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歩かなくなった男

作者: 新崎

 歩かなくなった男の家に行った時のことだ(と言っても、彼が僕と会えるような場所は彼の家しかないのだが)。

 夏になる前の、まだ少し肌寒さの残る日だった。

 彼は部屋でいつもLPをかけていて、その日はビートルズのAbbey Roadがかかっていた。彼は60年代の音楽を愛している。

 世界には少数ではあるが、歩かなくなってしまう人がいる。月日を重ねて歩くようになる人もいれば、そのまま歩かないまま一生を過ごす人もいる。彼は悲しいことに後者のようだった。

 僕は彼に歩かなくなった理由を訊いた。後ろではI Want Youが流れていた。そして、それ以降は口にしてない。

「なんで歩かないんだい?」

 彼はグラスをテーブルに置き、手を膝の上で組んだ。そして、一度首を振った。

「いいや、歩いているよ。ほら。」

 そう言って彼は立ち上がり、僕の座っているソファーを一周して戻っていった。

「少なくとも、家の中では歩けるよ。スーパーに買い物だって行ってる。もちろん歩いてね。会社へ行く時は交通機関と歩きだ。バスに三十分揺られた後、十五分歩いて会社に行ってる。バスの中はいつも込んでいて、会社に勤めて三年目だけど、座れたことはまだ六回しかない。」

「そういうことじゃないんだ。君が歩けることはわかるんだ。もちろん、君は車椅子っていうわけでもないし、必要最低限には歩くことも知っている。むしろ、家の中では、必要最低限以上に動いているじゃないか。でもそういうことを言っているんじゃないんだ、僕は。」

 彼は数秒考えてから言った。

「歩くことは怖いのは、僕だってわかるさ。けれど、歩かなかったら、ひどく寂しくはないか?」

「そうかも知れない……。歩くことは楽しいことは知っている。世界中見渡しても、みんな歩いているしね。歩くことが人生にとって、何よりも大切なことだ、と考える人もいるだろうな。」

「人生じゃなくて、人類。はては生物とまで捉える人もいるね。」

「そうだね。」

 彼は頷いてから、部屋の窓から外を見た。外は茜色の空をしていて、一羽の鳥が雲の下を羽ばたいているのが見えた。そしてLPが止まった。

「裏にしてくるよ。」

 立ち上がってLPを裏に(A面からB面に)して、すぐに戻ってきた。B面の一曲目は、確かHere Comes The Sunだ。

「でも、怖いんだ。」

「怖い?」

「そう。」

 深いの沈黙が部屋を包んだ。からん、とグラスの中の氷が音を出した。それは水面に広がる波紋のように、部屋の中に深く響いた。

「穴、なんだよ。」

 彼は膝の上で組んだ手に目をやると、手をぎゅっと固くさせた。

「穴があるんだよ。歩いていると、穴に落ちてしまうことがあるんだよ。深い、深い穴に。穴と言ったけど、正確に言えば崖かも知れない。あまりに深くて、登りにくいからね。でも、崖というとなんだかイメージと違う気がする。穴なんだろうな。やっぱり。」

「下を向いて歩けばいいじゃないか。」

「そうじゃないんだ。そんなの全く意味がないんだ。穴は見えないんだ。子供が作る落とし穴のように、簡単に見ることはできないんだよ。こつんこつんと、靴の先で地面を叩くのも意味がないんだ。」

 彼はつま先で絨毯を軽く叩いた。こんこん、と軽い音がした。

「何度、何十回こつんこつんと確かめてみても、踏み出した瞬間にそれは発生するんだ。ふっ、と突然だ。足元で、何かとてつもなく大きなものの口が開いたかのように、すっと自然に飲み込まれてしまうんだ。」

 彼は僕の前に右手を広げたと思うと、素早く手を閉じた。

「それって予測はできないのかい? 何メートルおきにあるとか、あるいは地面に歯が生えてるとかさ。」

 僕の言葉を聞いて、彼は笑った。

「予測はできないけど、ある程度の法則はあるんだ。家の中はほとんど発生しない。会社や学校への道もそう言えるかな。スーパーとかも同じ。でも、それ以外の場所だと、いつ落ちてもおかしくない。いつでも、その可能性は俺達の傍に佇んでいるんだ。まるで、動物の死をずっと待っているハゲタカのようにね。隙があれば、穴はいつでも俺達を食らおうと狙っている」

 彼は床に視線を落とした。そこに穴があるぞ、と言わんばかりに睨め付けている。

 もし、僕がそこの上に立ったら、穴が現れるのだろうか。穴が現れて、僕をむしゃむしゃと食って、残骸を深い深い胃袋の中に落とすのだろうか。

 その床の上には絨毯が敷かれていて、赤地に白で幾何学模様が描かれている。それは今にも絨毯全土に分裂し、ついには部屋全体まで拡大していき、この部屋にいる僕ら二人を食らおうとしているように見えた。

「穴はね、目的地に近くなれば近くなるほど、穴が出やすくなるんだ。地雷原を歩いているようなものだ。目的地に踏み入れた瞬間の場合もある。ああ、やっと着いたぞ、と思った瞬間に深い闇が食らうんだ。ばくんとね。もっとひどい場合になると、そこに着いてその中にいる時だ。俺はこんな話を聞いたことがあるんだ。その人も、歩かなくなった男なんだけどね。

 彼の場合はホテルだった。ちょっといい感じのホテルで、ゆったり時を過ごしていたんだ。彼は旅行をしてたんだよ。国内の観光旅行だったんだ。三連休を使ってのちょっとした贅沢ってやつかな。まぁ、彼は旅行好きってわけでもなかったんだ。たまに旅行に行った、その時に起こったんだ。いつもそのホテルを利用しているだとか、よくホテルに泊まる、ってわけじゃないのになんだよ。彼は二日目の朝、目が覚めると深い闇の中にいたんだ。

 話は変わるけど、家の中で、穴に飲み込まれたって話も聞いたことがある。その場合も、突然なんだ。でも、俺は家の中までは警戒しない。家の中でさえ歩くのをやめたら、もうどうしようもないからね。そこは割り切っているんだ。」

「君は、その穴に飲まれたことがあるんだね?」

「もちろんあるさ。一度だけだけどね。だから歩くのをやめてしまったんだ。」

 彼は怪我した個所をさするように、胸に手を撫で下ろした。

「僕は穴なんかに落ちたことないけど。」

「恵まれているんだよ。それか、足がずぶっとはまる程度の穴だっただけだろうな。みな、何かしらの穴――穴の大きさの程度はどうであれ――に落ちるものさ。死ぬまでに一度はね。」

 と言って彼は笑った。そういうもんなのだろうか。

「落ちるのがどういうことなのか、詳しく話そうか。穴が湧き出るのは突然だ。心構えがある無いに関わらず、穴は出てくる。俺は何かの帰り道だったんだ。月が綺麗だったのを覚えている。夜道を歩いていた時、突然穴が俺を食らった。一瞬にして穴が現われたんだよ。

 それと同じように、落ちるのも一瞬だった。落ちたな、と認識した瞬間には俺は深くて暗い穴の中にいて、ぶつけた背中の痛みが走ったんだ。時間が短縮されたって感じだったな。俺の場合は。時間が短縮され、どんと穴の底に落ちたような感じ。時間が短縮されたのではなく、一気に加速がついたのだとしたら、それこそ痛いの程度では済まないだろうしね。全身が骨折して死んでしまうだろう。

 もちろん、とても痛かった。全身が痛かった。深い穴の底に叩きつけられたのだからね。その痛みは不思議でね、ずっと痛いんだ。痛みが全然引かないんだ。少し引いたと思ったら、すぐに痛みはぶり返す。何なんだろうね、穴のせいなのかな。

 穴の底はとても暗くて、狭かった。しかも、土を掘って作ったような穴じゃないんだ。周りは岩だったんだ。だから、最初に崖の方が近いかもと言ったのさ。そして、光は遠かった。深い穴だからね。差し込む光はその深さにさえぎられて、俺のところには届かなかった。深海にいる魚に、光はほとんど届かないようにね。光が届かないんだから、寒いに決まってる。俺は歯はがちがちと音を鳴らし、身体はぶるぶると震えていた。ひどく寒くて、ひどく痛くて――ひどく寂しかった。

 たまに、穴を覗きに来てくれる人がいるんだ。覗きに来てくれるって言っても、光さえ届かないんだから姿は見えないんだけどね。声でわかるんだ。何故俺が落ちたことを知っているのかというのはわからないけど、声をかけてくれる人がいるんだよ。でもだめなんだ。声をかけてくれる、っていうのはわかるんだけど、ここは深い穴だから、その声は何度も何度も反響して俺のもとに来る。何度も何度も反響したせいでなんて言ったのかわからないんだ。その声はぐわんぐわんと揺れていて、俺は聞き取れなかった。ただ、声をかけてくれたということだけはわかった。それはかなりの救いになった。

 その穴から抜け出すのに、何ヶ月もかかってしまった。抜け出すまで何度何度も失敗した。がらっと音を立てて手を引っかけている岩盤が崩れてね。そのたびに身体は痛かったよ。死ななかったのが不思議なくらいだ。骨折などもせずに、穴を登るのに支障をきたさなかったというのも僥倖だ。たまに、覗きに来てくれる人がいるって言ったろ。その人が、いやその人達かな、食糧なり何なりを落として行ってくれることがあるんだ。だから、飢え死にはせずに済んだ。一リットルの水のペットボトルが頭を打った時は痛かったけどね。」

 そう言って彼は笑った。

「そう、それで俺は何十回と失敗を繰り返し、やっとその穴を登りきったんだ。俺が抜け出ると穴はすぐに消えてしまった。跡形もなかった。俺はもうそんな穴の中に何ヶ月も閉じ込められたくないんだ。怖いんだよ。とても。もうこりごりなんだ。そういうのは。」

 彼は手で目を覆い、それから首を振った。僕達は数分黙ったままだった。僕はビートルズの音楽をじっと聞いていた。

 そして、Abbey RoadのLPが止まった。

「LP、換えてくるよ。何か希望あるかい?」

「ホワイトアルバムの2枚目がいいな。」

「いいね。」

 そして彼は立ち上がって、レコードの前まで歩いていった。

 彼がLPを漁る音と彼の鼻歌しか部屋に聞こえなかった。

 その時、からんと氷の音が部屋をこだました。その氷の音は、何故だか僕の心に深く染み入った。からん、からん。何度も心の中でそれは反響した。氷が穴に飲み込まれて、深い穴の底に行くまでに岩盤に何度もぶつかり、からんからんと音を立てていた。そうして、何秒か経ってようやく音は止んだ。それから僕は、彼が歩かないことについて何も言うことができなくなってしまった。

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