失恋受給 ―恋愛生活保護法―
「9番の方、窓口に来ていただけますか」
番号で呼び出され、葛西朋美は長椅子から立ち上がり、窓口に行った。カウンター越しに女性のケースワーカーと向かい合う。
朋美が提出した申請書類を女性は眼鏡越しにじっと見つめる。
「葛西朋美さん、36歳……10年お付き合いし、婚約までした男性に一方的に別れを告げられた……と。はい、たしかに〝失恋給付〟の要件を満たしていますね」
恋愛生活保護法は基本的に、色恋から縁遠くなった男女に〝最低限度の恋愛〟を国が保証する制度だが、失恋も対象としていた。
失恋は、いわば会社で言えば突然のリストラや解雇のようなものだと解釈され、一種、失業保険のように給付が認められている。
「でも10年ですか……引っ張りましたね、相手も」
ケースワーカーの物言いは多少引っかかった。こっちはまだ傷が癒えてないのだ。
「婚約を破棄された理由はなんでしょうか? 差し支えなければ教えていただけますか」
「……彼の両親に会って……ご両親からあの女はやめろと言われたみたいです……彼の実家は地元では名家なので……」
悔しさがこみ上げて涙がこぼれそうになる。ケースワーカーがティッシュを差し出し、朋美は「ありがとうございます」と受け取って目もとの涙を拭った。
「……それはお辛かったですね。心中お察しします。申請は受理しました。審査を行いますので、二週間ほどお時間をいただきます」
不正受給を防ぐため、恋愛生活保護課の調査はかなり厳密で、過去のメールのやり取りまでチェックされるという。
「よろしくお願いします」と頭を下げ、朋美は市役所を後にした。
◇
その日の午後、朋美は駅の改札前に立っていた。今日は記念すべき初の給付日だった。緊張して昨夜はあまり眠れなかった。
(どんな人が来るんだろう……)
ネットには恋愛給付は〝ガチャ〟だと書かれていた。あくまで国民に最低限度の恋愛を保証する制度だ。イケメンを用意する義務は国にもない。
「こんちわー」
声を掛けられ、朋美は顔を向けた。
目の前に前に金髪の青年が立っていた。すらっとした長身、長い足を細身の黒いパンツで包み、大きめの薄手の丸首トレーナーを着ている。
文句のないイケメンだった。今流行りの韓流アイドルとでもいうのか、端整な小顔を金色のショートマッシュが包んでいる。ただ……なんというかチャラい。
「朋美さんですよね? 俺は手塚悠真って言います。あ、これID」
給付員であることを示すIDカードを見せる。プロフィールが記載されていた。身長178センチ、体重64キロ。年齢は……19歳!? こいつ、この前、高校を卒業したばっかやん。
「ってことで、今日は一日よろしくお願いしまーす」
手を上げるそのしぐさがまたチャラい。
(たしかにかっこいいけど……なんでこんなチャラ男が……)
自分はもう36歳のアラフォーだ。いくらなんでも釣り合わない。実際、青年の派手な見た目もあって、通りがかる人たちがチラチラこちらを見てくる。
(お母さんと息子とか思われてないよね……恋愛給付ってバレたらめっちゃ恥ずかしい……)
朋美の好みは誠実そうなイケメンだった。そういう給付員が来て欲しいと心のどこかで願っていたのかもしれない。
「……あれ、イメージと違いました? チェンジ?」
困惑が伝わったのだろう、悠真が軽い感じで言ってきた(というか、こいつ、何を言っても重くならない)。
「……チェンジできるんですか?」
「はは、できません。まあ、そう言わずに、今日は俺とのデートを楽しんでください。絶対に楽しませますから」
自分から手をとってくる。いきなり指同士を絡める恋人つなぎだ。
(慣れてる……まるでホストみたい……っていうか、こいつ本業はホストなんじゃ……)
朋美は周囲の視線が気になった。36歳の女が大学生ぐらいの男と手をつないで歩いているのだ。
(若いホストを買ったって思われてるんじゃ……)
ついそんなよけいなことを考えてしまう。
「今日は俺のデートプランでいいですか?」
「え? あ、はい……」
「じゃあ、ドライブにしましょう。こちらへどうぞ」
駅近くの駐車場に連れていかれた。そこには真っ赤なオープンカーが停めてあった。
「これ、恋愛生活保護課の車です。警察の押収車両を流用してるって噂もありますけど……さ、どうぞ」
助手席側のドアを開けられ、朋美は照れながら乗り込んだ。
「じゃあ、行きましょうか」
オープンカーが滑り出した。天気は快晴だった。暖かい日差しが注ぎ、心地よい風が吹き抜ける。
「気分はどうです?」
悠真に訊かれ、頬にかかる髪の毛をかきあげながら朋美は言った。
「風がすごく気持ちいい! 私、オープンカーなんて初めて」
「でしょ? では、これより手塚はとバスツアーを始めまーす!」
左手でハンドルを握りながら右手で外を指さす。
「あちらに見えますのはヘアーサロン・ティグレ。ティグレはスペイン語で虎。店長は熱狂的なタイガースファン。阪神が勝った翌日はプチヘッドスパのサービスを無料で受けられます」
「えっ、知らなかった」
悠真は「負けると機嫌が悪いけどね」と笑い、ガイドを続ける。
「左手に見えますスーパー山田では、惣菜売り場のおばちゃんが韓流アイドルにハマってて、そのアイドルを褒めると、こっそり安売りのシールを貼ってくれます。俺はなんとかってやつに似てるらしくて、いつもまけてもらってまーす」
饒舌に繰り出される悠真のトークに、朋美はお腹を抱えて笑った。ガイドが一段落し、目の涙を指で拭いながら言った。
「……ああ、おもしろい。こんなに笑ったの久しぶり……」
悠真は、それ、と言って笑った。
「朋美さんは笑顔が素敵だから絶対に笑った方がいいよ」
「…………」
婚約破棄されて以来、仕事以外は家から出ず、ずっと笑うことを忘れていた気がする。
その後、定額制でカラオケやボウリング、卓球などが遊べるレジャー施設に連れて行かれた。悠真は運動神経が抜群で、何をやらせても器用にこなした。
日も暮れ始め、車が道ばたで停まった。
「ここが手塚はとバスツアーの終点でーす」
目の前には「食堂てづか」と看板が掲げられた店があった。
「フレンチレストランとかじゃなくてごめんなさい。実はここ、俺の実家」
「ご実家?……」
「こういうのは市役所の人に怒られちゃんだけど……ここは俺のパワースポットなんだ。いちばん元気をもらえる場所。あ、でも別に高いお店じゃないよ」
そんなこと見ればわかる。町中にあるごく普通の食堂だ。
「嫌だったら別の店にするけど……」
朋美は微笑んだ。
「ううん、このお店で食べたい!」
二人は車を降り、のれんをくぐって店の中に入った。悠真の姿を見て、割烹着姿の四十年配のおばさんが目を見開く。
「あら、悠真、帰ってくるならそう言いなさいよ」
「あ、母ちゃん、えっとね……今日は彼女を連れてきたんだ」
それは嘘であって嘘ではなかった。今日一日、朋美は彼の〝彼女〟なのだ。それは夜になれば解けてしまう魔法だったけれど。
「あらー、悪いわね。こんな小汚いところに……ごめんなさいね。えーと……」
顔を窺われ、朋美は笑顔で言った。
「葛西朋美です。そんなことないです。すごく素敵なお店ですね」
「爺さんの代からだから、もう私で三代目。タレと同じで古いのだけが自慢かしらね」
朋美は別れた彼の親に紹介されたときのことを思い出した。
男の実家は地元で病院を経営していた。朋美は普通のサラリーマン家庭の娘。しかも36歳。年齢的なことで出産や子供のことを不安視されていた。
両親が猛反対し、結局、彼も親に逆らえず、別れを告げてきた。恋人の親から女として認められず、朋美の心は深く傷ついていた。
(そこまで考えて、悠真は私をここに連れてきてくれたのかな……)
お店で出された食事はどれもすばらしかった。家庭料理といっても、自分が家で食べるものとはまったく違う。プロの味だった。
「この筑前煮、すごくおいしい……」
「手間が違うよ。レンコンは湯通ししてるし、ゴボウも素揚げしてるからね」
ビールの酔いも手伝い、朋美は気になっていたことを訊ねた。
「でもいいの? ご実家にまで連れてきて……給付期間が終わったら私とあなたは他人に戻るのに……」
給付終了後、ストーカー化する受給者もいると聞く。
「朋美さんに元気になってもらいたいだけだよ。それに給付が終わったら俺と朋美さんは他人じゃないよ。もう友達じゃん」
だから、いつでもここに遊びに来てよ、と悠真は笑った。
涙がこぼれそうになった。うれしかった。もう自分は誰からも受け入れてもらえないのではないかと思っていた。
こうして一回目の恋愛給付日は終わった。
◇
その日、スーツ姿の朋美はホテルの宴会場にいた。勤める会社の公式行事で、来週から全国出張に行く社長の壮行会が行われていた。
ステージの隅で朋美が憂鬱そうにため息をつく。
「はあ、なんで私が司会をやんなくちゃいけないんだろ……」
隣でペアを組む男性社員が同情するように笑う。
「まあ、今期は昇進者がいませんでしたからね」
会社には昇進した社員が公式行事の司会を務める伝統があった。該当者がいない場合、結婚をするとか、子供が生まれるなどの祝いごとがあった社員が担った。
(もう婚約は破棄されたのに……)
上司である部長には破談を報告していたが、まだ他の社員には公けに通知されていない。だが、みな薄々気づいているらしい。
こうして宴会が始まった。60代のワンマン社長は酒癖が悪かった。ダミ声で社歌をがなり立てたり、マイクを独占してスピーチを続けた。
赤ら顔でステージから突然、朋美を指さした。
「ええ、ここにいる葛西くんは寿退社をする予定だったんですが、なぜか退職が取りやめになりました。婚約を破棄されたそうです」
突然の暴露に、朋美は恥ずかしさで真っ赤な顔をうつむかせた。その場から逃げ出したかった。
「もう葛西くんも36歳です。どなたかもらってくれる男性はいませんでしょうか? とても気立てのいいお嬢さんですよ」
下請けの社員たちが社長に追従するように愛想笑いをあげる。朋美の頭に笑い声が響き、足もとがグラグラする。
どこからか声が聞こえた。「かわいそうに、婚約破棄されたんだってよ」「もうアラフォーなのに一生独身だな」「誰か、嫁にもらってやれよ」
意識が白く霞みかけたときだった。
「朋美!」
鋭い声がして、はっと顔を上げた。
宴会場の入り口に金髪の青年が立っていた。細身のスーツを着た手塚悠真だった。
スタスタとステージに向かってくる。韓流スターのような金髪の美青年の登場に、人の波がざざっと割れる。
「……どうして?」
か細い声で朋美は訊ねた。
「行こう」
差し出された青年の手を朋美は見つめ、やがて怖々と握り返した。たぶん、そうしていなければ自分は倒れてしまっただろう。
悠真はその手を力強く握り返し、朋美の手を引き、ステージを降り、宴会場を出て行った。
ホテルの建物に外に出ると、朋美があえぐように訊ねた。
「なんでここに?……」
「朋美さん、この前の給付のとき、言ってたじゃん。会社の宴会の司会をやらされるのが嫌だって……」
心配で見に来てくれたらしい。社長にからかわれる朋美を見ていられなくなり、ついステージに上がってしまったという。
「あー、会社でまずいことになるよね。ほんっとごめん。俺、ああいうのを見ると、ついカッとなっちゃうんだ……悪い癖なのはわかってるんだけど……」
ううん、と朋美は首を振った。
「ありがとう。いいの。私、あの会社、もう辞めようと思ってたから」
踏ん切りがついた。みんなの前で暴露されたとかは関係ない。当面、結婚して子供を産む人生がなくなったのだ。だったら、自分が本当に好きなことをやろう。
朋美は青年の顔をじっと見つめた。
「もう給付は打ち切りにさせてください」
「え?……あの、ほんっとごめん……さっきのは俺が悪かったよ」
朋美は微笑んで首を振った。
「ありがとう、悠真。給付員と受給者じゃなくて、人と人として接してくれて……あなたのおかげで私、立ち直れた。だから、もう大丈夫」
失恋給付の給付期間は最大半年。ただし、本人が望めば途中で給付を打ち切れる。
「いいの?……」
「あなたの笑顔は私だけのものじゃなくて、受給者みんなのものだから。私ひとりだけで独占するわけにはいかないよ」
思った。悠真、あなたはアイドルなんだ。みんなに愛を与えるのがあなたの仕事なんだ。もう立ち直った人間にこれ以上、時間をとらせるわけにはいかない。
◇
その日、朋美はWeb系の専門学校に通う途中だった。町で悠真とすれ違った。
彼は別の女の子と手をつないでいた。目が合い、青年は一瞬、驚いた顔をしたが、何も言わずにそのまま通り過ぎた。恐らく恋愛給付の仕事中だったのだろう。
朋美は微笑み、青年の背中に無言の感謝を贈った。
――ありがとう、あなたがくれた愛のおかげで私は強く生きていける。もう何があってもくじけないよ。
(完)
恋愛生活保護をテーマにした短編が別にもう一つあります。