忘却病室
体力だけはあるけど空気を読まないことでやや避けられがちだった少年ジロウは、中学一年の春、同じ学校に進学したもう一つの小学校で有名だった、持病を患う病弱少年カエデと出会う。カエデは普段は滅多に学校に来れず、たまに来ても早退することから幽霊的な扱いを受けていた。その上、カエデはとある秘密を抱えていて、その関係で他人とのかかわりを極力避けるような生き方をしていおり、学校に来ても誰とも話さず仲の良い友達などはいなかった。
そんなカエデのことを全然知らないジロウは、誰も彼と会話する者がいないことを不思議に思い、我こそは、とガンガン話しかけにいった。戸惑ったカエデはジロウを拒絶しようとしたが、普段から会話をしなかったが故に、上手い避け方を知らなかった。
カエデの気持ちを考えずガンガン話しかけていくジロウ。クラスメイトは両小学校筆頭の問題児である二人から距離をおくものが殆どであり、結果、ジロウとカエデは互いに孤立してしまう。避けられていることに全く気付いていないジロウとは違い、カエデには自分の存在の厄介性に自覚があった。カエデはジロウに自身の秘密を打ち明けることにした。
カエデの病は非常にめずらしいもので今の医療ではまだ治療方法が確立しておらず、延命の処置は出来るものの徐々に衰弱が進んでいき、やがては寝たきりになってしまうということだった。だからこそ、友達を作ることで自分や他人が辛いことになるのなら、いっそ、独りの方が気楽なんだ、とカエデは言った。それがカエデの秘密。
しかし、生粋の空気ブレイカーであるジロウにはその意味が分からなかった。この世に治らない病気なんてあるものか、例えそれがまだ治る病気じゃなくても、技術が進化していくこの時代なら、絶対に治す方法が見つかるはずだ!諦めるな!とつめよってきた。そして、病気が治るまで俺も一緒に戦うさ、と胸を叩いた。出会ったばかりのこのジロウという男の、なんの根拠もない自信には、呆れを通り越して心配になるほどのものだったが、カエデはジロウを拒絶するよりも適当にあしらった方がはやいんじゃないかと考え、適当に流した。
これが、ジロウとカエデの出会いだった。
翌日からジロウは早速突拍子もない行動に出ていた。今までは早退時のプリントは事情を知る教師がカエデの自宅に届けていたが、それをクラスメイトから強引に聞いたジロウは、教師にカエデ宅へプリントを届ける役を買って出たい、と申し入れた。教師は躊躇したものの、よくよく考えればカエデの事を心配するクラスメイトなど見たこともなく、カエデにも青春を共に過ごせる友人が出来たということを喜ばずしてどうするのだろう、と歓迎した。
この日からジロウは、カエデが来ない日であってもカエデに会いに行くことになる。当然カエデは驚いた。ジロウは来る日も来る日もきっちりとプリントを届けにきて、聞いてもいないのに学校であったことを語って、最後は必ず「カエデが学校に来たらきっともっと楽しいぞ!」と自信満々で話していくのだ。気分の優れた日に学校にいくと、ジロウはまるで昨日も学校であったかのように、当然のように話しかけに来た。しかも、呆れるほど彼は気を遣わない。あろうことかこの男は、気分はどうだ、とか、授業についていけてるか、何でも言って、とか、そういう「特別扱い」を全くしない。早退することになっても、「また明日な!」と手をぶんぶん振るし、しかも明日になる前にプリントを届ける為に家にやってくる。正直、根負けする以外になかった。
それで、ジロウの生活はというと、家族にはカエデという親友ができたことを大っぴらに話し、学校の話も「カエデが来た」だの、「カエデが居たら見せたいことがあった」だの、とにかくカエデが中心である。両親、特に父はジロウが少々人と違うことに対する心配があったが、ジロウの口から友達の話が出てくることを心の底から嬉しく思っていて、母はというとそんなジロウの楽しそうな姿をみることが毎日の楽しみにもなっていた。
ジロウは人から避けられているという自覚があまりなかったが、まるで、真っ白だった学校生活がカエデという素敵な絵の具で綺麗に染まっていくような、そんな意識の変化があった。そんな生活が当たり前になっていって、カエデもすっかりジロウに気を許してから二年半の月日が過ぎた。ジロウはカエデのおかげで、カエデはジロウのおかげで凄く思い出溢れる中学校生活を過ごした。
そして訪れる、高校受験。
義務教育を終えたカエデは両親の計らいで通信制に進むことになった。ジロウが「俺もそこを受ける!」と言い出した時にはどうしようかと思ったが、カエデの教師への根回しを通じて両親まで説得し、結果、カエデの病院からほど近い高校に進むことが決定した。
元々ジロウよりも大人びていて冷静なカエデは、ジロウが高校生活でも自分にばかり構ってしまうことを心配し、カエデをそれとない形で遠ざけ始める。受験期間も終わって自宅から病院へと移り、療養に専念できるようになったカエデは、ジロウが来ると体調を理由に面会時間を減らしていった。
しかし、ジロウも学校生活の二年半と、少し大人びているカエデとの会話によって、昔より大人になり始めていた。だからこそ、カエデが自分を遠ざけようとしていることに気付いてしまっていた。
ジロウは、しばらく悩んだ。受験勉強よりもきっと遥かに頭を使っただろうというほどに悩んだ。悩めば悩むほど、カエデの期待を裏切ることが耐えがたく感じた。恐らくは人生で最も華やかだとされる高校生活を案じてのことだろうと理解していたジロウは、カエデに気を遣わせたことそのものが自分にとって耐えがたい恥だと自身を責める。
結局、カエデの事を安心させるためにジロウは、カエデとはしばらく会えなくなると告げた。カエデはジロウからの連絡に安堵した。きっとこれが一番いいと確信があった。ジロウが来なくなった日からカエデは勉強を進めることにした。
それは、二日目の事だった。
とっくに学習済みの数学の問題が、全然わからなくなっていた。最初は久々の一人の時間に気が散っているのかと思っていたが、躓いているのは式の途中だった。
割り算ができない。
気が散っているとか、そういうレベルではなかった。割り算という概念がすっぽりと、頭から抜け落ちていたのである。カエデは担当医を呼んだ。
カエデの話を聞いた医者は、カエデの病気が次の段階に進んでいることに気付いた。気が散るのではなく、同時に考えられることの許容上限が著しく下がったということだった。つまり、何かをかんがえている瞬間、別の何かを忘れてしまっている、ということだ。今はまだ、意図的に行う計算や、小説を読んでいる最中に数P前の内容がきれいさっぱりおもいだせなくなるくらいのもの。しかしそれは、時と共に進行すればもっともっと限定的になっていき、ついには目の前のこと以外を忘れるほどになってしまうという。
カエデは、事態を深刻に考えた。病気のことを考えている間に、何を忘れているだろう、忘れているものを探して思い出すことなんてできるのか? 記憶喪失との違いは、忘れるのは「何かに意識を向けた時だけ」で、既にある記憶が永久に失われたりはしないそうだ。記憶を失う病気ではなく、「記憶を思い出せなくなる病気」だった。
考えても仕方がない、と病室にちりばめていた勉強道具を片付けていると、見覚えのないノートが出てきた。なんだろうと思い、開いてみると、やけに強い筆圧と、無駄に巨大な文字が、なぜか語り口調で分かりにくくまとめられている。まるで、誰かにこのノートを見せてわざわざ教えようとするかのように……
カエデは、唐突にそれがなんであるかを思い出した。
震える手でノートの裏を見る。そこにはでかでかと、ジロウの名前が書いてあった。
カエデは、知らないうちにジロウを思い出せなくなっていたのだ。体中が寒くなり、両の手で自分を抱くように腕をさすった。
ジロウを忘れるのは嫌だ。
それだけは絶対に嫌だ。
この病気の特徴は、「何かを意識しているとき、何かを忘れている」というものだ。
他の何が失われてもいい。でも、ジロウだけは忘れたくない。
カエデは、暗い病室でひたすらジロウのことを考え続けることにした。まだそこまで症状が進むわけじゃなかったが、一度ジロウを忘れてしまっていたことが、強く、強くトラウマとしてのこってしまっていた。
次の日から、カエデは急激に様子がおかしくなっていった。眠れていないのか隈だらけの目で朝を迎え、両親の声には耳をふさぎ、食事は口から取れず見かねた医者が栄養剤を打つ。苦手だと言っていた注射を打たれても微動だにせず、ただ、ひたすらジロウの名前を呟いていた。二、三日様子を見ようとしていた医者も、午後には考えを改めることになる。
ナースコールが鳴り、カエデが慌てて看護師に縋りついた。
「ジロウの顔が思い出せない。思い出そうとすると、ジロウの名前を忘れてしまう!」
騒ぎ立てるカエデをとにかく落ち着かせ、とにかくすぐにジロウを呼ぼう、ということになった。
ジロウは両親からカエデの話を聞くと、すぐにカエデの病院へ向かった。胸いっぱいの後悔と不安が、頭をガンガンと痛めつけていく。どうしてカエデを放っておいたのか、一番大事な時に、何故俺はその場に居てやれなかったのかと自分を責めた。
病院につくと、カエデは疲れ果てたのか、ベッドに寝ていた。横に座るカエデの両親と担当医が、ジロウの事を教えてくれた。
その話は、ジロウの理解力のキャパシティを超えていた。何が何だかわからなかったが、カエデはジロウを一時的に忘れてしまい、思い出したときに錯乱してしまったということだけは何とか理解した。ジロウは片時もカエデを忘れたことは無かったが、もしも自分がカエデを忘れてしまったら、それを思い出したときにどうなるだろうかと考えた。そう考えただけのことなのに、吐き気と眩暈が襲ってきた。カエデのいない自分のこの三年間は、どれだけ何もなかっただろうか。
ジロウは、カエデが起きたらまずどうすればいいかを考えた。お世辞にも良いとは言えない自分の頭で出てきた答えは、「カエデに自分をまず忘れさせること」だった。聞けば、この病気は思い出せなくなるだけだ。またこうして病院に来れば、ジロウは自分を思い出せる。忘れることを理解した上でなら意識を別の事に向けたとしても、また思い出してしまった時に錯乱はしないだろう、そう考えた。
カエデは目を覚ました。
目の前には寝ているジロウがいて、状況を整理したところ、何かがあってジロウが来てくれたが自分が寝ていたので朝までここにいた、ということだろう。一応、この奇妙な光景に冷静になったが、ジロウとは一時的に距離を置いているのではなかっただろうか。ふとカレンダーを見ると、なんだかおかしい。予想よりも数日経っている。まさか、数日間も寝ていたのだろうか?それにしては、数日眠っていた時のような身体の痛みはない。
後ろの棚を見ると、勉強ノートが置いてあった。
ジロウは、カエデの悲鳴で驚いて目を覚ました。
起き抜けに飛びついてくるカエデが、震えながら泣いているのが見えた。カエデは今まで聞いたこともないような必死な、そして弱々しい声で、ジロウに言った。
「何処にも行かないでくれ、置いていかないでくれ」
ジロウは、自分のたてたプランがどれほど甘かったのかと心で嘆いた。こんな状態のカエデをどうしたら放っておけるのか。ジロウはカエデが落ち着くまで肩を抱き、落ち着いたら寝かせておくことにした。
カエデは落ち着くと、寝る前に思い出を話してほしいとジロウに言った。
その日に話したことは、ジロウとの出会い、それと学校で楽しかったこと、カエデにさんざん叱られたことなどだった。話しているうちにカエデは少しずつ冷静になっていき、やがて、いつも通りの冷静さで、いつものままのカエデにすっかり戻っていた。
ある程度話してから、三年の話になった。
「卒業したら、会えなくなるね」
カエデがそう言った。
先ほどまでジロウを忘れたことに、あれだけ絶望し、怯えていたカエデが、ジロウに言った。
「ジロウは、ジロウの学校生活を送りなよ。僕は大丈夫だから。またいつでも会えるしさ」
その言葉は、あの日、距離を置くと決めたときのカエデの別れの台詞だった。ジロウはその時に気付いた。カエデは冷静さを取り戻したわけじゃ無いのだと。
カエデは今、ジロウと会話したことで病気の事を忘れてしまっているのだ。
カエデが「今日はありがとう」と言い出すより先に、ジロウは言った。
「寝るまで病院にいるよ」
カエデが「そんな、大げさだよ」と言った。
ジロウは「駄目だ!」と大きな声で叫んだ。カエデは一瞬びっくりしたが、そのことよりもジロウの涙に驚いた。
「なんでそんなに…?」
カエデが、聞きなれた、大人びている落ち着いた声で尋ねた。
「……俺は空気を読まないからさ。知ってるだろう?」
涙をぬぐって無理にほほ笑むジロウに、カエデは黙った。
ジロウが何故必死になっているかを考えてみる。カエデはジロウに尋ねた。
「……お医者の先生、なんか言ってた?」
「……」
「……いや、大丈夫。わかった、もう寝るよ」
カエデは、理解していたわけではなかった。でも、これが今自分の取るべき正しい行動なんだと、そう思った。薄れていく意識の中で、ジロウの情けない顔が目に映った。
カエデは眠った。
どうすればいいのだろう。
何が正解なのだろう。
ぐちゃぐちゃになった思考の中、ジロウは思った。カエデから、「自分」を消せばいいのではないか。そうだ。思い出すことが苦しむということなら、カエデが思い出さないようにすればいい。カエデを起こさないように気を付けて、病室から自分の痕跡を消す。
学校からのプリントは、すべて自分がカエデに届けたものだ。見ていると、出会った頃からの記憶が蘇る。ジロウは涙でぐしゃぐしゃになりながらも、淡々と作業を進めた。
あらかた整理がつくと、カエデの担当医と両親に考えを伝えた。カエデの両親は、静かに泣きながらジロウをそっと抱きしめた。
こうして、ジロウとカエデの出会いは終わった。ジロウはカエデを決して忘れないと心に誓う。それは恐らくジロウにとって耐えがたいほどのものだろうが、それがカエデの為ならば構わない。カエデはきっと病院から出ることは無いだろう。それでも、カエデの病気はきっといつか治るはずだ。何年後、何十年後かわからないが、いつかカエデが治った時に、思い出話をしてやろう。
カエデはきっと忘れろって言うだろうが、俺は、空気を読まないからな。
ジロウは、誓いを立てた証に拳を空へと突き出した。
病室からナースコールが響いた。
カエデの元に主治医が来ると、カエデは窓から空を見ていた。
「先生、この病気は治りますか」
振り向くこともなく、淡々とした声で尋ねる。主治医は、困りながらもあいまいに答えた。
「希望はあるよ」
「そうですか」
抑揚のない声で答えた。
「忘れることにしたんです。何もかも。通信学校の事も、勉強の事も、この病気の事も」
振り向く様子もない。その判断は、医者としては正しく思う。余計なことを考えていたずらに脳をかき乱すよりも、日々を安静に過ごすに越したことはない。カエデ本人は元聡い子だ。自分の現状を把握し、回復に努めることが得策だと、違和感を手掛かりに最善を導き出したのだろう。
「病気が治ったら、何をしたい?」
主治医が訪ねた。気休めになるだろうが、気が休まるなら声をかけてあげるべきだ。本当なら、もっと信頼できる者に。親よりも、気を許せるような者に言って欲しい言葉だろうが。少なからず、自分の医者としての頼りなさに憤りを覚える。
「そうですね……とりあえず、ですが……」
そういうと、カエデは主治医に手招きをする。近くに寄ってみると、カエデは窓の外を指さして答えた。
「あそこからこっちを見てる馬鹿を、殴りに行きたいです」
窓から下を見下ろすと、ベソをかきながら握りこぶしを固め、何かに誓いを立てるジロウの姿がそこにあった。
目が覚めてから、身の回りのものが何もなくなっているこの病室で、考える事を辞めたカエデの目に、わざわざ映って来たのだ。自分から身を引いておいて、なんという詰めの甘さ……呆れを通り越して安心してしまう。
わざわざ見える位置にくるのなら、忘れる必要ないんじゃないか。
「あいつ本当に、空気読まないな……」
そう言ったカエデの口元は、観念したように微笑んでいた。