第三話 酔生夢死
俺は、悲惨な生き方をしていた。
自分の部屋に引籠って、ひたすら屍みたいな毎日を送っていた。絶望に満ちた日々だった。いつ死んでもおかしくない。死んだところで、何も変わらない。いつ頃から人生を間違えたのだろう。
昔から自分なりに努力してきたはずだった。学校での成績も悪くなかった。だが、社会が求めているのは違った。
「軍兵!」
親との関係は、すでに修復のしようがなかった。かつてなら、慰めてくれていたかもしれない。しかし、自分が怠惰なだけではなく、周囲の人間との関係すら持てず、そのために誰にも助けてもらえないとなると、もう誰もが、悪意しか向けてくれなかった。
軍兵は、すでに社会の荷物と化していたのだ。
「軍兵! 降りなさい!」
かつては母の声にも安心感があった気がする。けれど軍兵が徒然に時間を過ごせば過ごすほど、その声からも愛が失われていった。
家族としか話す人間がいなかった軍兵はとうとう家族とすら離さなくなり、ひたすらスマホの液晶を眺めているだけだった。その大半は無駄な情報。気づくとどうやってもたどり着けない上の人間に対する誹謗中傷にますます、心を傷つけられるのだった。
たとえ、この過酷な人生を救う手段を見かけたとしても、それは今の軍兵に何の関係もない話だった。
ただ、面白そうだったのは、ごく最近、死んだ人間を無理やり蘇らせて造った改造人間が街へとあふれて、暴れているという話。何でも、いくつかの都市を制圧していて、すでに軍隊と交戦している、という報道すら聞こえていた。――俺に関係があるか。どうせ最悪な日常に何の支障もない。
母親の叫びがいよいよ獣じみてくると、軍兵は髪をかきむしりながらペットボトルや紙屑の散乱する部屋を、鍵を開けて出て行った。
一階にさがると、父が天井から首をつって死んでいた。縄できつく縛られたその首はもはやほとんど動かず、腕と足が制御を失って下にだらりと。
母はその遺体を指さしながら叫んだ。
「これを視なさい!」
軍兵にとってそれは、久々に驚いた日だった。こんな日がいつか来るだろうとは覚悟していた。だが、いざ、その光景を見せられると、あまりの現実味のなさに、うろたえる他は。
「あんたが就職に失敗したから旦那は死んだんだ! もうあんたに用意する飯はない。出ていってくれ」
父の顔は苦しんでいるようには見えなかった。しばらく時間が経って筋肉が硬直したためだろうか。まるで、満足したかにも思える顔だった。いや、それくらい、感覚が麻痺しているのかもしれない。親に対する辟易した感情が、もう、事態を正確に理解する心を奪ってしまったかのようだった。
「はあ……?」
何を言われているのか分からなかった。しかし、明らかに目は血走っている。
母は片手に包丁を持っていた。その手をわなわなと震わせながら、胸の前に持っていく。
「殺してやる!」
母親が突然前に走りだしたので、軍兵は逃げた。玄関を抜けて、外にまで走りだした。
ふざけるなよ。悪いのはどう考えても俺を産んだお前らの方じゃないか……!
「何で……今更」
「訊く耳なんて、持ってない」
母は唾を吐きながらじわじわと距離を詰める。
「私はあんたの父にも苦しめられてきたんだ。一思いに殺してやる……!」
とうとう、死刑が宣告されたらしい。もはや母らしい顔はどこにもない。
一体何がこんな状況に追いつめてしまったのか。それを尋ねる暇もなく、次の災難が彼を襲った。
空から、細長い筒状の鉄が突込んできた。轟音が地面に敷かれ、軍兵は姿勢を崩した。
鉄の筒はぎらぎら瞳を光らせる母の背後に墜落して、巨大な塵と煙を巻挙げた。
母が、その中に消えた。
軍兵は、自分が一瞬助かったのかと思った。しかし、次には二発目、三発目の筒がどこかに落ちてきた。誰かの悲鳴が聞こえた。
ようやく軍兵は事態が切迫していることに気づいた。だがそこから足を動かすことはもうできなかった。新たな爆風が起こす衝撃波に巻きこまれて、軍兵の体は宙に浮かび、虚空を走り抜けた。
背後の電柱に脊髄が叩きつけられた。激痛が走る。もはや、何も考えられなくなり、地面へとずり落ちる。
コンクリートの硬い感触に頭。軍兵は、はっきりと自分が死を迎えたと認識した。その時から、何もかもが霞んできた。
こんな所で、死ぬなんて。……そうか。死んでもおかしくなかったんだよな。
俺は、負け犬だったんだから。
軍兵は、何も見えず、何も聞こえなかった。ただ、自分の意識だけははっきりしていた。そして、絶望していた。
これが、俺がこの世に来るまでの記憶だというのか。
嘘だろ!? 二度死ぬなんてことがあっていいのか。こんな人生が誰に許されていいというんだ!?
俺はもうこりごりだ。まだ生きているのか? 正義に、公正に、この世界が何の関係もないというのなら、俺は――
「身体が回復しつつあるわ」
誰かの声が、突然聞こえた。
「さすがだ、この傷から見事に立ち直っている。これも科学の進歩か……」
しかも、一人ではないらしい。
「目覚めたら、どうする? 私たちのこと、きちんと説明するの?」
「当然だ。常人だぞ。屍人に敵意を持っていないわけがないからな」
彼らも、死んだ人間だというのか。生きている人間は、ただの道具でしかないこの世界で、一体俺は何をしなければいけないというんだ……。
「ここは……どこだ」
軍兵は、もはや恐れてはいなかった。自分の過去が絶望であふれていたことを知った以上、もう恐がってはいられなかった。
この世界が前いた時と同じように、元から異常であることを悟った。
それでもまだ生きているというのは、尋常の沙汰ではない。
今、必要になるのは、巨大な覚悟。
「お前の体には蘇生技術を施した。もはやお前は常人じゃない。俺たちと同じ、屍人だ」
「ほら、聞いてるの?」
知らない女に肩をゆすられる。
「刺激するなよ、ゆかり。常人は今の時代、廃墟や洞穴の中にしか住んでいないものなんだ。今もどんどんその数を減らしている……」
「なるほど、分かったよ。でも、彼、もし私たちの期待に見合う人間じゃなかったらどうするの?」
どうやらただの善意で助けてくれたわけではないようだ。それは、当然だろう。
「……俺は、死んだのか」
「死んだ。というより現代では死んでいるのが人間の条件なんだよ」
軍兵は、観念して目を開いた。
そこはとてもうらぶれた場所だった。あの時収監された拘置所とは似ても似つかない、ぼろぼろの天井と壁。その隅で一台の灯火が光っているに過ぎない。
二人の男女がいた。一人は壮年の男で一人は若い女。やはり、一度死んでいるとは思えないくらい、生き生きとした顔だ。しかし、そこにはより年齢より多くの年月を感じるいかめしさがあった。
「お前の名前は?」
それを、軽々しく答えてはならないような気がした。ただでさえ右も左も分からない状態で、しかも下手をすればまた狼狽てしまいそうな不安定な精神では、相手に不安を与えることが何より禁物なのだ。軍兵の思考は、なおも定まらない。
よく分からないが、やはり自分にはもっと別の名前があったような気がする。だが、微塵も思い出せない。しかし考え直すと、確かにそれが自分の本当の名前。
……ただの既視感だと考えていいのだろうか。しかし、今目の前にいる人間にとってそれがなんだろう?
軍兵は、上半身を起こした。ゆかりと呼ばれた人間と、その相方の男は砂に敷かれた筵の上であぐらをかいていた。
どんな人間なのか、なぜ助けてくれたのか、問いただしたい気持がたくさんあるが、今道を拓くためにはこう答えるしかないのだ。
「杉野軍兵」
その四文字に違和感を感じつつも、しかし、確かに重みはそこにあって。