第九話 疑雲猜霧
「軍兵! 軍兵! ……」
それはいつ頃の記憶なのか、もう思い出せない。はるかな遠いことだろうけど――もう、一年とか十年といった時間では測様のない前のことのように思われた。
「いつまでそんな風に寝転んでるんだ? さっさと肉体蘇生措置を施せよ……」
「ああ、すまない」 軍兵は、ぶっきらぼうな口調で起上がった。そこは、人気のない、さびれた場所だった。草木がぼうぼうと囲み、床にはごみやがらくたが転がっている。
「あまり質のいいのが足りないんだ。戦いで物資も尽果ててるし」
と言って目の前の誰かが差しだした。瓶みたいな黒ずんだ物体。
二人はしばらく無言だった。戦争というからには、当然楽しい気分ではいられるはずはない。
「お前は今の名前を改めた方が良いんじゃないのか?」
軍兵は頭をあげ、首をかしげる。
「……なんで?」
「だってって、もうこの戦争が一年も経ってるんだ。お前も昔の自分とはきっぱり分かれた方が良い」
「なるほどな……じゃあ俺は――
「軍兵」と呼ぶ声はもう幼さを持っていない。だみ声ぎみで、威勢がいい。
脇腹が少し痛い。視界がはっきりすると、昌虎が腕で軍兵の小さな体を抱えている。
「俺たちをほったらかしてよく寝れたもんだ……昨日は花園町への道路を調べるので大変だったんだぜ」
ゆかりが片腹に腕を立てる。面倒そうに昌虎の肩によりかかる賢。
「もう、ついたんですか?」
「ついた、というより俺たちは今その中にいる」
軍兵はその時、初めて空が青く澄みわたっていることに気づいた。彼らが立っているのは小さな船だ。左右には瓦葺の建物がどこまでも続き、吹き渡る風とともに穏やかな雰囲気をかもしだす。何人かがその側を通りすぎる……。
「まるで天国だな」
軍兵は不意につぶやいた。心で本当に天国だと思っていたわけではないが、これまでずっと荒涼とした世界を見せられ続けていただけに、久々に心地いい風景を見られたことに、うっかり叫びたくなってしまったのである。
「天国……? 天国って何だ?」
昌虎が目を細め、粗末な甲板に横たえる。軍兵は頭をかかえたくなりながらも、何とか答を絞りだそうとする。
「人が死んだ後に行く場所です……」
昌虎はすでに興味を失ったように目を背ける。
「どうでもいい。もうすぐ目的地に来てしまうんだからよ」
賢が相変わらずぼやいている。
「あの、どこに行くんですか?」
腰を下ろし水流を眺めるゆかりが、
「花園広場だよ。この街の中心とも言える場所だ」
どこか、重く沈んだ声。これまでのゆかりとは違って、はっきり感情が現れている感じがした。
「……花園って感じの雰囲気だ」
実際に花を見たわけではないし、庭園のような物もさしあたり見当たらないが、それが建物の向こうで広がっているとしてもそれほど不思議ではないあでやかさ。軍兵には美意識や語彙力というものは希薄だが、こういう光景にいるとずっととどまっていたい気分は強い。
「由来など知らんさ。身近な物の名前がわからんようにな」
船頭が声をあげた。若く見える、力強い見た目の女だ。
「あんたたち、私にお礼の一言でも言いなさいよね。鉄屑街であんなことがあった以上、私もその関係者なんだから」
よく考えてみればこの人も死んでいる。いや、どう見ても生きているが、この世界で普通にいるということは死んで、もう一度無理やり蘇っているということだ。
もしかしたら今の世界が始まるまでに生き残った人間の中で高年齢だった人間はそう少ないのかもしれない……。
花園広場は、二つの川の間に広がる中州だった。円形の花壇が縁取り、地面には黒い石畳を散りばめられている。その上で何十人か、顔は分からないが体格の良さそうな男がたむろしている。
船から降りた後で、軍兵は昌虎の話を聴いていた。
「花園町には鉄屑街ほどの権力基盤がないんだ。いくつもの集団に分かれいつも争ってる。その中でも特に力を持っているのは内村市清の率いる集団だ」
「じゃあ、今俺たちがいるのは?」
「ああ、その市清の所だ。だからあまり大声で騒ぐわけにはいかない」
勢力争い、か。どうにも人の世まで平穏とは限らないらしい。
「……どこか泊まる場所はあるんですか?」
「今日は、文明開化号の中だ」
「昌虎さんって、自宅ありましたっけ?」
「ここから遠い」
強がりながら、昌虎はゆかりをちらりと。
「ゆかりさんはあまり浮かない顔ですね」
「私にとってはこんな場所、行きたくもない場所だったんだけど」
「ああ、こいつは花園町の芸妓だったからな……」
賢が突然驚くべきことを告げたので、軍兵は口を開けたまま物が言えなかった。
「げ、芸妓?」
「あんたにそんなこと、言われたくない……!」
ゆかりが明確に色をなしている。
「すまんな、賢はあまり空気を読んで発言するのが苦手なんだ」
「だからと言ってこんな奴に、私の過去を!」
どうやらこれがゆかりの禁忌らしい。
軍兵は興味を惹かれたものの、それを言うことはせず、注意する。
「大声で騒ぎ立てないでくださいよ、もし聞こえてたらどうするんです」
軍兵が鋭い声で彼らの会話をさえぎったので、
「ああ……今はとにかく隠れる場所を見つけるんだ」
昌虎は自分が正しいかのように叫び、道を進めとせかす。
文明開化号は森の茂みに地面の中ほどまで隠すことにした。そして昌虎と賢が車の中で留守を守り、軍兵とゆかりが買出に出かけることになった。ゆかりの話では、この花園町も四十年前までは別の名前で呼ばれていたが、その後は廃墟となってしまい、再び人が住始めたのが二十年くらい前のことらしい。
鉄屑街とは異なり、道や市場に退廃とか陰気という感じはしない。無論、死体や、茫然と立ち尽くす子供が時たま目に入りはしたが、心を鬼にして通り過ぎれば耐えられない存在でもなかった。軍兵は、心の中でそういうひどい物への無用な憐憫が消えていくのを感じていた。
今必要なのは、パンとか水とかといった飯だ。布団や火鉢などの類は文明開化号の中に一応収納されているので買う必要はないが、それでもどれくらいの値段で取引されているか、調べる必要はある。
軍兵が歩いて見る限り、確かに、賢が言及したらしい店はあった。外から見ると酒屋か、あるいは軽い食物を売ってる所に見える店の窓を眺めると、部屋にしきりがあったり、時たま変な声が聞こえてくる。
軍兵がどうしても気にしていると、
「春をひさいでるんだよ。食ってはいけないから……」
ゆかりがごく小さな声でささやきかける。恐らく、花園の花とはそういう意味なのだろうと軍兵は思った。瀟洒な外見の裏面がそれだ。野卑な空気に触れるのは嫌いではない。元から、そういうのが好きでならない人間もいるのだろうと思う程度。だがふと軍兵は、疑問を抱いた。
――けど、なぜ俺は慣れているんだろう……? 軍兵の記憶では、自分がこれほど強い刺激に触れた経験はなかった。だが記憶や理性では把握できない範囲の中に、なぜかそれを見慣れた、変わり映えのないものとして考える一種の力が宿っていたのである。
「あんたたち……」
急に声をかけられたので、二人は驚いた。
殴られた顔の、今にも死にかけの老婆がいた。
ごくゆっくりとした声で、軍兵に尋ねかけるには、
「ここらへんでは見ない顔だな。帝都の人間か?」
「いえ……ただそこから」
「そうか。なら聴いておくがいい」
「帝国の奴らが攻めてくるんだ……もうすぐ。お前も私も巻きこまれる!」
言終わるや、老婆が倒れた。軍兵はしばらくの間、茫然とした。そして誰かを呼ぼうと思ったものの、すでにゆかりは軍兵の手をしっかりとつかみ。変なことをさせなかった。
「行こう。他の偉い奴らに見つけられてはいけない」
帝国からしばらく距離を置いていたこともあり、軍兵の緊張が別の点で高まった。
「今、聴きましたよ……帝国が」
「私もそれを恐れてないわけじゃない……でも、何もかも分からない今、それで騒ぐ必要が?」
ゆかりの鋭い眼光ににらまれては、軍兵も言う言葉がなかった。
背の高い紙袋を抱えながら、軍兵とゆかりは元来た道を戻っていく。
向こうで、言い争う声が聞こえてきた。