだままだ。その力はかなり強く――というかたぶん腕力ではなかった。体格のいいお兄さまやお医者様にすら解けなかったので、魔力によるものに違いなかった。


 魔法を使われてしまってはどうしようもないですわね。私はまだ未習得ですし……エミール様はどこで覚えたのかしら?


 魔法は学園で覚える技能の一つだ。貴族が全員が学園に通うのもそれが理由だったりする。もちろん小さい頃から才能を発揮して既に使える子供もいるが、大抵は学園に入ってから魔法のことを覚えるのだ。エミール様も半年後学園に入って覚えると思っていたが、ひそかに特訓でもしていたのだろうか。


「……だめだ、俺が、そんな」


 エミール様がまたうわごとを呟いた。倒れてからずっとこの調子だ。

 それにしてもエミール様って一人称が「俺」なのね。てっきり「僕」か「私」だと思っていたわ。

 お花でも食べてそうな儚い容姿の彼には全くに合わない。今もうわごとで「俺」と口にしているが、まるで別人が話しているようにすら見える。だが、「俺」と自分のことを言っている口調は、普段から使用しているものに違いない馴染みがあった。無理している感じがないのだ。


「どういうことなのかしら?」


 彼の身に起きたことが全く分からなくて、私は大きくため息をついた。


------------


「異世界転生?」

「そうなんだよ!」


 しばらくして、エミール様が起き上がった。彼は周囲を見ると私が真隣にいることに驚いたが、再び手を掴んできた。

 そして鼻息荒く訴え出した。


「俺は以前ココとは違う世界に生まれて生きていたんだ。その後わけあって死んでしまった。それから、この世界に転生したんだ、だからその前の世界の、前世の記憶を思い出したんだ!」

「は、はぁ……」


 彼が伝えてくる内容は突拍子もないものだったが、真剣に話をきけばなんとなく理解できた。だが、正直どうしてしまったのだろうと不気味に思った。なぜならその様子は今までのエミール様とは全く違っていた。とても同一人物とは思えなかったからだ。

 エミール様って空想物語が好きだったのかしら?

 そんな話はお義姉さまからも聞いたことがない。

 エミール様は物語よりも絵を描くことの方が好きで、暇さえあれば庭で花の絵を書いている、と聞いている。と言っても彼の絵はかなり芸術的で、お姉様も理解できなかったと言う。私は見たことがなかったが、きっと見ても理解できなかったに違いない。


「だからね君の身にこれから起こることが俺にはわかるんだ。…聞いてる? レイナ?」

「え、はい、もちろん聞いてますわ」


 実際は半分くらいしか聞いていなかったがエミール様の鼻息が荒すぎて「もう一度聞かせてください」とは言いづらかった。乙女ゲームとかシナリオとかフラグとか色々な単語を言っていたのは覚えている。けれどいまいち理解できない。ゲームといえばボードゲームが我が国では主流だがシナリオとなると舞台の台本でしか聞いたことがない。そのためどうやって関係するのか理解できない。

 でも興奮気味なエミール様にそんなことを言えなかった。


「さすがレイナだ! 使用人の子に同じ話をしたんだけど全く理解してくれなくて、それどころか怯えちゃってなだめるのが大変だったんだよ。その点レイナは違うね!」

「……も、もちろんですわ」


 よく分からない褒められ方をしたが、とりあえず同調しておくことにした。ともかくエミール様に一刻も早く落ち着いて欲しかったからだ。


「それより、エミール様、お体の調子はよろしいのですか?」

「うん、もう大丈夫だよ。心配してくれるんだね。レイナはやっぱり優しいな!」

「……そうでもないですわ」


 何せ涙と鼻水を流しながら目の前で倒れたのだ、心配しない方がおかしい。いやむしろ今は身体ではなく、彼の頭を心配している。ただそんなことは言い出せなかった。

 そんなふうに二人で話しているとお兄様とお義姉さまが部屋に入ってきた。いつのまにか使用人が呼んできてくれたらしい。


「エミール大丈夫なの?」

「うわ、エミールのお姉さん!? は、初めまして! ……本物は迫力があるなぁ」


 エミール様はなぜかお義姉さまを見て自己紹介を始めた。いくらめったに会ってないとはいえ、実の姉に何を言っているのだろう。お義姉も同じことを思ったのか、表情に困惑を浮かばせる。


「ちょっと、何を言っているのエミール? 本当に大丈夫?」 

「……あっ、そっか俺エミールなんだよね。初めましてはおかしいか。気をつけないといけないなこれは……」

「エミール?」

「あ、ごめんなさいお姉……姉上……その俺……っ、そのっ」


 先ほどまで饒舌だったエミール様は、突然しどろもどろになってオロオロとしながら私に何度か視線を送りはじめた。けれど私は何が言いたいのかさっぱりわからない。

 何か言い出すのかとその様子を三人で見つめていたが、やがてお兄様が咳払いをして微妙な空気を払った。


「ともかく、エミールくん。体は大丈夫なんだね? 痛いところとか苦しいところとかはないね」

「あの程度走ったくらいで息切れしたこの身体に驚きましたが……今は大丈夫です。運動不足だとは思いますが」

「? ……そ、それならいいんだ」


 エミール様の返答にお兄様も首をかしげていたが、とりあえず病気や怪我がないということが分かって安心したようだった。


「ミリア、彼も思春期だから色々あるんだろう。これ以上深く聞くのはやめることにしようよ」

「でも……」


 お義姉さまはまだ首をかしげていたが、お兄様は何か納得をしているような雰囲気だった。お兄様の目がエミール様がつかんでいる私の手を見ていたのがちょっと気になるけれど、彼にこれ以上質問する気はないらしい。


「エミール君、倒れてしまったことだしとりあえず今日はゆっくりしていきな。夕飯はこちらで食べていくと良い。何だったら泊まっていけばいい。ミリアにも久しぶりに会ったんだろうし相談もあるかもしれないしね」

「相談? エミールあなた私に相談事があるの?」

「かもしれないから、後で聞いてあげようじゃないか」


 そんな話をしながらお兄様たちは部屋から出て行った。最後には「レイナ、エミールくんとせっかくだからお話ししてみな。お前も久しぶりに会ったんだろう」と私に会話を勧めてくるほどだった。お兄様にはエミール様の奇行の理由が分かったのだろうか。

 部屋にはエミール様それに数人の使用人が残っただけだった。


「さすがブラウンさんだなーゲームよりも実物で見ると貫禄がある」


 エミール様は変なことに感心していた。


------------


「…………つまりのところ、エミール様は私を助けようとしてくださっているということなのですね?」


 エミール様の話したいことを全て聞いた私はようやくそのことを理解した。


「うん、そういうこと! この最悪な世界から、レイナを救ってあげたいんだ。エンディングを知ってて、あんな結末を君に迎えさせるなんてできないよ!」


 エミール様はとても綺麗な笑顔でそうおっしゃった。彼が笑うと、花が咲いたように周りが明るくなる。以前までののおっとりした微笑とは違い、少年らしく明るく笑う姿は見ているだけでこちらまで笑顔になってしまう。そんな魅力があった。


「やっぱりレイナは頭いいんだ! ごめんな、俺なんて言ったらいいのかよく分からなくって、色々ごちゃごちゃ喋っちゃったけど、レイナが理解してくれてよかったよ」


 確かに彼の話は、異世界転生だの、乙女ゲームだの、フラグだの、悪役令嬢だの、余計な単語が多すぎて時間がかかったが、全部が全部理解できないわけではない。

 余計なことは省いて要点をまとめれば、彼は私の未来に不幸が訪れるのを知っているので救いたいということらしい。


 ……そういうことならいいわ。


 もちろん彼の言ってることを全て信用したわけではない。最初は何を言ってるのか分からなくて、エミール様が私を騙して何か企んでいるのではないかと思っていた。

 だが、しばらく話してるうちに彼が何かを企んでいるわけではないのはわかった。

 正直に言ってしまえば、今目の前にいるエミール様はおバカさんとしか思えない。オブラートで包んで言うならば正直者で、とても素直な性格をしている。それは泣きながら私の手を掴んできたときから、何となくわかっていた。嫌な感じが全くしないのだ。


 人格が融合したって言ってらしたけど、……それが原因ってことなのかしら?


 今までのエミール様とあまりにも違う様子に私が彼に質問すると、彼は「俺は前世を思い出してしまったから、元のエミールとは性格が違うと思う。でも、あいつを乗っ取ったとかそういうわけじゃなくて、あくまでも人格の融合なんだ。だからもちろんエミールだった時の記憶もちゃんとあるよ。……ただ今となっては、あんなキザで人見知り全開の態度は取れないけどね」とたっぷり語ってくれた。

 その彼の言葉に全く不審感を抱かないわけではない。嘘である可能性も考えた。

 でも今まで知っていたエミール様は無口で、他人と関わろうとせず、私と顔合わせても鼻で笑うくらいで笑顔も見せないような方だった。

 それが今では、目の前で泣いて、ニコニコと笑って、興奮して、――説明のつかない変わりように、彼の説明どおりだと思っても仕方ないだろう。


 もしかしたら姿形を変える魔法があるのかもしれないけれど。


 それにしたって出来すぎている気がする。言動以外はいつもの麗しいエミール様のままなのだ。


 ……今はともかく、この笑顔に免じて、信じてあげましょう。


 私はそういう風に彼を判断した。幼い頃から周囲の人間には気をつけろと、警戒心を教えられていた私でさえもそう思えてしまえる位、エミール様の表情はとても素敵だった。


「それで私はどうすればいいのですの?」

「どうって?」

「私がその、悪役令嬢になって不幸な人生を歩まないで済むように助けてくださるのでしょう? では、具体的にどうすればいいのでしょうか?」

「えーと、それは……」


 先ほどまで興奮気味に話しかけてくれていたエミール様は、再びしどろもどろになり、私とともに首をかしげ始める。


「……どうすればいいんだろう?」


 そして最後にはそんな何とも頼りない言葉をこぼした。

 でも、その惚けた顔は、ちょっと可愛らしかった。


------------


 それからエミール様は、「悪役令嬢にならないための作戦会議」と言って、毎日のように我が家に来るようになった。

 異世界転生のくだりを知らないお兄様やお姉様は最初のうちは不思議がっていたが、「きっとエミールも思うところがあったのね」と彼の変わり様を、思春期特有の変化だと思い込み勝手に納得していた。

 ただ一応お兄様はエミール様に魔法の類がかかってないかこっそり調べはしたらしい。結果は何も問題はなかったということだ。つまりエミール様が言っていた“異世界転生で人格融合”というのが正解なのだろう。


 私も完璧に彼が言っていることを理解したわけではないが、しばらく経つうちに以前の彼と今の彼が全く別人ではないというのも理解できるようになった。喋っていないエミール様の横顔は相変わらず麗しく、描かれる絵はお姉様が言うように理解ができない素晴らしいものだったからだ。


 毎日来るようになったエミール様だが、本気で作戦を立てているかといえば、そういうわけでもなかった。どうしたらいいのか分からないので話は直ぐに脱線し、結局私のやっている勉強の話や、この世界の一般常識などで、全くその乙女ゲームには関係していないことを話していた。


 まあ、あんなテンションで毎回話されたら困るから、こうやってお茶をゆっくりのんぶんには全然構わないのですけど……。


 初日こそ鼻水垂らした激しいテンションだったエミール様だが、その後は落ち着きを取り戻した。私が質問すれば普通に返事をしてくれるし、手をギュッとつかんだりもしてこない。お茶を飲む時は「これおいしいね」と言いながらも、のんびりとお菓子を食べる時間を持てるようになった。

 そんな時のエミール様からは、朗らかな癒しの空気が溢れ出ていて、隣にいるとなんとなく安心できてしまうようになった。もともと顔がとてもいいのも理由なのかもしれない。

 以前は近寄りがたく話しかけるのもためらうほどだったが、人格融合をしてからは緊張することもなく、時々私がツッコミを入れるほどである。


 同じお顔なのに不思議な感じ……。


 けれど嫌だとは思ってないのは確かだった。初めて会った時からエミール様のお顔は大好きだったので、それが隣で笑ってくれるのは嬉しいことだった。


「ねえレイナ、レイナも一緒に魔法学ばない?」


 エミール様が人格融合してから10日ほど経った。すっかり我が家に来るのがあたりまえになった頃(さすがに歩いてくることはなく、今では毎日馬車を使っている)二人でお茶を飲んでいるとそんなことを言い出した。


「父上に確認してみたら、教えてくれる先生を雇うことはできるって言われたんだ。だからレイナも一緒にどうかなって?」

「魔法ですか? でもそれは学園で学ぶものでは……」

「いいじゃん先に学んでも。知りたくない、魔法だよ? ワクワクしない? 魔法が使えるってわかった時からもうやりたくてさ!」


 エミール様は瞳をキラキラとさせていた。

 そんな顔を見ると、落ち着いていたはずの私の心は不思議と浮き立ち、彼の気分に乗せられてしまう。


「エミール様がどうしてもというのならかまいませんわ」

「「どうしても!」 ……じゃあ決まりだね! 父さんに伝えとく。楽しみだなぁ!」


 そんな話をして翌日、早速私は顔合わせにバーリエル家に呼ばれた。さすがに早過ぎると思ったが、実はもうすでに人選は済んでいたようで、後は私の言葉を待っていただけだったらしい。何とも手早い。

 エミール様のお父様、バーリエル公爵様が選んでくださっていた先生は、元々学園の教員だったらしく、教え方がとても丁寧だった。

 最初は私に魔法の才能などあるのかしら疑問だったが、数日もすると魔力を感じられるようになってきた。一緒に学んでいるエミール様に至っては、初日から魔力の手応えを感じていて先生もとても褒めていた。先生曰くエミール様は外見からではとても信じられないような力を持っているらしい。


「私の授業はここまでにしましょう。現時点で教えられることはありません。二人とも、これなら学園へ通うことになっても、みんなに遅れを取ることは決してないでしょう。むしろみんなを引っ張っていけるほどの力を持っております」


 入学まであと一か月となった頃、先生からそんな太鼓判を押された。


「よかった。先生からあんな風に言ってもらえて!」

「最初を考えると、褒めていただけるなんて思ってもいませんでしたわ」

「レイナ、魔力上手く感じられなくて、半べそかいてたからね」

「……それは言わないでくださいまし」


 私がムッとした顔をすると、エミール様は「ごめん!」と言って手を合わせて謝った。同時に二人で笑いあう。

 こんなやり取りも、この数ヶ月ですっかり当たり前になった。今では時々エミール様と軽く喧嘩するぐらいである。と言っても本気の喧嘩ではなく、お兄さま曰くじゃれ合いらしい。


「そういえばエミール様、最後に先生に何か言われてたようでしたが……」

「あーうん。あんまり本気になってやったらダメだって。注意された。これからも今まで通りセーブしてやりなさいって」

「……いつも本気ではなかったですの?」

「横にレイナがいるからね。溢れるままに力を放出すると君を巻き込んじゃいそうだから、一応押さえていたんだ」


 エミール様はいつも私より覚えが早く、私の数倍早く魔法を習得していたが、それでも結構力を抑えていたらしい。先生曰くエミール様の力はかなり大きいものらしく、全力でやってはいけないと言われていたようだ。


「レイナに怪我なんてさせたらさ、俺やだし。……お義兄さんにも殺されるだろうしね……」

「そこまではしませんよ」

「いや、ブラウンさんなら絶対にやる」


 私に甘いお兄様だが、エミール様のことも実の弟のように気に入っているのは知っている。


「でも、先に魔法をある程度覚えられたっていうのは、いいことだよね! これなら学園に行っても、何が起きても対処できるような気がする。レイナも守れるよ、きっと!」

「私も一緒に魔法を学んだのですから、ある程度自分の身は自分で守れますよ」


 エミール様にはとても及ばないことは分かったが、それでも守ってまもらってばかりというわけにいかない。出来ることは自分でしたいのが私だ。


「そっか、レイナもすごく上手くなったもんね、魔法を使うの! 魔法の種類によってはレイナの方がうまいもんね!」


 魔法には種類があり、人によって向き不向きがある。エミール様は一般的な魔法が得意だけれど、私は気配を察知したり、花を咲かせたり、少しだけ雨を降らしたりと少し変わった魔法が得意だった。何に役立つのか分からないけれど、これはこれで楽しいから私はそれでいいと思った。


 エミール様はすっかり逞しくなったわね。


 私は正面でお茶を飲むエミール様を見つめた。

 半年前、私の前に泣きながら現れたエミール様は、同じ年の少年とは思えないほど儚い雰囲気があった。手足なども細くて私と変わりないほど頼りなさげで、病気をしたらすぐに倒れてしまいそうな雰囲気だった。

 ところが彼はこの半年で大きく変わった。

 人格融合が起きてから毎日運動をするようになったらしく、手足や体つきは男の子らしいものになった。今では剣術や馬術も習っているらしい。私といつも一緒にいるのに、一体いつ学んでいるのか不思議だ。いまではあんなに細かった手首も、私とは全然違い太くなっていた。

 相変わらず容姿は麗しいけれど、以前にあった折れてしまいそうな儚さは消えて、凛々しくも清廉な雰囲気が漂っている。背も伸びて、声もわずかだが低くなった。すっかり男の子だ。


「でもさ、何かあったら俺がレイナを絶対に守るから!」


 私を見つめて真面目にそう伝えてくるエミール様に、胸のうちが疼くのを感じた。

 この動機をどうにかしたくて、私は話題を変えることにした。


「それよりも以前から言っていらしている、「ゲーム開始時点」はもう直ぐなんですよね?」


 エミール様によると、私の不幸の始まりであるゲームの開始は、学園の入学式からだということだ。

 学園入学まであと一か月、いったい何が起こるのだろうかと私は僅かに緊張していた。


「そうなんだよ。でも不思議なんだ。この半年レイナと一緒に過ごしてみて、つくづくあのゲームおかしいなぁって思うんだよ」

「どういうことですの?」

「今目の前にいる君がゲームのような行動を起こすとは思えないんだ。だって君は頭が良くて、物事をよく考えていて、他人の気持ちも理解できる優しい子だ。それなのに他人を苛めたり、苦しめたり、嘲笑ったり、……犯罪起こしたり……するなんて思えないんだよ」


 エミール様曰く、ゲーム開始時点の私と、今目の前にいる私では、性格が全く違うらしい。ゲームの私はかなりひねくれていて周囲の言葉も聞かず、傲慢だったと言う。


「そう言われましても、私特に何かがあったわけでは……大きな変化といえば、エミール様と一緒にいることくらいでしょうか?」

「そうなんだよなー、原因が俺なのかな? あのゲーム、俺の名前ほとんど出てこないんだよなぁ」

「エミール様はゲームには出て来ないのですか?」

「うん。姉ちゃん曰く……あ、今の姉上のことじゃないよ。前世の姉ちゃんね。俺に無理矢理ゲームやらせてた人。エミールは隠しキャラで、全エンドを見た後じゃないと出てこないんだって。だからその回収作業をさせられてさ……すごく面倒くさかったんだけど……」


 全エンディングを見た後に出てくるのが、エミールというキャラクターだったらしい。そもそも彼は、悪役令嬢であるレイナ関連のイベントを全て見た後でないと、存在すらプレイヤーには知られないという。


「エミール様は、かなり巧妙に隠されていたのですね……」


 乙女ゲームというのをはっきりと理解したわけではないが、この半年間この話をずっとされていれば、エミール様の言ってることも大体理解できるし、話を合わせることも可能だった。要は沢山の小説の中のお話をぎゅっと詰め込んだものだと思えばいいのだ。


「それで、全エンディングを見た後はエミール様が出てきたんですよね?」

「出てきたらしい……」

「らしい?」

「それがさあ、姉ちゃんエミールが開放されたとたん、ゲーム自分で持ってっちゃって俺には見せてくれなかったんだよ。作業やったの俺なのに、その肝心のエミールの野郎のイベントは絶対見せようとしなかったの。ずるくない? ひどくない?」

「お義姉さま……」


 私は何とも言えない気持ちになった。エミール様の前世のお姉様は、秘密を作るのが好きだったのかもしれない。もしくはそのエミールというキャラが大好きで、誰にも見せたくなかったのかもしれない。今では推測でしかできないが。


「それでは、エミール様がどういったキャラなのか、エミール様本人もわかっていらっしゃらないということなんですね?」

「うん。学園パートにも出てこないし、レイナの家関係のイベントでチラッと名前と立ち絵が出てくる程度だったからなあ。……でも公式の立ち絵はすごく気合い入ってた気がする」

「立ち絵?」

「うーんと、あのゲームの中でもエミールはちょっと特別だったんじゃないかなって思うんだよ……スタッフにとって。でも俺にはその理由がわからないままで……まあ死んじゃったわけで」


 エミールというキャラが解放された後、お義姉さまにゲームを取り上げられて数日後、前世のエミール様は不慮の事故によって死亡してしまったようだ。どうやらバイクという乗り物に跳ねられたらしい。


「あの姉ちゃんの喜び様を考えると、攻略キャラの一人だったと思うんだけど……結局何したやつなのか分からないんだよね」

「全ては学園に行ってみてからではないと……ということですね」

「残念だけどそうみたい。役立たずでごめん……」


 エミール様はしゅんと項垂れた。お花でも愛でていそうな顔立ちで、しょんぼり顔をする彼の表情はなんだか可愛らしく思えた。


「エミール様が謝ることではないですよ。むしろなぜそこまで私にしてくださるのか不思議で仕方がありません」


 私が顔を見ながら言うと、エミール様は少し驚いた表情になった。


「えっと、前にも言ったけど、“レイナ”ってキャラが毎回毎回不幸になるのを見てて嫌になったんだよ。俺姉ちゃんにゲームを何周もやらされて、その度にレイナってめちゃくちゃな理由で不幸になるからさ。確かにレイナってキャラクターは性格悪いなって思ったんだけど、それにしたってここまで不幸続きはかわいそうだなーって思って」

「でもそれは、エミール様には関係のないことですよね?」

「……え、そうかな?」

「だって私が不幸になったところで、エミール様が不幸になるわけではないですよね? ほっとけばいいことだと思うのですが……」

「……まあ、そうなのかもしれないけど……」


 エミール様はしばらく考え込んだ。

 そして私の表情をじっと見つめた。


「なんだろう、うまく言葉にはできないんだけど。まあ要するに、最初は単なる同情だったんだと思う。キャラクターとして可愛い子だったから、あんな風に不幸になるのは嫌だなって……でも今はちょっと違う」


 エミール様はにっこりと笑った。


「俺は、レイナを幸せにしたいんだと思う」


 暖かな風が私たちの周りに吹いていた。その風が頬に当たると暖かい気がした。


「…………………そ、そうですか………」

「うんうん、そうなんだよ、そうそう! そういうことなんだ! なんだ簡単なことだった! 分かってよかった!」


 エミール様は嬉しそうに笑っていたが、私は顔が赤くなるのを止められなかった。


 今のってちょっと深い意味に聞こえたんだけど、本人わかってないみたいだし、今は気のせいにしといた方がいいのよね。


 貴族が婚約者を決めることができるのは学園に入ってから。今何がわかったところで、私にどうすることもできない。

 嬉しそうに笑うエミール様を横目に、私はお茶を飲んで気分を紛らわせることしかできなかった。


------------


 それから一か月はあっというまに過ぎた。

 相変わらず私とエミール様の生活には大きな変化はなかった。毎日顔を合わせて、一緒に勉強して、おしゃべりしながらお茶を飲んで、時には夕飯も一緒に食べて、エミール様はご自宅へ戻っていく。先生の授業が終わっても、魔法の練習は二人で一緒に続けていた。

 この頃になると、お兄様やお義姉さまだけでなく、お父様までも私とエミール様をセットで扱うようになってきて、私の側にその姿が見えないと「今日エミール君は?」と質問してくるほどになった。バーリエル侯爵さまも「レイナ君の部屋は綺麗な窓辺の部屋を用意してあるからね、妻も楽しみにしているよ」と伝えてくる始末だ。

 何と言うか、すでに両家族公認と言うか、何も理解してないのは多分エミール様だけだ。私は理解してないふりをしているだけで。


 そんな毎日を過ごしているうちに、いよいよ学園への入学の日になった。二人で侯爵家の馬車に揺られながら、学園を目指していた。


「あーついに入学か、ドキドキする! レイナは大丈夫? 緊張してる?」

「私も少し緊張しております。でもエミール様ほどではないかと」

「だってさ、ゲームで見た話が現実で見れるんだよ、ドキドキしないわけないじゃん!」


 そわそわとしているエミール様のネクタイが曲がっているのに気づいて、私はそっと手を添えて正してあげた。きっと使用人に綺麗に着せてもらったのに、動き回っているうちに曲がってしまったのだろう。


「えへへ、ごめんありがとうレイナ」

「学園に行ったら、こういうことはあまりできなくなってしまうので、自分で直してくださいね」

「あーそうか、そういうのもちゃんと自分で気づかないとなあ。いつもありがとうレイナ。やっぱ一人だと不安だなあ。でもあんまり一緒にいるの良くないんだよね?」

「はい。最初のうちは特にあまり一緒にいない方が良いと思います」

「そうか寂しいなぁ……」


 エミール様はしゅんとした表情になった。可愛いらしいけれど私は何の感情も覚えていない表情を浮かべて取り繕った。

 国の規則として、貴族は学園に入るまで、婚約者を作ってはいけないことになっている。つまり兄妹でもない限り、親しい異性がいることはあまり良しとされない。

 本来ならこうやって、親戚でしかないはずのエミール様と私が、同じ馬車に乗って学園に行くのもあまり良くないのだろう。だがエミール様が「絶対に一緒に行く!」と言い張ったので仕方がない。


 まあ、あくまでも規則であって、裏では皆さん色々と行なっていますから、婚約者同前の存在がいることも珍しいわけではないのですけど……あくまでも建前的に初日から親しくしているのは周囲の反感を買いそうですし……特に今のエミール様だと。


 私は制服を着たエミール様を見上げた。

 半年前までと大きく印象を変えたエミール様。昔は儚い色気のあった美少年だったけれど、今は誰が見ても頬を染めてしまいそうな素敵な男性になった。他の男性をここまで間近で見たことはないが、今のエミール様以上にカッコいい同年代の男性を私は見たことがない。

 エミール様は相変わらず社交の場には出ていかなかったので、きっと学園に行ったら女子生徒が黙っているはずがない。初日から彼の側にいれば、反感を買うことは間違いないだろう。


「でもお昼は一緒に食べようね!」

「……もちろんです」


 これではきっとすぐに女子生徒の反感を買うことになるだろう。でもエミール様の笑顔を見るためなら、仕方がないかと思えた。


「レイナ、色々とありがとね」

「……どうしたのですか突然?」


 あと少しで学園に着くという時間になって、エミール様が真面目な声で話しだした。


「いやさ、俺今だから言えるけど、最初信じてもらえないと思ったんだ」

「乙女ゲームの話ですか?」

「そうそう前世のこととか。……夢を見てるとか頭がおかしくなったとか、そういう風に言われるって絶対思ってたんだよね。……まあそれでも勢いで突撃しちゃったわけなんだけど」


 鼻水を垂らしてたエミール様を思い出すと、不安を抱えていたとはにわかに信じられなかった。


「でもさあ、レイナはなんだかんだで信じてくれただろ?」

「最初から全部を信じたわけじゃないですよ」

「それはそうだと思うけど。でもとりあえず否定はしなかった。頭おかしいとか、呪いにかかったのかそういうこと言わなかっただろう? それ今考えると、すごい幸せだったなーって」


 確かに私はエミール様の言ってることを直接否定をしたことがなかった。だけどそれは疑っていなかったというわけではなく、単純に与えられる情報量が多すぎて、それを理解しなければと必死だったからだ。

 そう正直に言ってもエミール様は照れくさそうに笑った。


「それでも嬉しかったんだよ。レイナが普通に応対してくれたから、お義兄さんや姉上もそこまで変な風に俺を見なかったわけだし。まぁ多少調べられたりしたけど、本気で人格を疑われたりはしなかっただろ?」


 確かに兄夫婦も両親たちもエミール様の変わりように驚いてはいたが、必要以上に騒いだり、尋問を行ったりはしなかった。


「そういうのは全部レイナのおかげだったと思うんだ。君が俺の話を聞こうとしてくれたから、みんなも聞こうとしてくれたんだと思う……だからありがとう」

「…………私は別に」


 そこまでの深い意図があったわけではない。なのにそんな風に感謝されてしまうと、どうしていいか分からなくなってしまう。


「思い出したからついでに言っちゃう、“エミール”だけどね」

「エミール?」

「俺の記憶が甦る前のエミールの話。あいつもね、君に関心がなかったんじゃなくて、むしろ関心はあったんだけど、どうしたらいいのかわからなかったんだ。照れ臭くて君を無視しちゃったりしたけど、内心はすんごい後悔しててめちゃくちゃ落ち込んでたんだよ。だから改めて、ごめんね。ありがとう」

「……そうだったんですか」


 衝撃の事実を伝えられ、レイナ多少なりとも動揺してしまった。


「エミールはね、君の身に何かあったら、怒り出して家を飛び出すくらいのパワー持っていたんだ。初日君のとこに行ったのも、俺の記憶が融合したからだけじゃなくて、俺の記憶によって君が傷つくことを知った元々のエミールが、いてもたってもいられなくなったから、っていうのもあったんだと思う。今考えるとね」


「きっと君のことが大切だったんだと思う、今も……昔も」とエミール様は笑って教えてくれた。

 私は昔、エミール様に無視されて傷ついた痛みが、今になって癒えるような気がした。


-----------


 学園に到着すると、すでに多くの生徒が門から校舎に向かっていた。私たちは馬車を帰らせると、周囲の生徒達と同様に校舎に向かって歩き出す。


「あれはシベリウス侯爵家のお嬢様、レイナ様ね」

「お隣にいらっしゃるのは、どなたかしら?」

「レイナ様のご兄弟はお兄様だけのはずですけど……あの麗しいお方は?」

「え、あれは……もしかしてバーリエル侯爵家のエミール様ではないかしら?」

「うそでしょう!? 深窓の令息?」


 すぐに周囲の視線が私達に向けられるのが分かった。

 いや正しくは私と言うより、隣にいるエミール様へ向けられている。まだ到着して数分だというのに、すでに女子生徒の注目を彼は集めていた。校舎の方へ先に進んでいた人達までも、エミール様を見ようとわざわざ戻ってくる始末だ。

 私は急いでエミール様から距離を取ろうと思ったが、その手をすぐに掴まれた。


「レイナ、どこへ行くの?」

「いえ、あの……」

「校舎こっちだよ?」


 エミール様は状況を理解していないのか、不思議そうに首を傾げた。先ほど話をしたばかりだというのに。


「レイナ、一緒に行こう?」


 そう言うエミール様の瞳がとても綺麗で、私は肩の力を抜いた。


 もういいわ、どうにでもなって……。


 なんとなくこの手を振り払ってはいけないと思った。いえ、振り払えなかった。

 だって私が振り払って走りさればエミール様の周りには、女子生徒がたくさん集まるに決まっている。そして彼が人前に出てきてるのを知って、驚きと喜びで顔を輝かせるのだ。

 あの人嫌いで儚い少年の姿をしていた、バーリエル侯爵家の跡継ぎであるエミール様がこんなにもたくましく素敵な少年になって、なおかつ堂々と正面入り口から登校しているのだ。女子生徒が群がらないわけがない。それを想像するとなんだか無性に腹が立った。


 規則を破ったわけではないですし、私が逃げる必要なんてないわ。


 エミール様と私は婚約関係を結んでいるわけではない。ただ仲が良くて一緒に登校してきただけ、それをあれこれ言われたところで問題がない。それよりもエミール様の周りに女の子がたくさん寄ってきて、彼が他の女性に関心を向けてしまうことを想像すると腹立たしかった。


「すいません。あまりにも大きな校舎だったので少し驚いてしまったのです……」

「だよね驚くよね! ちょっと楽しみだなぁ!」


 エミール様は相変わらず朗らかに笑っている。私は一人でイライラしているのがバカらしくなった。


「いこうか」

「はい」


 二人で一緒に校舎へ向かって歩き出す。エミール様が掴んでいる手は振り解かなかった。

 手を繋いで一緒に登校なんて、どんな噂をされるか分かったものではないが、……もう何でも来いという気分だった。

 そんなふうに私が心を決めた時、門の近くから再び女子生徒の声が響き上がる。

 後ろを振り向くとその理由がわかった。


「あれは……」


 学園の門にいたのは、王家の紋章がついた馬車だった。

 そういえば第二王子レオナルド様のこと……完全に忘れてたわ……。

 一時期は第二王子の妻になろうとして、頑張っていたはずだが、エミール様の登場で完全にその存在を忘れていた。今この場で馬車を見るまで同学年であることも記憶から消えていた。


「あれなんだろう?」

「王家の馬車ですよ。王族の方が乗っているのだと思います」

「王族、あー第二王子レオナルド様のことか」

「知っているのですか?」

「エミールの知識としてと、俺のゲーム知識も合わせて両方の意味で知っているよ。ゲームの中のレオナルドはあんまり俺好きじゃないけど……」

「それ、大声で言わないでくださいね……」


 エミール様が捕まってしまうのではないかと、私は心配になって周囲を見た。幸い第二王子の登場にみんな注目しているせいで、誰もエミール様の言葉は聞いていなかった。


『キャーキャー』


 第二王子のレオナルド様が馬車から降りてくると、女子生徒の歓声が上がった。

 わずかに癖のある金髪に青い瞳、顔立ちは彫刻のように整っていて眉毛も凛々しい殿方だ。背も高く体格もいい。王家の血を引いてるだけあって、周囲に広がるオーラも半端ではなかった。学園の制服もとても似合っている。女子生徒が騒ぐのも仕方がないだろう。


 だけど……。


 私は思わず隣にいるエミール様を見上げてしまった。

 薄緑に輝く髪は少し伸びて後ろで結んでいるが、相変わらずまつ毛がバサバサで澄んだ藍色をした瞳は綺麗で、エミール様はどちらかといえば中性的だ。それに私より背が高く、以前よりも体格がよくなったとはいえ、他の男子生徒に比べると細身だし、顔立ちもあって華奢に見える。


 それでも――私にはエミール様が最高にかっこよく見えるわ。


 親族であるという欲目もあるのかもしれないが、私はいろいろともうだめなのかもしれない。


「なんかあんまり関わりにならない方がいい気がする、行こうレイナ」

「そうですわね」


 現在では第二王子に全く興味がない私も、ここにいる意味はないと感じた。二人揃ってさっさと校舎へ向き直り始める。


「ちょっと何あれ!?」


 しかし、背後からそんな悲鳴に近い声が上がった。

 気になって再び振り向くと、王子の側にピンク色の髪をした女子生徒がいた。


「何なのあの方、突然レオナルド様にぶつかって!」

「あの女子生徒、歩いて登校してきたわよね?」

「徒歩……噂の特待生って子じゃないかしら?」

「貧乏人から一人魔力に優れた子供を学園へ入学させるっていう?」

「そうそうそれ!」

「だから礼儀知らずにも、王家の馬車に近づいたのね」


 聞いていて気分の良くない、そんな話が周囲から聞こえてきた。


「マールちゃんだ」

「マールちゃん?」

「ゲームの主人公の女の子だよ」


 そういえば数回エミール様からそんな名前を聞いた気がする。

 なんでもその乙女ゲームというのは、マールという少女が恋愛するための物語らしく、彼女が主人公だという話だ。そのため基本的に彼女へ幸せが訪れるようフラグが管理されてると言う。つまり私にとっては不幸の始まりだ。


「レイナ、急いで離れよう。君がマールちゃんの側にいるのはよくないよ。何か巻き込まれるかもしれないし」

「わかりましたわ」


 私たちは急いでその場を離れようとした。

 しかし途端に妙に温かい空気が周囲に広がった。同時にとろけるような甘い匂いも広がる。

 私はその甘い匂いの正体を見たくなって、再びレオナルド様の方を振り向いた。


 なにかしら、あれ……。


 レオナルド王子の周囲には、ピンク色のオーラが広がっていた。そのオーラは周囲にいる女子生徒を包み始める。オーラに包まれた女子生徒はふらふらとレオナルド様のに寄って行き、甘い声を出し始める。


「レイナ?」


 私はエミール様の声が聞こえているはずなのに、そちらを振り向くことができなかった。力強い手で引っ張られるように、フラフラとレオナルド様の方へ近寄っていってしまう。


 おかしいわ。身体が言うことをきかない。


 身体が勝手にレオナルド様の元へ引き寄せられる感覚に恐怖を感じたが、口が動かずエミール様に助けを求めることもできない。


 何なのこれ……どうなってるの。


「レイナちょっと待って、どこ行くの!?」


 エミール様が私の異常を感じて、レオナルド様へ視線を向けた。


「まさかあいつ! 魔法を!?」


 エミール様の焦った声が聞こえた。それでも私の視線はレオナルド様に釘付けだ。


「レイナ駄目だ、こっちを見て! あいつを見ちゃだめだ!」


 エミール様が私の前に回り込んで視線を合わせてくる。

 最近は彼のほうが背が高くなってしまったせいで見上げることが多かったが、この時エミール様は背を屈めてまっすぐ私の目を見つめ、顔に触れた。


「お願い。俺を見てよ、レイナ……」


 綺麗な瞳が私を見つめてくる――その瞳に私の顔が映ったのを見た瞬間、心の中を拘束するような何かが溶けていった。


「……あ、私」


 急に身体が自由になった。緊張に固まっていた身体にどっと疲れが襲ってくる。身体がふらついてしまい、慌てたエミール様に抱きとめられた。


「大丈夫! レイナ?」

「大丈夫です……」

「よかった! 解除の魔法が効いたみたいだね」


 エミール様は安心すると、レオナルド様を見つめた。

 レオナルド様の周りには異様なくらい女子生徒が集まっている。みんなフラフラとしていてあまり正気とは思えなかった。

 だがレオナルド様本人も周囲の男子生徒はそれに気づいていないのか、王子たちの側を普通に去っていく。側にいる護衛や付き人の男性たちも同じだ。


「あいつ、もしかして魔法で周囲を魅了しているのかな?」

「魅了?」

「レイナ、あいつの周りに魔力の波動が見えないか? そういうのは君の方が得意だろ?」

「そういえば……彼の周りにピンク色のオーラが見えます。あとすごく甘い匂いが……」

「やっぱり。でも……俺にはそれが全く見えないんだけど……もしかして女子生徒限定の魅了とか?」


 レオナルド王子の周囲にいる女子生徒だけが様子がおかしく、エミール様や周囲を通りかかる男子生徒の様子が変わらないことを考えると、魔法がかかる相手を限定している可能性は高いだろう。


「確かに、そういう可能性はありますわね」

「……もしかして、ゲームでもそうやって周りの女子生徒たちをおかしくさせたのかな」


 ゲームの中でレイナのキャラクターが第二王子に執着していたのも、魔法によって操られていた可能性が高いとエミール様は言った。だから女子生徒の間で異様な争いが起きていた。


「どうしましょう、エミール様。王子のオーラがどんどん大きくなっています……! このままじゃ」


 私の視界に映るピンク色のオーラはどんどん大きくなっていった。最初は門の周りにいる女子生徒だけがそのオーラに捕まっていたが、次第に校舎側にいる女子生徒たちもレオナルド王子の方に向かい始めていた。


 このままでは学園中がレオナルド様の虜になってしまうわ。


 そんな未来は怖いと思った。

 私がエミール様の手を握ると、彼は王子を睨みつけた。


「――やめろ!!」


 私をレオナルド王子の魔力から守っていたエミール様が大声を上げた。そのとたん周囲を囲っていたピンク色の魔力は一気に消し飛んだ。


 ……すごいわ、エミール様。


 私ではどうにもならなかった魔法をエミール様はたった一言で消し飛ばしてしまった。先生が言うようにエミール様は本当に強い力を持っているのだろう。


「あら?」

「私何を……」


 ピンクのオーラが消えると、途端に王子に近づいていた女子生徒たちが、声を上げる。みんな夢から醒めたような顔をしていた。

 エミール様が教えてくれた“マールちゃん”もそのうちの一人で、レオナルド王子が目の前にいることに気づくと、慌てて距離をとった。あまりにも近づきすぎていたのに気付いたらしい。つまり彼女も本位ではなかったのだろう。


「レイナそこにいて。あいつに一言いってくる!」

「え、エミール様!」

「大丈夫だから!」


 エミール様はそう言うが、私は心配になって慌てて追いかけた。


「殿下」

「君は?」


 突然周囲から女子生徒が去っていく様子に首をかしげていたレオナルド様は、見たことのない男子生徒(エミール様)に声をかけられて、顔を上げる。

 周囲にいた女子生徒たちは、エミール様の登場に驚きつつ距離を取った。しかし校舎へ向かうわけでもなく、二人の様子を目を輝かせて見つめている。


「私は バーリエル侯爵家の嫡男エミールと申します。以後お見知りおきを」

「バーリエル侯爵家のエミール……君が? ……そうか、雰囲気が変わったな」


 私は大人っぽい喋り方でレオナルド王子と話すエミール様を見て驚いた。


 エミール様って、あんな風にも話すことできたのね。


 私や家族の前では、いつも子供っぽい話し方をしていたから、そんな調子でレオナルド王子にも話しかけるのだと思っていたけれど、相手によって対応は変えるようだ。


 それはそうですわよね。エミール様は侯爵家の跡取りですし。


 礼儀を学んでいるのは当然だろう。なぜかいつもの調子で話しかけると思ってしまっていた。あれは私に心を許してくれてるからなのだ。それが分かってちょっと嬉しかった。


「私が魔法を? 私はそんなことはしていないはずだが……」

「…………ご存知なかったのですね」


 レオナルド王子が本気で戸惑う様子に、怒りを滲ませていたエミール様の気配が落ち着くのが分かった。

 王子曰く故意ではなく、意識せずに発動させてしまっていたらしい。嘘の可能性もあるが、エミール様も実は同じように無意識に魔法を発動させてしまった経験があったので、その驚きように何か思うところがあったのだろう。信じることにしたようだ。

 ちなみにエミール様が半年前に私の手をつかんで離さなかった方法が、その無意識に発動した魔法だった。


「殿下は強い力を持っているため、自然と発動してしまっているんだと思います。私も昔やってしまったことがありました。でも、注意してればまだ魔力に関して詳しく知らなくても抑えることができるはずです」

「そうなのか、それは知らなかった。すまないありがとう。それにしてもよくわかったな」

「私は家で教師をつけてもらって魔力について勉強しておりました」

「そうか君は……噂とは違って勤勉だな。私は魔力のことに関しては後回しにしてしまったよ。……では、そのお隣のお嬢さんは、シベリウス侯爵家のレイナ嬢かな?」


 そこで初めてエミール様の背に隠れていた私の存在に気付いたようで、レオナルド王子が視線を向けてきた。


「あ、レイナ!?」


 エミール様は背後にいた私に驚いたようで、しまったと表情を歪めた。たが王子の手前紹介しないわけにもいかず、しぶしぶとした表情で私を王子の前に出した。私も丁寧に挨拶する。


「驚いた、君たちは仲が良かったんだな」

「親族になりますので」

「そうか……噂はあてにならないものだな」


 レオナルド王子は私とエミール様の何かしらの噂を知っているらしく、苦笑いを浮かべていた。きっと王子の知っている噂は半年前のものなのだろう。


「……殿下そろそろ」

「ああもうそんな時間か。すまないが用事があるんで先に行く」

「はい、お気をつけて」

「エミール、レイナ嬢、ここで自己紹介をしたのも縁だ。良かったら今度一緒に昼食を食べよう! じゃあ」


 付き人に促されると、そう言いながらレオナルド王子は爽やかに去っていった。

 その背を見つめながら、エミール様が頬を引きつらせる」


「しまった。名前を憶えられてしまった……レオナルド王子はレイナを近づけたくなかったのに! これじゃレイナに不幸が……!」


 そう嘆くエミール様だったが、彼が言うような不幸な展開が自分の身に起こるとはとても思えない。正直レオナルド様に全く興味が湧かないので、彼のことで女子生徒と思えるとは思えないからだ。


「――っ、レイナ、俺が絶対守るからね!」

「ありがとうエミール様」


 だって私は、いつも私を守ってくれようとするくせに、ちょっと抜けててとっても可愛らしいエミール様のことで頭がいっぱいだから、これからの学園生活が楽しみで仕方なかった。


おわり

ここまでお読みいただきありがとうございました。

楽しんでいただけたら幸いです。


以下オマケです。

乙女ゲーム内のキャラクター設定


レイナ

黒髪に赤い瞳の悪役令嬢。誰のルートでも事あるごとに主人公の邪魔をする。段々と主人公に対する行いがエスカレートして、大きな事件にまで発展し最終的に処罰される。どのルートでも彼女は最後苦しむことになる。選択によっては彼女自身の話を少し聞くことができ、その時に幼少期の初恋の少年(エミール)の話が出る。

しつこく会話に割り込んでくることから、プレイヤーは彼女を嫌うというよりも、ウザく思うことが多い。


エミール

レイナ関連のイベントをクリアしないと名前さえ出てこないキャラクター。彼を解放するには、レイナから彼の名前を聞き、かつ全キャラのエンディングを見ている必要がある。

別名・深淵の令息

キャラ解放後にいちからエピソード開始すると、レイナが一切出てこない代わりに、エミールが学園に出てくるようになる。(レイナは存在そのものが登場しない・別のモブに置き換わっている)

様々なイベントにエミールが登場するようになり、好感度を上げられるようになる。だがしかし好感度を最高まで上げた状態で、最後の告白でエミールを選ぶと豹変する。

「お前はそうやって何度もレイナを苦しめたのか」

主人公はエミールに捕まった後ブラックアウト。

その後、エミールが暗い瞳をして王座に座っているスチルが表示される。離れた場所には多くの人々が頭を下げている姿があり、彼の傍らには黒髪のカツラかぶせられた主人公がいて、エミールは主人公の頭を撫でながら遠くを見て「今度こそ僕が君を守るよレイナ、だからこの世界に帰ってきて」と呟く。


エミール編がバッドエンドだったため、公式から主人公とのハッピーエンドの追加シナリオがすぐ出ると発表されていたが、本編発売後一年が経っても未だに発売していない。

なお、プレイヤーの間ではレイナ✕エミールがこのゲームの最大派閥となっており、二次創作界隈でも二人の幸せエピソードや、エミールがループを繰り返してレイナを救うといった話が大変盛り上がっている。

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